1940 私は どこから来て どこへいくのか
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/ea/855927717dea2518f1eb217abc11d748.jpg)
ふと、ゴーギャンの絵と言葉を思い出した。
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(われわれはどこからきたのか われわれはなにものか われわれはどこへいくのか,
フランスの画家ポール・ゴーギャンが1897年から1898年にかけて描いた絵画。
この絵画を よく見ると(向かって)右側に 誕生した赤ん坊が描かれている。
人生の始まりを意味する。
そして左側に頭を抱え悩んでいる老女がいる。
「死を迎えることを甘んじ、諦めている老女」と、
「奇妙な白い鳥が、言葉がいかに無力なものであるかということを物語っている」
とゴーギャンが自分で書き残している。
本当は短い時間であったことに気づきもせず
老いや死の問題(テーマ)は他人事としてとらえ先延ばしにしてきた自分。
躰のあちこちが軋み
まだ絶滅していないコロナ禍は「5類」へ移行され
マスクを外したら 皺だらけの下顔に 老いを実感させられた。
30代始めの頃
介護の世界の足を踏み入れ
その当時、高見順の詩集『死の淵より』や北条民雄『いのちの初夜』、ダルトン・トランボの小説『ジョニーは戦場へ行った』を読み
生きること、死ぬことの意味を深く考えさせられたにもかかわらず
その後の自分は怠け、生と死そして介護のテーマについて真摯に立ち向かわずにきてしまった。
病み、そして老い、背後から死の影が近づいていても、まだ死は先のことと思い逃げてしまう。
「死ぬ」ことは自明なのだが、どう死に向かい残りの時間を「生きる」のか
生活に追われ仕事に追われ、を言い訳にしている
何のために生きているのか
まだ何の答えも見つけられずにいる
30代始めの頃に思ったこと
本当に残り少くなくなった時間は「砂時計」のようだが
自分はどこから来て、どこへいくのか みつめていきたい
赤いカーネーションを贈る 母はもういない
仏壇に花を供えよう
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/ea/855927717dea2518f1eb217abc11d748.jpg)
ふと、ゴーギャンの絵と言葉を思い出した。
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(われわれはどこからきたのか われわれはなにものか われわれはどこへいくのか,
フランスの画家ポール・ゴーギャンが1897年から1898年にかけて描いた絵画。
この絵画を よく見ると(向かって)右側に 誕生した赤ん坊が描かれている。
人生の始まりを意味する。
そして左側に頭を抱え悩んでいる老女がいる。
「死を迎えることを甘んじ、諦めている老女」と、
「奇妙な白い鳥が、言葉がいかに無力なものであるかということを物語っている」
とゴーギャンが自分で書き残している。
本当は短い時間であったことに気づきもせず
老いや死の問題(テーマ)は他人事としてとらえ先延ばしにしてきた自分。
躰のあちこちが軋み
まだ絶滅していないコロナ禍は「5類」へ移行され
マスクを外したら 皺だらけの下顔に 老いを実感させられた。
30代始めの頃
介護の世界の足を踏み入れ
その当時、高見順の詩集『死の淵より』や北条民雄『いのちの初夜』、ダルトン・トランボの小説『ジョニーは戦場へ行った』を読み
生きること、死ぬことの意味を深く考えさせられたにもかかわらず
その後の自分は怠け、生と死そして介護のテーマについて真摯に立ち向かわずにきてしまった。
病み、そして老い、背後から死の影が近づいていても、まだ死は先のことと思い逃げてしまう。
「死ぬ」ことは自明なのだが、どう死に向かい残りの時間を「生きる」のか
生活に追われ仕事に追われ、を言い訳にしている
何のために生きているのか
まだ何の答えも見つけられずにいる
30代始めの頃に思ったこと
本当に残り少くなくなった時間は「砂時計」のようだが
自分はどこから来て、どこへいくのか みつめていきたい
赤いカーネーションを贈る 母はもういない
仏壇に花を供えよう