花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

稲葉翁伝㉒ 伊勢暴動

2021年10月03日 | レモン色の町

三右衛門のところに、明治8年1月より官営(県営)で港工事に着手すると通達が届く。話は前後するが、県庁は明治7年1月、四日市から津へ移庁され、岩村定高参事は権令に、鳥山重信権参事は参事に昇進し、四日市には支庁が置かれている。県が官営にする理由は、

  • 汽船の出入り逐次頻繁となるにつれ、現在の四日市港は至急改修の余地があること。
  • 港湾の如き重要な公益事業は私人の手に委ねて、入港船舶に屯税を徴収せしむる如き手段をとらず、官庁の手で経営して、これを公開するのが正当であること。
  • 稲葉三右衛門は資力乏しく、これに任せておいては、何時出来るが、到底 成工の見込みが立たない事であった。

開栄橋と蓬莱橋を架設まできたが、官営地の払い下げが出来ないため資金繰りに窮している。ここまでしたのに県は事業を横取りしようとしていると見た稲葉三右衛門は、大阪地裁に訴え出る決断をした。

明治9年12月、地租改正を不満とする農民一揆が勃発、四日市を襲った。

2021年6月2日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

一隊は竹槍棍棒を手に松明を振りかざし叫ぶ、

「戸を開けろ、酒を出せ、飯をよこせ、みんな表へ出ろ、火をつけ焼き払うぞ」

中納屋の郵便局、三重県庁支庁、裁判所、監獄署と次々燃え上がった。南町の黒川運送店(黒川彦右衛門)では、店の帳簿や荷物が路上に積まれ火を放たれた。その中の一隊は、高砂町の全町65戸を灰燼とし、蓬莱橋を渡って出来たばかりの三菱汽船支店に火を放ち“金持ちの家を焼き払えっ”と開栄橋へ殺到した。その時、橋詰に仁王立ちの素っ裸の姿があった。男は大刀を振りかざし暴徒二、三人に傷を負わせ、三右衛門に「旦那、良かった、もう大丈夫や」と暴徒を追い払って云った。彼は、嘗て荒神山出入りの際、吉良の仁吉の一行に船を出してくれた庄太夫だった。暴徒によって灰燼と化した町を眺めて呆然と立ち尽くす三右衛門。しかし、伊勢暴動は、彼にとってある意味、天祐であり神助であった。 “四日市秘史 港の出来るまで”より

<追記> 昨日、神社の幟立ての合間に、前田氏がお寄り頂き、下記のブログは私がつくりましたと話していかれた。予測は当たっておりました。

お諏訪さんのあれこれ (suwajinjya.jp)

 


稲葉翁伝㉑ 苦闘の6年間

2021年10月02日 | レモン色の町

明治7年9月、四面楚歌の中 県の鳥山権参事から呼び出しがかかった。鳥山は岩村参事とは異なり、三右衛門の事業に理解があった。

「稲葉さん、云い難い話だが、港が現状のままでは困る、相当の献金をしても良いから港の改修を急いで欲しいと廻漕汽船会社から話が来ている。個人の力では無理な工事、官の手で進めてはどうかと。」

「工事が遅れて申し訳ありません。埋立地の1万1千坪も護岸工事の一部を残すだけで九分通り竣工しました。埋立地の内、官有地の土地だけでも払い下げ頂ければ、その資金で波止場工事に掛れるのですが。」

「そのお考えは分かります。しかし、築港工事も済まないのに土地だけ払い下げるのはどうか、という意見もあるので・・・」

四日市へ戻った三右衛門は、その夜、おたかに話した。

「私の今までの考えが甘かった。おたかにさへ異存がなければ、土地も倉庫も、持ち船もすべて手放し、裸一貫になって工事に打ち込む、今日限り戸長もやめるし、店も閉める。」この決断は、参事鳥山を感心させた。

悪いことは続く。その年の10月30日、内務省より土木賦課金 築港税として4,5000円の請求が来た。続いて既成工事についての厳格な通達が届く、明治6年3月起工して1年9カ月、すべてのものが一時中断された形となり、それより明治13年まで苦闘の6年間が続いた。


稲葉翁伝⑳ 子安観音

2021年10月01日 | レモン色の町

明治7年5月27日夜半過ぎに、頼りにしていた実兄 川原町の山中伝四郎(香斎)は静かに息を引き取った。後日(明治21年)三右衛門が藍綬褒章を賜った際、息子 甲太郎に語っている。「私が今日の栄誉は、兄のお陰じゃ。私が波止場で苦しんでいる最中 権五郎さんに死なれた時は、私の一生を通じて一番悲しいことじゃった。」しみじみ述懐したという。

現 稲葉邸より東 開栄橋を望む

波止場工事の資金繰りは厳しい状態が続いた。新丁の請負師 長谷川庄兵衛は、押しかける人負をなだめすかす日々が続き、三右衛門も稲葉家伝来の書画骨董品を売りに出した。これが逆効果になり悪い噂が流れ、工事の妨害となっていった。

明治末期

かかる困難の中、6月10日未明に おたかは次男乙次郎を生んだ。母親の気苦労と、子供も病弱で乳が少しも出なくなり、人工栄養に頼らなければならなかった。8月末、残暑の中、おたかは乙次郎を抱いて 沖ノ島の子安観音へ乳貰いと祈祷を受けに出かけた。

現在の沖ノ島観音寺

子安観音は現三滝通り沿いにあり、郵便局の西側にあった(現在の沖ノ島観音寺である)。道路に面して地蔵尊が祭ってあり、奥には観世音菩薩を本尊とした小さなお堂があって若く美しい尼さんが住んでいた。おたかは中納屋の自宅を出て、納屋小学校(現 なやプラザ)の南側を西へ、現在(昭和31年当時)の東駅前通りと相生橋とが交差する十字路の処へ出て、今は諏訪新道(本町通り)となっている細い耕作道を真っ直ぐ西へ上って沖の島へ行った。当時諏訪新道は両側が田圃で、今の四日市警察署前(本町プラザ)、新丁へ入る角には肥溜めの赤甕が三つも四つも並んでいた。

観音寺入り口

子安観音で祈祷をして貰ったおたかは、帰路 新丁を左へ折れ不動寺横から得願寺で墓参を済ませた。下新町から新丁を経て丸池へむずかる乙次郎を抱いてさしかかると、十二三才の腕白坊主らが、「♪ 稲葉もろとも長谷川ともに 浜に立つのは二人連れ」と囃子歌を歌いながらぞろぞろついて来る。果ては路上の石を拾って投げつける始末、おたかは新丁の船頭利助の処へ逃げ込んだ。

「あの時程 くやしいことはなかったよ。」後年 おたかは、女中のお美代にしみじみと話したと伝えられている。

<ついき> 9月の内にご紹介をと 気づいたら10月 我が青春の歌 と、柄にもないデス

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