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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

気になる地名、太子(おおし)(たいし)大子(だいご)、太子信仰のことなど

2015年10月27日 | 歴史、過去の語り方

「かみつけの国 本のテーマ館」のなかの「戦争遺跡と廃墟の美学」でも触れていますが、

群馬県の長野原から先に、廃線となった太子線という鉄道があります。

義父からそれが、太子と書いて(おおし)と読むのだと聞きました。

              (長野原ー太子線 太子駅跡 )

 

戦争中、金属不足を補うために急きょ、突貫工事で作られた路線で、

鉱山跡があることから太子信仰がらみの地名と思ったのですが、

読み方が違う。

いったいどういう意味なのかと思いました。

 

さらに紛らわしいのは、数年前、茨城県の袋田の滝へ行ったとき、

その土地が大子(だいご)と読むのを知りました。

ここは、吉村昭の水戸天狗党の乱を描いた「天狗争乱」や「桜田門外ノ変」などで、

水戸藩士の逃亡先などとして、やたら出てきた地名。

小説を読んでいたときは、おそらく意識していなかっただろうから、

ルビがなかったら勝手に太子(たいし)と勘違いしていたのではないかと思います。

 

また、群馬の長野の県境にまたがる熊野神社へ行ったとき、

太子信仰の石碑を見て、そういえば長野の方が太子信仰が盛んであることを

思い出しました。

 

結構、あちこちでみられる地名の太子と太子信仰の関わりは、

いったいどんなものなのだろうか。

 

 

しばらく、そんな疑問も忘れていたのですが、かつて読んだ

五木寛之・沖浦和光『辺界の輝き』が文庫化されたので、

大事な本なので再読してみました。

すると、タイシ、ワタリについてや周辺の話題がやたら出てきました。

 

 

 「ワタリ」「タイシ」については、井上鋭夫『一向一揆の研究』での論及が大きな影響力を持ってるようです。

この本は、分厚く入手しにくいらしい。

「あっ、それ持ってる」と思ったら、

私の棚にあるのは笠原一男の『一向一揆の研究』(山川出版)でした。

 

 

写真は、現在入手可能な井上鋭夫の代表的著作『山の民・川の民』(ちくま学芸文庫)

 

 

行商人、船運に従事する人たちや金堀り、木地師、大工などに広く信仰される太子信仰が、

次第に親鸞などの浄土信仰に吸収されていく。

いや、おそらく後先は地域によって必ずしも時代通りとは限らず、

浄土真宗のなかに後から太子信仰がくっついてきた場合もあるかもしれない。

 

信仰していた人びとでも、上記の行商人や船運に従事する人びとと、

金堀りや大工などの職人たちとは、ちょっと分類が違うような気もしますが、

大きくは「雑種」というくくりでまとめて良さそうです。

 

いわゆる「士農工商」に入らないエタ、をのぞく人びとで、

「工」や「商」のようであっても、定住性のない人びと、

あるいは人別帳に載らない人びとなどが中心。

ここには農業を兼ねていない林業、漁業の人びとも、かなり含まれてくる。

もちろん、明確な線引きは難しい世界。

でも、どうやら職種で判断するより、「定住性のないこと」が

意外と大事な目安になるような気がしました。

 

となると、サンカやマタギが当然思い浮かぶ。

山伏や乞食僧らもからんでくる。

 

こんなふうに思いつくままあげてみると、人口構成比のなかで

意外と多くの人びとが「雑種」といわれるなかにいたのではないだろうか。

これから近世の歴史などをみるときに、私たちはもっと「士農工商」以外の

人びとの実態を含めて考えていかなければなりません。

 

これらはきちんとした研究ではなく、数冊の本を読んだだけの私の印象にすぎません。

ちょっと心細いので、ググってみると、

「忍の道」なるサイトにここにかかわることが詳しく出てました。

http://members3.jcom.home.ne.jp/1446otfh/ban1000/dusto/ninj/nin-2.htm#3

 「井上の一向宗研究は、一向宗そのものよりも、原一向宗とでもいうべき一向宗 以前の姿を、太子信仰のなかに探ったというべきものである。井上によると、 山伏修験者たちは蔵王権現はじめ大日・阿弥陀・薬師・観音・地蔵・不動など の諸仏菩薩を信仰した。一方、彼らに使役された金堀りたちは諸仏菩薩より一 段低い信仰対象を与えられた。山王にたいする王子のようなもので、信仰にも 階層差別があったことになる。従って、太子信仰は元は王子信仰にあり、金堀 りは太子信仰であったがゆえに後にタイシあるいはワタリと俗称されるように なったという。 」

 

「太子信仰は元は王子信仰にあり」ということがそのまま、

太子を(おおし)と読むことにつながるわけではありませんが、

このサイトはとても参考になりました。

 

柳田国男は「太子講の根源」という項で以下のように述べてます。

「すなわち我々の迎えて祭った神々は、常に若々しい姿をもって信徒の前に出現なされ、
人はそれを天つ大神の御子と思っていた故に、通例は大子と呼んだことがあるらしいのであります。
後世漢字の用法が厳格になってからは、天つ日嗣(ひつぎ)の御子に限ることになりましたが、
その以前久しい間、田舎ではこう書いてオオイコもしくはダイシと称えることが、
広く名門の家庭までも及んでいた証拠があります。
神にはなおさらのことで、それが一方には弘法大師となり、他の一方には聖徳太子諸国御遊歴の
話ともなったかと思います。
そうして東国には別に仏法とは縁のない太子講が、現在もなお行なわれているのであります。

      柳田国男『女性と民間伝承』角川文庫 

 

また、『日本の伝説』の「大師講の由来」では、

だいしはもし漢字をあてるならば、大子と書くのが正しいのであろうと思います。もとはおおごといって大きな子、すなわち長男という意味でありましたが、漢字の音でよぶようになってからは、だんだん神と尊い方のお子様のほかには使わぬことになり、それも後にはたいしといって、ほとんど聖徳太子ばかりをさすようになってしまいました。」

さらに、

「また大工とか木挽きとかいう、山の木に関係ある職業の人が、いまでも太子様といって拝んでいるのも、仏法の方の人などは聖徳太子にきめてしまっておりますが、最初はやはりただ神様の御子であったのかもしれません。古い日本の大きなお社でも、こういう若々しく、また尊い神様をまつっているものがほうぼうにありました。そうしていつでも御身内の婦人が、かならずそのおそばについておられるのであります。それから考えてみますと、十一月二十三日の晩のおだいし講の老女なども、のちにはびんぼうないやしい家の者のようにいい出しましたけれども、以前にはこれも神の御母、または御叔母(おんおば)というような、とにかくふつうの村の人よりは、ずっとそのだいしにしたしみの深い方であったのではないかと思います。」

 

 

今回は、何も結論を出すような内容はありませんが、

・ 太子信仰と浄土真宗の相関

・ 雑種という階層の人びとの実態

・ タイシ、オオシという地名の由縁

とても興味深いところなので、頭の片隅に残して継続して追っていきたいと思ってます。

 

              2013年10月5日     (2014年12月30日更新)

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