名古屋の白ウサギ・1964年生

自称・宗教家・・宗教家とは職業ではなく「私の生き方」です。
職業・会社員、投資家  趣味・偽善事業

無言で実績を示す。

2023-09-08 | 思う事


最近話題になっている
某・有力タレント事務所‘‘j‘‘ の問題。

新社長となった、元アイドルH君が
メディアを集めた会見で言った。

 人生をもって、命をかけてこの問題に取り組んでいく



命がけ????

私はこの言葉を発する人に
違和感を持つ。

この言葉を発する人に遭遇すると
反射的に警戒する。

H君の場合、
自分の立場を揺るがすような
都合が悪い事に関しては
回答が二転三転している。

命を懸けているなら、
都合の悪い事は蓋をする必要などない。
命を懸けている態度とは思えない。

このような態度は
言葉の重みを失うだけであると思う。



私の場合、
真剣に取り組んいることがあっても・・

仮に、そのような心境であっても、
「命を懸ける」
この言葉は絶対に吐かない。



この言葉を頻繁に吐くひとは、
基本的には信用しない。

「話半分」という暗黙のルールを意識して
付き合っていれば問題ないが、
真剣に聞いてしまうと痛い思いをする。

以前、「命がけ・・・」を
連発する人に関わったことがある。

この人は、
立派な思想を持っているお方なので
例外的に大丈夫だと思い、
深く関わってしまった。

その結果として
苦い思いをしたことがある。

本人は「命がけ」と表現しても、、
それはあくまでも自己評価である。

はたから見れば、滑稽なことが多い。

「命を懸ける」は、
自分の心の中の問題として
留めるべであると思う。



「命をかけて」と・・
思うことは、
自然な感情として個人の
自由であると思う。

しかしながら、

地道に働き、
堅実に生きるひとが、

それを言葉にだしたら、
結果的に信用を失うだけであると思っている。



政治家のパフォーマンスとしての演説なら、
それはある種の
「世俗的・大衆文化」
であるかも知れない。

この手の「命を懸ける」発言は、
「ガマの油売り」
の口上としての
決め台詞のような「芸」であり、
その辺のニュアンスは聞いているひとにも
暗黙の認識があると思う。

「話半分」として聞き流しているだけである。

「私は、美味しい唐揚げを食べることに、命を懸けている」

この範囲の「軽さ」がある言葉なら、
許される言葉であと思う。



確かに・・・人それぞれ、大なり小なり、
覚悟を決めて、
懸命にやらなければならない事も存在する。

「命をかけて」

「命がけでやる」

私が、もし仮に本気でそう思うのなら、

それを口に出さない。



特殊な団体
特殊思想集団
趣味のサークル
観念論に支配された輩

など、狭い社会を形成する輪のなかでは
この言葉が通用することもある。

しかしながら、
自由競争社会
民主主義社会
成熟した文明社会
のなかで
堅実に生きる大多数の普通の人は、
このような言葉を恥じらいもなく発しない。

堅気の一般社会では
軽々しく「重たい言葉」を吐かない人ほど、

 実績と信頼がある 

余裕の顔をして、
何も考えず、
気ままに生きているような振りをしている。

普段は涼しい顔をしているが、
人に見えないところで、
人知れず、血の滲むような努力をしている。

そういう人間を何人か知っている。



こういう人には・・人も、物も、金も集まって来る。

このようなお方は、
結果的に裕福な生活をしている。



実関と信頼を重んじるひとは、

「必死な心」を人に見せない。

「命を懸ける」などという
自己陶酔型の誇大広告はしない。

遊んでいるような振りをして、
自画自賛したり大袈裟にアピールしない。

自分を誇大広告する必要もなく、
さりげなく、大きな成果を上げる。

そのことが、結果的には安定的な
深い信用を勝ち取る。



わたしも、
時々調子に乗って
「死に物狂いでやります」
「命がけでやります」
と・・
言いたくなることがありますが、

その「想い」を言葉にせず、
グッと堪えて、
胸の内に納める。

この抑え込まれた「想い」は、
実績を引き寄せるための
エネルギーに変換される。

こういう姿勢を貫いていれば、
人は、私の事を、見ていないようで
「心で感じている」

 これが、言葉では表現できない
信頼関係であると確信しています 



無言で実績を示す者に人は付いてくる。
信用も、金も付いてくる。

勝たねばならぬ・・・


コメント
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