言葉のクロッキー

本とかテレビその他メディアから、
グッと感じた言葉・一文などを残してゆきたい。
その他勝手な思いを日記代わりに。

映画『日日是好日』

2018-10-18 | 映画 音楽
大人になったある日、母親からお茶の稽古を勧められる。主人公は気が進まなかったけれど、従姉妹の強い誘いに抗しきれず稽古に行くことになった。古びた家に在った額に「日日是好日」と書いてあって、「どういう深い意味があるのか」と首をかしげる二人。掛け軸の架かる稽古場で先生は淡々と稽古を進めてゆく。
数百年も年を経たお茶の世界は約束事の連続。戸惑うことばかりに、師匠はさりげなく指導してゆく。「頭で理解するのでなく、体に覚えさせる。稽古は回数。」「何故そうするのかは先生にもわからない。そういうものなのです。」「形から覚えて、心を入れてゆく」「10年も稽古したのですから、そろそろ自分で工夫をしなさい。」とか「左足から部屋に入る」「畳は6歩で歩む」「畳の縁は踏まない」・・・・もう笑ってしまうほどだ。
しかし全くの初心者と長年稽古をしている者とではその所作は明らかに違う。多分、感性の向上とか、事象に対する考え方のようなものへの影響が変わってくるのだろう。それが所作に動作に自然に表れてくるのだろう。自然の移ろい、掛け軸から感じ取れるもの、水音の違いすら分かってくる楽しさ。
映画に出てくるのは女性が大半だけれど、男性にとってお茶はどうなんだろうと、ふと思ったりする。茶道が確立されたのは戦国時代。なんと支配階級に流行した。女々しい精神性で流行したわけではないと思うけど分からない。崇高な精神性を感じてのことよりも、すごく俗物的な背景に流されただけかもしれない。明日をも知れない自分の命に、武道の鍛錬もせず、お茶に埋没するはずがない。それとも男性のお茶には、殺気のようなものを隠すためだったのだろうか。
映画からは、「静けさ」静けさの中で時間が流れてゆく。というか、すごく日本人として体で分かる風景とかお話なのだ。現代に生きる若い女性が遭遇する出来事。自分を見つけられない主人公が、お茶を理解してゆくにつれ、自分をも次第に見つけてゆく。なんとなくわかりやすい映画だった。
お茶の師匠を演じた樹木希林は病で亡くなったけれど、この映画からは微塵も病を感じさせない演技で、違和感もなく良かった。惜しい役者さんだったと思う。主人公・黒木華の父親役は鶴見辰吾だったが、唯一ともいえる男役に、何故か存在感があった。

映画『散り椿』

2018-10-02 | 映画 音楽

『散り椿』   第42回モントリオール世界映画祭審査員特別賞受賞
監督・撮影:木村大作 脚本:小泉堯史  原作:葉室麟  音楽:加古隆
東宝映画   製作:「散り椿」製作委員会 市川南

新兵衛:岡田准一  采女:西島秀俊  里美:黒木華  惣兵衛:石橋蓮司  玄蕃:奥田英二

「散り椿」 とても絵画的なタイトル。さすが物書きは豊富な語彙を持っているものと思う。
「散り椿」の正式名称は「五色八重散り椿」。一本の椿の木に、白から紅まで様々に咲き分け、花弁が一片一片散っていくのだそうだ。見たことはない。
映画では満開の散り椿を背景に物語が展開するシーンがある。そういえば「椿三十郎」とか「柘榴坂の仇討」とか、椿が鮮やかに撮られていたのを思い出す。洋画ではあまり記憶にないので、椿は日本映画独自の存在感のある花なのかもしれない。故郷の家に咲く、散り椿。あの椿をまた見に帰ろうと言う、病に侵された妻。しかし故郷に帰るということは、それなりに平和だった藩にとっては歓迎されざることだったのだ。主人公はそれを承知の上で藩に帰る。それを察知した藩は刺客をどんどん差し向けるけど、主人公はそれらをバサバサと斬りまくるのだ。久しぶりに、切られると血しぶきが飛び、顔やら着物が血だらけの殺陣シーンを見た。主人公・岡田准一の殺陣は凄惨というよりむしろ美しい。構え・スピード・動作・伝わってくるもの・・・どれも腰が据わっていて様になっている。劇画チックでないところがいい。もちろん殺陣師の演出にもよるのだろうけど、殺陣師のスタッフとしても岡田の名がクレジットされてるところからすれば、殺陣師的ななセンスも十分持ち合わせてるのだろうと思う。
この映画は全編オールロケというだけあって、背景が半端ではない。故郷の山々、うっそうと茂る大木、満開の散り椿、ふわりふわり数限りなく降りしきる雪、激しい豪雨、屋敷の調度品の数々・・・どれも秀逸なのだ。加古のBGMがそれ等とともに一層引き立てる。見事すぎて、だからもっと絞り込めばもっと効果を高めたかもしれないと思う位だった。
新兵衛と里美の別れが、満開の散り椿がバックであったとしたら、また違ったストーリー展開になっていたかもしれない、などと思ったりした映画だった。

映画「残像」 他

2017-06-22 | 映画 音楽
「残像」
原題:Powidoki 英題:Afrerimage 製作年:2016   製作国:ポーランド   時間:99分
監督&脚色:アンジェイ・ワイダ    主演:ボグスワフ・リンダ

『2016年10月9日、アンジェイ・ワイダ監督が急逝した。享年90。世界から尊敬される巨匠が死の直前に完成させた作品は、戦後の社会主義圧政下で、自らの信念を貫き、闘った実在の芸術家の姿だった----。』
『第二次世界大戦後、ソヴィエト連邦の影響下におかれたポーランド。スターリンによる全体主義に脅かされながらも、情熱的に創作と美術教育に打ち込む実在の前衛画家ヴワディスワフ・ストウシェミンスキが、自らの信念を貫き、闘う姿を描く。』・・・フライヤーの抜き書き
主人公はポーランドに実在した画家、美術大の教授。大戦で負傷、右足を失い、松葉杖を欠かせない。絵・・彼の場合前衛画だが、絵に対する情熱は高く、多くの画学生や社会の人たちに支持されている。しかし時代は彼にとって不幸だった。芸術の分野まで国家の指向する世界に取り込み、益を成さない芸術はすべて排除しようとする国家当局に、彼はストレートに反発する。時の権力者に「芸術とは国家の指向することとは無関係なのだ」と堂々と皆の前で公言する。「長い物には巻かれよ」主義は彼には通じないのだ。やがて彼は職を失い、食料や画材までもの配給システムから排除される。そして枯れるように死んでゆくのだ。
監督ワイダの遺作ともなった作品だけれど、まったく遺作を鑑賞したという気持ちがする。戦後70年、社会主義が崩壊して30年あまり、当時起きたであろう様々な理不尽な出来事は、この時代語りつくされている感がする。だからか映画から伝わるものが少ない。このようなテーマの作品も当面はないかもしれない。電子仮想空間でどんな思想が生ずるともしれない時代はむしろ不気味とも思える。


 「ザ・ダンサー」
原題:La Danseuse 製作年:2016   製作国:フランス&ベルギー    時間:108分
監督:ステファニー・ディ・ジュースト   主演:ソコ
19世紀にダンスの新時代を作ったロイ・フラーによって創作された斬新なダンス。光の照明の中、長いシルクの衣装を纏い、回転し様々な形を織りなす神秘的な美しさ。
アメリカ出身のモダンダンサー   1890年代パリでダンサーとして活躍。1928年65歳でパリで死去。 また舞台照明技術分野のパイオニアとしても有名だった。実在したアメリカの女性。しかしこの映画は多分に創作してるのかもしれない。
ともかくも激しく回転して踊るダンサーのシルクの衣装が光を受けて様々に変化する様は息をのむように美しい。いまから120年位昔であれば、観る人に強烈な印象を残したのではなかろうか。映画を通しての印象と実際の舞台からのとは違うだろうけど、現代においても演出家しだいで、興行できそうに思う。

映画 「沈黙」

2017-01-23 | 映画 音楽
原題  :  Silence     製作年  :  2016     製作国  :  アメリカ     上映時間  :  162分
監督  :  マーチン・スコセッシ

「沈黙」・・ 神の沈黙・・ イエスキリストの沈黙。   キリスト教徒遠藤周作の小説「沈黙」の映画化。
日本におけるイエスの沈黙は、例えば江戸時代初期の頃の切支丹弾圧政策の頃にあったであろうと、遠藤は小説化する。
幕府によって捕らえられた隠れキリシタンたち。迫害され拷問されて、「神がいるのなら、現れて助けてもらえ」と迫る役人たちに、ますます信徒達は信心にかたくなになってゆく。ここにすでに神の沈黙は現れている。ポルトガルの宣教師。 危険を冒し日本に潜入した神父は捕らえられ棄教させられたと聞き、信じられない思いの教え子たちの神父は、真実を求め、受難の日本の信者たちの心の支えとなるべく硬い決意をもって日本に潜入する。しかしやがて捕らえられてしまう。日本の役人は神父に言う「心に干渉するな」と。信徒達を死の苦しみから救い出せるのは神父たちの棄教だと迫る役人。神は、神父たちの目の前の惨劇に対し、救済の兆しさえ現わそうとしない。神を信じ 神の代理としての使命を帯びている神父なのに、何も霊験顕たかなことはできない。ついにある神父は拷問による死に瀕した信徒とともに死に、ある神父は、神は何故沈黙してるのかと問いつめ、苦悩する。そしてやがて弟子の神父も棄教する。神のしもべから幕府のしもべになり、日本名を与えられ幕府に貢献する。布教という崇高な使命が失われ、日本の政事に飲み込まれてしまう。およそ信仰というのは恐ろしいと思う。人間の思考の最奥に焼き込まれた言葉や映像は人間の五感を超越するものなのか。しかしあの頃から400年あまり経過した日本をおもうとつくづく平和だなと思う。信仰の自由が保障されている。教える側も法律で守られている。「日本は沼のようなところだ」と映画で神父が言っていたが、その体質は今でもそうなのではないのか。日本では仏教ですら、大部分の仏教徒達にとっては単なる方便、宗教という衣装を纏っているだけではないのか・・と思う。でもそれ でよいのかもしれない。だから平和なのかもしれない。
アメリカ人たちによる日本の風土を映画化した作品というとになるが、時代を想像した当時の日本の風景、衣食住、武士・僧侶や農魚民たちに対する感性のちがいのようなものを感じる。奴隷のごとく異様に従順な民、どこかなよなよした上級武士、大げさな俳優たちの表現・・・しかし役者たちは熱演してる。なんとなく、その日本人役者たちの熱演が、日本人にあまり評価されないのではないのかと思う。映画「ミッション」というのがあった。終始、背景に流れる音楽がいまでも印象に残る。「沈黙」に音楽はあるけど、ほとんどないに等しい。エンドロールも無音で、長々とただ文字の羅列が流され終わる。このような終わり方の映画も珍しい。だからかもしれないが、見終わって 「なんだかな~」という感じなのだ。

映画 「聲の形」   

2016-09-19 | 映画 音楽
英語名: 「The shape of voice」
監督:山田尚子   制作国:日本   制作年:2016   上映時間:129分

映画のタイトルに興味を持って観に行った。予約なしでいったけど、朝9時前から上映というのに満席。久しぶりに前から3列目の席というほぼ、かぶりつきで観ることになった。声が頭から降ってくる。画面が目の両際いっぱいに広がっている。アニメは久しぶりだ。

「聲の形」というのは、つまり手話。手話が物語の展開に大切な役割を果たす。物語そのものは青春モノ。小中高にわたってある少年と少女の出来事が綴られる。少女は教室に転校してきたときから、聴覚障害。ノートに書いて意志の疎通をするしかない。クラスのいじめっ子の代表みたいな少年は少女を徹底的に苛め抜く。転校してゆく少女。自殺寸前までいった少女の親による学校批判。今度は徹底的に孤立に追い込まれた少年。悔い改め悔恨の日々を送ることになるが、あるところで、再びその少女と再会する。心から謝る少年、その態度でやっと許す気になった少女。しかし言葉が通じない。少年に心を開いてゆく少女だけれど、気持ちが通じないもどかしさに絶望し、飛び降り自殺をしようとするが、すんでのところを少年が助け上げる・・が代わりに少年が落下してしまい、生死の境を彷徨う。・・・ともかく物語は劇画である。物語はまだまだ続く。漫画とアニメとは基本的に違う。漫画での読者一人ひとりの受け取り方の幅みたいなものが広いと思うけれど、アニメは制作者の主観で決まってしまう。おそらく漫画で共感した読者は映画には失望してるかも知れにない。きれいな画面・キラキラ輝く大きな目の少女たち、熱演する声優、綿菓子のようなBGM.などなど。感動的に若い児向けの映画なのだ。  しかし「聲の形」、手話は態度・手足・目などの動きを伴ってこそ感動的なカタチをつくるもののようだ。

映画 「グッドバイ サマー」

2016-09-16 | 映画 音楽
原題 「MICROBE ET GASOIL」  製作年度:2015   上映時間:104分  製作国:フランス 
監督&脚本: ミシェル・ゴンドリー    音楽:ジャン=クロード・ヴァニエ

「グッドバイ サマー」という映画名からは、なにか甘酸っぱいひと夏の思い出みたいな映画かなと感じてしまう。でも原題は「デブとノッポ」みたいなものだから、フランス人が日本名を知ったら嗤ってしまうかもしれない。

14歳のクラスのはみ出し者二人。好奇心、冒険、世間知らず・・・。一人は絵が上手でもう一人は機械いじりが大好きである。その少年は廃棄業者のところにあった2気筒のガソリンエンジンを見つけ、親に内緒で買って帰り、自分の部屋で廃棄ガスにまみれて再生させる。ぜんそくで苦しむ母のことなどおかまいなしの自己中ぶりだ。再生したエンジンを動力として、廃品を拾い集め、二人は奇妙な自動車を作り上げる。掘っ立て小屋のような外観、大きな立形のドア、木のベット、小さな机、長椅子のような運転席、大きなフロントガラス、リアエンジン・・・・・・つまりお手製のキャンピングカーなのだ。そして公道を走りだす。4つの車輪は板で隠せるようになっていて警察官も気付かない。こうして14歳の少年達は夏休みのドライブをする。様々な出会い、経験、苦労を重ね、遥か山を越えてのろのろと走る。でもやがて駐車した場所が悪くて、燃やされてしまう。それでも修理して走りだすけど、今度はブレーキがきかなくなってしまい、坂道を転がるように走るのでついに脱出。手製の車は崖から転落、あえなく川の藻屑となり、二人は歩いて遠い道のりをスゴスゴと空腹を抱え家を目指すのだった・・・・・・・

観た映画をきっかけに、ふと遠い昔を思い出すことがある。少年たちにとってひと夏の出来事、一刻一刻は、ほかのことを考える余裕等ないだろうけれど、数十年経てフトその一時がよみがえったとき、かけがえのない己の人生の一コマを思いだし、空を見上げるものだ。「グッドバイ サマー」はその原風景のサンプルなのかもしれない。取り立てて面白いというわけでもないし、悲壮というものでもない。BGMもそれに合ったゆるい、猫が長々と寝そべっているような音楽だ。 観た映画館もレトロだった。60年以上にもなるらしい。二階への階段脇にはこれから上映予定のチラシや、ポスターでいっぱいだ。二階フロアーには年若い兄ちゃんが、売店とチケット販売をかけ持ちで働いている.館内の通路には予備の椅子がたくさん積み重ねられている。でもトイレくさいわけでもなく、ゴミくさいわけでもない。若いおねーちゃんが小さな声ながらも良く通る声で、場内入れ替えの案内をしている。館内の椅子の座り心地は申し分ない。良く掃除されており清潔。本編の前に予告編が2~3本。しかしあのニュース映画がなくなって、もう何年になるだろう。いまどきのアナウンサーや声優にもない、独特の明るさ、緊張感のあるナレーションで語られた白黒のニュース映画。代議士の汚職、華やかな芸能人の一コマ、汗まみれの男たち、ショッキングな海外の報道・・・・みんなみんな刺激的だったのだ。あの「刺激」を最近の映画館に感じない。現代は、すぐれてその映像美、高機能・環境を享受しているが、思い出として残るものは少ないのではなかろうか。ひたすら前を、前を・・・・時代に遅れないように・・・という気がする。

映画「白いたてがみのライオン」

2016-02-08 | 映画 音楽
原題「LEV S BILOU HRIVOU」 1986 チェコ映画 136分  監督 : ヤロミル・イレシュ
2016年2月2日 新国立劇場中劇場/チェコセンター後援   (オペラ「イェヌーファ」日本上演記念に先立ち)

ロシアとヨーロッパ諸国とに挟まれた国チェコ。スラブという言葉の響は、なにか郷愁のような愁いを含んだ風景を連想させる。バターを溶かし込んだような風景、空に溶け込んでしまかのようなくすんだ建物、丈の高い木々。映画にはそういう風景がふんだんに盛り込まれている。物語を除けば良い観光映画になるかもしれない。音楽はヤナーチェクものだろうけど悪くはない。しかしこの30年くらい前にチェコで製作された映画。何の予備知識もなくこの映画を観た感想は、子供2人を失い、忠実な妻と召使にめぐまれながら、としがいもなく人妻・遊牧の女、歌手などに入れ上げ、頑固に自分の曲を作り上げていった男の自叙伝ということになるのだが、チェコでは、スメタナやドボルザークに並ぶ大作曲家ということなので、映画の背景を知るためにWikipediaを参照する。

-ズデンカと結婚。翌年に娘のオルガが誕生したが、直後に母アマリアとの同居を望むヤナーチェクに反発したズテンカが娘を連れて2年間実家に戻るなど、当初から夫婦関係は不安定。また、民族主義者のヤナーチェクは「きわめてドイツ的」なズデンカの親族に当惑を覚えていた。ヤナーチェクのもとへ戻ったズテンカは長男ヴラディミールを出産したがヴラディミールは猩紅熱にかかり、2歳半で死去した。ヴラディミールの死により、結婚・同居関係こそ解消されなかったものの、ヤナーチェク夫妻の結婚生活は事実上破綻。
-『イェヌーファ』はガブリエラ・プライソヴァーによる戯曲『彼女の養女』の翻案を基にした作品で、この戯曲はモラヴィアの村を舞台とし、さらにモラヴィア方言で書かれている点に特徴があり、ヤナーチェクは1893年にこの作品のオペラ化を打診。プライソヴァーはこの題材がオペラ向きでないことを主張したが、ヤナーチェクは作品に固執。1897年頃に第1幕が完成したが、当時ヤナーチェクは音楽学校の教師の仕事や民謡の研究活動などで多忙をきわめており、作曲は一時中断。1902年の夏に第2幕完成。そのまま第3幕の作曲に取りかかるが、1903年完成の直前、娘のオルガを病で失っている。死の間際の願いは『イェヌーファ』の全曲の演奏を聴きたいというもので、願いが叶え られた5日後にオルガは死去した。ヤナーチェクはこの作品をプラハで上演することを望んでいたが、当時プラハ国民劇場のオペラ部門の責任者であったカレル・コヴァジョヴィツは、10数年前に自作のオペラをヤナーチェクに酷評された怨みがあり、上演は拒否されてしまう。結局初演は1904年1月21日にブルノの国民劇場でシリル・フラズディラ指揮のもと行われた。
-『イェヌーファ』はヤナーチェクが独自の語法を確立した作品として知られる。『イェヌーファ』は子供の死にまつわる悲劇を描いた作品である。初演における地元での評価は極めて高かったが、「プラハの批評家たちはほとんど公然と敵意を示した」。当時のヤナーチェクについて、「プラハにおいては、彼はいくぶん冷やかに作曲家とみられていたが、それよりもわずかに敬意をこめて民俗学者と考えられていたのだった」、「オペラ劇場やコンサートホールでの手ごわい競争者というよりも、民俗学者としての知識を身につけている二流の地方の作曲家であるという見方がプラハではなおも一般的であった」と評されていた。
-1917年ヤナーチェクは二人の子供を持つ38歳年下の既婚女性カミラ・シュテスロヴァーと出会い、魅了された。以降ヤナーチェクは生涯にわたりカミラに対し熱烈に手紙を送り続け、その数は11年間で600通以上に及ぶ。カミラが住む南ボヘミアを訪れ、家に泊まることもあった

映画は大作曲家の素晴らしさを表現したものではなく、いかに人間臭かったのかを映像化しような思いがする。2時間を超える作品ではあるけれど、なにか物足りない感じが残った。

映画「黄金のアデーレ」

2015-12-06 | 映画 音楽
原題「Woman in Gold」 2015 アメリカ/イギリス 109分    監督:サイモン・カーティス

クリムトが1907年に描いた傑作「黄金のアデーレ」。正式名称は「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」。この絵は今ニューヨークのある美術館に展示されてるが、それまではオーストリーの美術館ベルベデーレに展示されていた肖像画。しかも国宝級の扱いで。この作品は終戦後なぜオーストリーからアメリカに渡ったのか、史実をもとにドラマティックに映画化した作品。
1998年、アメリカで小さなブティックを営む主人公マリア・アルトマン(82歳)はオーストリー政府が打ち出した「個人の美術品は返還する」という方針・・・実態は言うだけに近い方針・・・に触発され、返還して欲しいとベルべデーレまで出向く。アデーレは主人公マリアの叔母にあたる人で、彼女の叔父がクリムトに依頼し、描いてもらった肖像画で、まったく個人的な絵だった。しかし無名の彼女の肖像画は、第二次世界大戦中、ナチスに略奪された。それを返還してもらうために、彼女は若い駆け出し弁護士のランディと契約する。しかし戦後国民的にも愛される名画となった絵を簡単に返還してくれるわけもなく、しかも現地で初期経費が180万ドルにもなる裁判に訴えても勝ち目はないとわかり、諦め、アメリカに帰る。マリアはユダヤ人で、もともとがウィーンの名家の一員。ナチの進出で両親と辛い別れを交わし、夫と共に着の身着のままでアメリカに亡命したという過去を背負っていた。亡命して彼女は、この絵の陰にある夢のように密度の濃かった祖国オーストリーでの生活を、心の中に封印していた。その絵を取り戻せるかもしれないと思った彼女は封印を解き、「昔の記憶を消さないため」また「正義のため」に返還を申し出たのだ。成果もなく帰国したが、弁護士ランディーは諦めきれずに検討を重ねていたが、ついにアメリカにおいてオーストリー政府を裁判に訴えることができる条件を掴む。彼は勤務していた弁護士事務所を辞め、何の後ろ盾もなく果敢にオーストリー政府をアメリカで訴え出たのだ。しかも200ドルにも満たない初期経費で。やがてアメリカの最高裁の支持を受け、オーストリーでの裁判に臨む。そして数々の葛藤・絶望感を乗り越え現地で開かれた最終判断で、オーストリーの担当官は、理は彼女の側にあることを認め、ついに彼女は返還を勝ち取った。ベルベデーレに残してくれるよう要請するオーストリー。しかし彼女はこの返還活動に冷たかったことを理由に拒否し、アメリカに持ち帰ったのだ。  若輩の駆け出し弁護士が、アメリカとオーストリー両国の司法を舞台に論争する。正義はどこにあるのかを論じるのはカッコよいものだ。その中にユーモアがあり、ジョークがある。退屈させない。たった109分の映画かもしれないけど、無理を感じさせることなく物語が展開され、とても楽しませてくれた映画だった。

映画「FOUJITA」

2015-11-19 | 映画 音楽
監督:小栗康平  2015「FOUJITA」製作委員会/ユーロワイド・フィルム・プロダクション

映画前半は1920年代のパリが舞台。藤田の絵が売れ始めた頃から始まる。モンパルナスのどこかの場末にある倉庫のような粗末なアトリエで藤田は制作にふける。オカッパ頭に丸メガネ。仲間の集まるカフェにはピカソやモジリアーニなど後になって有名になった画家たちが集い、パーティーやばか騒ぎを繰り返している。パリの街角、夜のパリ。セーヌの濁った水。街角の八百屋、骨董市。カフェでの雑談。いろんな風景が映し出される。映像は絵のように決まってるが、蝋燭の光や淡い室内灯に照らし出された顔が暗闇に近い背景にボンヤリ浮かんでるようなシーンが多い。それだけに時々映し出される明るい光に満たされたパリの風景が美しい。藤田の出来事が脈絡もなく、断片的に展開されてゆく 。渋く重い感じのテーマ音楽、鋭いトリの声、硬い靴音、能の囃子・・・いろいろな効果音を背景に喜怒哀楽を感じない役者たちの台詞まわし。観ていて伝わってくるものがあまり無い。そして突然にという風に後半の1940年代の日本に舞台は変わる。

藤田は画壇のトップにいて、日本軍から先生と呼ばれ国威発揚のため大作の戦争画を描く。作画のシーンは殆ど無く、完成された絵を効果的に画面に挿入している。みずみずしい日本の山々。黎明の雲間に浮き上がる山々の連なり。いくつもの棚田が鉛色の光に照らされ藤田が畦道を歩く。樹齢が知れない巨大な古木に素朴な供物。農村の風景そして赤紙が来て招集される若者の母の苦しみ。果ては言い伝えの狐が、たくさんCGで挿入されたりして、断片的に映画は作られている。藤田の・・というより監督の心象を映像化してるのかもしれない。

そしてエピローグ。フランスの寒村に建つ礼拝堂。余すところなく映し出される。その佇まい。壁画、祭壇の絵。華麗なステンドグラス。天井のフレスコ画。すべて藤田の遺作なのだ。

映画を観ても藤田嗣治のことはさっぱり分からない。この映画は藤田の作品をバックに、日本とフランスを背景にした、大人の絵本のような作品かもしれない。数千点にも残る藤田の遺作があるという。しかし自分が知る絵はほんとに限定的なもののように思う。ある意味、藤田は戦争の犠牲者ともおもえるし、それは日本人に彼の作品が意図的に目に触れないように仕向けられていたのかもしれない。彼の絵はもっと日本人に評価されるべきなのだ。

映画「シーヴァス」

2015-11-05 | 映画 音楽
原題「SIVAS]  2014年トルコ・ドイツ合作映画 97分 監督・脚本:カアン・ミュジデジ

シーヴァスとは闘犬につけた名前。実際の犬種はカンガール犬というのだそうだ。主人公の11歳の少年にとって畳一畳くらいの大きさの犬だ。獰猛な顔つきをしている。それだけに寝ている顔はユーモラスである。大の大人二人がかりでも引きずられるくらい力強い。こういう犬が何匹も集まる。そして2匹ずつ激しくぶつかり、咬みあいどちらか逃げるか、死ぬまで闘う。それは闘牛と同じ、ショウだ。準主人公のシーヴァスは、勝負に負けて、半死半生になり、飼い主に捨てらてしまう。主人公の11歳の少年はこの犬を助け、家族の反対を振り切って飼い始める。少年の願いは再び闘って勝利し、どの犬より強い犬であって欲しいことだ。再起をかけて、いろいろ困難な環境を乗り越えて訓練し、闘いに望むのか・・と思ったがそういうストーリーはないのだ。学校のこと、友達のこと、イスラムの祈り、家畜の老馬の放逐等など延々と脈絡もなく場面が変わる。トラクターや車のエンジンの音、いろいろな効果音がうるさくて人の声がよく聞こえない。トルコのどこかで撮影したのだろうけれど、荒涼とした原野を背景に展開されるストーリーらしき展開に、詩情のようなものは殆どなく、たんたんとショットが映し出される。そして唐突にというかんじでシーヴァスは復帰戦に挑む。そこでガッチリと闘う様子を映し出してくれるのかと思うけれど、そうではなく、観客の背中や肩越しにチラリと見せ、獰猛な犬の声のみが館内に響き、やがてシーヴァスは勝利する。最強の闘犬となったシーヴァスを売るのだというようなことをチラッと大人が言うのを主人公は怪訝そうに見やるショットがあるのだがやがて映画は終了。犬の「ロッキー」版を期待してたのに、なんだかよくわからない映画だった。