原題「LEV S BILOU HRIVOU」 1986 チェコ映画 136分 監督 : ヤロミル・イレシュ
2016年2月2日 新国立劇場中劇場/チェコセンター後援 (オペラ「イェヌーファ」日本上演記念に先立ち)
ロシアとヨーロッパ諸国とに挟まれた国チェコ。スラブという言葉の響は、なにか郷愁のような愁いを含んだ風景を連想させる。バターを溶かし込んだような風景、空に溶け込んでしまかのようなくすんだ建物、丈の高い木々。映画にはそういう風景がふんだんに盛り込まれている。物語を除けば良い観光映画になるかもしれない。音楽はヤナーチェクものだろうけど悪くはない。しかしこの30年くらい前にチェコで製作された映画。何の予備知識もなくこの映画を観た感想は、子供2人を失い、忠実な妻と召使にめぐまれながら、としがいもなく人妻・遊牧の女、歌手などに入れ上げ、頑固に自分の曲を作り上げていった男の自叙伝ということになるのだが、チェコでは、スメタナやドボルザークに並ぶ大作曲家ということなので、映画の背景を知るためにWikipediaを参照する。
-ズデンカと結婚。翌年に娘のオルガが誕生したが、直後に母アマリアとの同居を望むヤナーチェクに反発したズテンカが娘を連れて2年間実家に戻るなど、当初から夫婦関係は不安定。また、民族主義者のヤナーチェクは「きわめてドイツ的」なズデンカの親族に当惑を覚えていた。ヤナーチェクのもとへ戻ったズテンカは長男ヴラディミールを出産したがヴラディミールは猩紅熱にかかり、2歳半で死去した。ヴラディミールの死により、結婚・同居関係こそ解消されなかったものの、ヤナーチェク夫妻の結婚生活は事実上破綻。
-『イェヌーファ』はガブリエラ・プライソヴァーによる戯曲『彼女の養女』の翻案を基にした作品で、この戯曲はモラヴィアの村を舞台とし、さらにモラヴィア方言で書かれている点に特徴があり、ヤナーチェクは1893年にこの作品のオペラ化を打診。プライソヴァーはこの題材がオペラ向きでないことを主張したが、ヤナーチェクは作品に固執。1897年頃に第1幕が完成したが、当時ヤナーチェクは音楽学校の教師の仕事や民謡の研究活動などで多忙をきわめており、作曲は一時中断。1902年の夏に第2幕完成。そのまま第3幕の作曲に取りかかるが、1903年完成の直前、娘のオルガを病で失っている。死の間際の願いは『イェヌーファ』の全曲の演奏を聴きたいというもので、願いが叶え られた5日後にオルガは死去した。ヤナーチェクはこの作品をプラハで上演することを望んでいたが、当時プラハ国民劇場のオペラ部門の責任者であったカレル・コヴァジョヴィツは、10数年前に自作のオペラをヤナーチェクに酷評された怨みがあり、上演は拒否されてしまう。結局初演は1904年1月21日にブルノの国民劇場でシリル・フラズディラ指揮のもと行われた。
-『イェヌーファ』はヤナーチェクが独自の語法を確立した作品として知られる。『イェヌーファ』は子供の死にまつわる悲劇を描いた作品である。初演における地元での評価は極めて高かったが、「プラハの批評家たちはほとんど公然と敵意を示した」。当時のヤナーチェクについて、「プラハにおいては、彼はいくぶん冷やかに作曲家とみられていたが、それよりもわずかに敬意をこめて民俗学者と考えられていたのだった」、「オペラ劇場やコンサートホールでの手ごわい競争者というよりも、民俗学者としての知識を身につけている二流の地方の作曲家であるという見方がプラハではなおも一般的であった」と評されていた。
-1917年ヤナーチェクは二人の子供を持つ38歳年下の既婚女性カミラ・シュテスロヴァーと出会い、魅了された。以降ヤナーチェクは生涯にわたりカミラに対し熱烈に手紙を送り続け、その数は11年間で600通以上に及ぶ。カミラが住む南ボヘミアを訪れ、家に泊まることもあった
映画は大作曲家の素晴らしさを表現したものではなく、いかに人間臭かったのかを映像化しような思いがする。2時間を超える作品ではあるけれど、なにか物足りない感じが残った。