“古希を迎えた四日市”昭和42年8月15日の中日新聞より。勿論、本町のカイマス氏提供でアリマス。
「市制70周年を記念しての連載企画もついに最後の章になった」で始まる記事は、戦後の街が書かれていました。
「昭和20年夏の戦災で焼け野原となった後の復興は、あまりにも激しく、明治、大正を偲ぶ“よすが”はいま何一つとして残されていない。失った過去のあとにより巨大な現在が建設されたことである」と、復興の力強さを巨大ということばで表現しています。
「たとえば、市の中心を走る70メートル道路。両端に建つしょうしゃな近鉄、国鉄駅。県下最大の諏訪繁華街などすべて戦後のものであり。戦前までのこれらの土地は荒地か田んぼにすぎなかった。そして、かつての繁華街“中町銀座”や竪町、南、北両町の通りは今では単なる家並みに過ぎない。
諏訪駅前 辻俊文氏
諏訪繁華街の芽生えは終戦後まもなく、当時その中にあった近鉄諏訪駅の南側に諏訪マーケットができたことに始まる。いずれもバラックばかりが軒を競った。続いて三四百貨店(聞こえはいいが当時はバラック式のマーケット)ができ、近くに四日市ストア、呉服町通りなどバラック商店街がまたたく間に形成された。
諏訪マーケット 辻俊文氏
商店街というのは不思議なもの。何かが契機で急に町ができる。人を集めると大きくなってついに不動の地位を築く。諏訪連鎖街はその典型だった。
この諏訪連鎖街に対抗し、国鉄四日市駅周辺にできたのが三和商店。当時新生マーケットと呼ばれ、さらに近くに四つ谷、湊マーケットができ非常ににぎわった。だが昭和26年に大火を出してほとんど焼け、近鉄路線の変更で急激に衰退した。
近鉄駅前 山路昭雄氏
近鉄路線の変更は町の形を大きく変え、70メート理道路の拡張工事は、27年に一応出来上がったものの、広すぎてまるで原っぱ。同年この道路で、四日市博覧会が開かれた。
諏訪駅 山路昭雄氏
当時近鉄は現国鉄駅の位置に四日市駅があり、諏訪新道の裏。市民ホールの北側に沿って1番街に抜けていた。諏訪駅は諏訪栄町のど真ん中にあった。
この路線のカーブが激しいため30年に現路線への変更、現近鉄の建設に着手(30年は四日市高校が甲子園で優勝した年である)翌年完成した」
甲子園優勝 山路昭雄氏
「市制70周年を記念しての連載企画もついに最後の章になった」で始まる記事は、戦後の街が書かれていました。
「昭和20年夏の戦災で焼け野原となった後の復興は、あまりにも激しく、明治、大正を偲ぶ“よすが”はいま何一つとして残されていない。失った過去のあとにより巨大な現在が建設されたことである」と、復興の力強さを巨大ということばで表現しています。
「たとえば、市の中心を走る70メートル道路。両端に建つしょうしゃな近鉄、国鉄駅。県下最大の諏訪繁華街などすべて戦後のものであり。戦前までのこれらの土地は荒地か田んぼにすぎなかった。そして、かつての繁華街“中町銀座”や竪町、南、北両町の通りは今では単なる家並みに過ぎない。

諏訪繁華街の芽生えは終戦後まもなく、当時その中にあった近鉄諏訪駅の南側に諏訪マーケットができたことに始まる。いずれもバラックばかりが軒を競った。続いて三四百貨店(聞こえはいいが当時はバラック式のマーケット)ができ、近くに四日市ストア、呉服町通りなどバラック商店街がまたたく間に形成された。

商店街というのは不思議なもの。何かが契機で急に町ができる。人を集めると大きくなってついに不動の地位を築く。諏訪連鎖街はその典型だった。
この諏訪連鎖街に対抗し、国鉄四日市駅周辺にできたのが三和商店。当時新生マーケットと呼ばれ、さらに近くに四つ谷、湊マーケットができ非常ににぎわった。だが昭和26年に大火を出してほとんど焼け、近鉄路線の変更で急激に衰退した。

近鉄路線の変更は町の形を大きく変え、70メート理道路の拡張工事は、27年に一応出来上がったものの、広すぎてまるで原っぱ。同年この道路で、四日市博覧会が開かれた。

当時近鉄は現国鉄駅の位置に四日市駅があり、諏訪新道の裏。市民ホールの北側に沿って1番街に抜けていた。諏訪駅は諏訪栄町のど真ん中にあった。
この路線のカーブが激しいため30年に現路線への変更、現近鉄の建設に着手(30年は四日市高校が甲子園で優勝した年である)翌年完成した」
