無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

白内障のこと

2025-03-07 11:42:53 | 社会
1月は誕生月だった。ついでに運転免許証の更新の時期でもあった。
高齢になると良いことも増えるが、面倒くさいことも増える。
特に運転免許は、事故を起こす割合が増えるので返上した方が良い等と言うが、車がなければ生きていけない田舎暮らしの者にとっては致命的だ。
70歳を超えたあたりから、免許の講習内容が変わった。一般のゴールド免許なら30分も受ければ済む内容が、実施運転もしないとなど面倒くさい。

75歳を超えると時間は半日拘束で、料金は1万円ときた。痴呆鑑定のテストもある。自己判断で痴呆はないなと思っていたから、テストの事は心配していなかった。
最も危惧していたのは、視力だった。私の目は近視に遠視、乱視に飛蚊症、それに白内障ときた。
特に白内障は、時間が経る毎に白いモヤは増え、左目が酷かった。

このままでは免許の更新が無理ではと思い、S氏お勧めのS眼科に予約を入れた。
このS眼科は、他の眼科からの紹介での手術も盛んで、直接予約は難しいと言われるが・・・とれた。ここまで1週間。
「7時半から受け付け出来ますよ。」と聞くも、朝の一仕事は多い。
しかも検査の際に使う目薬のせいで、車の運転は無理かもと言われて、S氏に送り迎えを頼み込んだ。
最近病院に行くことが増えていて、世の中にこんなにも身体が悪い人がいるんだと思っていたが、この眼科の待合も凄い。
検査の後、1週間程で手術が可能なのではと考えていたが、予定がいっぱいで1ヶ月後に延びる。
それでは免許更新に間に合わないではないか。
見えない目でようやく終わった視力検査で「このままの視力でも更新手続きは可能ですよ。」と看護婦さんに言われる。あらら。

まぁ、まな板に載った鯉だもの、せっかくの機会を逃すまい。
と、左目を最初に、1週遅れで右目の手術となった。
その手術は誕生日前で、75歳以降の保険料1割負担に間に合わなかったのだが。

手術は短時間だった。手術前の検査の方が長かった。
麻酔をかけても目は見える音は聞こえる。切って取って、レンズ?を入れてぐりぐりされた。ビビりまくりである。
手術後、目薬を差しての眩しさが消えたら、視界が一気に広がった。
白内障の霧の中で一点だけを集中的に捉えていたのに、180°以上が見えるようになった。
しかも眩しい。視野に入る空気の色も真っ白になった。蛍光灯の白色と電球色ほど違う。これはこれで辛いものがある。

手術から1ヶ月を経て、最終の経過検査も終わった。
気がついたことは、白内障の手術をしても視力(近視、乱視)が良くなった訳ではない。元の状態に戻ったまでだ。
それに加えて、飛蚊症も誤魔化しが聞かなくなった。
落ち着いたら、新たに眼鏡を買おう。これで楽になれば良いなと思っている。
さて、どんなフレームにしようか。


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耐震診断

2025-03-06 11:51:29 | 防災
3月5日に建築士会酒田支部研修部による研修会が行われた。
建築士会会員全員へのお誘いだったが、特に酒田市が行っている木造耐震診断事務所協会の面々へのと言った方が強い。
最近はどの行政でも行っていると思うが、現在住んでいる住宅の耐震診断を1/10程の費用負担で、残りは行政の補助金を利用して行える物だ。
この試みが始まった頃は件数も多かったが、年々減る傾向にあった。
ところが、2024年1月1日の能登半島地震で被害が増大し、酒田も大いに揺れた。
そんな訳で、2024年度は件数が1次と2次に分けられるほど申し込みが増えた。

今回の研修は、ヒビの入った基礎や無筋コンクリートの基礎の補強に、非常に便利に補修できる工法の勉強会だった。
基礎の外周に厚さ15mmで鉄筋の代わりにグラスファイバー等を芯に、特殊モルタルで仕上げる工法だった。
今までの基礎の補強は外周に異形鉄筋を施し、コンクリートでふかすやり方で、鉄筋のかぶり厚が災いしてごつい物になっていた。
15mmで済むなんて、夢のようだった。


話は変わって2月5日に、山形県主催で山形県防災学習館(三川町)で、木造住宅耐震講習会なるものが開催された。
この学習館は消防学校に併設されていて、建築されてから随分と経っていたが、私は初めて入った。


講習の休憩時間に会場を抜けてホールに行くと、防災ベッドなるものが展示されていた。
現在住んでいる住宅を耐震改修出来ることは勿論ベターなのだが、費用はかかる。
それだけの余裕はない。年金暮らしの高齢者である。被害時に自分たちの命が助かることを一番に望む。



そんな方々の為に、以前から防災ベッドなるものがあった。
最近は沢山の種類が出来た。ベッドの天蓋を補強するだけでなく、本格的にかなりの面積で住宅の中にシェルターを設置することも出来る。


また耐震改修は費用の他に長い工事期間も発生するので、安易に防災シェルターのキッドを買って、室内に組立設置するのも良いのかもしれない。



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飽海地域史研究会 亀ヶ崎城の発掘調査

2025-03-05 01:14:31 | 歴史

2月23日の飽海地域史研究会の講座の会場は、亀ヶ崎城主志村伊豆守光安の菩提寺の青原寺である。
1600年天下分け目の関ヶ原の戦いが行われた以降、庄内は上杉氏支配から最上氏に移った。
最初に亀ヶ崎城主となったのは、長谷堂の戦いで大いなる戦果を上げた最上氏家臣の志村伊豆守光安だった。


志村伊豆守は文武に長け、本丸御殿では闘茶や連歌を中心にしたもてなしや遊びも行われていた。



お茶は鎌倉時代に中国から薬として日本に入ってきた。
闘茶とは、飲んだ茶の香りや産地を当てるゲームで、室町時代に流行した。



(単に遊びとして行われれば良いのだが、特に武家の間で賭け事として過激になり、室町幕府は一時禁止令が出されるほどだった。)


実は志村伊豆守の生年は不明である。「筆野餘理・上巻」や「荘内史料集2」に記述が残っている。



今回の講師は、公益財団法人山形県埋蔵文化センターの上松暁彦氏である。
庄内での縄文時代の集落の発掘や吹浦の小山崎遺跡の発掘に続く講座である。



右で立って聴講されているのが、青原寺の渡部宏行住職である。
講義に先立ってご挨拶を頂いたが、カメラ代わりの携帯が手元になく、お姿を写す事が出来なかった。
快く大勢の聴講者を受け入れて頂いた。


亀ヶ崎城の年表である。


この武将の姿は、上松先生が夢中になった「信長の野望」で簡単に説明された。
右の数字は強さを現している。志村伊豆守は強かった。


亀ヶ崎城跡から発掘された遺物の数々。
特に陶器や磁器は、年代の目安となる。



金属製の遺物、木製の遺物も発掘された。
丸で囲まれた物は、闘茶札(木製)である。



火縄銃の火縄



年代別の亀ヶ崎城


県立酒田東高校内を撮した物


亀ヶ崎城と酒田東校の関係。新井田川は現在も同じ位置にあるが、堀は埋め立てられた。



発掘調査は1-4次に渡って行われている。


器だけでなく、人形なども発掘された。



時代別の器


槍身


発掘区別で異なる遺物が発掘される。


実は区によっても異なるが、土の深さでも異なる遺物が出る。








A区の発掘


長谷堂の戦い当時の勢力図。


志村伊豆守のお墓は青原寺にあるが、遊佐町の永泉寺には供養の九重塔が残っている。







発掘の様子


本丸から二の丸へは、堀に渡した橋があった。

石垣と杭


実際に残った杭の数々


その杭の太さや大きさを示す為に、横に作業員を寝かせてみた。
随分と大きいのが判る。


湿気が多いと木製品は腐るだろうと思われるが、実は水の中だと腐らない。





歴史の上に校舎がある。


今回は植松氏に直々に発掘の様子や遺物を披露して頂いたが、酒田市民の多くはこれらを知らない。
発掘時の調査書は制作されているが、簡単に誰でもがこの調査の様子や遺物を見る施設がない。残念な事だと思う。



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飽海地域史研究会 残したい庄内の建物

2025-03-04 13:22:24 | 歴史


2月15日、飽海地域史研究会では東北公益文科大学の温井亨教授による「残したい庄内の建物」について講座が開催された。


全国的にも保存しておきたい建物が解体される事案が増えている。
山形県の近代化遺産の内、庄内では酒田の山居倉庫などは保存活用されているが、同じような用途だった鶴岡倉庫は残念なことに解体されてしまった。



鶴岡駅の近くにあった鶴岡倉庫


近隣のホテルから撮された写真。


平面図。


計測した断面図


純トラスでもない構造


保存活用も検討されていた。


これは庄内町の農業倉庫。


内部はリニューアルされ活用されている。


催しも開催されるようになった。


鶴岡には森の山と言う残したい行事がある。
(酒田でも地持院でお盆も過ぎた頃に森の山が行われている。)


森供養は実際に山に登って行われている。


途中のお堂にもお参りする。



最終的な阿弥陀堂での供養。


国の無形文化財で、柳田国男の言う先史時代の祖先信仰を伝えている。


赤川水系の青竜寺川を私財を投げ打って開削した工藤掃部の屋敷跡。
過去の写真には掘が写っていた。


工藤掃部の碑



酒田市十里塚の漁村集落
昔は魚の群れを見張る櫓が立てられていて、地引き網で漁を行っていた。
時代が流れると、砂浜から国道近くに引っ越しする者が多くなった。


安部公房の「砂の女」の舞台になった、砂の降る村が現存している。


風と砂から家を守るために、黒松の防砂林が植えられた。



北前船の寄港地、酒田湊の花街は3箇所あった。
その中の一つ高野の浜の待合は、昭和33年の赤線廃止まで営業していた。
その後遊郭だった建物は旅館や下宿に姿を変え現在に至る。


元遊郭の海望楼の松美屋旅館と松山旅館


松山旅館の内部


道路に面した正面は旅館には見えない。
(松山さんは子供会活動で蕎麦打ちをするなど、人気だった。TV番組のなんでも鑑定団に竹下夢二の掛け軸を出し、1000万円の値がついた。)


一方、船場町は酒田甚句でも花街の1つとして歌われている。
船場町で米屋を営むAさんのお宅は、広い庭に大きな稲荷さんの祠を配している。



酒田の強い季節風から家を守るために防風林としてタブの木を植えている。



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飽海地域史研究会 明治30年奥羽人類学会による遺物発見地名表

2025-02-13 17:27:38 | 歴史


昨年に引き続き山形県史だより編集者の石井浩幸氏の講座である。


この日は会場の総合文化センターでは、様々な行事が立て込んでいて、狭い研修室しか借りる事が出来なかった。
参加者はぎゅうぎゅう詰めである。


東京人類学会は明治17年に創設された。



明治23年には羽柴雄輔が奥羽人類学会を作る。
この学会は東北6県+新潟県の遺跡や遺物、風俗を任類学的に研究したものである。
事務所は鶴岡にあり、会員は29名であった。




石井先生は、羽柴の校長として最後に勤務した鼠ヶ関小学校に行ってみたいと仰っていた。



この人類学会がスムーズに進み、山形県内でも庄内の遺跡遺物が多かったのは、松森胤泰の功績に寄るところが大きい。





羽柴による絵図は、松森胤泰の絵とは比ぶべくもないが、当時カラー写真など無かった時代には、重要な資料となる。
(松山でのギャラリートークで、松森の細密画に驚き、カメラに収めてきたが、データとしてPCに入れているだけで、ブログには載せていなかった。)












坪井さんの写真が俳優の大泉洋に似ていることに、眼が釘付けになった。
偉い先生なのに、内容が入ってこなくなる。











石井先生は小学校で子供達に教えていたが、歴史の話になると授業があらぬ方向へずんずん進んだようだ。
卒業生達もそれを覚えていて、「先生、歴史の話面白かったな~!」と言って来るらしい。
先生も少子化で歴史を学ばない子が増えること、文化財が個人の家から興味の無い相続者によって破棄されたり売られたりすることに危機感を抱いていると仰っていた。
また著名な歴史学者が亡くなられることで、研究書が無くなることも心配しておられた。
飽海地域史研究会でも同様のことが言えると思う。




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飽海地域史研究会 暁部隊

2025-02-12 11:32:26 | 酒田

1月18日、飽海地域史研究会の講座前半で、「酒田空襲と暁部隊」への情報提供のお願いについて、小田先生からのお話があった。


最初に数分だけ、DVDの一部を観ることが出来たが、酒田に駐留していた陸軍の「暁部隊」については、名前すらも知らなかった。
彼らはひたすら庄内浜に流れ着くドラム缶の回収を行っていた。
満州から食料物資を日本に輸送するのに、船も不足していた為にドラム缶に食料を詰めて海に流し、
海流によって酒田海岸に流れ着く設定で行われたが、殆ど効果はなかったのではと言われている。



建物疎開の際に、この暁部隊が公会堂を倒したと、佐藤三郎氏が「酒田よもやま話」に載せている。


詳しくは堀川惠子著の「暁の字品」が詳しいようだ。


また、12月5日にEテレで放映された「破綻の航跡-暁部隊と字品」が面白かったようだ。
日本陸軍の揚陸艦に必要だった大発同艇の設計に当たった人物が、酒田の人間だったと言うので、酒田に情報収集と収録に訪れたようだ。
その人物は、あまりに身近だったので驚いた。我が家でも長年使っている「市原の味噌」の市原さんがそうだった。
彼は非常に優秀で、ドイツからロータリーエンジンを伝えたし、様々な発明をしたようだが、途中から戦争の為の武器になることを拒んで軍から離れる。
戦時中から一般人として過ごし、酒田に帰ってきてからも一切の事を話さなかった。
トランクに一つの書類や日記は、口に出さなかった諸々が詰まっている。

何故、広島に原爆が落とされたのか。それには暁部隊や市原さんなどの動きが狙われたともされている。




堀川惠子さんの「暁の字品」は、Amazonでは見つからなかった。
酒田市の図書館には有ったが、目下貸し出し中であった。
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第16回 酒田っ子俳壇作品

2025-02-09 11:24:54 | 音楽・芸術・文学

酒田市総合文化センターに、酒田っ子俳壇の「空に向かって一句」の短冊が展示されていた。
大人顔負けの句が勢揃いであり、その前で写真撮影している親子連れが微笑ましい。












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日枝神社のどんど焼き

2025-01-16 13:37:21 | 酒田

1月16日は下の日枝神社のどんど焼きの日
日和山公園は駐車する車でいっぱいだったそうだ。




辺りは煙とプラスチックを燃やすツンとした臭いで満ちている。
火の周りは暖かい。


今朝降った雪も黒くなった。


光丘神社にお参りする。


防風網の色が青で無ければ良かったな。


コメント (2)
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やっと繋がった。

2025-01-15 15:19:04 | 歴史
自分のブログに繋がらない日々が続いた。
同じGoo blogを使っている方々のブログも同様だった。
私のは、個人の趣味で行っている物だから、金銭的な不具合は発生しない。
今年に入ってから、企業のサーバーやらプログラムで、ハッカー騒ぎが相次いでいるそうだ。
2025年、昭和だと100年だそうで、これもプログラムの不具合に繋がっているのではないかと称する者もいる。
そうか、昭和100年か。私の母が生きていたら100歳になっていたのか。
ちなみに三島由紀夫も生誕100年だそうだ。



さて、飽海地域史研究会の今年の活動予定である。



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謹賀新年

2025-01-01 15:01:54 | 酒田
明けましておめでとうございます
今年もよろしくお願い申し上げます

令和7年1月1日




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シュトーレン

2024-12-23 13:33:43 | 食べ物


ドイツのお土産でシュトーレンを頂いた。
噂には聞いていたが、本物に出会うのは初めてだ。
クリスマスまでに、毎日一切れづつ食べると良いのだそうだ。
どんなに固いケーキなのかと思ったが、案外柔らかい。
そしてドライフルーツが盛り沢山で美味しいケーキだった。


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米粒写経 談話室 2024.12.19 ~能古島探訪記~

2024-12-21 13:00:55 | 音楽・芸術・文学
米粒写経 談話室 2024.12.19 ~能古島探訪記~


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【井川意高】ついに真犯人が判明・・山上の単独犯行ではなく黒幕がいたんです・・・こんなのが許されていいわけがありません

2024-12-19 11:08:16 | 音楽・芸術・文学
【井川意高】ついに真犯人が判明・・山上の単独犯行ではなく黒幕がいたんです・・・こんなのが許されていいわけがありません


面白そうだなと、この本を注文した。
ノンフィクションではないそうだが、かなり重要な事が書かれているらしい。
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飽海地域史研究会 長崎丸

2024-12-10 16:15:19 | 歴史
11月23日、東北学院大学非常任講師で山形県城郭研究会会長でもある山口博之氏を講師に、「幕府軍艦・長崎丸・一件」について講座が開催された。



会長挨拶








山口先生は、以前この研究会で庄内地方の城郭の数々を教えて下さった。
とても面白く、天気が良くなったら山城に行くんだと考えて、そのままになっている。


山口先生は、マスコミの歴史学で良く登場する磯田さんと同じ、国際日本文化研究センターで客員教授もされている。


「長崎丸を知っているか?」
正直言うと、私は知らなかった。


長崎丸と呼ばれる幕府の軍艦は、3艦存在する。
1848年にインドで製造された長崎丸は、木製で60馬力の外車で運行する。
幕府が手に入れたのは、1863年である。

長崎丸一番は、イギリスのシッドテで製造され、鉄製でやはり60馬力の外輪で推進する。幕府が手に入れたのは同じく1863年である。

長崎丸二番(通称第二長崎丸)はスコットランドのグラスゴウで製造、鉄製で120馬力のスクリュー推進、幕府が手に入れたのは1863年だった。


共通するのは長崎にて幕府が1863年に購入した事。
時は世の中が明治維新に向かい、焦臭くなった頃である。


日本の周りには、開国を求める外国船が多数屯し、隙さえ見せれば大砲を撃ってくる始末。対抗するべきと幕府は軍艦を用意した。

1868年5月12日、戊辰戦争で明け暮れする世の中、上野の彰義隊が敗れ、逃げる兵士達は第2長崎丸に乗り込んだ。
目指すは、庄内藩に助太刀する為、千代田形艦(木造船)と共に日本海を北上する。


同10月7日、酒田湊に入港しようとするも悪天候に見舞われ叶わず、風待ち港である飛島の勝浦港に入港しようとした。


しかし、海の荒れはさらに増し、勝浦に入る手前で座礁する。
小型の千代田形艦は遭難を免れ、逃げ切ることが出来た。
第2長崎丸の不幸はこれだけではなかった。
庄内藩は、9月26日に新政府に降参し、戊辰戦争を終えたのであった。


座礁した第2長崎丸は、すぐには沈没しなかった。
乗組員の270人は飛島に上陸し、積荷も飛島の住民と力を合わせ、島と何度も往復してあらかた荷揚げすることが出来た。
飛島ではこの270人の乗組員を各家庭に配分し、宿泊に努めた。


庄内では戊辰戦争は終わっていたが、北海道では五稜郭を中心にまだ戦争は続いていた。
乗組員は北海道に滞在していたロシア船に乗り換え大砲などの武器は積み込み蝦夷地へ目指す。
乗組員は島民と仲が良くなって、武器以外の物品は迷惑料として島に遺した。
乗組員と島民は、後に手紙のやりとりなども行うようになった。


積荷の殆どは飛島の島民の手から、現在は江戸東京博物館に移され所蔵されている。


酒田市にも、まだ島民が所有している文献など残っているかも知れない。


洋書の大半が海に沈んだのは、勿体ない。
乗組員の日記などもあっただろうに。





第2長崎丸での生活用品は、イギリス製が多かった。


逆にコンプラ瓶は、海外向けの日本の輸出品だ。



座礁した第2長崎丸は、後に沈没した。
山口先生曰く、酒田市や国、又は民間人は、海中調査をするべきである。
まだ残留物が残っている可能性がある。
これを宝探しも併せて観光に結びつける方法がある。
156年前の明治のロマンを探す旅が始まるのだ。


さて、第2長崎丸と似た運命を辿った船がある。
北海道で沈没した開陽丸である。





開陽丸は後に海中調査され、船の一部や積荷も見つかり、江差にて道の駅に併用した博物館の「開陽丸記念館」が建設された。


内部には展示施設が設けられ、湊には開陽丸を忠実に再現した船が繋がれ、内部も見学できる。


一般の船員はハンモックで休む。


船内での生活用品。


大砲に武器弾薬の数々。


酒田市は第二長崎丸沈没の地元にも関わらず、せっかくの歴史と観光材料を放棄している。
それともやる気の無さか。





会場からも様々な意見が上がり、面白い講座となった。



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東北農林専門職大学

2024-12-09 12:00:02 | 建築・都市・港
11月27日、さかた木づかい夢ネットの視察で、新庄市にある東北農林専門職大学へ向かった。



今回の視察に、来年の全建女を抱えている建築士会女性委員会からも参加した。



内陸組は現地集合で参加する。


外は風が強かったので、交流棟にある食堂に通される。



交流棟から教育研究棟へ移動する。


こちらが教育研究棟である。



研究室にて、キャンパス内を案内してくれるので、荷物は軽くして移動する。



大学校舎の道路を挟んで対面に、スマート林業研究研修センターがある。



電動シャッターが上がると、林業に必要な道具やヘルメットが陳列されている内部を見ることが出来た。


専門職大学が開校したのは今年。従って1年生のみで6名。
今日は全員が演習林に出かけていて、会うことは叶わなかった。


東北農林専門職大学は、付属農林大学校に併用して建築された。
こちらの農林大学校は、稲作、果樹、野菜、花木、畜産、農産加工、林業などの学科があり、キャンパス内には温室や畑も備わっている。
学生たちに収穫された作物も、販売しているのだそうだが、野菜などの時期も終わり、販売所には花のみ並べられていた。



普段なら飛びつくのだが、我が家には酒田支部長国交大臣表彰祝賀会で手に入れた花が沢山あった為に諦める。



交流棟前に集結する。
学生達がどのように登校するか、寮、新庄市内から車で通い、またはバス通という。



バス停が真ん前にあった。


農林専門職大学なので、本来は木造で建築したかったが、豪雪地の新庄市ゆえ、躯体はRC造にし、内部をふんだんに木使用にしたらしい。


使用されている木材は圧倒的に杉が多い。


食堂から上がってきた階段と吹き抜けのホール。


2階のホールからは図書館と大講堂に分かれる。
前面に見えるのは大講堂の入り口。
壁面には本棚と波を打ったベンチが並ぶ。


図書室に入る。





本棚に並んだ本立は、学生や教員の手作り。





本棚に並んでいる書籍は、専門書が多い。
なかなか興味深い本の数々である。



大講堂に入る。壁は正角の杉材がはめ込まれているが、オリンピックで各県が搬出した木材が、戻ってきた物。
SDGSのリサイクル品である。







壁面の杉材が所々隙間があるのは、音響を考えた為。



講堂から1階の外部へ続く廊下。役物の杉は良質だ。



教育・研究棟を歩く。
室名などは木材を加工していた。


研究室の前の廊下に、シャワーがある。
化学薬品を使用した研究室の前には、必要なのだそうだ。
チェーンを引っ張らないでと注意される。











自習室。ペレットストーブが設えてある。








防火シャッターの収め方がきれいだ。


教育研究棟から見た交流棟の屋根は、無落雪で考えているようだ。
屋根の先にフェンスの様で、一見屋上の手摺に見える物は、高さが低すぎて手摺ではない。
雪止めで、積雪を屋上に留める為の仕掛けと見た。



応接会議室の壁と天井の一部が杉張りだった。
なかなか綺麗である。


中廊下の突き当りの窓は、まるで絵を填めたような風景があった。


そんな目で窓を見ると、演習林がまるで屏風の絵のようである。


大学に関する説明が始まった。


この専門職大学は、単に森林を学ぶだけでなく、農林業経営学部、農業経営学科、森林業経営学科に分かれて学んでいる。


グローバルの観点から、数カ国の林業大学と連携を持ち、海外研修も企画されている。


現在、90年ものの杉林を間伐して、150年の杉林にすることを行っている。


この方は建築学担当で、キャンパス内を案内してくれた教授である。
大学の説明と質問が終わった後に、女性建築士達から取り囲まれていた。


解散後、酒田組は新庄市内の蕎麦屋へ。
内陸組は学食(美味しかったそうだ。)へ
学生達は一食370円、一般は700円だそうだ。
そちらも興味津々である。


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