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意欲をかき立てるもの・・・池さとし

2007年10月05日 | 川柳
     現代川柳『泥』第三号  大会・句会での課題について

 大会案内を目にするとき、やはり一番気になるのは、選者と課題であろう。

 発表された課題を見ることで、主催する人たちの川柳観がどのようなものか、およそ見当がついてしまう。

 課題に繊細なくらいの神経を使っているところは、ほかのあらゆる部分にも、神経が行き届いているものである。

 課題は、川柳人がいい作品を創りだすための、ひとつの手がかりになるものと考えたい。

 もちろん、全員が納得するような課題など有ろう筈はないのだが、やはり参加する川柳人の心を、前向きにしてくれる題、それをひとつのきっかけにしてイメージの広がるもの、意欲をかきたててくれるような題が提出されると、創作意欲を刺激してくれる。

 課題が、その場かぎりの課題で消えてしまうのではなく、創作吟としても、一人立ちのできる作品となるような手助けをしてくれるもの、きっかけを与えてくれるものを、少なくとも良識のある川柳人は、強く望んでいるはずである。
 
 課題吟と創作吟の同一化、これは非常に大きなテーマであり、障害も山積している。

 ひとつの例をあげれるならば、課題吟の宿命とでもいっていい、時間的な制約の中での創作と言うのがある。

 時間が多ければ、よい川柳が確実に生まれるというものではないが、課題吟はどうしても着想と表現力に、比重がかかりがちである。

 つまりは、テクニックの勝負ということになる。その作者の持つ人間性が、どうしても稀薄になりかねない。

 課題吟に稀薄になりがちな人間性を、いくらでも膨らませたり、投影出来うるような課題の提出を心がけている川柳人や関係者がいる大会。そこには必然的に参加者の顔ぶれも前向きである。

 川柳という、文芸性に裏打ちされた作品には、常に人格が顔を覗かせている。作家の人間性が作品の大部分を凌駕する創作吟に、出来る限り接近するためにも、主催する側の、課題に対する考え方の、質的な姿勢の在り方は、今後も常に問われ続ける必要がある。

 たとえその大会の趣旨が、フェスティバル的な要素に比重が大きくかかっているとして
も、参加する川柳人が少しでもよい作品を生み出すための土壌づくりは、欠かすことの出来ない必修の案件のひとつである。

 課題吟の大会、句会などに占める位置は、選者の資質と共に、川柳が滅びないかぎり、非常な重要な役割を担い続けるに違いない。

創作吟と課題吟の同化を目指しながらの、川柳人の苦吟は、果てることなく続くことであろう。
                              続く・・・・。
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