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孤高なる生命の輝き・・・池さとし

2007年10月13日 | 川柳
      現代川柳『泥』第三号 曲線立歩「めん玉」鑑賞

 ・・続き。

       列車の先頭は坊主であるか
               ひざまづくふるびた膝の精一ぱい
       嘘は嗚呼染色体の花一面
               いのちが割れても数個は星
       十字架を のぼる泥人形の 笛の音

 句集「めん玉」に展開されている、スリリングでダイナミックな想像世界から、「川柳は文学である」と主張してやまない、曲線立歩というひとりの人間のあくなき闘いを感受してしまう筈である。

 詩的なまでのとも思える言の葉の駆使、縦横無尽な思考操作から産み出される命の宿る言霊には、ことばを磨く文学的な営為な存在を認めなければなるまい。

           火の縄の灰反り返り立ち上がる

 言葉の絶景などと言う表現が存在するならば、詩は時として、その有用性を実証して見せる。川柳もまた、そのカテゴリーに位置する。

 この作品もまた、「老人蒟蒻」と、同様、日常と非日常の裂け目に佇む不思議な、しかも、類稀なる凝視に眼を意識せざるを得ない。

 「火の縄」は、あくまでも火の縄であるのか。おそらくはそれと同時に、やがての自分自身をだぶらせているとして鑑賞するのが正確なのであろう。

 「火の縄」に限らず、万物は生きている。この世に存在する全てのものは生命体であるとの立場で、カオスとコスモスの絶え間の無い円環運動を繰り返す中から、深層意識の言語風景が生まれ出て来る。

 縄が燃える、このきわめてありふれた日常も、あたかも生きているが如く、身を反らして立ち上がる光景は、人間であるかぎり、誰もが必ず真実として受けとめなければならない、やがての非日常の世界へと重なる。

先の掲出の
            いのちが割れても数個は星
 
 については、1994年オホーツク、第260号に触れさせて貰ったので、強く印象に残っている作品の中の一句である。

 この時、いただいた立歩氏からの便りで、書くということの充実感に浸ることができた。書くことに目覚めた。

(さとし兄の作品論があるので、曲線立歩はわからぬ作品で片づけられていた筈なのに、生き生きと呼吸をしている作家にさせられたのである。

          一人の老人が嬉しそうに泣いている  立歩

 最も仲良しだった向山乃影子が逝き、僕を大切にしてくれた過納愛山が逝き、銀河鉄道の客車は賑やかになる。深謝。)

 あれから、もうすでに九年の歳月が流れた。

今、こうして再び曲線立歩氏の作品に触れることのできた喜びは、ことのほか大きい。「めん玉」ばんざい!
 
コメント
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