最近は車の中でも、ヒーリング音楽を聞くことが多かったのですが、先日、主人の実家に行く際に、ひさびさにCDコレクションからいろいろ歌を聴いていました。
その中に「銀の龍の背に乗って」(中島みゆき)があり、聴いていました。
最近、歌の中に、すごく自分にフィットすることばを見つけます。
以前、アンパンマンのマーチの歌詞が、「自分のありかた」を探している自分にフィットしたので、このブログでも紹介しました。
今回は、「銀の龍の背に乗って」のあるフレーズが、ああ、そうだと感じたので、作詞をした中島みゆきさんの意図とは違うかもしれませんが、自分が感じたことをかいてみようと思います。
急げ 悲しみ 翼に変われ
急げ傷跡 羅針盤になれ
人は、だれでも、心に傷を受けています。
そのときは、苦しくて、それを怒りとしてエネルギーにする人もいれば、ずっと傷ついたままで引きずりながら生きている人もいます。
あるときは、それが、無意識の中に埋もれてしまい、自分でも気づかないうちにその人の思考や行動を支配することすらあります。
しかし、その悲しみや心の傷が、実は、宇宙から用意された 自分のミッションへの道しるべであることを知るときがきます。(もちろん、気づかないまま、すごしてしまう人もいます) それに気づくとき、それまでの悲しみや傷跡は、翼や羅針盤となって、その人がその人のミッション(使命)を生きるための大切なりソース(資源・能力)となります。
ああ、私は、このことをするために、ここにいるのだ。という気づき。
その気づきを得たとき、それまでの悲しみも傷跡も、その方向へ進むための必要な体験だったのだとわかった時、それまでの自分の人生で怒ってきたことの意味を知るのではないかと思います。
今、いっしょにNLPを学んでいる仲間たちは、みな、そんな気づきを得て、自分のそれまでの人生の意味を理解しつつあります。
この歌も、実に自分勝手な解釈をしているのですが、まさに、自分が受けてきた痛みを、自分のミッションに変えて、旅立とうとしているそんな姿を見ます。
夢が迎えに来てくれるまで 震えて待っているだけだった昨日
明日、ぼくは、龍の足元を、がけを登り、サァ行こうぜ
傷をもった自分が夢をかなえるために、誰かの救いを待っていたのかもしれません。でも、傷の意味を知って、自分の足で龍の背中を借り、自分との出会いを待っている人のところへ動き出そうとする。
まことに勝手な解釈ですが、
今の、私には、そんな風に感じられます。
まだ跳べない雛たちみたいに、ぼくはこの非力を嘆いている
使命感ということばは、すばらしいです。
しかし、自分が指名を感じていることが大きな課題であればあるほど、自分の非力を思い知らされることになります。
使命感を間違えてはいけない。
「何かをしてあげる」なんて、思い上りにすぎない。
いろいろなことを知れば知るほど、学べば学ぶほど、何も出来ない事がわかるから。
非力であることを知ってこそ、謙虚になる。
自分が無知であることを知るからです。でも、無知であることを知ることは、無力であることとは、また違います。
謙虚になってこそ、相手のことを尊重することができるのではないか・・・そんなことを感じます。
なーんか理屈っぽくなっちゃった。
もし、自分の中に、言いようのない苦しみを抱いているとしたら、
または、その真っ只中で苦しんでいる人がいたら、
それこそが、いつかあなた自身の すばらしい羅針盤となり翼となる。
そして、それがあなたのミッションにつながっているのかもしれない。
「気づくこと」が、過去の苦しみ、今の苦しみを、何かに変えると思っています。