・・・と言うわけで、
同業者間の半年ほど前の話の続きです。
なんのことかって?自分でもよくわかりませんが(笑)
「独立系書店の独立宣言」http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/cb2c95d367966a5fdb09f45880a4739fや
「10年後に生き残る書店像」http://www.hosinopro.com/about1
などを書いてから、あれよあれよと言う間にもう10年は間近に迫ってしまいました。
その間、現実はさらに変化して、現象を見ると私の軸足も微妙に変わってきたような気がします。
まだ右肩上がりの余韻の残る時代は「こうすれば売り上げはまだ伸ばせる」といった方法論に魅力がありました。
それが市場縮小時代が確実になると、売り上げが伸びようが伸びまいがそれらにかかわりなく、「仕事のためにする仕事」ではなく、また「売上げのための仕事」でもなく、「生きていることが仕事になる働き方」こそが、単に目指すべきことというだけでなく、無視することができない不可欠の要素になってきたように見えます。
あらためて「独立系」という言葉にこだわって考えてみれば、これこそが何も変わらない普遍の軸足であることも再確認できます。
最近、こうした考えをさらに深く掘り下げてくれている一文に出会いました。
その文章をより多くの人に知っていただきたく、以下に引用させていただきます。
菅啓次郎という詩人(翻訳家)の文章なので、わずかな引用でも著者にはシビアに見られるものと考えられますが、とても内容が濃く凝縮された文章なので、勝手に改行などネット画面向きにあらためておりますが、一語一語嚙みしめて読んでいただけたらと思います。
効率よく利潤を上げることを最大の目的として動く貨幣の「共和国」に対して、すべての書物を「共有物」とする第二の「共和国」は、反響と共鳴と類推を原理として、いたるところで新たな連結を作り出してゆく。
そこでは効率や利潤といった言葉は、口にすることすら恥ずかしい。
人々は好んで効率の悪さ、むだな努力、実利につながらない小さな消費と盛大な時間の投資をくりかえし、くりかえしつついつのまにか世界という全体を想像し、自分の生活や、社会の流れや、自然史に対する態度を、変えようと試みはじめる。
きみもすでにそこに属しているに違いない書店の共和派は、たったひとりの日々の反乱、孤独な永久革命を、無言のうちに誓っているのだ。
ただ本屋を訪ねつづけることが、彼/女の唯一の方法論であり、偶然の出会いが、彼/女のための唯一の報償であり、それによってもたらされるわくわくする覚醒感と知識の小さな連鎖的爆発が、彼/女の原動力だ。
そして書店の「共和国」は、ドルを参照枠とするお金の「共和国」に、対抗する。
反乱を宣告する。
この理由も、また明らかだ。
後者が全地球的規模のひとつの「システム」であるのに対して、前者は各地の新刊書店、古書店、学校図書館、地域の図書館、個人個人の蔵書などと突発的に無限につながりつつ、あくまでも不可算の「反システム」でありつづけるから。
世界を単純にまとめようとする力と、世界を分散させ見出された複雑さにおいて知ろうとする力は、水と油よりも相容れない。
たしかに書店は、ある程度まで商業の論理にしたがい、システムの一部をなすだろう。
けれども本という物体には、どこか動物じみたところがある。
それは生まれ、飼い馴らされ、売買されることがあっても、どこか得体の知れないところ、人の裏をかくところ、隠された爪や牙、みなぎる野生がある。
そんな本という物体の流通の場をなす書店の「共和国」が、だから森林や平原や砂漠や海岸に似ているのは、あたりまえだ。
本をあてどなく探すという行為がしばしば狩猟にたとえられることも、頷ける。
あとは、そうした本の(途方もない集合として見られた書物の)手のつけられない本性、脈打つ根塊にひそむ想像への無数の芽吹きを、よく感じとりそれに対応することが、個々の書店におけるローカルなミニ気候を決定することになるだろう。
その気候を、気概と呼んでもいい。
(管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』左右社より)
つまり、もともと広大な荒野へ飛び出す魅力に取り憑かれたわれわれの側からすれば、一つふたつの取次が無くなったり、一つふたつの大手出版社が消えたり、一つふたつの業界団体が消えたところで、「ギョーカイ」にとっては大問題かもしれませんが、こちらの「共和国」にとっては、それほど大きな問題にはなりえないのです。
はなからその先に何が待っているかは想像もつかない広大な荒野に飛び出すことこそが、自由溢れる「共和国」の側にいる本と本屋の本分なのですから。
見ることができないその先には、断崖絶壁があるのか、はたまたオアシスがあるのか、あるいは竜宮城のような夢の世界が待ち受けているのか、ハーレムあるのか、そもそも自然界では全く予測のつかない環境の中で生きていることこそが「自然」なのです。
また「予測がつかない」と言ってしまうと、ここで生き抜く「野生的」なるものを、ついオオカミやライオンのような強い肉食動物ばかりが勝つ姿を想像しがちですが、現実の自然界の動物は圧倒的多数が草食動物です。
筋骨隆々のゴリラは草食ですし、象やサイも草食です。
そういうことだけではなく、度重なる地球生命の危機を乗り越えてきたのは、爬虫類でありゴキブリであり、バクテリア・微生物たちであったわけです。
この第二の共和国の側にある「野生」が意味しているのは、必ずしも「強さ」のみによって表現されるものではなく、むしろそれは、「単一性」や「均質性」といったものに対立する「多様性」こそが本分なのだと思います。
「単一性」や「均質性」こそが、自然界の歴史では滅びる側の摂理です。
サバンナを生き延びる野生動物ほどの苦労はせずとも、温帯気候の中で生きている私たち人間は、圧倒的な大自然の恵みの中で豊かに暮らしてきました。
それと同じく、私たち本屋も、その恵みである本や情報は、決して枯渇する心配など不要なほどの豊かな恵みをもたらしてくれています。
さしあたって本が開いたからといって、突然その野生の本性をあらわし、ページをパタパタ羽ばたかせてどこかへ飛んで行ってしまう心配はありません。
また、本から突然足が出て、ものすごいスピードで逃げて行ってしまう恐れもありません。
現代社会には「情報洪水」などという言い方もありますが、そもそもこの大自然、宇宙にいる限り私たちは、絶対に汲み尽くせない「情報」や果てしない「謎」の中で私たちは生きているわけですから、私たちの側に存在する「不滅の共和国」への信頼が揺らぐことはありません。
大自然の恵みのなかで「野生」という本分を備えて「多様性」や「はみ出す力」こそを生存の条件とする側に生きている私たちには、どんな「ギョーカイ」側の大きな衝撃があったところで、ダメージは受けてもそもそも「困ったこと」などおこりえないのです。
ちょっと暴論に聞こえるかもしれませんが、長い歴史を見れば、これが必ずしも暴論ではないことに気づいていただけるかと思います。
野生の大地に立っているからこそ、数多の未知の世界についての本をあさるのであり、社会の未来を知る手がかりを求めるのであり、経営の本、営業方法の本、自己啓発の本地域や歴史の本、人間関係や家族のあり方をえがく物語にとめどなく惹き込まれつづけるわけです。
切実に困った現実に直面している私やあなたこそが、もっとも多くの本や情報を得ながらチャレンジし続ける野生の本性を持っているわけですから。
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