前回の一向一揆の特殊性のはなし、
もう少し補足しないと、真意が伝わらない気がしました。
「近代化」でくくれない人びとというテーマで、なぜ一向一揆に注目するのかということなのですが、
それは、闘いということを考えたときにどうしてもそれを
「政治的な」闘いと、武力なとの力を伴った「軍事的な」闘いに集約されがちですが、それ以外に、
生活者の視点に立ってみると「技術的な」闘いともいうべき、非政治的、非軍事的領域の重要性に気づくからです。
そしてこの領域を重視することから社会を組み立てる発想こそが、創造的な社会を築く条件でもあるのではないかと。
それで思い出したのが20年以上前に読んで、実家の棚に埋もれていた本。
唐渡興宣著『資本の力と国家の論理』青木書店 1980/09
本書では、日本語で言う「力」という概念が
ドイツ語では、Kraft、Macht、Gewaltとして使い分けられているということです。
(以下、引用)
Kraftという力は生産力(Produktivkraft)、労働力(Arbeitskraft)、自然力(Naturkraft)というように使用されており、それは何よりも生産的で、創造的な力である。すなわち、人々にとって肯定的で、積極的で、何かを創り出していく力なのである。それが可能態(デュナミス)における力であれ、現実的な力であれ、生産的、創造的に作用する力はKraftなのである。
Macht とは日本語で、威力、支配力、権力として訳されている力であって、それは何よりも人々に疎遠で、人々に対立する力なのである。Machtという力は実はその実体をKraftに持つものであるが、それの疎外された力がMachtという力なのである。
すなわち、それの実体をKraftという力に持つものの、人々にはそれが理解されず、そのMachtという力がどこからくるのか、またいかなる方向に作用するのかが理解されないがゆえに、Machtとして人々が意識する力である。
Machtという力は諸Kraftとしての諸力が集合され、結集されて押し出されてきたものであるが、人々にはそれの何たるかが不明である間は、それを神秘化したり、権威づけしたり、あるいはその前で動物的に従順となり、その力の前ではそれに服していくような力なのである。さらに、そうしたMachtとしての力に対抗して形成されるAnti-MachtもMachtとしての力なのである。
Gewaltは暴力、権力として日本語で使用されているが、これは何よりも破壊的な力(Destruktions-Kraft)なのである。そなわちKraftという力が生産的、創造的な力であるのに対して、Gewaltすなわち、暴力とは、その正反対をなす破壊的な力なのである。
暴力としての力はその由来をMachtとしての力に持つ。その点で、Machtは潜在的、可能性においてGewaltである。それは一定の条件のもとでGewaltに転化する。
暴力Gewaltがいかなるものに対する破壊的な力であるかは、そのMachtの性格によって規定されており、Machtの集中的な発現こそGewaltである。
(引用終了)
得てしてGewalt(暴力)中心になりがちな戦国時代において、異例ともいえるほど、Kraftの諸力を積み重ねた組織をつくりあげたといえる一向一揆、浄土真宗の寺内町の考察が、私にはそのまま、現代の市民社会を考えるときに
政治偏重に陥りがちな傾向、最近ではやや少なくなりましたが反権力偏重に陥りがちな政治闘争への有効な反省材料としてとても興味深く感じるのです。
この本に枝折代わりに挿んでおいたバスクレセンスキー・ピアノリサイタルの半券の裏に書き写してあったメモに、以下のようなところが書き写してありました。
「貧困ということを生活苦においてのみ理解してはならない。われわれは富、生産力の主体的本質の何であるかを知っている。普遍的な富、生産力とは、何よりも人間の本質諸力、創造的力としての労働力にほかならない。人格の内容をなす労働力の略奪と破壊、これこそ貧困の本質的特徴なのである。」
同書 122頁より
Kraftということばの視点から、労働を、賃労働や被雇用者としての面にとらわれがちな傾向を、創造者としての本来の労働主体として見直すこととして、またそのまま政治、権力、暴力偏重の「力」概念を、生活者にとり戻す術として、とても大事なことに思えてならないのです。
さらに言い換えれば、それは上からの政治主導のこれまでの「近代化」に対する、下からの「近代化」を考察する大事な手がかりでもあるかと思います。
こうした補足を加えさせていただいたうえで、寺内町のことを次回に書きます。
もう少し補足しないと、真意が伝わらない気がしました。
「近代化」でくくれない人びとというテーマで、なぜ一向一揆に注目するのかということなのですが、
それは、闘いということを考えたときにどうしてもそれを
「政治的な」闘いと、武力なとの力を伴った「軍事的な」闘いに集約されがちですが、それ以外に、
生活者の視点に立ってみると「技術的な」闘いともいうべき、非政治的、非軍事的領域の重要性に気づくからです。
そしてこの領域を重視することから社会を組み立てる発想こそが、創造的な社会を築く条件でもあるのではないかと。
それで思い出したのが20年以上前に読んで、実家の棚に埋もれていた本。
唐渡興宣著『資本の力と国家の論理』青木書店 1980/09
本書では、日本語で言う「力」という概念が
ドイツ語では、Kraft、Macht、Gewaltとして使い分けられているということです。
(以下、引用)
Kraftという力は生産力(Produktivkraft)、労働力(Arbeitskraft)、自然力(Naturkraft)というように使用されており、それは何よりも生産的で、創造的な力である。すなわち、人々にとって肯定的で、積極的で、何かを創り出していく力なのである。それが可能態(デュナミス)における力であれ、現実的な力であれ、生産的、創造的に作用する力はKraftなのである。
Macht とは日本語で、威力、支配力、権力として訳されている力であって、それは何よりも人々に疎遠で、人々に対立する力なのである。Machtという力は実はその実体をKraftに持つものであるが、それの疎外された力がMachtという力なのである。
すなわち、それの実体をKraftという力に持つものの、人々にはそれが理解されず、そのMachtという力がどこからくるのか、またいかなる方向に作用するのかが理解されないがゆえに、Machtとして人々が意識する力である。
Machtという力は諸Kraftとしての諸力が集合され、結集されて押し出されてきたものであるが、人々にはそれの何たるかが不明である間は、それを神秘化したり、権威づけしたり、あるいはその前で動物的に従順となり、その力の前ではそれに服していくような力なのである。さらに、そうしたMachtとしての力に対抗して形成されるAnti-MachtもMachtとしての力なのである。
Gewaltは暴力、権力として日本語で使用されているが、これは何よりも破壊的な力(Destruktions-Kraft)なのである。そなわちKraftという力が生産的、創造的な力であるのに対して、Gewaltすなわち、暴力とは、その正反対をなす破壊的な力なのである。
暴力としての力はその由来をMachtとしての力に持つ。その点で、Machtは潜在的、可能性においてGewaltである。それは一定の条件のもとでGewaltに転化する。
暴力Gewaltがいかなるものに対する破壊的な力であるかは、そのMachtの性格によって規定されており、Machtの集中的な発現こそGewaltである。
(引用終了)
得てしてGewalt(暴力)中心になりがちな戦国時代において、異例ともいえるほど、Kraftの諸力を積み重ねた組織をつくりあげたといえる一向一揆、浄土真宗の寺内町の考察が、私にはそのまま、現代の市民社会を考えるときに
政治偏重に陥りがちな傾向、最近ではやや少なくなりましたが反権力偏重に陥りがちな政治闘争への有効な反省材料としてとても興味深く感じるのです。
この本に枝折代わりに挿んでおいたバスクレセンスキー・ピアノリサイタルの半券の裏に書き写してあったメモに、以下のようなところが書き写してありました。
「貧困ということを生活苦においてのみ理解してはならない。われわれは富、生産力の主体的本質の何であるかを知っている。普遍的な富、生産力とは、何よりも人間の本質諸力、創造的力としての労働力にほかならない。人格の内容をなす労働力の略奪と破壊、これこそ貧困の本質的特徴なのである。」
同書 122頁より
Kraftということばの視点から、労働を、賃労働や被雇用者としての面にとらわれがちな傾向を、創造者としての本来の労働主体として見直すこととして、またそのまま政治、権力、暴力偏重の「力」概念を、生活者にとり戻す術として、とても大事なことに思えてならないのです。
さらに言い換えれば、それは上からの政治主導のこれまでの「近代化」に対する、下からの「近代化」を考察する大事な手がかりでもあるかと思います。
こうした補足を加えさせていただいたうえで、寺内町のことを次回に書きます。