原油高を契機に、いろいろなものの値段が上がり続けている。
数日前だか、日銀が異例の「スタグフレーション」という言葉を口にした。
ビジネスベースでものを考えている多くの人には、インフレ待望論も根強い。
しかし、その期待を裏切るかのように、物価が上がっても景気がよくならない時代になっている。
今の物価の上昇は、一時的な変動要因によるものと見てよいだろうが、
景気循環サイクルの問題ではなく、やはり経済や社会の構造が
最近大きく変わったのではないかと思えてならない。
最近、風呂で読んでいた高井信夫氏の『朝10時までに仕事は片づける』かんき出版
のなかにに出ていたマクロレベルの数字を見てみると、
1979年の企業の利益は7兆5010億円、欠損は6930億円、差額はプラス6兆8080億円でした。
全体で見ると企業はすごく儲かっていたのです。
その後もこの差額はどんどん膨らんで、75年には7兆5530億円、
80年は19兆2200億円
85年は25兆5200億円
90年には43兆6340億円と
文字通り右肩上がりの成長を続けたのです。
こうして企業の利益が膨らむなかで、働く人の賃金もうなぎのぼりに上がっていき、みんな豊かになっていった。
ところが90年代以降はどうなったかというと、90年代初めのバブル崩壊を境に、企業利益は減り始めます。
それを数字で見ると、91年39兆3560億円、
95年には15兆2480億円に、
99年は8兆8860億円と下がり続け、
2001年はついに5兆2760億円まで落ち込んでしまいました。
父親の月給がどんどん下がっているのに、家庭では贅沢を少しもやめようとしない。
(引用終わり)
その家庭の代表は公務員たちであり、
老舗の看板を背負ったまま変化に対応しない企業たちでした。
でも、その一方で伸びている最先端の企業は、過去最高益を更新し続けています。
この変化を傍観している人たち、傍観せざるをえない人たちは、
ここに起きている現実をどう見ているのだろうか。
長いデフレスパイラルからようやく脱却したか否か、
なんとなくそんな声ばかり聞こえてくるのですが、私には今の経済状況を見ていると
景気循環の流れの変化ではない、もっと大きな変化が既に起きているのを感じます。
それは、結論から言うと、
90年代の組織のリエンジニアリングに始まり、社会全体に浸透するデジタル化社会の進展などにともなって、
景気の循環云々よりも、根底的に社会構造そのものが「お金のかからない社会」に向っているのだと思えるのです。
その根底構造がさらに、世界的な金余り状況を生み、投機マネーが右へ左へ揺れるたびに
世界経済を混乱させるに止まらず、巨大な破壊を繰り返す。
それは、一国をも滅ぼすほどの勢いで。
カネ余りが呼び起こす投機マネーの問題は横においても、
ここでこれからの企業経営の大前提を見損なってはいけない。
かつてトフラーは、「第一の波」の農耕社会、「第二の波」の産業社会が終わって、「第三の波」の情報化社会の到来を告げた。
そしてインターネットバブルの到来とともに、情報こそ、お金を稼げる領域であると、今も叫ばれている。
たしかに今はその情報云々が企業の命運を大きく左右している。
でもそれは、ほんの一時的な優位にしかすぎない。
情報の優位ほど長続きしないものはない。
ドラッカーが強調していた情報化社会、知識集約型産業も、
その比率が増し、社会での重要度が増すことは間違いないが、
決してそこでお金がどんどん取れるようになるわけではない。
(以下は引用です)
情報化社会においての花形ビジネスには、弁護士や会計士という仕事も含まれる。ところがいまや、
食いっぱぐれのない資格であるとされていたそういう仕事でさえも、コンピュータに取って代わられてしまっている。
「ファミリーロイヤー」や「クイッケン」などという100ドルくらいのパッケージソフトで、
弁護士や会計士の仕事の大部分ができるようになってしまっている。
(略)
学校の教師も同じだ。
経済学に関していえば、いまは、世界中の「経済原論」の講義でサミュエルソンの本の「輪読会」をやっているようなものだ。
ところが、サミュエルソンが直接インターネットに出てきて教えてしまうと、「輪読会」をやっている程度の教師は失職してしまうのである。
サミュエルソンなら、生徒一人から100ドルずつの授業料で10万人に教えたら、毎年1000万ドルの収入になる。つまり、サミュエルソンは高収入を得られるけれども、「輪読会」をやっていた教師は月500ドルのTA(補助教員)。
メシの食い上げになってしまうのだ。
ダニエル・ピンク著 大前研一訳『ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代』三笠書房
トーマス・フリードマンのように『フラット化する世界』上・下 日本経済新聞社
といった表現でそれを語る人もいる。
私の領域では、再三「情報の値段は本来タダ(無料)」という原則を言い続けているが、
1,000円、2,000円の書籍を売っている隣で、どんどん100円、500円の古書が出回る時代というだけでなく、
ネット上では、タダ(無料)で、それと同等の情報をいくらでも得ることが出来るようになってきているということです。
それは、著作権の侵害だと、また多くの人は叫ぶ。
しかし、情報そのものは、それを独占、秘匿することによってのみお金が取れるのだということを忘れてはならない。
このことは、わたしとあなたのすぐ隣でおきている現実が、
先の権利が虚無な主張にしかすぎないということをどんどん立証していく。
情報はなによりもその本源的性格からは、社会の公共財であるべきだ、という原則がある。
このあるべき社会に向って、世の中は確実に今「進歩」している。
もちろん、まだ巻き返しのエネルギーは衰えるどころか、加速すらしながら当分の間、襲いかかってくるだろうが、
格別なお金をかけなくても、多くの人が所得や身分の制約を受けることなく、かなりのことが出来る世の中になりつつあるのは間違いない。
本当の個人の付加価値生産能力が問われる厳しい社会かもしれないが、
それは既得権にあぐらをかくことなく、ひとりひとりが真に創造的に生きる社会への入口であるとも言えるだろう。
(余談ですが、私の不連続シリーズ「近代化でくくれない人びと」は、土地所有から排除されたり、身分を差別された人びとであるがゆえに、
,その社会では丸裸にされ、それゆえに人間として様々な技能を身につけることを必然として来ざるをえなかった流れとして、このこれから私たちが直面する「お金のかからない社会」の共通構造を感じるのです。)
このことは、同時に、営利目的にジャンジャン金を取れる領域が縮小していくことでもある。
単純な労賃や手数料収入や権利収入の領域は、これも当面、増加し続けることだろうが、
情報化社会が成熟してくるにしたがい、そうした領域で多額のお金を取ることも難しくなってくる。
私はこうした視点を前提にしているので、うちの店では、業界の動向の問題よりも
まず平均単価を下げる努力を抜本的に継続してしなけれなならないと考えている。
手間のかかる方向ではあるが、単価を下げ、回転率を上げる。
お客さんが買いやすい商品の比率を増やすこと。
ベースをそこにおいた方が、厳選された高額本はよりよく見えるようになる。
もちろん、そのための情報を増やすこと、これが一層大事になると思っている。
いろいろな運の良さもあっただろうが、業界がマイナス成長の時期に入ってから7年間、
書籍の売上げを伸ばし続けることが出来ているのは、この考えを前提としていたからだと思っている。
厳しいことを要求するように見えるかもしれないが、
お金をかけずに自分の労力を増やす。(あたりまえか?)
自分の労働からルーチンワークを減らし、新しいことを試す時間の比率を圧倒的に増やす。
そんな方向の準備をいま加速している。
お金は無くとも、かなりのことは出来る時代にもう入っているので、
あとはもう自分の頭の中の力の問題。
優秀な人の仕事を見るほど、その頭の違いは、頭脳の良し悪しよりも、
思考作業を分解してひとつひとつクリアしながら積み重ねる能力だと思う。
もう自分に必要なものは、すべて揃っている。
・・・・はずだ。
数日前だか、日銀が異例の「スタグフレーション」という言葉を口にした。
ビジネスベースでものを考えている多くの人には、インフレ待望論も根強い。
しかし、その期待を裏切るかのように、物価が上がっても景気がよくならない時代になっている。
今の物価の上昇は、一時的な変動要因によるものと見てよいだろうが、
景気循環サイクルの問題ではなく、やはり経済や社会の構造が
最近大きく変わったのではないかと思えてならない。
最近、風呂で読んでいた高井信夫氏の『朝10時までに仕事は片づける』かんき出版
のなかにに出ていたマクロレベルの数字を見てみると、
1979年の企業の利益は7兆5010億円、欠損は6930億円、差額はプラス6兆8080億円でした。
全体で見ると企業はすごく儲かっていたのです。
その後もこの差額はどんどん膨らんで、75年には7兆5530億円、
80年は19兆2200億円
85年は25兆5200億円
90年には43兆6340億円と
文字通り右肩上がりの成長を続けたのです。
こうして企業の利益が膨らむなかで、働く人の賃金もうなぎのぼりに上がっていき、みんな豊かになっていった。
ところが90年代以降はどうなったかというと、90年代初めのバブル崩壊を境に、企業利益は減り始めます。
それを数字で見ると、91年39兆3560億円、
95年には15兆2480億円に、
99年は8兆8860億円と下がり続け、
2001年はついに5兆2760億円まで落ち込んでしまいました。
父親の月給がどんどん下がっているのに、家庭では贅沢を少しもやめようとしない。
(引用終わり)
その家庭の代表は公務員たちであり、
老舗の看板を背負ったまま変化に対応しない企業たちでした。
でも、その一方で伸びている最先端の企業は、過去最高益を更新し続けています。
この変化を傍観している人たち、傍観せざるをえない人たちは、
ここに起きている現実をどう見ているのだろうか。
長いデフレスパイラルからようやく脱却したか否か、
なんとなくそんな声ばかり聞こえてくるのですが、私には今の経済状況を見ていると
景気循環の流れの変化ではない、もっと大きな変化が既に起きているのを感じます。
それは、結論から言うと、
90年代の組織のリエンジニアリングに始まり、社会全体に浸透するデジタル化社会の進展などにともなって、
景気の循環云々よりも、根底的に社会構造そのものが「お金のかからない社会」に向っているのだと思えるのです。
その根底構造がさらに、世界的な金余り状況を生み、投機マネーが右へ左へ揺れるたびに
世界経済を混乱させるに止まらず、巨大な破壊を繰り返す。
それは、一国をも滅ぼすほどの勢いで。
カネ余りが呼び起こす投機マネーの問題は横においても、
ここでこれからの企業経営の大前提を見損なってはいけない。
かつてトフラーは、「第一の波」の農耕社会、「第二の波」の産業社会が終わって、「第三の波」の情報化社会の到来を告げた。
そしてインターネットバブルの到来とともに、情報こそ、お金を稼げる領域であると、今も叫ばれている。
たしかに今はその情報云々が企業の命運を大きく左右している。
でもそれは、ほんの一時的な優位にしかすぎない。
情報の優位ほど長続きしないものはない。
ドラッカーが強調していた情報化社会、知識集約型産業も、
その比率が増し、社会での重要度が増すことは間違いないが、
決してそこでお金がどんどん取れるようになるわけではない。
(以下は引用です)
情報化社会においての花形ビジネスには、弁護士や会計士という仕事も含まれる。ところがいまや、
食いっぱぐれのない資格であるとされていたそういう仕事でさえも、コンピュータに取って代わられてしまっている。
「ファミリーロイヤー」や「クイッケン」などという100ドルくらいのパッケージソフトで、
弁護士や会計士の仕事の大部分ができるようになってしまっている。
(略)
学校の教師も同じだ。
経済学に関していえば、いまは、世界中の「経済原論」の講義でサミュエルソンの本の「輪読会」をやっているようなものだ。
ところが、サミュエルソンが直接インターネットに出てきて教えてしまうと、「輪読会」をやっている程度の教師は失職してしまうのである。
サミュエルソンなら、生徒一人から100ドルずつの授業料で10万人に教えたら、毎年1000万ドルの収入になる。つまり、サミュエルソンは高収入を得られるけれども、「輪読会」をやっていた教師は月500ドルのTA(補助教員)。
メシの食い上げになってしまうのだ。
ダニエル・ピンク著 大前研一訳『ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代』三笠書房
トーマス・フリードマンのように『フラット化する世界』上・下 日本経済新聞社
といった表現でそれを語る人もいる。
私の領域では、再三「情報の値段は本来タダ(無料)」という原則を言い続けているが、
1,000円、2,000円の書籍を売っている隣で、どんどん100円、500円の古書が出回る時代というだけでなく、
ネット上では、タダ(無料)で、それと同等の情報をいくらでも得ることが出来るようになってきているということです。
それは、著作権の侵害だと、また多くの人は叫ぶ。
しかし、情報そのものは、それを独占、秘匿することによってのみお金が取れるのだということを忘れてはならない。
このことは、わたしとあなたのすぐ隣でおきている現実が、
先の権利が虚無な主張にしかすぎないということをどんどん立証していく。
情報はなによりもその本源的性格からは、社会の公共財であるべきだ、という原則がある。
このあるべき社会に向って、世の中は確実に今「進歩」している。
もちろん、まだ巻き返しのエネルギーは衰えるどころか、加速すらしながら当分の間、襲いかかってくるだろうが、
格別なお金をかけなくても、多くの人が所得や身分の制約を受けることなく、かなりのことが出来る世の中になりつつあるのは間違いない。
本当の個人の付加価値生産能力が問われる厳しい社会かもしれないが、
それは既得権にあぐらをかくことなく、ひとりひとりが真に創造的に生きる社会への入口であるとも言えるだろう。
(余談ですが、私の不連続シリーズ「近代化でくくれない人びと」は、土地所有から排除されたり、身分を差別された人びとであるがゆえに、
,その社会では丸裸にされ、それゆえに人間として様々な技能を身につけることを必然として来ざるをえなかった流れとして、このこれから私たちが直面する「お金のかからない社会」の共通構造を感じるのです。)
このことは、同時に、営利目的にジャンジャン金を取れる領域が縮小していくことでもある。
単純な労賃や手数料収入や権利収入の領域は、これも当面、増加し続けることだろうが、
情報化社会が成熟してくるにしたがい、そうした領域で多額のお金を取ることも難しくなってくる。
私はこうした視点を前提にしているので、うちの店では、業界の動向の問題よりも
まず平均単価を下げる努力を抜本的に継続してしなけれなならないと考えている。
手間のかかる方向ではあるが、単価を下げ、回転率を上げる。
お客さんが買いやすい商品の比率を増やすこと。
ベースをそこにおいた方が、厳選された高額本はよりよく見えるようになる。
もちろん、そのための情報を増やすこと、これが一層大事になると思っている。
いろいろな運の良さもあっただろうが、業界がマイナス成長の時期に入ってから7年間、
書籍の売上げを伸ばし続けることが出来ているのは、この考えを前提としていたからだと思っている。
厳しいことを要求するように見えるかもしれないが、
お金をかけずに自分の労力を増やす。(あたりまえか?)
自分の労働からルーチンワークを減らし、新しいことを試す時間の比率を圧倒的に増やす。
そんな方向の準備をいま加速している。
お金は無くとも、かなりのことは出来る時代にもう入っているので、
あとはもう自分の頭の中の力の問題。
優秀な人の仕事を見るほど、その頭の違いは、頭脳の良し悪しよりも、
思考作業を分解してひとつひとつクリアしながら積み重ねる能力だと思う。
もう自分に必要なものは、すべて揃っている。
・・・・はずだ。