作り方が判らない子供たちが「せんせい、せんせい」と寄って来た。
横浜物語(義兄の遺稿より)
山荘の電子レンジで焼く食パンが美味しくて、妻は高原のパン屋を自認していた。
亡くなる少し前、妻はしきりに山荘に行きたがった。
肝機能障害が進んだ妻に信濃は遠い、主治医から妻の余命を宣告されている僕にとってそれはつらい選択だった。
しかし哀願するような妻の口調に結局僕が折れた。
晩秋の高原には既に落葉を運ぶ風が吹いていた、山荘の澄んだ空気に触れて妻は少しだけ元気を取り戻したようにみえた。
この山荘で過ごした日々を懐かしみ、秘め事を持つ僕を励ますように妻は饒舌になっていた。
帰る前日、夜になってから妻は食パンを一斤焼いた。
焼いた後又タイマーをセットして、朝までに焼きあがるようセットした。
こんなことはなかった 二斤のパン。
翌朝、妻は前夜の食パンの屋根の部分を剥がして食べた。
そして僕には、「あと全部食べてね」と言った。
僕は時間がないからと少し食べ、「車の中でゆっくり味わっていくんだ」と残りを紙袋に入れた。
車中で食べた食パンは湿っているように思えた。
それが、高原パン店の閉店記念の食パンになってしまった。
その日から3ヶ月も待たず平成4年1月13日午前1時35分 僕を残して、最愛の妻は息をとめた。