老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

右親指の疼き

2023-05-30 20:42:58 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1944 右親指の疼きを耐える妻



97歳になる老母の介護をしている息子は、睡眠不足に陥っていた。
夜中に、そして今も何度も紙パンツを脱いでしまう。
便秘になりはしないかと、その強迫観念が気持ちを占め
必死に手すりにすがりつくように掴み
寝室の向こうにあるトイレを目指し か細い脚を引きずり歩く。

朝ご飯を食べ終えたとき 携帯電話が鳴った。
スマホの画面を見ると息子さんの名前が目にとまった。
「どうしました、と尋ねると
「婆さんの呼吸が乱れ苦しそうにしている」
「紙パンツを穿かせてもらいたい」

自分は商工会に行く約束があったので、妻は「私が行くから」と、言って足早場に玄関を出た。
万が一病院に連れていくことも予想されるので車いすが乗れる福祉車両で向かった。

酸素濃度を測ると80の数値を下回っていた。
血圧、脈拍は問題はなかったが、肩で呼吸しており
かかりつけ医の携帯電話にかけたら、(この医者は我が家のかかりつけ医でもあった)
「救急車を呼んだ方がいい」、と指示を出してくれた。

救急車を呼ぶ前に妻は福祉車両の後部座席を持ち上げたとき
その重さに手が滑り、分厚く重みのある後部座席に右親指を挟めてしまった。
その衝撃に痛み(傷み)に声も出なかった。

もう親指が切断されたのでは、と一瞬頭を過った。
血は出ておらず 指はもぎれずにある、とホットしたのもつかの間。
右の親指にもう一つ心臓があるほどの激痛で、お尻の穴まで痛かった、と妻は話す。

96歳の家族には気づかれないようにしていた。
妻は「自分も一緒に救急車に乗って行きたかった」

急性心不全の診断で96歳のお婆さんは「2週間の予定」で入院となった。

箸を掴むことも下衣を上げ下げすることも一苦労。
昨日の夜中 妻は一晩中痛みにうなされていた。
自分が行くはずだったのに
妻に痛い思いをさせてしまった。

1週間前は左の奥歯が折れ、根こそぎ抜歯したばかりで
歯の痛みで ほとほと弱り切っていた。
歯の痛みが収まらないうちに、右親指の激痛に遭遇し
踏んだり蹴ったりの7日間。

痛みを忘れようと隣街までbeagle元気のフードを買いに行ってきた。
好きなビールも飲むことができず、19時前には寝床に就いた妻。

他者の疼く痛みは、見ていて本当に辛い。
その痛みを代わってあげたい、と妻に言うと
「男はチョッとした痛みでも騒ぐくせに、代わることはできないよ」、と妻から言われてしまった。