老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

「傘がない」

2023-05-20 13:51:52 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1942 わたしは「入れ歯がない」



井上陽水の『傘がない』を聴い頃のことを懐かしく思う

今日は昨日ブログに登場した青海婆さんは
1週間前にできあがったばかりの「入れ歯」を失くしてしまった。

真新しい入れ歯を使い 今日は「一週間点検」の日だった。
ヘルパーは口腔ケアを済まし 入れ歯を入れようと
いつもの置き場所にあるお椀のなかをみたら入れ歯がない!

居間もベッドの下も、台所も、洋式便器のなかも探したが見つからない。
田圃にいた長男も駆けつけ一緒に探してくれた。
他のヘルパーに応援も頼み、入れ歯探しをしたが見つからなかった。

青海婆さんに尋ねてもわからない。他人事のよう。
予約した歯科の時間に遅れてしまう
ケアマネに電話をかけ「予約の時間に遅れる」、と歯科に電話して欲しいとお願いした。
ケアマネは歯科医院に電話を入れた。「入れ歯を失くし、いま探しているところなので15分ほど遅れます」。

青海婆さんを車に乗せ、歯科医院に到着。
90歳を過ぎた認知症のお婆さんが入れ歯を作るようなことはいままでなかった。
入れ歯を作った青海婆さんは歯科医院では人気婆さんだった。

「入れ歯失くしたの」、歯科医や歯科衛生士たちに声をかけられる。
青海婆さんは「おれ、入れ歯なんかつくっていないよ」、と真顔で答える。

「6ヵ月経過しないと、入れ歯は作られない」

仕方なく家に帰った。
ヘルパーは入れ歯のことが気になり、入れ歯のことが諦めきれず、再び探し始めた。
ベッドに敷いてあるベッドパットを持ち上げたら
畳を傷めないように敷いてあった段ボールの隙間に「入れ歯があった」のだ。

ヘルパーは大興奮、金の発見に劣らない大発見
喜びの声がスマホの向こうから届いた。

新しい入れ歯ができたことで
青海婆さんが確実に変わってきていた。
いままでは歯(入れ歯)がないため、極刻みの食事だったので味気も食べる楽しみもなかった。
いのちをつなぐだけの食事だった。

噛むことができ、噛む力、飲み込む力が戻ってきた。
噛むことで脳に対する刺激も格段と強まった。
顔の艶、顔の表情、歩く姿にも安定がでてきた。

だから入れ歯を失くしたことは、本当にショックだった。
たかが入れ歯、と思うかもしれないけれど
されど入れ歯なのである。

一週間後に、「失くした」入れ歯の点検がある。
入れ歯は青海婆さんの口にピタリとあてはまり歯茎との相性もいい。
歯科医にとっては青海婆さんの入れ歯は自信作であり自慢の入れ歯でもあった。

入れ歯を失くした、と聞いた時の歯科医院のスタッフは笑いに包まれた。