言葉のクロッキー

本とかテレビその他メディアから、
グッと感じた言葉・一文などを残してゆきたい。
その他勝手な思いを日記代わりに。

神遊最終「姨捨」

2016-03-22 | 能・芸能
神遊最終公演*20周年*第50回記念      平成28年3月20日  国立能楽堂

番組

●仕舞  地謡:坂真太郎 奥川恒治 観世喜正 遠藤喜久     

        『卒塔婆小町』   観世喜之

        『   融   』   片山九郎右衛門  

●仕舞  地謡:坂口貴信 馬野正基 山崎正道 味方玄      

        『 砧之段  』   梅若玄祥

        『  藤戸   』   観世銕之丞       

●一調  景清  観世清和     大鼓 : 柿原崇志

●狂言  『 土筆 』       シテ:山本東次郎  アド:山本則俊   後見:山本凛太郎

●能   『  姨 捨  』    150分

        シテ(里女・老女):観世喜正          後見:観世清和 観世喜之 奥川恒治         

        ワキ(都人):宝生欣哉    ワキツレ(同行者):大日方寛 御厨誠吾  

        アイ(里人):山本泰太郎             

         笛:一噌隆之   小鼓:観世新九郎   大鼓:柿原弘和   太鼓:観世元伯

        地謡:山崎正道 観世銕之丞 梅若玄祥 片山九郎右衛門 坂口貴信 坂真太郎 味方玄 馬野正基 

20年前、30歳前後の能楽師5人で結成されたというこの会も、今回で50回目。これが最後の公演とか。会の課題とする演能の研究に区切りをつけ、培った多くの経験を基に、それぞれの分野で能を継承・表現してゆくことになるのでしょう。節目に選んだ演目は「姨捨」。観世流では老女物として最も遠い曲、秘曲としているのだそうな。神遊の同人五人のうち、三人も観世の姓であれば挑戦のし甲斐もあるというものでしょう。日ごろあまりお目にかからない曲なのだ。この公演に寄せて玄祥師は「能に於ける最奥の能といってもいいと思います。それは、演じるということより、存在感がより求められる曲であります。能の人生の中で究極を追って辿るところの曲であると思います」と述べている。思えば主人公は、老女、遠い昔に山に捨てられ、昇華し、神とも菩薩ともあるいは冥界に流離う幽霊ともつかぬ身となって、皓々と輝く満月の夜に、独り舞うという役を、およそ別種の男子が三間四方の何もない板の間の上で、まっとうに表現するのは至難のことだと思う。年齢に関係なく果てしないテーマを能楽師に残す演目なのだろう。観るほうはひたすらシテの全身をとおし、囃子をとおし、永遠ともいえる幽玄の世界を独り、想像しそこに埋没するしかないのかもしれない。

お調べがいつもより長めに感じる。ざわざわとした見所の雰囲気が静かに引き締まってゆく。静かに橋掛かりを登ってきた僧たちが「われ未だ更科の月を見ずそうろう程に、この秋思いたち姨捨山へ」やってきたのだという。とそこに幕内から「のうのうあれなる旅人は・・」と里の女が呼掛ける。僧は月を見に来たこと、姨捨山の亡き跡はどこかと、女に問うと、「我が心、慰めかねつ更科や、姨捨山に照る月を見て」と和歌の旧跡を教える。そしてその和歌は自分のことで、昔この寂しい山に捨てられ、独りこの山に住み、年どしの仲秋の名月に、執心の闇を晴らそうと現世にさまよい出るのだと言って消え去る。夜になり、三五夜中の新月が昇り、その明るく澄んだ月光の中に、清らかな白衣姿をした老女が幻のごとく現れる。そして昔この明るく輝く月の下で遊んだことを語り、仏の有様を静かに述べるのだ。やがて老女は昔を懐かしみ、ゆったりと時間を忘れるほどの舞を舞う。「戯るる舞の袖、返せやかへせ昔の秋を、思い出でたる妄執の心・・・」夜も明け、旅人を見送り、再びただ独り山に残された老女の霊。昔と変わらず今もまた姨捨山となりにけり と地謡は終わる。シテは舞台に寂しくポツンと残り、演奏が続いている囃子とともに舞うでもなく、この曲は終わる。シテは再び橋掛かりを歩み幕に消え、次いでお囃子・地謡が退場し、もともと作り物すら無い舞台にはなにも残らなくなる。夜空に輝く数々の星達が日中は見えないように老女の霊は見えずとも山に在るのだ。舞台に残っているのだ。この余韻を残した舞台の風景というのも一つの見どころかも知れない。

静かな雰囲気で始まったこの曲、里の女が幕内から出てくるあたりから、さらにその音声は低く抑えたものになってくる。里女の装束姿、そして後シテの老女の装束姿。美しい。とりわけ老女の装束は純白?微かに象歯色しているのは照明のせいか。その上着ともいえる長絹は、矢来観世が非常に大切にしている装束とのことで、「姨捨」にしか使用しないというのだから、めったに見られる装束ではないのだ。本によれば「その、ほとんど透明といえるほど薄い紗の地に、銀泥で丸く星々が捺染され、それぞれが銀糸で縁取られ、つながれて、おびただしい星座をあらわしています」とある。老女を演ずるのはくたびれきっていてはできない。またヨボヨボの老体でもかなり厳しい、ハードな役だ。今回のシテは立派な装束に負けず、神々しいまでの老女の存在感を出せていたと思う。長い序の舞。太鼓が入る珍しい曲。ただ舞えばよいというものではない。役どころを思えば想像を絶する。老女の存在感は演者の身体・意識のあり方で違った印象を与える。そして発声の重みがとてもこの役どころを演じ切るうえで大変そうだと感じた演目と思った。