この写真は?いつ?どこか?分かりますか?
大勢の人が群がっていますね。左にはテントが並んでいます。右にすこし大きなテント小屋があります。人々の服装から寒い季節で、子供が目立ちます。写真は高いところから撮られているようです。
この写真は?いつ?どこか?分かりますか?
大勢の人が群がっていますね。左にはテントが並んでいます。右にすこし大きなテント小屋があります。人々の服装から寒い季節で、子供が目立ちます。写真は高いところから撮られているようです。
今回も、博物館様発行の”写された四日市”から掲載させていただきました。
諏訪神社の裏庭“保光苑”を、大正4年に大正天皇御大典記念として拡張され市民に開放された。翌5年“諏訪公園”と改称される。(大正時代 舘氏蔵)
神社本殿裏の池の向こう側に建つ建物が、旧図書館、木造館である。
大正5年に大正天皇御大典記念として新築された木造の旧図書館。
旧図書館内部の閲覧室の様子。児童が多く、石炭ストーブが配置されている。(大正時代 森昭源氏所蔵)
昭和4年 昭和天皇御大典記念として、東海の飛将軍と言われた熊澤一衛氏が蔵書2000冊と共に寄贈した大礼記念四日市市立図書館熊澤文庫。右後ろに旧図書館が覗いている。
そして問題の写真は、旧図書館の前に新図書館が並んでいる。しかし、旧図書館の前に新館を建てた。他に場所はなかったのかなぁ?
前回鉄道の話しは、不発に終わり、大変申し訳ありませんでした。引き続き調査を進めます。
さて、次の問題です。分かるかなぁ。四日市市立博物館様発行の”写された四日市”からお借りしました。これを見た時、私は「オーッ」と言ってしまいました。流れゆく時間の中で、あえてそれを止めてしまうような、1枚の貴重な写真です。
四日市駅を発車した途端、構内を出た地点の急カーブで、三両連結の最前車両の後部車輪が脱線した。横転はしていなかったが少し傾いていた。桑名行きであったから内側なのでよけいにカーブが急な方であった。人命の被害はなかった。この後、四日市駅と諏訪駅間の折り返し運転をしていた。
“旧四日市を語る”に掲載された昭和12年8月6日午後の出来事。“善光寺カーブ”での脱線事故の様子です。
昭和13年の地図
しかし、四日市と諏訪駅間の折り返し運転って・・・どうやったんでしょうか?当時はまだ三重軌道と四日市鉄道の狭軌を引き継いだままだった?から出来たのか?
昭和5年の善光寺カーブ 左に建つのは 合同駅が取り壊され新しく出来た四日市西驛
もうひとつ、遠くに見える大きな建物は何でしょう?空襲直後の空撮を掲載しますが、ここからは何も分かりません。三和商店街の西にあたるのでしょうか?
緊急追記:写真をお借りした水谷氏に、念の為「右向こうに建つ大きな建物は、何か?」とお尋ねしたところ、ご存じないと返事が返ってまいりました。では、善光寺カーブではなかったか?諏訪駅西の天理教へ至るカーブは、直線に湯の山線が走っているし、草ぼうぼうだし・・・違う気が致します。ではどこなのか?大きな建物は何なのでしょうか?
諏訪駅から西を見た写真 逆に撮られたものとは思えない?
申し訳ありません これでは解決編になっておりません!
これは“いつ”“どこで”写された写真だろう???
今回から、問題と解答の日を分けることにしました。(マッコト イジワルヤネェ)
焼け焦げたあとのある古い写真である。これも水谷宜夫さんからお借りした。鉄道好きの方は、既に気付かれたと思うが、私には分からなかった。曲がる二本の線路。両側には焼いた枕木を利用した柵が並ぶ。曲がり切ったところには踏切。踏切を渡り終えた学生らしき男性。その先には大きな建物が見えるが、なんとまあ大きい。三階建てか?そして右側、カーブ途中の右に建つ“株式会社東洋商事四日市営業所”の建物。その上には“金融”の文字か?
さて?ここは何処か?戦後のひと息ついたころだろう。回答編は 明日 アディオス