ヒントなし!夜の町の賑わいは 良いです
水谷百碩(ひゃくせき)氏(明治元年~昭和3年)は、北町の“大津屋(紙屋)”のご主人で、万古焼の絵付けもされていました。文化会館(訂正:四日市市立博物館様)さん発行の“知られざる四日市の面影”の四日市十二景にこんな絵があります。
三滝橋の賑わい
“三滝川夕涼”三滝橋の下で涼を楽しむ人々の風景で、髪の形から明治期ないしはそれ以前と思われます。三滝川の橋の下に屋台が二軒と、上にも三軒出ています。暑さから解放された人々が夕涼みにくつろいでいるのんびりとした風景です。
次の絵は、出口對石(たいせき)氏(明治20年~昭和28年)の作品。二見町に生まれたので夫婦岩から名前を對石とされたそうです。
三滝橋の静寂
“三滝の霽月(せいげつ)”は、三瀧橋が木造であった頃の作品で、このことから大正12年より前と考えられます。雨上がりの月夜に、三瀧橋の下に牡蠣舩が停泊しています。この牡蠣舩は何時頃にあったのか?分かるのは大正12年前後というだけです。明治期から戦前までのどこかで、牡蠣の季節である寒い時に、舩の明かりが灯されたのです。現在、“かき広”と云う牡蠣料理専門のお店が西新地にあります。そこと関係があるのか?また、尋ねてみます。
※ 昔、某料理店で聞いたことですが、“舩”は川の“ふね”で“船”は海の“ふね”だそうです。知ってましたか
この写真も水谷宜夫さんからお借りしたものです。
船が繋がれています。冬の雪景色であることもヒントになっています。二枚の写真は少しずれて撮られていますが、目ん玉をぼんやりして二つの写真が一つになった時、立体的に見える仕組みです。人間の目も二つの目で見るから距離感が分かるのです(ワカットルワィ)。昔、青と赤のセロハンを貼った眼鏡で、赤と青のずれた画像を見ると、飛び出す映画がありました。あ、今でも3D映画として上映されますよね。さて、いつ頃の何処の風景でしょうか?
画面の奥、“スワン”の看板と右となりの煌々とあかりの点いた店舗から、次の写真と一致します。
昭和33年7月21日撮影 歌のびっくり箱は、この場所で行われました
答は、諏訪駅跡地になります。カメラは2階から会場に向けて撮られたもの。画像の下に点々と電球の明かりが写り込んでいるのは、窓ガラスの反射と思われます。次の写真は、昭和35年の1番街が形成されつつある頃です。ここに堀田美容室さんがあって、その2階から撮られたものでしょう。
昭和35年頃 四日市の今昔(樹林舎刊)より
諏訪駅が廃止されるのは昭和31年9月、従って翌 昭和32年の8月30日の写真ではないでしょうか。(辻さんは説明に昭和31年8月30日としてみえるが、昭和32年の間違いでは?)
昭和33年7月辻俊文氏撮影。写真を東へ移します。諏訪駅前のスワマーケットがみえます。
同じく昭和33年7月辻俊文氏撮影。マーケット前から東方向です。草野洋服店が見えています。右へ行くと白揚書房がありました。
昭和31年 諏訪駅が廃止される直前の空撮(中日新聞社さん提供)。諏訪駅ホームの少し上あたりが、後に歌のびっくり箱会場になるところです。ステージ下には、夏休みに入ったため、多くの子供たちが群がっています。
余談ですが、2009年公開の”ゼロの焦点”を観た。内容はマアマアだったが、プラターズの”オンリーユー”の曲が印象的でした。
Bing 動画 オンリーユー プラターズ
今回の写真。辻写真館の辻俊文さんが残されていった1枚です。
大勢の人が集まっています。随分賑やかですね。季節は夏?ステージ横に看板が立ちます。何と書いてあるのか?「歌のびっくり箱・クイズ合戦」さて、ここは何処で、いつ頃でしょうか?
昭和30年頃の市街地図
正解は保光苑でした。提供いただいた水谷宜夫さんありがとうございました。当時の絵はがきで散歩してみましょう。
陰の様子から北向きに撮られたものか?
明治39年、日露戦争の戦勝記念として、諏訪神社西の公園を“保光苑”と名付けられ市民に開放されました。そして、大正4年に大正天皇御大典記念で拡張、翌5年には諏訪公園と改称されたのです。これらの写真は、保光苑として紹介された絵はがきですから、明治期の物になります。
左が諏訪神社裏手になるか?よく整備されています。
本殿裏の池?北向き。この先に図書館が建つ予定ですが、それ以前には休憩場所のようなものが見える。
この写真も南から北向きに撮られたものだろう。左に大砲の弾が飾られる。昭和に入って突き当りに誓いの御柱が立てられます。
明治44年 西は田畑でも神社側には東海道が通っていたので、町の中だった。
中央が広場、神社側に池、北は森になっていたと想像されます。諏訪公園は、市民が集まる唯一の公園でした。歴史が語るように、日露戦争から太平洋戦争への流れの中で、ずっと戦意高揚に利用されてきたのではないでしょうか。あ 失言、戦後はメーデーの終点でした。
提供:水谷宜夫氏
さて、これは何時 何処で撮られた写真でしょう?
大きな松の木の前でくつろぐ着物姿の人々。集合写真であれば整列するはず。中央の石に座る人が中心になっていて、自然のポーズが さまになっています。明治期の雰囲気でしょうか。学生さんが目立ちますね。左側の木はすっかり葉っぱを落としているので、広葉樹。桑の木に見えますが 如何?木々の手入れは行き届いています。影の様子から、太陽は左から右下に差し込んでいるので、左が南。冬ですから午後2時か3時? さて、ここは何処?
当店から西方向、公園通りへ出たところの写真でした。角には甲子園というパチンコ屋さんがあり、そこには“のんきや”さんのごみ箱が置かれています。
“のんきや”さんは、サンシ百貨店前の線路を背にした店舗からここの向かいに新規開店をされました。チャッカリとゴミ箱は道路向こうにおいてたんですね。
オープン記念 のんきやさん
諏訪劇場の看板、市川雷蔵と黒川弥太郎が出ている“花の白虎隊”は、大映作品で昭和29年8月25日公開、併映の“暗黒街の脱走”は、東映作品で昭和29年8月17日公開。諏訪劇場は時に大映作品も上映していたのでしょう。従ってこの写真は、昭和29年の夏ということになります。
西へ進むと赤線地帯の“港楽園”に至ります。ネオン輝く建物の記憶がありますが、昭31年撮られた中日新聞さんの空撮にはそれらしき建物が写っています。売春防止法が施行されたのは昭和32年4月1日。ですから当時はまだ赤線は健在でした。
諏訪公園西側にも“春告園”と云う赤線がありました。おばさんのお話につられて中へ入ると、若い衆が“ちんちろりん”のばくちをしています。交渉を済ませて二階へ上がると小部屋が並んでいました。
春告園
- YouTubeでチャルダーシュを検索していたら、古澤巌さんというバイオリニストにあたりました。中年の良い味が出てみえたようでゴザイマス。
これは“いつ”“どこで”写された写真だろう???
水谷宜夫氏 蔵
沢山の看板が立てられている。牛豚肉山正(肉と云えば牛肉。豚肉は、ブタニクだった)、くすり 長田薬局、今井カメラ、前田テント商会、キタオカ時計店、パチンコ(入口上には英語でPACHINKOの文字が・・)。そして、諏訪劇場は、黒川弥太郎主演の“花の白虎隊”を上映中である。映画の作品名から日は分かるが、さて、この風景は下のマップの何処にあたるだろうか?
※ 余談 ビットリオ・モンティ作曲のチャールダーシュに聞き入っています。19世ウィーン宮廷で、麻薬性があると禁止されたそうな、恐ろしい曲ですね。ユーチューブはありがたいことに様々な方の演奏が楽しめます。クララさんの感情の入ったバイオリン演奏には驚かされます。
昭和33年お正月の諏訪公園の様子です。誓いの御柱上から南方向に撮られたようです。お正月と9月の諏訪神社大祭の時期になると、たくさんの香具師や見世物小屋が出て諏訪公園や神社は多くの人で賑わいました。誓いの御柱前が広くあいているのは、ここがサーカステントの場所だったからでしょうか?9月頃になるとこの場所にサーカスのテントが張られていました。右には、ろくろく首やストリップなどの見世物小屋が出ていました。
下の写真は昭和56年の諏訪公園です。
左が本殿裏の池右 市民壇方向
昭和33年の諏訪公園
Bing 動画 美しき天然は サーカス小屋などで聞いた曲です。
昭和56年 改修される前の諏訪公園 今は昔 となりました・・・
上が西になります
元旦からお年玉を遣うなと云われていたので、2日の日にはお諏訪さんへ行くのが楽しみでした。2日には親戚が、3日には友達が遊びに来るので、連れ立って諏訪公園へ出かけました。綿菓子の大きさを比べ歩いたり、拡大器の絵を見て感心したり、香具師の口上を何時間も聞いたり、地球ゴマを買ったりと楽しいことばかりでした。こうして、お正月の三日間はアッという間に過ぎて行きました。
※ バイオリン演奏で「ジプシー人の生き方」お聞きください。