老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

2023-05-06 09:50:50 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1936 烏が一羽





散歩の途中、一羽の烏に出会った。
自分が近づいても警戒することなく
電柱の一番高いところに留まっている。

烏 という鳥はにんげんから忌み嫌われている。
無数の烏は、ある一軒の敷地に聳え立つ高い樹に留まり
合唱するかのように「カア~ カア~」と泣き叫ぶ騒いでいる。
「誰かが死んだのかな」、と他人(ひと)は思い、気になる。
翌日訃報が届いた。

烏は「阿呆の烏」と揶揄される
「烏」という字は「鳥」の字と比較すると
横線が一本抜け落ちている。
一本足りないから「阿呆の鳥」と呼ばれる。

しかし、烏は「賢い鳥」である。
飽食の世の中。
捨てられる生ごみのなかには、にんげんが喰い残した食べ物が
むだに捨てられている。

燃えるごみの出し方も適当である。
プラスチックのごみが混じり、プラスチックの角がびごみ袋を突き破り
そこから生ごみがこぼれ落ちている。
烏は破れたところを嘴で生ごみを漁る。

「烏なぜ鳴くの 烏は山に」の歌は
いま歌う子どもたちは少なくなり
塾かゲームに明け暮れ、外に出て遊ぶ風景は目にしなくなった。
昔は夕暮れどきになると 家々のあちこちから夕餉の匂いがしたものだ。



水は風景によく似合う。
にんげんは太古、水のなかで生きていた。
それだけに大河や海の風景に憧れを抱く。
いま北国の田圃に水が満々と張っている。
散歩のとき水面鏡となって逆さまになった那須連山を見ることができる。

大きな池のように映り
子どものころ田圃の隅に蛙の卵やオタマジャクシがうようよ泳いでいた。

夕暮れ時の散歩 畦道から蛙の大合唱が聴こえてくる
音痴な自分 蛙に生まれていたら大変だったに違いない。