かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

異議アリ、忍者検定

2008年04月23日 | 上野国「草の者」研究所
滋賀県の甲賀の里にて、第1回忍者検定なるものが開かれたニュース。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080329-00000036-kyt-l25

面白い良いことだと賛辞したいところだが、
かみつけの国 「草の者」研究所としては、
その内容をよくみると、あまりにも時代劇のイメージばかりにとらわれて
実践的な理解に乏しくみえるその企画に異議をとなえざるをえない。

忍者の武器や歴史などについての基礎知識は、ある程度必要かもしれないが
そこに忍者といわれる特殊な集団や個人の本質を垣間見るような設問設定は感じられない。

忍者検定そのものが、なにを目指しているのか?
それは観光事業の一環ではないはずだ。

第1回の試みとして、まず、なによりもはじめてみることは大切。
しかし、これからのことを考えると、
今の内容は大幅に見直して次回につなげる発想を持ってもらいたいと思います。


わたしならば、今回の問題、ペーパー試験は全体の検定の4分の1程度にします。

生死を賭けた忍者の闘い方は、常にマニュアル通りというわけにはいかず、
絶えず、そこにある条件のなかで結果を出すことが求められる。
その答えの出し方は、個人個人が自分の持っている特技や資質を十分に活かしながら
応用力や現場での判断力をフルに発揮しながら為されるものでなければならない。

とすれば、
第二部の試験は、歴史や時代小説に語られた忍者の活躍、それぞれの事例に対して
自分ならこうするという独自の見方が常に必要だ。
諜報力に長けた者、長距離の走破に長けた者、火薬や毒薬などの知識に長けた者、体力の衰えた年寄りでも変装術に長けた者、文字道理くノ一の術で策謀を図る者など、
自分の特技あってこそ、語れる世界です。
検定などで計れる一般的水準の知識や能力の獲得よりも、
自分固有の技術をいかに見いだせるかが、忍術の核心部分だ。

それを池波正太郎なり司馬遼太郎でもいい、小説の特定場面に対してでも
自分ならこうするという小論文を書かせるべきだ。


で、第3部は実技試験。
これも、安易に総合力を試す試験にする必要はない。
その人の最も得意とする技術を、困難な条件下でも最大限発揮できるかどうかが大事だ。

手裏剣を定位置から的に当てる技術などでは試験にならない。

通常の歩行中なり日常生活のなかで、不意に敵に出会ったとき、
懐などに忍ばせてした武器を素早く取り出して闘えるかどうかが大事だ。
そのような実技試験でなければならない。


そして第4部は、現代への応用編。

忍者とは、時代劇の世界の話ではなく、
いつの時代でも、
どこの世界でも、
常に姿を変えて存在し続けてきたもの。

であるならば、混迷を極めるこの時代でこそ、
時代劇の世界以上に忍者の能力は発揮されるべきだ。

で、考えられる設問。

例えば、自分の使える主君が思わぬ不祥事を起こしたとする。
明日の朝の謝罪記者会見までの間に、主君を救う最も有効な手だては何か、
といった設問。

あるいは、中越地震での山古志村みたいに災害で孤立した地域があったとする。
そのとき、自分ひとりで出来る最も有効な救援方法を考えよ、とか。

さらには、第2の地下鉄サリン事件の予告があったとする。
そのとき、高度な設備や金もかけない状態で、自分ひとりでできる対応策、予防策を考えよ、とか。



かみつけの国「草の者」研究所は、
そんな現代の闘える忍者組織を目指しています。


 正林堂店長の雑記帖 2008/3/31(月) より転載
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