現代川柳『泥』第三号 大会・句会での課題について
共通のテーマで、各人各様がイメージを膨らませ作句しているときの雰囲気はピリピリとした中にも、大会や句会ならではの楽しさがある。
そして、それらの作品が披講されるときの期待感は、未知の世界を覗くような好奇心にも似て、課題吟ならではの醍醐味を味わう瞬間でもある。
それらの一句一句に耳を澄ませていると、ある作品からはミクロの世界へと、またある作品では巨大な宇宙へと、聞き手たちの無限の空間へといざない、一方では現実味を帯びた作者の声や、厳しいまなざしから、リアルな世界に連れ戻されたりと、五感をしなやかに浮遊させながら、作者のイメージと表現の自由なはばたきに感嘆してしまうときでもある。
そして、ひとつのテーマへ、同等に向き合い句作することは、より豊かに鮮やかに個性の差異を観る愉しさでもあり、雑詠吟の個性とはまた違った個性の発見がある。
それは課題と取り組む作者の発想力や表現力などに、すでに個のたましいというようなものが、移入されるからなのではないだろうかと思える。
そう言いながらも、実は課題吟には同想句が集中してしまうという現実が確かにある。
「課題に忠実であれ!そして翔ぼう!」とは思いながら、翔ぶに翔べないことがある。
その理由のひとつとして、概念的で、一定の城から作句者としての怠慢という指摘があるかも知れないのだが、そうばかりとは言えない。
ここ数年前から大会や句会でイメージ吟という、従来にない課題方法が各地で、ひとつのブームになってきているのだが、これは、同想句を避けるには良い方法ではないかと思っている。
始めて、こうした大会を経験したのは、青森の「北の広場」でのことだった。それは、箱の中の見えない物体に触れることと、朗読された一遍の詩からと、鉢に植えられた花を視て、の三題だった。参加者の触覚、聴覚、視覚に委ねられた課題には、同想句が殆どみられず、それにも益して、きらきらした作者の新鮮な個性の響き合いに心地よい刺激を受けたものだ。
川柳とは個の文学であり、孤を表白するものだから、課題吟は不要なのだと言う意見がある。分からなくはないが、個人の内面世界にばかり終始している作品では窒息してしまう。時には自由につばさを拡げ仮想の世界を飛んでみたい。
課題吟の連帯感は、大会には不可欠な存在である。あくまでも課題に忠実に、そして自由に。
共通のテーマで、各人各様がイメージを膨らませ作句しているときの雰囲気はピリピリとした中にも、大会や句会ならではの楽しさがある。
そして、それらの作品が披講されるときの期待感は、未知の世界を覗くような好奇心にも似て、課題吟ならではの醍醐味を味わう瞬間でもある。
それらの一句一句に耳を澄ませていると、ある作品からはミクロの世界へと、またある作品では巨大な宇宙へと、聞き手たちの無限の空間へといざない、一方では現実味を帯びた作者の声や、厳しいまなざしから、リアルな世界に連れ戻されたりと、五感をしなやかに浮遊させながら、作者のイメージと表現の自由なはばたきに感嘆してしまうときでもある。
そして、ひとつのテーマへ、同等に向き合い句作することは、より豊かに鮮やかに個性の差異を観る愉しさでもあり、雑詠吟の個性とはまた違った個性の発見がある。
それは課題と取り組む作者の発想力や表現力などに、すでに個のたましいというようなものが、移入されるからなのではないだろうかと思える。
そう言いながらも、実は課題吟には同想句が集中してしまうという現実が確かにある。
「課題に忠実であれ!そして翔ぼう!」とは思いながら、翔ぶに翔べないことがある。
その理由のひとつとして、概念的で、一定の城から作句者としての怠慢という指摘があるかも知れないのだが、そうばかりとは言えない。
ここ数年前から大会や句会でイメージ吟という、従来にない課題方法が各地で、ひとつのブームになってきているのだが、これは、同想句を避けるには良い方法ではないかと思っている。
始めて、こうした大会を経験したのは、青森の「北の広場」でのことだった。それは、箱の中の見えない物体に触れることと、朗読された一遍の詩からと、鉢に植えられた花を視て、の三題だった。参加者の触覚、聴覚、視覚に委ねられた課題には、同想句が殆どみられず、それにも益して、きらきらした作者の新鮮な個性の響き合いに心地よい刺激を受けたものだ。
川柳とは個の文学であり、孤を表白するものだから、課題吟は不要なのだと言う意見がある。分からなくはないが、個人の内面世界にばかり終始している作品では窒息してしまう。時には自由につばさを拡げ仮想の世界を飛んでみたい。
課題吟の連帯感は、大会には不可欠な存在である。あくまでも課題に忠実に、そして自由に。