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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「当事者意識」の欠落が本を殺す

2018年05月04日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)

「一万円選書」で有名な北海道砂川市「いわた書店」の岩田さんのことは、
これまでも何度か書きましたが、
最近取材された放送「プロフェッショナル 仕事の流儀」のことがネット上で
図書館や図書館司書の問題としてちょっとした議論になりました。

今回の岩田さんの番組、私はまだ見ていないので
この同業者の論議にすぐには絡めなかったのですが、
図書館、教育現場、この業界共通の問題として書いてておきたいことがあるので、
少し論点はずれるかもしれませんが、また短か~く書かせていただきます。


このたびネットで話題になったことの主な論点は、
本来、司書や教師の仕事であるはずの選書を本屋がすることについてのようですが、
わたしは、学校現場の図書館をめぐる深刻な実態以上に
以下のような問題をずっと感じています。

教師であろうが、図書館担当であろうが、司書であろうが、本屋でろうが、
確かに現場にいる限り、誰もが膨大な作業に追われて、
やるべき仕事に手がまわらないというのはどこでもみられる風景です。
 

でもそもそも何のために働いているのかといえば、

ただ給料のためという人も多いかもしれませんが、
その職業を通じて出会った困っているひと、
不自由している人の課題解決こそが職務であるはずです。


それが、その場に「担当」がいるかどうか、
その道の「専門家」がいるかどうかに
あまりにも問題がすりかえられてはいないでししょうか。

それは、たまたま自分が歩いていた場所の目の前に、ゴミが落ちていたときに、

そのゴミを見て「この場所の管理者はだれだ?」
「誰だ、こんなところに捨てるのは?」

と言ってそのまま通り過ぎてしまっているのに等しいことと思います。

いま目の前にあるのだから、自分で拾えばいいのに・・・


つまり、あらゆる仕事の現場で

当事者としての感覚の欠如、
当事者意識の後退が「仕事」の狭い捉え方の拡大とともに
深刻化しているのではないかということです。

まずそこに担当がいないからこそ、
目の前にいる自分が動くべきことでしょう。

「仕事」を与えられた「作業」をこなすことと考えている限り
こうしたことに気づくことはないのかもしれませんが、
近ごろ、教育現場の話を聴くほどに教育者の仕事ってなんなんだ!と
つい怒鳴りたくなってしまいます。

子どもたちのために、まず教師は職員室で闘え!と
言いたくなります。

教師が首をかけてでも闘わないから
子どもたちが死んでしまってるんじゃないのか。

教育委員会や校長の気の抜けた謝罪、弁明はそのあらわれでしょう。


司書云々にかかわりなく、現場の課題に応えるための「調べる力」
「選書能力」を自らの重要課題としないで、なんの教育があるのでしょうか。

そこが行動できれば、たとえ司書がいなくても
学校では個々の教師を通じて立派な図書館の活用が行われることでしょう。

現状に問題があるのであれば、それと闘う先生が学校のなかにいてくれるはずです。

 

以前、この場に書かせていただいた
「それはありません」の一言にすべてがある https://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/c4837a00a6cff5350a9497de3d25a4bd
と共通したことなのですが、

モノとしての本を売る産業は確実に消えていきますが、
情報としての本を扱う仕事は絶対になくならないと確信している根拠もここにあります。


職種、肩書、立場などにかかわりなく

目の前で起きた問題に対しては、その場にいる人こそが
常に最大の当事者であり、それを無視して肩書きや専門性を言いだす人が
いつの時代でも社会をつぶしていくのだと思います。

こうした意味では、比較的どんな職場でも
社員よりもパートやアルバイトの方が、
常に目の前の問題に対しては「当事者意識」を持って
課題に対応できている傾向がある気がします。

肩書きにこだわるような職種、身分ほどなぜか
現場できていることへの当事者感覚は薄れていくように見えてなりません。 


ヒラ社員だろうが、パート、アルバイトだろうが、
専門外であろうが、畑違いであろうが、
その場でいま問題にかかわっている人こそ
常に最大の当事者であること

そして専門家でもなく、肩書もないようなその現場にいる当事者にとって

いつも最も身近で力になってくれる存在、

まさにそれこそが本来は何よりも「本」であると思います。

また、このことこそが、自由に飛び回り活用される「本」の
最大の生命線であるとわたしは信じています。

この核心部分を外した文化の殿堂かのような図書館など
私はこれからの時代には要らないものとすら思ってます。 


岩田さんは、目の前にあらわれた一人の顧客・読者とどう向き合うかを
顧客カルテを通じて実践されましたが、
誰もが目の前のひとつの課題にいまそこにいる最大の当事者として向き合うことを考えれば、
本屋だろうが、
教師だろうが、
司書だろうが
困ったことなど起こり得ないと思います。

そもそも自分こそが課題解決の最大当事者なのですから。

そこの担当者であるかどうかとか、専門家であるかどうかとか
自分にその能力があるかどうか、経験があるかどうかなどといったことは関係ありません。
やり方が上手いか下手かなどということも関係ありません。 


目の前のひとりの子ども、ひとつの現実、ひとつの課題に
精一杯向き合う姿勢ことこそが何より大事で、
それを抜きに安易にカウンセラーなどに頼ってしまうこと自体、
教育としてはアウトでしょう。

病気に苦しむとき、確かに専門医師は不可欠で頼りになります。
しかし医師を選んだり、その前後の健康管理は自分自身の判断に依存しています。

問題をかかえた一人の子ども、一人のお客、一人の取引先など
このとてもやっかいな相手に真剣に向き合った時こそが、
それまでの自分の能力とは関係なく
周りの風景がガラリと変わるときなのです。 

自分の判断そのものの責任を他人に預けてしまう人は
そのまま、自分の幸せも他人に預けてしまう姿でもあります。

またそれは同時に、問題を常に誰か他の人のせいにして
絶対に自分は変わろうとしない
目指そうともしない人の姿でもあります。 

こうした「当事者意識」の後退こそが「本を殺す」のだと私は思います。

どんな本が良いのか、教師や本屋や子どもや親たちが、
迷い悩み考えながら探す作業を抜きにして
誰かに頼んでただ買ってくるだけの関係で、
どんなに立派な設備で膨大な蔵書を置いたとしても
理想の図書館など生まれるはずがありません。

1冊の本の内容を正しく理解しているかなどということは関係なく
自分にとって大切な本、思い出深い本を語れないところに、
本当の「知」や「情報」の生まれる余地はありません。
ただのデータならネット上で十分間に合う時代です。

教科書第一、お受験第一に追い込まれた教育現場に
ここで何かを言ってもしょうがないことかもしれませんが、
なにかを感じること、考えること、調べることを二の次にした教育の
どこに未来の子どもを育てる希望を感じられるでしょうか。


少し今回はボヤキ気味ですが、
少なくとも、単なる文化教養にとどまることなく、
「知」や「情報」の真の力を信じるならば、

何が起きても最も困ったことは起こりえない
困ったことにはなり得ない業種が
本来の本屋、図書館などの情報にかかわる職業なんじゃないでしょうか。

ここが、「本」というものがただ現実逃避の道具で終わるのか
それとも、現実に立ち向かうための力になりうるかの
大きな分かれ目になるのだと思うのです。


私の場合、やや実用性に偏った本の見方をしているように捉えられがちなので
そうではないことのことわり書きを加えないといけないかと思っていた矢先、
「NASAより宇宙に近い町工場」で知られる植松努さんの講演映像を見て
https://www.youtube.com/watch?v=gBumdOWWMhY
本の持つ本来の力、教育現場の問題、まさにその通りと背中を押されました。


岩田さんから久しぶりに電話があったこともあり、
毎度、感情のおもむくままの乱文で恐縮ですが投稿させていただきました

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