無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

飽海地域史研究会 明治30年奥羽人類学会による遺物発見地名表

2025-02-13 17:27:38 | 歴史


昨年に引き続き山形県史だより編集者の石井浩幸氏の講座である。


この日は会場の総合文化センターでは、様々な行事が立て込んでいて、狭い研修室しか借りる事が出来なかった。
参加者はぎゅうぎゅう詰めである。


東京人類学会は明治17年に創設された。



明治23年には羽柴雄輔が奥羽人類学会を作る。
この学会は東北6県+新潟県の遺跡や遺物、風俗を任類学的に研究したものである。
事務所は鶴岡にあり、会員は29名であった。




石井先生は、羽柴の校長として最後に勤務した鼠ヶ関小学校に行ってみたいと仰っていた。



この人類学会がスムーズに進み、山形県内でも庄内の遺跡遺物が多かったのは、松森胤泰の功績に寄るところが大きい。





羽柴による絵図は、松森胤泰の絵とは比ぶべくもないが、当時カラー写真など無かった時代には、重要な資料となる。
(松山でのギャラリートークで、松森の細密画に驚き、カメラに収めてきたが、データとしてPCに入れているだけで、ブログには載せていなかった。)












坪井さんの写真が俳優の大泉洋に似ていることに、眼が釘付けになった。
偉い先生なのに、内容が入ってこなくなる。











石井先生は小学校で子供達に教えていたが、歴史の話になると授業があらぬ方向へずんずん進んだようだ。
卒業生達もそれを覚えていて、「先生、歴史の話面白かったな~!」と言って来るらしい。
先生も少子化で歴史を学ばない子が増えること、文化財が個人の家から興味の無い相続者によって破棄されたり売られたりすることに危機感を抱いていると仰っていた。
また著名な歴史学者が亡くなられることで、研究書が無くなることも心配しておられた。
飽海地域史研究会でも同様のことが言えると思う。




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飽海地域史研究会 暁部隊

2025-02-12 11:32:26 | 酒田

1月18日、飽海地域史研究会の講座前半で、「酒田空襲と暁部隊」への情報提供のお願いについて、小田先生からのお話があった。


最初に数分だけ、DVDの一部を観ることが出来たが、酒田に駐留していた陸軍の「暁部隊」については、名前すらも知らなかった。
彼らはひたすら庄内浜に流れ着くドラム缶の回収を行っていた。
満州から食料物資を日本に輸送するのに、船も不足していた為にドラム缶に食料を詰めて海に流し、
海流によって酒田海岸に流れ着く設定で行われたが、殆ど効果はなかったのではと言われている。



建物疎開の際に、この暁部隊が公会堂を倒したと、佐藤三郎氏が「酒田よもやま話」に載せている。


詳しくは堀川惠子著の「暁の字品」が詳しいようだ。


また、12月5日にEテレで放映された「破綻の航跡-暁部隊と字品」が面白かったようだ。
日本陸軍の揚陸艦に必要だった大発同艇の設計に当たった人物が、酒田の人間だったと言うので、酒田に情報収集と収録に訪れたようだ。
その人物は、あまりに身近だったので驚いた。我が家でも長年使っている「市原の味噌」の市原さんがそうだった。
彼は非常に優秀で、ドイツからロータリーエンジンを伝えたし、様々な発明をしたようだが、途中から戦争の為の武器になることを拒んで軍から離れる。
戦時中から一般人として過ごし、酒田に帰ってきてからも一切の事を話さなかった。
トランクに一つの書類や日記は、口に出さなかった諸々が詰まっている。

何故、広島に原爆が落とされたのか。それには暁部隊や市原さんなどの動きが狙われたともされている。




堀川惠子さんの「暁の字品」は、Amazonでは見つからなかった。
酒田市の図書館には有ったが、目下貸し出し中であった。
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第16回 酒田っ子俳壇作品

2025-02-09 11:24:54 | 音楽・芸術・文学

酒田市総合文化センターに、酒田っ子俳壇の「空に向かって一句」の短冊が展示されていた。
大人顔負けの句が勢揃いであり、その前で写真撮影している親子連れが微笑ましい。












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日枝神社のどんど焼き

2025-01-16 13:37:21 | 酒田

1月16日は下の日枝神社のどんど焼きの日
日和山公園は駐車する車でいっぱいだったそうだ。




辺りは煙とプラスチックを燃やすツンとした臭いで満ちている。
火の周りは暖かい。


今朝降った雪も黒くなった。


光丘神社にお参りする。


防風網の色が青で無ければ良かったな。


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やっと繋がった。

2025-01-15 15:19:04 | 歴史
自分のブログに繋がらない日々が続いた。
同じGoo blogを使っている方々のブログも同様だった。
私のは、個人の趣味で行っている物だから、金銭的な不具合は発生しない。
今年に入ってから、企業のサーバーやらプログラムで、ハッカー騒ぎが相次いでいるそうだ。
2025年、昭和だと100年だそうで、これもプログラムの不具合に繋がっているのではないかと称する者もいる。
そうか、昭和100年か。私の母が生きていたら100歳になっていたのか。
ちなみに三島由紀夫も生誕100年だそうだ。



さて、飽海地域史研究会の今年の活動予定である。



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謹賀新年

2025-01-01 15:01:54 | 酒田
明けましておめでとうございます
今年もよろしくお願い申し上げます

令和7年1月1日




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シュトーレン

2024-12-23 13:33:43 | 食べ物


ドイツのお土産でシュトーレンを頂いた。
噂には聞いていたが、本物に出会うのは初めてだ。
クリスマスまでに、毎日一切れづつ食べると良いのだそうだ。
どんなに固いケーキなのかと思ったが、案外柔らかい。
そしてドライフルーツが盛り沢山で美味しいケーキだった。


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米粒写経 談話室 2024.12.19 ~能古島探訪記~

2024-12-21 13:00:55 | 音楽・芸術・文学
米粒写経 談話室 2024.12.19 ~能古島探訪記~


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【井川意高】ついに真犯人が判明・・山上の単独犯行ではなく黒幕がいたんです・・・こんなのが許されていいわけがありません

2024-12-19 11:08:16 | 音楽・芸術・文学
【井川意高】ついに真犯人が判明・・山上の単独犯行ではなく黒幕がいたんです・・・こんなのが許されていいわけがありません


面白そうだなと、この本を注文した。
ノンフィクションではないそうだが、かなり重要な事が書かれているらしい。
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飽海地域史研究会 長崎丸

2024-12-10 16:15:19 | 歴史
11月23日、東北学院大学非常任講師で山形県城郭研究会会長でもある山口博之氏を講師に、「幕府軍艦・長崎丸・一件」について講座が開催された。



会長挨拶








山口先生は、以前この研究会で庄内地方の城郭の数々を教えて下さった。
とても面白く、天気が良くなったら山城に行くんだと考えて、そのままになっている。


山口先生は、マスコミの歴史学で良く登場する磯田さんと同じ、国際日本文化研究センターで客員教授もされている。


「長崎丸を知っているか?」
正直言うと、私は知らなかった。


長崎丸と呼ばれる幕府の軍艦は、3艦存在する。
1848年にインドで製造された長崎丸は、木製で60馬力の外車で運行する。
幕府が手に入れたのは、1863年である。

長崎丸一番は、イギリスのシッドテで製造され、鉄製でやはり60馬力の外輪で推進する。幕府が手に入れたのは同じく1863年である。

長崎丸二番(通称第二長崎丸)はスコットランドのグラスゴウで製造、鉄製で120馬力のスクリュー推進、幕府が手に入れたのは1863年だった。


共通するのは長崎にて幕府が1863年に購入した事。
時は世の中が明治維新に向かい、焦臭くなった頃である。


日本の周りには、開国を求める外国船が多数屯し、隙さえ見せれば大砲を撃ってくる始末。対抗するべきと幕府は軍艦を用意した。

1868年5月12日、戊辰戦争で明け暮れする世の中、上野の彰義隊が敗れ、逃げる兵士達は第2長崎丸に乗り込んだ。
目指すは、庄内藩に助太刀する為、千代田形艦(木造船)と共に日本海を北上する。


同10月7日、酒田湊に入港しようとするも悪天候に見舞われ叶わず、風待ち港である飛島の勝浦港に入港しようとした。


しかし、海の荒れはさらに増し、勝浦に入る手前で座礁する。
小型の千代田形艦は遭難を免れ、逃げ切ることが出来た。
第2長崎丸の不幸はこれだけではなかった。
庄内藩は、9月26日に新政府に降参し、戊辰戦争を終えたのであった。


座礁した第2長崎丸は、すぐには沈没しなかった。
乗組員の270人は飛島に上陸し、積荷も飛島の住民と力を合わせ、島と何度も往復してあらかた荷揚げすることが出来た。
飛島ではこの270人の乗組員を各家庭に配分し、宿泊に努めた。


庄内では戊辰戦争は終わっていたが、北海道では五稜郭を中心にまだ戦争は続いていた。
乗組員は北海道に滞在していたロシア船に乗り換え大砲などの武器は積み込み蝦夷地へ目指す。
乗組員は島民と仲が良くなって、武器以外の物品は迷惑料として島に遺した。
乗組員と島民は、後に手紙のやりとりなども行うようになった。


積荷の殆どは飛島の島民の手から、現在は江戸東京博物館に移され所蔵されている。


酒田市にも、まだ島民が所有している文献など残っているかも知れない。


洋書の大半が海に沈んだのは、勿体ない。
乗組員の日記などもあっただろうに。





第2長崎丸での生活用品は、イギリス製が多かった。


逆にコンプラ瓶は、海外向けの日本の輸出品だ。



座礁した第2長崎丸は、後に沈没した。
山口先生曰く、酒田市や国、又は民間人は、海中調査をするべきである。
まだ残留物が残っている可能性がある。
これを宝探しも併せて観光に結びつける方法がある。
156年前の明治のロマンを探す旅が始まるのだ。


さて、第2長崎丸と似た運命を辿った船がある。
北海道で沈没した開陽丸である。





開陽丸は後に海中調査され、船の一部や積荷も見つかり、江差にて道の駅に併用した博物館の「開陽丸記念館」が建設された。


内部には展示施設が設けられ、湊には開陽丸を忠実に再現した船が繋がれ、内部も見学できる。


一般の船員はハンモックで休む。


船内での生活用品。


大砲に武器弾薬の数々。


酒田市は第二長崎丸沈没の地元にも関わらず、せっかくの歴史と観光材料を放棄している。
それともやる気の無さか。





会場からも様々な意見が上がり、面白い講座となった。



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東北農林専門職大学

2024-12-09 12:00:02 | 建築・都市・港
11月27日、さかた木づかい夢ネットの視察で、新庄市にある東北農林専門職大学へ向かった。



今回の視察に、来年の全建女を抱えている建築士会女性委員会からも参加した。



内陸組は現地集合で参加する。


外は風が強かったので、交流棟にある食堂に通される。



交流棟から教育研究棟へ移動する。


こちらが教育研究棟である。



研究室にて、キャンパス内を案内してくれるので、荷物は軽くして移動する。



大学校舎の道路を挟んで対面に、スマート林業研究研修センターがある。



電動シャッターが上がると、林業に必要な道具やヘルメットが陳列されている内部を見ることが出来た。


専門職大学が開校したのは今年。従って1年生のみで6名。
今日は全員が演習林に出かけていて、会うことは叶わなかった。


東北農林専門職大学は、付属農林大学校に併用して建築された。
こちらの農林大学校は、稲作、果樹、野菜、花木、畜産、農産加工、林業などの学科があり、キャンパス内には温室や畑も備わっている。
学生たちに収穫された作物も、販売しているのだそうだが、野菜などの時期も終わり、販売所には花のみ並べられていた。



普段なら飛びつくのだが、我が家には酒田支部長国交大臣表彰祝賀会で手に入れた花が沢山あった為に諦める。



交流棟前に集結する。
学生達がどのように登校するか、寮、新庄市内から車で通い、またはバス通という。



バス停が真ん前にあった。


農林専門職大学なので、本来は木造で建築したかったが、豪雪地の新庄市ゆえ、躯体はRC造にし、内部をふんだんに木使用にしたらしい。


使用されている木材は圧倒的に杉が多い。


食堂から上がってきた階段と吹き抜けのホール。


2階のホールからは図書館と大講堂に分かれる。
前面に見えるのは大講堂の入り口。
壁面には本棚と波を打ったベンチが並ぶ。


図書室に入る。





本棚に並んだ本立は、学生や教員の手作り。





本棚に並んでいる書籍は、専門書が多い。
なかなか興味深い本の数々である。



大講堂に入る。壁は正角の杉材がはめ込まれているが、オリンピックで各県が搬出した木材が、戻ってきた物。
SDGSのリサイクル品である。







壁面の杉材が所々隙間があるのは、音響を考えた為。



講堂から1階の外部へ続く廊下。役物の杉は良質だ。



教育・研究棟を歩く。
室名などは木材を加工していた。


研究室の前の廊下に、シャワーがある。
化学薬品を使用した研究室の前には、必要なのだそうだ。
チェーンを引っ張らないでと注意される。











自習室。ペレットストーブが設えてある。








防火シャッターの収め方がきれいだ。


教育研究棟から見た交流棟の屋根は、無落雪で考えているようだ。
屋根の先にフェンスの様で、一見屋上の手摺に見える物は、高さが低すぎて手摺ではない。
雪止めで、積雪を屋上に留める為の仕掛けと見た。



応接会議室の壁と天井の一部が杉張りだった。
なかなか綺麗である。


中廊下の突き当りの窓は、まるで絵を填めたような風景があった。


そんな目で窓を見ると、演習林がまるで屏風の絵のようである。


大学に関する説明が始まった。


この専門職大学は、単に森林を学ぶだけでなく、農林業経営学部、農業経営学科、森林業経営学科に分かれて学んでいる。


グローバルの観点から、数カ国の林業大学と連携を持ち、海外研修も企画されている。


現在、90年ものの杉林を間伐して、150年の杉林にすることを行っている。


この方は建築学担当で、キャンパス内を案内してくれた教授である。
大学の説明と質問が終わった後に、女性建築士達から取り囲まれていた。


解散後、酒田組は新庄市内の蕎麦屋へ。
内陸組は学食(美味しかったそうだ。)へ
学生達は一食370円、一般は700円だそうだ。
そちらも興味津々である。


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夢幻(ゆめまぼろし)

2024-12-01 22:40:01 | 自己紹介
病室の中で、妹が言った。
「あのね、家に帰った夢を見た。」
ただし、その家は現在の家ではない。
子供の頃、上台町(現町名日吉町)に住んでいた。元々住宅だったが、父の仕事(建築業)が住宅を侵食して仕事場が広がった。
それでも仕事場が狭いと、もっと広い所へと現在の場所へ移る。
台町の家は、祖父と父母と叔母と我々姉妹と父の弟子達がひしめきあって暮らしていた。
妹はその頃の家に戻っていた。
大人達は苦労もあったろうが、我々姉妹には何の苦労も無く、大人達取り分け父母が大きな慈愛で守ってくれていた「最も幸せな時代」だったのである。
近くにある寺院や神社で、暗くなるまで近所の子供達と遊びほうけていた所に「ご飯だよ~~。」と母親が呼びに来てくれる。
一番幸せな時代に、妹は戻っていたと言うわけだ。
「それは良かったね。」と言う反面、妹の記憶の欠落が痴呆の方に進むのではと危惧もしている。入院時のことは覚えていないそうだ。
「おじいちゃんもお父ちゃんも母ちゃんも皆んなもいたよ。」でも、そこには夫も自分の子供達もいなかった。
現在の家に帰ってくれば、苦労だけが残っている。そんな所に誰が帰ってきたいものか。


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最上川

2024-11-29 16:13:01 | 防災


7月の洪水から4ヶ月が経ち、国道47号線は何度も通ったにも関わらず、運転中であるのと一般車の目の高さでは見えなかった最上川。
27日に新庄市の東北農林専門職大学の視察で、バスの高さから最上川の対岸を見ることが出来た。
完璧に刳れている。



冬間近の山の木々は落葉し、最上川がよく見えるようにもなっていた。
国道側の河川敷にあった蕎麦畑に並んでいた電柱には、一定の高さで川水によって流れてきた雑草などが、未だに絡みついて残っている。


対岸のえぐれた川岸と、電柱の雑草の高さから、国道が水に浸かって通行不能になった事が窺える。
ここだけ、紅葉した樹木が見えた。多分、最上川舟下りの途中に立ち寄る店のあった場所かと思う。


国道47号線は、現在でも道路が川に飲み込まれて、対面どころか一車線になっている箇所がある。
最上川が大きなカーブを描いて、外に膨れた場所である。
二車線に直すのも、山側はすぐ傍に陸羽西線の線路があり、川側にキャンティで伸ばすしか方法がないのかな。
計画する側も頭を抱える箇所でもある。

カーブの内側は、砂でも砂利でもない大きめの割栗石級の土砂が、川に突き出していた。


対岸は土地が広がっているではないか。
最上川舟下りを行っている最上峡芭蕉ライン観光会社では、洪水の際に船も流され、その内の一艘は秋田県のにかほ市の海岸で見つかった。
ようやく洪水の後始末も終わり、観光客が戻ってきて、舟下りの船頭さんの確保が大変なのだそうだ。
先日のローカルニュースで、通常船には二人の船頭さんが着くのだが、運行の方を自動運転でAIに任せ、
案内などを人間の船頭さんが行うように将来はなるのだろうと解説していた。



最上川に注ぎ込む小さな支流は、その位置を変えたものもあるとか。


ここは戸沢の道の駅「高麗館」の前の最上川である。
川面から突き出しているのは、大きな岩がゴロゴロと流れてきたままになっている。
舟下りは、この場所は通らない。もっと下流に船番所があり、客はそこから船に乗り込む。



この崖は土砂崩れによって山肌が露出したのかな。


ここは、本合海の対岸。
源義経が奥州へ落ち延びた時に立ち寄ったとされる矢向神社がある場所だが、
岩肌がこんなだっけ?!と二度見した。


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ある日の神棚

2024-11-26 22:04:30 | 食べ物

我が事務所の本棚の一番良い場所に、仮の神棚を設けている。
神棚なのか、酒場なのかは定かではない。
御札はいつもの(と言っても靖国神社の御札は今回はなし)一番身近でお世話になっている神社のものだが、
せっかく鹿児島に行ったのだから西郷さんちの御札も良いよねと、一緒に並べてみた。
お神酒は右手の山田錦だけ私が買ったが、それ以外は貰い物。
特に獺祭は先輩からの差し入れ。早速お神酒のおこぼれを・・・と、すんごくウマイ!!



お酒はどれも個性的なんだけどね。
お猪口は素焼きの製品。
口当たりが優しい。


おまけ:お土産の喜多方ラーメン。
最近のラーメンは、なかなかお洒落でもある。


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羽州街道 楢下宿から

2024-11-24 21:41:28 | 建築・都市・港

羽州街道 楢下宿に到着する。
雨は治まらない。


集合場所の駐車場から見た大黒屋。


地元の皆さんが案内を買って出てくれた。
大黒屋の建具は面白い。3枚に分かれて上下する。
入り口も人間用と馬用に使用できる仕組みになっている。



駕籠も飾られていた。
水の豊富な水路は除雪にも活用される。


宿場の本陣は姿を消し、後々まで残っていた蔵も焼失し、石垣のみが往事の佇まいを遺している。
おっと、この樹木も焼け残った庭木だそうだ。


しばし歩いて庄内屋に着く。




へぇ、上山なのに庄内とは、これ如何に。


庄内藩に関わりのある建物だった。
江戸へ行く大名行列の本陣(殿様が泊まる場所)だった。
家来達は別の建物に宿泊するらしい。


玄関:一見縁側に見える。
奥に行くに従って、床の高さが変わる。


厩など。


奥に石橋が見えた。


明治の頃に掛けられたようだ。三島通庸の名が見える。
ちなみに、三島は山形や内陸では随分と改革し褒められたが、庄内取り分け酒田では評判が悪い。


石碑も立っていたが、文字は判読できなかった。


他にも見所が沢山あるのだが、時間内だと遠くには行けない。
大黒屋へ入る。


雨に濡れた身体には、暖かい囲炉裏の火が有り難い。


火をおこして待っていてくれた。
コーヒーも準備してくれていた。


案内して頂いた地域の方々から、楢下宿の建物の草葺き(茅葺き)や町作りのお話を伺った。


我々は普段は茅葺きと呼ぶ屋根も、材料が様々でススキだったりもするので、総称は「草葺き」と呼ぶらしい。


段々周りが黄昏時になってくるころ、近道(多分に余所様の敷地を渡った)をして、タケダワイナリーに着く。


山の斜面を利用した葡萄畑や、

ロボットの草刈り機がウィンウィンする葡萄畑を観て。


工場に入る。


葡萄酒造りの様々な障害も聞かせて頂いた。


試飲もできるのだが、殆どの人が車を運転するので、数名だけが味わった。







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