屯田物語

フォレスターとα6000が
旅の仲間
さあ、カメラを持って
出かけよう!

春と芍薬の芽

2020年01月21日 | 春を呼ぶ朝

旭岳

頂上は意外と平坦だったが、お鉢平を見た時は「ここは地球ではなく火星だ!」と思った。
そこに異様な風景が広がっていた。
お鉢平に下るコースはザクザクしたガレ場で厄介!


大村正次著「春と呼ぶ朝」―真珠―

  春と芍薬の芽

 雪の消えた畠
 せかけたうね
 真紅な芍薬の芽が出た。
 二つ 三つ
 みんな待つてゐた春の芽だ。
 もつと出て
 かゞやかな光を浴びろ。

 雪の消えた畠
 せかけたうね
 赤子あかごのやうな芽が伸びた。
 五つ 六つ
 おら、、の國にも日和かつづこ。
 さあみんな出て
 湿つた冬の甲羅を干さう。

蕗の花

2020年01月20日 | 春を呼ぶ朝

 樽前山

樽前山は支笏湖の南側、苫小牧市の北西部に位置する活火山。標高は最高点の樽前ドームで1,041m。
風不死岳、恵庭岳とともに支笏三山の一つだ。

コラージュの写真(上下)には30年の歳月があって、下の写真(50年前)はかなり退色していたが、笑顔は今も変わらない。

歳月は等しく我らに注げども海は海としてとどろくばかりなり
        俵万智




大村正次著「春を呼ぶ朝」―真珠―

  蕗の花

 三月の陽のあた
 大家おほやの高い石垣に
 ひとり蕗の葉が伸びあがり
 春の第一線へ
 飾らぬ花をつけてゐた。
 雪解の濁り水へ姿うつして。

日暮の道

2020年01月19日 | 春を呼ぶ朝
 十勝岳
山頂に「光顔巍々」こうげんぎぎと彫られた石碑がたっている。

『巍巍』は漢和辞典によれば『富貴高顕の貌とあり、ふくよかで高尚なお顔』と解釈されている。
出典:Wikipedia

大村正次著「春を呼ぶ朝」―真珠―

  日暮の道

 日暮の道に蹲る石ころ。
 ふと足もとに現れる石ころ。
 不思議になつかしい石ころ。
 その石を蹴りつゞけ
 その石と遊びながら
 暗い家の角でさよならをする。

真 珠

2020年01月18日 | 春を呼ぶ朝

 裾合平
姿見池から旭岳と当麻岳、比布岳などに囲まれた大きな谷間を歩いた。
初夏はチングルマ、秋は紅葉が鮮やかだよ。
妻の両親が一緒。村岡の母の笑顔が可愛い!


今年の作品展にはインスタントカメラで撮った山の過去写真をスキャナして何点か出展することにした。特にパノラマ写真は案外と迫力あって面白い。
その1:裾合平を行く
 
大村正次著「春を呼ぶ朝」―真珠―

  真 珠

 暴風雨がやんで
 波がおさまつて
 冷たい銀盤の 一月の夜。

 暗い海の底では
 真珠 貝殻の戸をとざし
 柔い肉身に
 ひかる真珠を創造つくりはじめる。

プリズムの雪

2020年01月17日 | 春を呼ぶ朝


狸の置物は、備前焼細工物の名工初代小山一草作の香合です。

摂津国の怪人


大村正次著「春を呼ぶ朝」―真珠―

  プリズムの雪

 ぽっと潤んだ硝子窓ガラスド
 プリズムで見よ 降る雪を。

 雪は一つの生きた虫
 夢の国から下りる虫

 薄い素絹の羽をふり
 青白あおいハートを見せる虫

 手を切る冬の現實に
 あゝふらふらと舞い下りる。


【素絹】(そけん) 1 練っていない生糸で織った絹。 織文のない生絹(すずし)。 2 「素絹の衣(ころも)」の略

不思議の人・詩人大村正次先生―幾度かの富山訪問に見聞きした体験に基ずく―

2020年01月16日 | 大村正次

昭和33年修学旅行「鎌倉の大仏」

推論: 富山の文学風土について(その一)

「富山県」は昔も今も、かっての藩政の名残があり、勤勉・勤労意識が非常に高い。ゆえに専業作家なる職業は意識になく、文学をするも者の大半はたとえ中央に進出したとしても専業ではなく、兼業する傾向が極めて強い。
角川書店の創業者・角川源義が、代表的な一例と言えよう。それを見逃し誤解するから、富山には文学者がほとんどいないように見えてしまい、文学史家も“富山は文学不毛の地“などとみなしてしまうのではなかろうか。
(富山文学の会より抜粋)

「正次」自身も、
「何分僕達は本務 • • の傍らやる仕事で實際は面倒臭くて、それまでに手が廻らないし、そうするには誰か専任のもの置かなければならなくなるし、この雑誌にそれ程の正賈気をだそうとは毛頭思ってゐないのである。」
(「日本海詩人」3-1号編輯後記より:傍点は筆者が打った。)とあり、兼業を嘆くではなし、ハナッから納得しているように見受けられる。
このことは、当時から半年は雪の中で過ごさなければならないという過酷な条件の中で自然と身についたものであろうことは容易に想像できる。言い換えれば粘り強く堅実な県民性なのであろう。

摂津国の怪人

獨 楽

2020年01月15日 | 春を呼ぶ朝


昭和43年。美幌から深川へ転勤になった。ここは一已町の曙団地である。
引っ越してすぐに京都のH君(北都中~旭東高~東京と65年に亘る親友)が来てくれた。
翌朝、庭先で二軒隣の奥さんに声をかけられびっくり!
 奥さん:「えっ!Hさん!?」
 Hくん :「えっ!Nさん!?」
ここで中学の同級生Nに会うとは驚いた。



大村正次著「春を呼ぶ朝」―真珠―

  獨 楽

 もう
 とんとん歩きはしない。
 かぶりをふらない。
 聲を出さない。
 せんねん
 廻る獨楽の心が坐って。

夕 べ

2020年01月14日 | 春を呼ぶ朝


大村正次著「春を呼ぶ朝」―真珠―

  夕 べ

 一日の生活の重荷を縁先におろし、
 汗どろの仕事着をすつぱりと脱ぎ、
 貧しくとも
 夕の風を感じ、
 臺所に妻の聲をきゝ、
 さくさく 物の刻まれてゆく音ときゝ。

やっと分かった母校逍遥歌作詞者、作曲者

2020年01月13日 | 大村正次

[北海道新聞 昭和26年7月6日付]

我が母校、北海道立旭川東高等学校には、単調ながら哀調を帯びたメロディーの逍遥歌があります。作詞者は大村正次という生物の先生であったことを最近になって知りました。調べた結果何と昭和初期の富山県では「日本海詩人」という詩誌の主宰者となり、詩集「春を呼ぶ朝」を刊行した抒情詩の草分け的な存在ということでした。
作者がわかって、その人となりを知るにつけ逍遥歌はわたしにとって特別な歌になってます。
特にその五番の歌詞・・
―かくまで遠く来しものを―
―故郷母の呼ばふなり―
大村正次は室生犀星と同郷の誌友なので、誰もが口誦める「ふるさとは遠きにありて思ふもの」に相通じる抒情的な余韻を感じますが、逍遥歌は詩人・大村正次のふるさとを愛し母を愛する気持ちの発露なのだと思います。
詩集「春を呼ぶ朝」を読むと、あらためて恩師・大村正次は母と子の愛を詠う詩人であったことに深い共感と感動をおぼえるわけであります。

また作曲者はこれも驚きですが、当時の在校生・後藤功さん(昭和26年)であったことが判明、北海道の田舎の高校に作曲の出来る生徒がいたということは、二重の驚きでした。初老の先生と十代の若き生徒の合作であったとのことは、微笑ましくもあり、こののちこの歌を歌う際には必ずや思い出されることでしょう。(調査にご協力いただいた旭川市立中央図書館の資料調査室女性学芸員Mさんに感謝申し上げます。)

摂津国の怪人

旭川東高生逍遥歌 (←クリックすると同窓生・飛世政和さんの動画にリンクして逍遥歌が再生されます。)
作詞:大村正次  作曲:後藤 功

神様に召される前

2020年01月12日 | 春を呼ぶ朝

昭和36年絵画館前 北都中~旭川東の同級生で同期生である。
およそ60年前の写真だけど、自分の靴がずいぶんと汚いこと。
でも、首都高がなかったから東京の空はとても広かったよね。

大村正次著「春を呼ぶ朝」―神様に召される前―

  神様に召される前

―お母さん、わたしなにやらさみしい。
 お母さん、なんにもしてもらはんで、、、、、いゝからそばに居て下さい。
 あんた、、、こゝに居られるとなにやらにぎやかになる。

―あの子は近頃こんなことを云ふ。
 それでちつとも、、、、そばを離れられん、、、
 あの子はもう間がないらしい。

―あゝ そんな不吉な話しませう。
 一心に生きようと努めてゐるあれの信念を
 皺苦茶にしてしまふやうな不吉な暗示かぜ
 すこしでもこの家へ入れずに置きませう。
 凡てが決まるまでは、母よ。


馬來田靜秋
妹に對する切なる愛憐の想ひが出てゐると思ひます。此処で作者は詩篇中郷土語を巧く取り込むでゐる。そして地方語を使ふ場合に起こる難関でありリズムに無理のない處を高く買つてもいゝと思ひます。「神様に召される前」は出色だと思ひます。