老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

私は どこから来て どこへいくのか

2023-05-14 19:28:59 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1940 私は どこから来て どこへいくのか



ふと、ゴーギャンの絵と言葉を思い出した。

『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(われわれはどこからきたのか われわれはなにものか われわれはどこへいくのか,
フランスの画家ポール・ゴーギャンが1897年から1898年にかけて描いた絵画。

この絵画を よく見ると(向かって)右側に 誕生した赤ん坊が描かれている。
人生の始まりを意味する。

そして左側に頭を抱え悩んでいる老女がいる。
「死を迎えることを甘んじ、諦めている老女」と、
「奇妙な白い鳥が、言葉がいかに無力なものであるかということを物語っている」
とゴーギャンが自分で書き残している。

本当は短い時間であったことに気づきもせず
老いや死の問題(テーマ)は他人事としてとらえ先延ばしにしてきた自分。

躰のあちこちが軋み
まだ絶滅していないコロナ禍は「5類」へ移行され
マスクを外したら 皺だらけの下顔に 老いを実感させられた。

30代始めの頃
介護の世界の足を踏み入れ
その当時、高見順の詩集『死の淵より』や北条民雄『いのちの初夜』、ダルトン・トランボの小説『ジョニーは戦場へ行った』を読み
生きること、死ぬことの意味を深く考えさせられたにもかかわらず

その後の自分は怠け、生と死そして介護のテーマについて真摯に立ち向かわずにきてしまった。
病み、そして老い、背後から死の影が近づいていても、まだ死は先のことと思い逃げてしまう。

「死ぬ」ことは自明なのだが、どう死に向かい残りの時間を「生きる」のか
生活に追われ仕事に追われ、を言い訳にしている
何のために生きているのか
まだ何の答えも見つけられずにいる

30代始めの頃に思ったこと
本当に残り少くなくなった時間は「砂時計」のようだが
自分はどこから来て、どこへいくのか みつめていきたい

赤いカーネーションを贈る 母はもういない
仏壇に花を供えよう