花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

昭和34年のグリーンモールでは?

2022年01月18日 | レモン色の町

東は東海道と、西の突き当りは諏訪劇場に挟まれた、現グリーンモールは、約20軒の店舗が両側に並ぶ商店街で“諏訪中央商店街”と呼ばれていました。家からも近く、浜田小学校への通り道であったことから、思い入れも多い街です。

諏訪劇場の前に“諏訪花園”がありました。これは、昭和34年12月30日の辻さんの写真です。この年の9月26日、四日市まつりの日に伊勢湾台風が東海地方を襲いました。当時はまだ戦後のバラック建ての家も多く、我が家なども南側の建物の一部である塀が倒れる被害が出ました。しかし、床下浸水で済んだ店舗が多かったと思います。

この写真は、翌年の昭和35年、東向きの写真です。左に精養軒さんの車が停まっていて、その上に“スタンドバー 星座”の看板が見えます。この後、スタンドバーからキャバレーに変わった“星座”さんには、良く連れ立ってお邪魔したものです。40年ほど前のことでした。「延長する?止める?」と、声を掛け合いましたが届かず、ズルズルと居座ってしまいました。延長料8,000円でゴザイマシタ。

昭和43年のゼンリンマップ。四日市東映の奥に“水谷”とあります。この方が映画館を立ち上げた方の住まいでした。この年の2月に閉館します。

昭和53年のゼンリンマップです。この頃になると、四日市東映はジャスコB館になっています。

付録の第2弾です

 

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昭和34年 月光仮面 怪獣コング

2022年01月17日 | レモン色の町

昭和33年、浜田小学校から“諏訪劇場”だったと思います、東映初のアニメ“白蛇伝”を観に行きました(学校で上映されたこともあった)。当時は“文部省選定”とか“文部省特撰”作品が、授業の一環になったものです。そういえば、捕鯨の映画を学校で観た記憶がある。鯨は捨てるところがない、日本にとって大切な資源です という事を教えられた。あ、南極観測船「宗谷」の映画もあったなぁ。

店の南側には、町の映画館の看板がズラリと並んでいて(無かったのは、本町の“四日市東宝”だけでした)タダ券(招待券)が貰えたので、毎週土曜日の夜は必ず映画館へ出かけました。(1本平均1時間30分 2本立てでニュースと予告があって、開始:6時15分・終了:9時30分頃“蛍の光”の曲が場内に流れた)

昭和34年、当時は大瀬康一の“月光仮面”がテレビで大ヒットしていて、東映が木村文武で“月光仮面 怪獣コング”を作りました。喜び勇んで諏訪劇場へ出かけたのですが、当夜は歌謡ショーがあったため、観ることができませんでした。この頃もまだ、平常料金、入れ替え無しで実演歌謡ショーがあり、演歌と寸劇で構成されていたのでした。

千恵蔵と歌右衛門の“忠臣蔵”や、大川橋蔵の“新吾十番勝負”、中村錦之助の“宮本武蔵”や、大友柳太郎の“怪傑黒頭巾”など多くの時代劇が、毎週2本立てで上映されました。それは、東映時代劇の黄金期でした

特別付録:昭和30年当時の懐かしい付録

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昭和32年 美空ひばりが来た夜

2022年01月16日 | レモン色の町

昭和32年7月24日、諏訪劇場周辺は興奮の渦に包まれました。あの、美空ひばりがやってくるというのです。劇場には大勢の人が押し寄せました。入り口付近には用心棒らしき男の姿が見え、険しい目つきでこちらを睨んでいます。辻さんは、よくぞカメラを向けたと思います。

美空ひばりは、昭和29年『ひばりのマドロスさん』で第5回紅白歌合戦に初出場しました。昭和30年には江利チエミ、雪村いずみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博し、親交を深めます。昭和31年、ジャズバンド小野満とスイングビーバーズの小野満と婚約。その後、この婚約は破棄となりました。初の那覇公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員。離島からのファンで那覇港は大混雑しました。

昭和32年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院しました。現場に居合わせたブロマイド業者らによって塩酸をかけた少女は取り押さえられ警察に引き渡されました。犯人の少女はひばりの熱烈なファンだったということです。この事件をきっかけにひばりは、山口組の田岡にボディガードを要請し、代わりに興行権を神戸芸能社に委ねます。(この年の昭和32年4月27日、小野満とシックスブラザーズを伴い、四日市の諏訪劇場に来ています)その後、歌舞伎座公演に復帰(奇跡的に顔に傷は残りませんでした)。また、紅白の裏番組として放送されていたラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)の『オールスター大行進』に出演していたため出場していなかった紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、出場2回目にして渡邉はま子、二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリ(大トリ)を務めあげ、当時のひばりは既に芸能界における黄金期を迎えていました。ウィキペディアより

この日、諏訪劇場では、大映作品の“女の肌”(川口松太郎 原作 島耕二 監督 京マチ子・淡島千景・根上淳)を上映中でしたが、急遽“美空ひばり 歌謡ショウ”に切り替えられました。

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昭和21年 瓦礫の中に建った近畿館

2022年01月15日 | レモン色の町

これは、昭和21年か22年頃の空撮です。おそらく米軍が撮ったものと推測されますが、すでに諏訪駅が出来ており電車が走っているようです。諏訪駅の南に、大きな建物がハッキリと確認できます。瓦礫の中から、いち早く近畿館は建ちあがりました。

昭和21年頃

昭和21年4月、近畿館が実演劇場として開館。戦争で大都市の多くが焼失し、芸能人が地方へ流失しました。憧れのスターが目の前で見られるから劇場へ殺到する。芸能人たちは食糧難の都会を脱出して田舎でおいしいものに舌鼓が打てるから、お互いに大うけとなりました。宝塚歌劇団、新国劇、柳家金語楼劇団(四日市東宝)、田畑義夫、小田実、春日八郎、美空ひばり(諏訪劇場)などの有名人が来四、1興業(1日3回上演)で、3000人から5000人の観客を集めました。(ローカル映画館史 久保仁 著より)

「呪いの家」

近畿館は、この年(昭和21年)に、洋画専門の“キャピタル劇場”になり米映画“呪いの家”を上映しています。邦画の配給は、まだ不十分だったのでしょうか。

昭和31年 

昭和23年、キャピタル劇場は、大改装して“諏訪劇場”となります。当初は、大映作品と歌謡ショーを上演していました。片岡千恵蔵の“多羅尾伴内”が初めに大映作品であったことから、東映の立ち上がりがやや遅れていたと推測できます。東映は、昭和24年に東京映画配給株式会社を設立し、昭和26年に東映株式会社を立ち上げているのに対して、すでに昭和17年、新興キネマ、大都映画、日活を合併させて大日本映画製作株式会社(大映)がスタートしています。

昭和32年 週刊朝日より

そして、昭和37年になると、“諏訪劇場”は“四日市東映”に名称を変更、東映時代劇の全盛期を迎えることになるのです。

昭和32年9月26日 故 辻俊文さんが撮った「諏訪劇場」前。片岡千恵蔵主演の総天然色 東映スコープ 大菩薩峠を上映中。

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昭和6年 四日市小唄は?

2022年01月14日 | レモン色の町

市井からの眺め 四日市小唄 - 花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

北野保著「よっかいち歴史浪漫紀行」より

以前 当ブログに掲載しましたが、「四日市小唄」の10番までが、湊地区連合自治会発行の「思案橋」に掲載されていました。

戦前四日市に住んでいた人なら誰しも唄ったことのある“四日市小唄”は、昭和6年二三吉と佐藤千夜子が唄うビクターレコードが発売されて一躍有名となった。昭和6年、県下唯一のニュールックな市庁舎がお目見えし、千歳町埋立地には鋭意建設中の新築港がやがて出来上がろうとしている市勢躍進時代。当時の不景気な世相の中に、若く明るい息吹を感じさせるかのように此の歌は、老いも若きもみんなが景気良く唄ったものである。

西城八十作詞、中山晋平作曲、藤間静枝振り付けのこの曲は、昭和11年の春、新四日市港の完成と、末広町や尾上町、千歳町などの臨海工業地帯の門出を祝って華やかに繰り広げられた“国産振興四日市大博覧会”の会場内では一日中この唄と櫻音頭や躍進四日市などの歌謡曲が入り乱れて流されていたのが想い出される。

四日市小唄

東や横浜 東や横浜 西行きや神戸 ヤレコノセ

 海の関所の ジツ関所の 四日市 ササ ヤレコノセ

  ハリャ よってけよいよい 四日市

町にゃ萬古の 町にゃ萬古の 窯焼くけむり ヤレコノセ

 海にゃ出船の ジツ出船の 黒けむり ササ ヤレコノセ

  ハリャ よってけよいよい 四日市

那古の渡(わたり)が 那古の渡が 霞(かすみ)に消えて ヤレコノセ

 夏が来る 来る ジツ来る来る 伊勢の海 ササ ヤレコノセ

  ハリャ よってけよいよい 四日市

断った便りを 断った便りを 無電の塔に ヤレコノセ

 訊いて涙に ジツ涙に ひかる星 ササ ヤレコノセ

  ハリャ よってけよいよい 四日市

春の湯の山 櫻が咲いて ヤレコノセ

 どれが湯気やら ジツ湯気やら さくらやら ササ ヤレコノセ

  ハリャ よってけよいよい 四日市

鯨追う子の 銛(もり)から暮れて ヤレコノセ

 諏訪の祭りの ジツ祭りの 秋の月 ササ ヤレコノセ

  ハリャ よってけよいよい 四日市

しをれ葵(あおい)を しをれ葵を 生かした水が ヤレコノセ

 いまも下ゆく ジツ下ゆく 思案橋 ササ ヤレコノセ

  ハリャ よってけよいよい 四日市

おもしろいぞえ おもしろいぞえ 霞ケ浦は ヤレコノセ

 馬と白帆の ジツ白帆の 駆けくらべ ササ ヤレコノセ

  ハリャ よってけよいよい 四日市

恋の港に 恋の港に 錨(いかり)をおろし ヤレコノセ

 逢いに北町 ジツ北町 南町 ササ ヤレコノセ

  ハリャ よってけよいよい 四日市

月にかこつけ 月にかこつけ 紅鉄漿(べにかね)つけて ヤレコノセ

 お顔三滝の ジツ三滝の 橋のうへ ササ ヤレコノセ

  ハリャ よってけよいよい 四日市

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昭和23年 藤村大造は?

2022年01月12日 | レモン色の町

昭和23年の大映映画 東映時代になると変装役は変わる

昭和23年大映で封切られた“多羅尾伴内 二十一の指紋”に、わが目を疑いたくなるようなシーンがあった。

行き倒れの老人が子供たちに運ばれてくる。薬を必要としているという事だ。「まさか、あの薬じゃないだろうね。」ところが、あの薬なのだ。

背景の高架を1両編成の電車が走る 

老浮浪者に変装した藤村大造

1本しか手持ちがない貴重な薬を老人に注射する。実は、戦前には疲労回復剤として薬局で売られていて、戦後は覚せい剤として闇で出回った。

多羅尾伴内シリーズは、昭和28年から35年まで、東映で撮影された。片岡千恵蔵はピストルを二丁構え、変装を外しながらの決めセリフだ!「七つの顔の男じゃよ。ある時は競馬師、ある時は私立探偵(多羅尾伴内)、ある時は画家、またある時は片目の運転手、ある時はインドの魔術師、またある時は老警官。しかしてその実体は・・・正義と真実の使徒(=使者)、藤村大造だ!」(使徒を人と聞き違える人多し) ウィキペディアより

昭和37年 諏訪劇場から四日市東映に名称変更した 多羅尾伴内はここで封切られた つづく

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昭和23年 多羅尾伴内は?

2022年01月11日 | レモン色の町

昭和21年封切られた片岡千恵蔵の“多羅尾伴内シリーズ”は、東映でなく大映作品だった。米進駐軍の指導で、当分は刀を振り回す作品は禁止となり、このシリーズが考案されたのだった。しかし、大映の永田社長は「多羅尾伴内ものなど幕間のつなぎであって、わが社は今後、もっと芸術性の高いものを製作してゆく所存である。」と言明した。

東映作品

これに対して激怒した片岡千恵蔵は「わしは何も好き好んで、こんな荒唐無稽の映画に出ているのではない。幸い興行的に当たっているので、大映の経営上のプラスになると思ってやっているのに社長の地位にあるものが幕間のつなぎの映画とは何事だ。もう伴内ものは絶対に撮らない。」と断言した。こうして千恵蔵と永田社長は決裂し、大映の伴内シリーズは興行的に成功しつつも『七つの顔』『十三の眼』『二十一の指紋』『三十三の足跡』の4作品で打ち切りとなった。(ウィキペディアより)

作品は“二十一の指紋”昭和23年大映作品。大友柳太郎が警察役になっている。4作品の後、片岡千恵蔵は東映で、多羅尾伴内シリーズを撮ることになる。今見ると鑑賞に堪えがたい・・・というと片岡千恵蔵に怒られるか?

昭和23年の東京の風景 汽車が通る瓦礫の残る道

真ん中が大友柳太郎

ある時は 片目の運転手、ある時は腹話術師、ある時は多羅尾伴内、そしてその実態は、フジムラタイゾウだ!  大友君と東映へ移る!

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昭和33年 ニュース劇場は?

2022年01月10日 | レモン色の町

昭和31年9月、諏訪駅が廃止されて、津方面から伸びた線路は、塩浜駅方向からまっすぐ斜めに新設の近鉄四日市駅へ入った。中央通りの完成である。完成と同時に諏訪新道にあったオカダヤは駅前へと進出した。昭和33年のことである。

当時は2階建てで、昭和38年になると増床して、5階建てのオカダヤ百貨店となった。この33年から38年の間に2階西南の角にあったのが、ニュース劇場である。100席くらいの狭い箱に入ったような場内だった。開館当時は配給の加減か、周辺の映画館に遠慮してか、ニュース映画が中心だった。入場料も他館に比べて安かったようだ。

やがて封切り済みの洋画を上映するようになる。ここでグレゴリーペック主演の“ナヴァロンの要塞”を観た。なぜ覚えているかというと、作品中、途中から加わった男性の工作員が、シャツの背中を大きく裂かれて女だったことを暴露されるシーンが印象的だったからだ。この作品の封切りは昭和36年なので、中学生のとき一人で観に行ったとして、つじつまが合う。当時映画は全盛期だった。オカダヤさんが「新しいビルを建てたら、映画館は欲しいね!」と思うのも納得の時代だった。

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昭和33年お正月の映画館は?

2022年01月09日 | レモン色の町

ポケットラジオが意外に高い!

昭和33年1月3日付の中日新聞に、ゼネラル電機の広告が掲載されていました。ところが、初めの挨拶文の左半分がコピーされなかったため、半分の文面で残りを想像するしかありませんでした。

『・・(昭和33年は、文)化の年といわれてい(る昨今ですが、皆様お変わり御座いませんでしょうか?)・・・(まず、なによりも文化的かつ合)理的な生活をするため(には)・・・(合理)化ということがどんな(に大切なものであるかは、申し上げる)・・・までもありません。・・・(文化的)になれるゼネラル電化(製品)・・・(を)揃えて一日も早く無駄(遣いせずに、経済的な)・・・日が過ごせるよう新し(い生活様式に変更し)・・・(て、まっ)たりあなたの電化生活・・・(をおお)くり下さい。???』

何となく言わんとすることが想像できます。当時の電気製品の小売価格が明示されているので、興味ある広告になっています。

さて、昭和34年1月3日の中日新聞。映画館の様子はどうでしょうか?

弥生館では、黒澤明の「隠し砦の三悪人」を上映しています。おそらく四日市東映では「忠臣蔵」が第1弾(1月2日)で終了して他の劇場へフィルムを回し、第2弾(3日より)で「旗本退屈男」の上映のようです。日活では、石原裕次郎の「紅の翼」をやっています。

年末から歳末・正月興行に入り、3日から第2弾の正月興行に入りました。お客さんも目白押し、上映作品も目白押しです。

昭和35年1月3日付 中日新聞

上映映画の欄はよく見たものです。昭和35年の上映作品は、四日市東映が切れてしまった見えないですが、どの映画館も今一つ大作不作の様子です。「四日市ニュース」劇場は、オカダヤの2階、西南隅にあった小さな映画館のことです。唯一お正月らしい上映は世界館で、美空ひばりの「初春狸御殿」と、若尾文子の「女経」で完全暖房です。

ここで気になる記事を掲載します。正月3日は、どこも大変な人出でした。という事で・・・

「四日市スリーランド」?(仮設の遊園地?)では大変な人出だったという記事がありました。昭和35年のお正月に、仮設遊園地がどこにあったのか?

これは岡野先生が描かれた、戦前の諏訪神社ですが、「スリーランド」は、諏訪公園内で設置された遊園地だったと想像できます。毎年のように市民壇の前では、サーカスが開催されていました。

 

 

 

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昭和33年お正月テレビ番組は?

2022年01月08日 | レモン色の町

昭和33年から35年にかけて、テレビはまだ何軒かに1台の普及率でした。勿論、我が家にもまだ無く、近所に出かけて鑑賞させていただきました。お正月、家族揃ってテレビの前に集まるのは、もう少し後になります。

昭和33年、1月2日のテレビ欄です。どんな年だったでしょうか?5月に礒津漁港が完成。6月に地方裁判所が中央道路沿いに竣工しています。11月、商工会議所が火災に遭いました。浜田小学校の校舎から立ち上る煙を眺めていた記憶があります。隣が税務署でした。

舞踏、漫才と落語など、お正月らしい番組が並びます。

昭和34年元旦の中日新聞テレビ欄です。東海テレビが新規参入です。4月には皇太子殿下のご成婚があり、この頃から一気にテレビが普及し始めました。3月に市民ホールと国鉄四日市駅の起工式が行われています。8月、四日市港開港60周年を記念して「港まつり」が、「商品まつり」と「七夕まつり」に合体して開かれました。忘れてならないのはこの年9月、伊勢湾台風が夜に来襲し、東海地方に大きな被害が出ました。御在所のロープウェイが完成した年でもあります。

東西寄席中継はこの頃から放送されていたんですね。夢二いとし、ペギー葉山、フランキー堺、三遊亭金馬などの名前が並びます。4時から「1丁目1番地」をやってますね。「三丁目の夕日」と重なる頃です。

昭和35年、戦後が一段落して経済活動が活発化し始めました。2月中部電力火力発電所の4号機着工、近鉄百貨店開業、日本合成ゴム竣工、名四国道起工、市民ホール開館、火災に遭った商工会議所が竣工、市営住宅公社発足。また、四日市公害によるぜんそく患者が増加して、公害防止対策委員会の初会合が開かれました。日活映画「電光石火の男」が公開、赤木圭一郎や浅丘ルリ子がロケの為、34年に来四していました。

三国一郎、大空真弓、岡田真澄、小林千登勢、柳谷金語楼など、お顔が浮かんできます。「孫悟空」や「三国志」等の人形劇もよく放送されていました。

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