歌川広重は、実際に東海道を旅して浮世絵を描いたのではないらしい。43番目の宿場にあたる四日市は、追分で伊勢参宮との分かれ道になっていて、名が知られていた。隷書版の“参宮道日永村”の図
そして、行書版“参宮道追分”の図
さて、四日市宿(よっかいちしゅく、よっかいちじゅく)は、東海道53次の43番目の宿場である。現在は三重県四日市市。幕府直轄の天領であり、代官所が置かれていた。宮宿との間に「十里の渡し」があった。宿内人別:7114人(男3522人、女3592人) 宿内総家数:1811軒(本陣2、脇本陣1、旅籠98)。ウィキべディアより
東海道分間延絵図より四日市宿
さてここで保永堂版広重の四日市宿の絵ですが、
この川は三滝川か?ということで 確かに三重川(三滝川)と解説があります。
三滝川とは・・・花崗岩帯である御在所岳(三重県菰野町湯の山)に源を発し、四日市市を潤し伊勢湾へ注ぐ。源流付近の三つの滝、蒼滝、潜戸の滝、百間滝が名前の由来とされる。古くは、三重川として知られ、広重の東海道五十三次の四日市宿にも描かれている。四日市市末永町には、北東方向に分派する放水路(三滝新川)があり海蔵川に至る。ウィキペディアより
もう一度四日市宿の延絵図を見てほしい。浜の様子までよく分かります。
左側 浜の先端に 熱田宿へ渡海 旅人乗船場 海上十里 とあり十里の渡しがありました。右に二ツ橋があります。
これは、江戸末期の図。阿瀬知川河口がうねって浜を作っているのが見て取れます。三滝川はこの絵の右外に流れています。東海道の解説本に三滝川にかかる四日市橋のことが描かれていました。
浜一色村に属する川原町を北川原町(四日市橋の北側)、四日市宿に属する川原町(橋の南側)を南川原町と呼び分けていたとも伝わるが、この川原町あたりから四日市宿としての景観がうかがえる。ただし、三滝川の土手が高いので、いったんこの堤防の坂道を上がり、三滝橋(四日市橋)を渡ってもう一度土手を下る。三滝川の両岸には川水取水用の「指圦(ゆびいり、と読むのか?)」すなわち水門が東側と西側に一か所ずつあった。西側の「指圦」を超えると、いわゆる四日市宿となり、街道はほぼ南の包囲で宿内に入っていく。浮世絵からは、坂道らしき様子はありません。次の絵は江戸末期の耕地図です。
三滝川が埋立地(?)のすぐ横を流れています。次の図は、享保時代(1716~35)の四日市宿の図です
阿瀬知川も流れ込んでいたけれど、四日市湊は三滝川の川下だったんじゃないか?と思うのです。つまりこの絵は、現在の開栄橋あたりの、十里の渡しが遠くに見える風景ではなかったのか?と・・・
浜の様子がよく分かる動画を作られた方がみえました。失礼します
ということは、この絵の道は東海道ではなく、浜往還ということでしょうかね。
この絵からは大名行列が通る風景は想像できませんね。お籠が通ったら壊れそうな橋。(笑)
ところで、四日市の十里の渡しと桑名の七里の渡し。
尾張の宮の渡し場では、両者の壮烈な客引き合戦があったのでは?(興味しんしん)