現代川柳『泥』第三号 川柳をつくる時どんなことにエネルギーを注いでいるか
明け方のほんのりと青白かった雪は、昼の日差しの中で純白に輝き、やがて夕日に染められオレンジ色へと彩を変えていく・・・。
見慣れている景色が、新鮮に感じられることがある。
日常の何気ない自然風景や、他人の行動や言葉に、はっとすることがある。そして、この一瞬を体験を作品にしたいと気持ちは膨らんでくる。
しかし、これだけでは余りにも主観的ではないだろうか、もっと客観的に、具体的に表現しなければという思いと、さらに、どのような言葉が適切なのだろうかと試行錯誤が始まる。
それは、読者を意識した緊張感でもある。
投句するということは、他者に作品を曝さなければならないということであり、当然ひとりよがりにならない自覚と、それと平行して自身の個性を失わないという配慮が要求されていると思っている。
その上で、句材をどう具体化するのか、どう表現するのかということになるのだが、わたしのレンズは、ピンボケ、ブレと言ったアクシデントを度々引き起こし、表現したいことが読者には伝わらない場合がでてくる。
その原因として、客観性が麻痺していなかったろうか、あるいは言葉に対しての依存過多がなかったろうかなどとあれこれと考えを廻らせてみる。
では、より客観的な視点や、より的確な言葉を見つけるにはどうしたらよいのだろうか・・・・。
・・・(中略)自分を無にする、空(から)にするといっても、その自己への意識がめざめていなければなりません。日常性から離脱した時間は、やがて日常性にもどったときの新しい力になるためのものなのであって、非日常のなかに自己を消え去らせるものなのであって、非日常性のなかに自己を消え去らせる為のものでは在りません。没批判という言葉を用いたからといって、さまざまなことから人間のなかに生じる変容、そこから新しいよりどころを確立して、以前とはちがった新しい批判力が生まれるでしょう。・・(後略) (子安美智子著「モモを読む」より)
右記の一節は、今までにも多くの先達からうかがっていることなのだが、いつもこの壁にぶつかり、ここを抜けられないでいる。
客観的で繊細な観察と、それに相応しいことばを使った表現が作品を完成させていくといわれているが、観察にしても、どうしても観念の範疇で右往左往しているもどかしさがある。
いつまでも、そうした観念の殻を抜けられないでいる私の硬さにエネルギーを注いでいるのではないだろうかと、笑えないわたしである。
明け方のほんのりと青白かった雪は、昼の日差しの中で純白に輝き、やがて夕日に染められオレンジ色へと彩を変えていく・・・。
見慣れている景色が、新鮮に感じられることがある。
日常の何気ない自然風景や、他人の行動や言葉に、はっとすることがある。そして、この一瞬を体験を作品にしたいと気持ちは膨らんでくる。
しかし、これだけでは余りにも主観的ではないだろうか、もっと客観的に、具体的に表現しなければという思いと、さらに、どのような言葉が適切なのだろうかと試行錯誤が始まる。
それは、読者を意識した緊張感でもある。
投句するということは、他者に作品を曝さなければならないということであり、当然ひとりよがりにならない自覚と、それと平行して自身の個性を失わないという配慮が要求されていると思っている。
その上で、句材をどう具体化するのか、どう表現するのかということになるのだが、わたしのレンズは、ピンボケ、ブレと言ったアクシデントを度々引き起こし、表現したいことが読者には伝わらない場合がでてくる。
その原因として、客観性が麻痺していなかったろうか、あるいは言葉に対しての依存過多がなかったろうかなどとあれこれと考えを廻らせてみる。
では、より客観的な視点や、より的確な言葉を見つけるにはどうしたらよいのだろうか・・・・。
・・・(中略)自分を無にする、空(から)にするといっても、その自己への意識がめざめていなければなりません。日常性から離脱した時間は、やがて日常性にもどったときの新しい力になるためのものなのであって、非日常のなかに自己を消え去らせるものなのであって、非日常性のなかに自己を消え去らせる為のものでは在りません。没批判という言葉を用いたからといって、さまざまなことから人間のなかに生じる変容、そこから新しいよりどころを確立して、以前とはちがった新しい批判力が生まれるでしょう。・・(後略) (子安美智子著「モモを読む」より)
右記の一節は、今までにも多くの先達からうかがっていることなのだが、いつもこの壁にぶつかり、ここを抜けられないでいる。
客観的で繊細な観察と、それに相応しいことばを使った表現が作品を完成させていくといわれているが、観察にしても、どうしても観念の範疇で右往左往しているもどかしさがある。
いつまでも、そうした観念の殻を抜けられないでいる私の硬さにエネルギーを注いでいるのではないだろうかと、笑えないわたしである。