語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【大岡昇平】論 ~加藤周一『日本文学史序説』~

2016年01月11日 | ●大岡昇平
(1)戦場体験
 戦争体験は、多くの人にとって戦場体験でもあった。
 大岡昇平は、その戦場体験を生涯にわたって文学的基礎とし、その意味で徹底した一貫性を示した。

(2)『俘虜記』
 冒頭の一編、「捉まるまで」の山中の生活は、ほとんど確実な死を目前に控えたという意味でも、物理的な条件の苛酷さという意味でも、極限の状況である。そこでは自然がかぎりなく美しくみえる。
 しかし、実際に僚友がつぎつぎに死んでいくようになると、突然生還の可能性を信じ、一度生還の可能性を信じて、愚劣な作戦の犠牲になって死ぬのはつまらないと考えると、主人公の関心はもはや自然の美しさではなく、危機脱出の方向へ向かう。いかに生き残るべきかという工夫にとっての自然は、与えられた条件の一つにすぎないからだ。
 追い詰められた主人公の心理と行動を、冷静に反省的に、簡潔で正確な文体で描く「捉まるまで」は、太平洋戦争の戦場の経験が生みだした日本語散文のなかで、もっとも傑れたもの一つに違いない。
 後半の収容所の光景の叙述は、所属集団の組織が崩れ去ったときの日本人の行動の証言であり、彼らにおいていかなる価値が内在化されていたかということの臨床的な記録でもある。
 職業軍人でさえも、彼らの軍隊の秩序を信じていたので、その軍隊が解体した後に、彼ら個人のなかに生き続けるような何らかの信念をもっていたのでもなかった。
 東京裁判について丸山真男のおこなった観察【注】と、レイテ収容所において大岡昇平のおこなった観察とは、幸か不幸か、見事に一致するのである。

(3)『野火』
 『俘虜記』にでてくる人間の肉を食う話を、『野火』でふたたびとりあげた。
 『俘虜記』の主人公は、殺そうとすれば殺せたアメリカ兵を殺さなかったが、『野火』の主人公はフィリピンの女を射殺する。『野火』は『俘虜記』の実行しなかった選択肢を、人間の内面の問題として再検討した作品である、ともいえるだろう。

(4)『レイテ戦記』
 『俘虜記』や『野火』が一兵士の立場でみたフィリピン戦場を、日米双方の資料を用いて、いわば鳥瞰的に描く。
 日本軍の戦没者がおよそ9万人におよんだレイテ島は、フィリピンでの日米両軍の決戦場であった。そこでの決断、作戦、戦闘経過およびその結果のすべてを書きつくしたのが『レイテ戦記』である。
 大岡昇平が感慨を抑えて両軍の動きを叙する簡潔な文章の迫力は、ほとんどヴォルテールの戦記『シャルル12世』を思わせる。しかも、その叙述から次第に浮かびあがってくるのは、人間が全力をあげて人間自身を破壊していく「戦争」という狂気そのものであり、その狂気にまきこまれて最大の犠牲を強いられる第三者=フィリピン人の運命である。
 戦後20年以上たって、大岡昇平は『レイテ戦記』という『平家物語』以来の戦争文学の傑作をつくった。

 【注】加藤の丸山真男論、該当箇所の要旨
 ニュルンベルグ裁判の被告との対比において、東京裁判の被告の態度の特徴は、①「既成事実への屈服」と②「権限への逃避」の二点に要約される。
 ①は、「みんなが望んだから私も」主義である。
 ②は、指導者の誰も特定の決定について権限がなかった、という主張である。
 かくて、日本型ファシズムの特徴は、一方では集団に超越する価値の欠如、他方では個人の集団への高度の組みこまれという各時代を通じての日本型世界観の特徴へ導かれる。30年代に興った超国家主義は、日本思想史の例外ではなく、本来そこに内在した問題の極端な誇張にすぎなかった。【加藤周一『日本文学史序説(下)』pp.508-511】

□加藤周一『日本文学史序説(下)』(ちくま学芸文庫、1999)pp.511-513
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【大岡昇平】晩年の知的好奇心、仕事への意志、公平な目 ~『成城だより』~

2016年01月04日 | ●大岡昇平
 (1)大岡昇平は、若年の一時期と旅行中のほか日記をつける習慣がなかった。1970年代のなかば、ものわすれがひどくなったのを自覚して簡単な日録をつけはじめた。これを膨らませ、エッセイとしたのが本書である。初出は、
  (a)第1回目:「文學界」昭和55年1月号から12月号まで
  (b)第2回目:昭和57年3月号から58年2月号まで
  (c)第3回目:昭和60年3月号から61年2月号まで
 著者70歳からほぼ6年間にわたる日々を、2回の中断をはさんで、垣間見ることができる。最後のあとがきは77歳の誕生日(昭和61年3月6日)に記された。その3年後、昭和63年12月25日に大岡昇平は鬼籍に入る。

 (2)『成城だより』の主題は大きく分けて四つ。
  (a)社会や身辺の出来事。
    <例>KDD汚職、その他官庁公団のカラ出張、カラ接待、カラ超勤手当のこと(昭和54年11月14日)。あるいは大江健三郎が武満徹の新作レコード「イデーンⅡ」(裏は「ウォータ、ウェイ」「ウェイヴズ」など「水についての音楽」)を土産に訪問のこと(昭和54年11月13日)。
    日記とはこういうものだろうが、一種独特の私小説として読むことも可能だ。言葉を節約するため採用した文語は、それまでの大岡昇平の私小説にはない味わいを醸しだしている。私小説だから、研究家にとっては晩年の大岡昇平の起居を知る格好の資料となる。さらに、昭和史の一時期のトピックを知るよすがともなるのは、「今日の出来事」に対する老作家の飽くなき好奇心のおかげである。

  (b)加齢による身体的機能の低下。
    <例>「白内障手術してより空間感覚かわり、その上、椎骨血管不全、つまり立ちくらみあり、よろよろ歩きにて、コンサートに行けず、音楽のよろこぶべき来訪なり」(昭和54年11月13日、「音楽」は先に引用した武満徹のレコードを指す)。
    これは、高齢者による高齢者の万民のための自己観察だ。若年時から自分を冷徹に見つめて分析し、客観的に記述してきた大岡昇平のこと、自分の身体的衰弱に対しても態度は変わらない。白内障手術うんぬんは、嘆き節と受け取られそうな文面だが、高齢者即虚弱な存在とする社会通念に毒されている読者向けの自己卑下的サービスだ。かえって、老いた肉体に対抗するかのように、いつまでも若々しく知的好奇心に満ちた大岡の精神が際だってくる。身体が健康な高齢者は、自分の行く末を予想する手がかりになるし、身体虚弱な高齢者は、アランのいわゆる「魂は物質に抵抗するもの」という教えの、大岡昇平ふうの実践に鼓舞されるだろう。

  (c)仕事。作家だから書くこと。
    『富永太郎全集』の編纂および「堺事件」の再構成への取りくみ。この二つの仕事は、本書を書いたころ、徹頭徹尾、常に大岡の意識の底にあった。このほか、新刊書の校正があり(『フィクションとしての裁判』)、旧著の再刊にあたって手直しがあり(『ハムレット日記』ほか)、岩波書店版著作集の刊行があった(『事件』に50枚加筆修正ほか)。短い雑文は数知れず。
    昭和61年の簡易生命表によると、当時の男性の平均寿命は75.23歳(女性は80.93歳)だ。要するに、もういつ死んでもおかしくない年齢だった。体力低下と余命わずかという意識から、仕事を絞り、積年の課題にけりをつけようとしたのだが、仕事は大岡昇平が選んだものだけで終わらなかった。ほかの仕事が大岡昇平を選んだからだ。ために、『富永太郎全集』は大岡昇平の生前には結局刊行できなかったし、『堺攘夷始末』は未定稿のまま絶筆となった。常に現在を生き続けた作家にふさわしい壮絶な尻切れトンボである。

  (d)読書。
    半端ではない。小説や評論はもとより少女漫画から高等数学まで読みまくっている。ジャック・ラカン『エクリⅢ』ほか、当時流行の思想も丹念に追っている。
    老いてますます盛ん、の「盛ん」なのは、大岡昇平の場合は知的好奇心だった。たとえば、数学は推理小説とならんで、大岡の終生変わらぬ「道楽」であった。大岡の論理癖は数学で鍛えたらしい。スタンダールは複素数を知っていた、スタンダールにとって現実と芸術の関係を実数と虚数の関係になぞらえていたのではなかったか、という指摘もある。こうした蘊蓄を傾けて、桑原武夫・生島遼一共訳『アンリ・ブリュラールの生涯』(岩波文庫。人文書院版全集も同じ)の誤訳を指摘したりもする(昭和57年1月30日)。先輩への礼をつくしながらも、「数学少年スタンダールの沽券に関わる重要な箇所」だし、スタンダール生誕200年を翌年に控えているから黙っていられない、と気張る。微に入り細にわたる考証は大岡昇平の面目躍如で、ちっとも年齢を感じさせない。

 (3)『成城だより』は、要するに、一作家の生涯かわらぬ旺盛な知的好奇心、晩年の仕事に対する若々しい意志、そして自他に対する公平なまなざしを見事に証する記録である。

□大岡昇平『成城だより』(文藝春秋社、1981)、『成城だよりⅡ』(文藝春秋社、1983)、『成城だよりⅢ』(文藝春秋社、1986)、後に『成城だより(上下)』(講談社文芸文庫、2001)
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【大岡昇平ノート】一覧表

2015年12月19日 | ●大岡昇平
『神聖喜劇』評 ~大西巨人を悼む~
社会を見る眼 ~「末期の眼」・批判~
大岡昇平と中国
資料 「大岡昇平、そして父のこと」
小林信彦と台湾沖航空戦 ~沢村栄治小伝補遺~
沢村栄治の悲劇 ~原発・プロ野球創成期・レイテ戦記~
本をタダで入手する法 ~『パルムの僧院』と文体~
原発事故または戦争の事 ~8月15日のために~
身体に抵抗する精神 ~『成城だより』の文学的でない読み方~
『成城だよりⅡ』にみる21年後の改稿、批判の徹底の理由 ~『蒼き狼』論争~
『成城だより』にみる判官びいきまたは正義感の事 ~大西巨人vs.渡部昇一の論争~
『成城だより』にみる啖呵の切り方 ~「堺事件」論争異聞~
丸谷才一の、女人救済といふ日本文学の伝統
『野火』のレトリック、首句反復 ~英訳『野火』~
加賀乙彦の、大岡昇平における「私」と神 ~『俘虜記』と『野火』~(1)
加賀乙彦の、大岡昇平における「私」と神 ~『俘虜記』と『野火』~(2)
加賀乙彦の、大岡文学における体験の深化と拡張 ~新しい方法論の創造~
加賀乙彦の、大岡文学における体験の深化と拡張 ~新しい方法論の創造~(2)
埴谷雄高が気宇壮大に読み解く『俘虜記』 ~『二つの同時代史』~
『死霊』をめぐって ~埴谷雄高との対談~
荒正人・石川淳・鉢の木会 ~埴谷雄高との対談~
『野火』の文体 ~レトリック~
『フィクションとしての裁判 -臨床法学講義-』 ~捜査官の取調べと弁護士の役割~
大岡昇平の松本清張批判
『レイテ戦記』にみられる批評精神(抄) ~日本という国家、軍隊という組織~
『レイテ戦記』にみる第26師団(1)
『レイテ戦記』にみる第26師団(2)
『レイテ戦記』にみる第26師団(3)
重松大隊の最後 ~『レイテ戦記』にみる第26師団・補遺~
レイテ島作戦陸軍部隊における第26師団の位置づけ
『野火』とレイテ戦(1) ~はじめに~
『野火』とレイテ戦(2) ~主人公の行動~
『野火』とレイテ戦(3) ~注(1)~
『野火』とレイテ戦(4) ~注(2)~
『野火』とレイテ戦(5) ~注(3)~
大岡昇平の加賀乙彦・賛
開高健が伝える大岡昇平 ~『人とこの世界』~
『愛について』
加藤周一の大岡昇平論
『萌野』
『成城だより』
『大岡昇平全集 1』(筑摩書房、1996)
『大岡昇平全集 2』(筑摩書房、1994)
『大岡昇平全集 3』(筑摩書房、1994)
『大岡昇平全集 4』(筑摩書房、1995)
『大岡昇平全集 5』(筑摩書房、1995)
『大岡昇平全集 6』(筑摩書房、1995)
『大岡昇平全集 7』(筑摩書房、1995)
『大岡昇平全集 8』(筑摩書房、1995)
『大岡昇平全集 9』(筑摩書房、1995)
『大岡昇平全集 10』(筑摩書房、1995)
『大岡昇平全集 11』(筑摩書房、1994)
『大岡昇平全集 12』(筑摩書房、1995)
『大岡昇平全集 13』(筑摩書房、1996)
『大岡昇平全集 14』(筑摩書房、1996)
『大岡昇平全集 15』(筑摩書房、1996)
『大岡昇平全集 16』(筑摩書房、1996)
『大岡昇平全集 17』(筑摩書房、1995)
『大岡昇平全集 18』(筑摩書房、1995)
『大岡昇平全集 19』(筑摩書房、1995)
『大岡昇平全集 20』(筑摩書房、1995)
『大岡昇平全集 21』(筑摩書房、1996)
『大岡昇平全集 22』(筑摩書房、1996)
『大岡昇平全集 23』(筑摩書房、2003)
『大岡昇平全集 別巻』(筑摩書房、1996)

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【大岡昇平ノート】『神聖喜劇』評 ~大西巨人を悼む~

2014年03月13日 | ●大岡昇平
     

●大岡昇平「現代への鋭利な諷刺」 ~『神聖喜劇』評~

 日本の軍隊は老朽化し官僚化し、各種「操典」や「令」の、文語カタカナ書きの煩雑な条文に縛られていた。敵が退却したのに、追撃しないと「作戦要務令」違反になるため、猪突して壊滅したりした。
 大西巨人氏は、超人的記憶力をもつ主人公を設定することにより、この条文を逆手にとって、軍隊生活の喜劇性を生き生きと描き出すのに成功した。この喜劇性はまた、ますます官僚化しつつある現代の生産社会のものであるから、現代への鋭利な諷刺になっている。

□『神聖喜劇 第1巻』(光文社、1978)添付の栞。

   *

●記事「作家の大西巨人さん死去 97歳、小説「神聖喜劇」」

 <超人的な記憶力と論理的思考力で、非人間的な軍隊組織に抵抗する兵士を描いた長編小説「神聖喜劇」で知られる作家の大西巨人(おおにし・きょじん、本名巨人〈のりと〉)さんが12日午前0時半、死去した。97歳だった。故人の遺志により葬儀は行わない。長男は作家の赤人(あかひと)さん。
 政治や差別問題にも筆をふるい、鋭い風刺で社会の問題点を突いた。約25年かけて1980年に完成した「神聖喜劇」は、主人公の陸軍2等兵が軍隊という強大な権力機構に独りで向き合い、上官らと渡り合う姿を描いた。松本清張や埴谷雄高らの支持を得た。原作にした漫画も出版され、2007年に日本漫画家協会賞大賞を受賞した。
 福岡市生まれ。九州大法文学部中退後、新聞社勤務を経て、召集で対馬要塞(ようさい)重砲兵連隊に入隊。戦後、福岡で「文化展望」の編集にあたり、日本共産党に入党。52年に上京、新日本文学会常任委員となった。評論「俗情との結託」(52年)で野間宏の「真空地帯」を大衆追従主義と批判し、野間や宮本顕治らと論争。その後、共産党と絶縁状態となり、72年に新日本文学会を退会した。
 小説に、労働運動の堕落を告発した「天路の奈落」、評論集に「戦争と性と革命」「巨人批評集」、朝日ジャーナル誌での連載をまとめた「巨人の未来風考察」などがある。
 遅筆、寡作で知られたが、晩年に「深淵」「縮図・インコ道理教」「地獄篇三部作」などの作品を発表し続けた。
 赤人さんによると、昨年暮れに肺炎で入院した後、自宅で療養していたという。>

□記事「作家の大西巨人さん死去 97歳、小説「神聖喜劇」」(朝日デジタル 2014年3月13日)
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   *
 
 大岡昇平も大西巨人も不正に敏感で、差別を批判した。
 大西は、二人の子どもが血友病であることもあって、次のような論陣を張った。ほかに、ハンセン病などについても言及がある。

(1)優生思想について
 「破廉恥漢渡部昇一の面皮をはぐ」
 「指定疾患医療給付と谷崎賞」
 「指定疾患医療給付と谷崎賞・補説」
 「渡部昇一における鉄面皮ぶりの一端」
 「恥を恥と思わぬ恥の上塗り」
   ※以上、『大西巨人文選3』(みすず書房、1996)

  【注】一連の論争については、「神聖な義務」アーカイブがある。

(2)障害児の教育権
 「障害者にも学ぶ権利がある」
 「文部大臣への公開状」
 「ふたたび文部大臣への公開状」
 「学習権妨害は犯罪である」
 「『私憤』の激動に徹する」
 「『学校教育法』第二十三条のこと」
   ※以上、『時と無限 大西赤人作品集・大西巨人批評集』(創樹社、1973)
 「面談『大西赤人問題』今日の過渡的決着」
 「付審判請求から特別抗告へ」
   ※以上、『巨人批評集』(秀山社、1975)

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【大岡昇平】社会を見る眼 ~「末期の眼」・批判~

2013年12月23日 | ●大岡昇平
 丸谷才一は、何度か大岡昇平を論じている。その代表は、『文章読本』の第9章「文体とレトリック」だ。第9章の例文は、すべて『野火』から採られている。つまり、文章読本』の第9章は、文体とレトリックの見地からする『野火』論とも言える。
 丸谷の最後の評論集、最後のと思うが、『別れの挨拶』でも小さな大岡昇平論を収録している。題して「末期の眼と歩哨の眼」。日本文学史における大岡昇平の独特な立ち位置を明快に剔抉する。

 まず、丸谷の論旨をたどろう。
 日本文学史には「末期の眼」という概念があって、これがなかなか人気がある。川端康成が小説作法を求められて書いた随筆「末期の眼」に由来する。川端「末期の眼」は、論旨がはなはだとらえにくいが、全体として死と亡びへの関心が渦巻いている。なかでも大事なのは、引用した芥川龍之介の遺書の、
 <君は自然の美しいのを愛ししかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである>
というくだりだ。川端はしきりに賞賛しているが、これだけなら大したことはない。しかし、この随筆全体の文脈のなかに置かれると、芥川の遺書の達意平明な言葉遣いが急に曖昧になり、その分だけ有り難みが増し、その結果、戦前の日本文学を支配した。現在もその気配が少し残っているかもしれない。
 川端「末期の眼」の評判がよかったのは、明治末年以後に形成されて主流となった文学理念に合致していたからだ。換言すれば、川端が芥川の言葉を借りて、その文学理念をうまく要約した。それは、普通の人間には文学はわからないし、書けない、という考え方だった。何かむやみにすごい話で、非情とか冷酷とかを褒めるあまり、健康に生活している者の眼ではなく、もうじき死ぬ者の眼でこの世を見ることを理想としたのだ。そういう眼でとらえたのが本当の現実だ、というわけで、当然、読者はこの見方に感動することを要求された。これが日本純文学という制度の定めた美学だった。
 一つには、わが近代文学が正岡子規以来、わけても歌人や俳人に多いのだが、病者の制作だったため、社会的人間という相よりむしろ生理的人間を重んじがちなことが作用していた。そこへ、西欧の新しい文学流派(浪漫主義・世紀末文学)が押し寄せ、その気風に輪をかけた。その結果、病人こそ文学的人間像の典型であるみたいな風土が確立したらしい。
 かくて、体が健全で食欲が旺盛なのは俗悪で、非文学的で、命旦夕に迫っているのが高級なことになり、せめてそのふりをしようと皆が懸命に心がけたのだ。
 社会的人間であることを嫌う点で、この病者への執着は、例の「余計者」(これも重要な文学用語)とよく似ている。これはロシア文学史の概念で、明治末年以来、日本では非常に受けた。しかし、最初に余計者が登場する根拠であった文明批評の精神はどこかに置き忘れられ、社会がきれいに消え失せた。あれはもともと社会を描くための逆手だったはずなのに、その窮余の一策が常套的な型になり、緊張を失ったわけだ。
 正統的な西欧小説の考え方でいけば、妙に厭がらないで社会とつきあっているからこそ、社会を批評できる。最初からふてれくされて背を向けたのでは、向こう三軒両隣にはじまる世間だの国だのが見えなくなる。
 「末期の眼」と「余計者」は、西欧と違って正統的な小説を書くのがむずかしい風土において、無理やり小説を書こうとするときの切ない工夫であった。後進国の場合、西欧と社会構造が違うので、西欧小説(ジェーン・オースティンが典型)をモデルにした小説が書きにくかったり、無内容になったり、現実味が薄れたりする。そこで必死になって工夫しているうちに西欧小説から離れてゆくわけだが、その離れ方のうち、或る種の成功をもたらしたものは、当然、書き方の型ないしコツとして定着する。ロシア渡来の「余計者」も国産の「末期の眼」も、この種の成功例だった。

 丸谷は、以上のように日本文学史の特徴を指摘した上で、大岡昇平は日本文学史の主流から遠くに位置する、と判定する。
 スタンダールに学んで小説を書く大岡には、いつも西欧の型が意識されていた。もっと具体的には、彼は常に社会小説の作家だった。社会的動物としての人間に寄せる関心は、彼の視線の最も重要なものだった。
 そういう作家が、いまここに居るのが不思議だ、という感覚【注】を大事にしているとき、それは「末期の眼」で世界を見ることにならなかったし、なるはずもなかった。『野火』の西欧的なレトリック、聖書的な比喩がきれいに安定しているのは、一つにはこの条件があるからだ。
 フィリピンの自然が豪奢なくらい美しく描かれるのは、「末期の眼」というレンズを通して捉えられるからだ。しかし、一人称で書かれているその『野火』でさえ、単純に作中人物のレンズだけで処理されているのではなく、作者の叙述というフィルターをかけて、二重じかけになっている。それ故、こkじょには「末期の眼」でではなく、もっと健全な、平静な眼で見られた、人間的悲惨の物語があることになった。同じことは、三人称で書かれたほかの作品の場合、もっと明白になっているだろう。
 ところで、大岡には「歩哨の眼について」という短編小説(ただし、丸谷の分類では随筆)がある。この1950年の作品には、例の「末期の眼」に対する批判が底にあるような気がする。
 <視覚はそれほど幸福な感覚ではないと思われる。(中略)。眼が物象を正確に映すのに、距離の理由で、我々がそれを行為の対象とすることが出来ない。それが不幸なのである>
 要するに、厄災を見ても助けにゆけない、ということらしい。というのは、この随筆が『ファウスト』第二部、望楼守の歌、<見るために生まれ/見よと命じられ/塔の番を引き受けていると/世の中がおもしろい。>の引用からはじまり、同じ望楼守の台詞、<小屋の中が燃えあがる。/早く助けてやらねばならぬが、救いの手は見あたらない。/・・・・・・・・/お前たち、目よ、これを見きわめねばならぬのか!/おれはこんなに遠目がきかなくてはならぬのか>で終わっているからだ。
 救うことはできないがよく見える望楼守とは、小説家だろう。あるいは、大岡が属している流派の小説家では、そういう優しい心が大事だったし、大岡はシニックな口調でそれを隠さなければ自分でも困るくらい登場人物に対して思いやりのある小説家だった。人間的現実へのこの嘆き方は、作中人物と作者との関係として丸谷には十分に納得がいく。「末期の眼」を礼讃して深刻ぶるよ9り、人間的にも文学的にもずっと大人びているような気がする。

 【注】「いまここに居るのが不思議だ、という感覚」とは、(1)あの大がかりな戦争でよくぞ死ななかった、という感慨。(2)諸国の核兵器の膨大な保有量にも拘わらず自分が生きて来た、という感慨。(3)その他、原子力発電その他環境破壊の問題もある。これだけ急激な文化的変化に堪えて生きていることも、ふと気がついて見れば驚くに値しよう。そんなこんなの事情をあわせ考えるならば、自分がいまここに居るのはほとんど奇蹟的なことだとわかる。そういう戦後日本人の典型として、大岡昇平は自分を見ていた。その資格に不足はない。

□丸谷才一「末期の眼と歩哨の眼 -大岡昇平-」(『別れの挨拶』、集英社、2031.10.)
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【大岡昇平】と中国

2013年05月28日 | ●大岡昇平
 (1)『漢詩鑑賞辞典』
  (a)漢の高祖から魯迅まで、中国2,000年間余の代表的な作品を納め、読み下しと訳文、語釈、鑑賞、補説を添える。詩人の評伝も併せ録する。なお、『詩経』、『文選』、『楽府詩集』については別途、選を編む。

  (b)付録
    ①漢詩入門・・・・中国詩史、形式、押韻。
    ②日本の漢詩・・・・歴史、代表的作品(大津皇子から永井荷風まで)。
    ③詩書解題・・・・『詩経』から(民国)王国維『人間詞話』まで。
    ④中国文学史年表・・・・日本ほかの文学史も併記。
    ⑤漢詩鑑賞地図・・・・洛陽、長安、唐代の歴史地図。中国文学史跡地図も併載。

  (c)索引
    ①作品索引
    ②詩形別索引
    ③人物索引
    ④主要成句索引

 (2)大岡昇平
 大岡はインタビューで、漢文はさほど読んでない、と述べている。が、持ち前の韜晦癖の匂いがする。
 『武蔵野夫人』第14章、瀬死の道子の声は当初「鬼啾」と形容されていたが、後に「鬼哭」に換えられた。この措辞、杜甫の古詩「兵車行」が出典か。「鬼啾」「鬼哭」は、最後の2行を参照。

   車燐燐 馬蕭蕭     車燐燐 馬蕭蕭
   行人弓箭各在腰     行人の弓箭各(おのおの)腰に在り
   耶娘妻子走相送     耶娘の妻子走りて相送る
   塵埃不見咸陽橋     塵埃にて見えず咸陽橋
   牽衣頓足遮道哭     衣を牽き足を頓して道を遮りて哭す
   哭聲直上干云霄     哭声直ちに上りて云霄を干(おか)す
   道旁過者問行人     道傍を過る者行人に問う
   行人但云點行頻     行人但だ云う点行頻りなりと
   或從十五北防河     或は十五より北 河を防ぎ
   便至四十西營田     便ち四十に至って西 田を営む
   去時里正与裹頭     去る時里正与(ため)に頭を裹(つつ)み
   歸來頭白還戍邊     帰り来って頭(こうべ)白きに還た辺を
   邊廷流血成海水     辺廷の流血海水と成るも
   武皇開邊意未已     武皇辺を開くの意未だ已まず
   君不聞漢家山東二百州  君聞かずや漢家山東の二百州
   千村万落生荊杞     千村万落荊杞を生ずるを
   縱有健婦把鋤犁     縱(たと)い健婦の鋤犁を把る有るも
   禾生隴畝無東西     禾(か)は隴畝に生じて東西無し
   況復秦兵耐苦戰     況んや復た秦兵苦戦に耐うるをや
   被驅不異犬与鶏     駆らるること犬と鶏とに異ならず
   長者雖有問       長者問う有りと雖も
   役夫敢伸恨       役夫敢へて恨を伸べんや
   且如今年冬       且つ今年の冬の如きは
   未休關西卒       未だ関西の卒を休めざるに
   縣官急索租       県官急に租を索むるも
   租税從何出       租税何(いづく)より出でん
   信知生男惡       信(まこと)に知る男を生むは悪しく
   反是生女好       反って是れ女を生むは好(よ)きを
   生女猶得嫁比鄰     女を生まば猶ほ比隣に嫁するを
   生男埋沒隨百草     男を生まば埋沒して百草に隨う
   君不見青海頭      君見ずや青海の頭(ほとり)
   古來白骨無人收     古来白骨人の收むる無きを
   新鬼煩冤舊鬼哭     新鬼は煩冤して旧鬼は哭す
   天陰雨濕聲啾啾     天陰(くも)り雨濕(けぶ)とき声啾啾

 著名な中国文学者を父に持ち、自らも『新唐詩選』の共著者である桑原武夫から、大岡は、生涯私淑することになるスタンダールを紹介された。後に膨大詳細な杜甫注釈をあらわす吉川幸次郎も大岡と同学の京都大学の俊秀だった。こうした事情がなくても、当時の知識人として、大岡は『武蔵野夫人』を書く前に「兵車行」を知っていた、と思う。中年になって応召した自分を「便至四十西營田(便ち四十に至って西 田を営む)」に重ねてみたかもしれない。
 なお、『花影』((1961年毎日出版文化賞、新潮社文学賞)のタイトルは、王安石の絶句「夜直」の結部から採る。

   金爐香尽漏声残  金炉香尽きて漏声残す
   翦翦軽風陣陣寒  翦翦の軽風陣陣の寒さ
   春色悩人眠不得  春色人を悩まして眠り得ず
   月移花影上欄干  月は花影を移して欄干に上らしむ

□石川忠久・編『漢詩鑑賞辞典』(講談社学術文庫、2009)
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【大岡昇平】資料 「大岡昇平、そして父のこと」

2013年01月26日 | ●大岡昇平
 ブログ「アリラン峠の石神」に「大岡昇平、そして父のこと」と題する記事、全10編【注1】が掲載されている。

 「アリラン峠の石神」管理人がどういう方なのか、まったく知らないのだが、記事の内容からすると、1949年生まれの方で、御尊父は出征・抑留の経験があるらしい。以下、管理人とブログの記事との両方を一括して「アリラン峠」と略記させていただくが、「アリラン峠」は御尊父の半生【注2】を思い合わせながら、大岡昇平の戦前戦後をたどっている。例えば、帝国酸素。帝国酸素本社が入居していた「ナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク(現・シティバンク)神戸支店」ビルは現存していて、「アリラン峠」の御尊父も復員直後このビルで働いたそうだ。【注1の(2)】
 ここでは、大岡昇平に焦点をあてて整理する。
 帝国酸素は、もとはフランスの「レール・リキード社」日本法人で、1930年、住友資本と共同出資により「帝国酸素」と社名変更した。

 1938年10月、帝国酸素(日仏合弁)に入社(翻訳係)。
 1939年10月、今日出海の媒酌で上村春枝と職場結婚。式は挙げていない。
 1943年11月、それまでに帝国酸素を退社していた大岡、川崎重工業に入社。
 1944年2月、川崎重工業東京事務所勤務。
 1944年3月(35歳)、本籍地の東京で教育召集を受け、近衛連隊に入隊。

 「教育召集」とは何か。これを「アリラン峠」は明快に解説している。
 徴兵検査では、身体的な頑健さが主たる評価軸とされ、甲種、第一乙種、第二乙種、丙種、丁種、戊種に分けられた。検査の結果、合格となってただちに(検査の翌年1月)入営する可能性が高いのは、甲種合格者。「現役(兵)」の兵役期間はおよそ2年。平時ならば、期間終了後、除隊となる。戦時には、甲種合格者だけでは現役兵が不足する。第一乙種合格者は、現役兵が不足してくると「補充兵」として召集をかける第一候補となる。そのため、あらかじめ兵士としての教育をおこなっておく必要がある。これが「教育召集」だ。第二乙種合格者は、平時では召集がかかることはまずなかったらしいが、戦時になると、「第一乙種」に繰り上げられたり、「教育召集」がかかったりした。【注1の(3)】
 大岡は、第二乙種合格だった。

 1944年6月17日、部隊が品川駅で小休止中、前日の面会日に間に合わなかった妻子と面会。
 1944年6月27日、門司にて輸送船に乗船。

 輸送船の上で、大岡は次のように考えた。
 ①<「私はこの負け戦が貧しい日本の資本家の自暴自棄と、旧弊な軍人の虚栄心から始められたと思っていた。そのために私が犠牲になるのは馬鹿げていたが、非力な私が彼等を止めるため何もすることが出来なかった以上止むを得ない。>【(「出征」】

 このような戦争観はマルクスから学んだことだ、という大岡の証言を「アリラン峠」は拾い出している。【注1の(6)】
 ②<あの時、ブラブラしていた時に、また本をごそっと読みました。(中略)神戸の場末の本屋にマルクスの『露土戦争』って本があったんだ。そんな本、当時本屋にあっちゃあいけないんだけれど、『戦争』って題なんでお目こぼしあずかったらしいんだ。(中略)で、それを読んで、あの中の戦争についての考え方が、まあぼくの戦争観の基礎になったんですがねぇ。>【『戦争』、岩波現代文庫】・・・・「ブラブラしていた時」とは、帝国酸素を辞めて失業中の1943年頃のことだ。

 ③<きみたちは死に、おれは生きた。おれたちは大抵三五歳で、自分の惨めさを忘れるために、みんな考え深かった。しかし自分の手に持たされた銃でなにをすべきかを決定する動機がどうも見付からなかった。それはわれわれが普段からどう生きるかについて、或る高い道義をもっていなかったからなのだ。>【『ミンドロ島ふたたび』】
 ④<私がここで戦友たちになにを約束したかは言いたくない。やるまではなにも言わないのが私の主義である。>【同】

 大岡は何を「約束」したのか。「アリラン峠」は、仮説を立てている。【注1の(8)】
 (a)抽象的な何か(<例>平和を守る)より、もっと具体的ななにか(行動)だった。
 (b)まず、『レイテ戦記』をかれらのためにも書き上げること。『レイテ戦記』の「あとがき」【注3】からも、それが伺える。
 (c)芸術院会員の辞退(1971年、ミンドロ島を訪問の4年後)。・・・・大岡自身による証言は【注4】。

 高度成長が1954年12月から1973年11月までであるならば、(c)のときまだ高度成長の途上にあった。<健忘症に陥った「戦後」のなかで、大岡は、ふたたび孤独だった。/そして、ひとり死者たちを想起し対話を続けていた。/その相手は、「抽象」の死者ではない。/「伊藤、真藤、荒井、厨川、市木、平山、それからもう一人の伊藤」と、大岡は呼びかけるのだ。>と「アリラン峠」は記す。【注1の(8)】

 「アリラン峠」はさらに、
 ⑤<私がいかにも自分が愚劣であることを痛感したが、これが理想をもたない私の生活の必然の結果であった以上、やむを得なかった。現在とても私が理想をもっていないのは同じである。ただこの愚劣は一個の生涯の中で繰り返され得ない、それは屈辱であると私は思う。>【「出征」】
を引用し、ここにおける「理想をもたない私の生活」は、③の「われわれが普段からどう生きるかについて、或る高い道義をもっていなかった」に対応すると見て、③は<じぶんたちは35歳の大人として世渡りの苦労もなめ思慮深かったものの、見方をかえれば、それは処世、自己保身に流されてきたということでもあり、その「必然の結果」として、じぶんたちはなすすべもなく無意味な戦争に駆り出されたのではなかったか、という痛恨の自己反省を言っているのではないか。/そして、その「愚劣は一個の生涯の中で繰り返され得ない」と、大岡は、戦友が眠る「ルタイ高地」に向って「叩頭」し、約束し、自戒したのではないか。>と解釈している。【注1の(8)】
 そして、傍証として、
 ⑥<ぼくはそういう戦争になる経過を見てきた人間として、兵士として、戦争の経験をもつ人間として、戦争がいかに不幸なことであるかを、いつまでも語りたいと思っています。><権力はいつも忍び足でやってくるんです。>【『戦争』】
を引用する。【注1の(8)】

 <戦争についてひと言も語らなかった父、というより、私に話を聴こうとする姿勢がなかったのだが、その亡き父に、私もなにか「約束すること」があるような気がしている。>【注1の(8)】という反省は重い。

 1945年12月、復員船、博多港に到着。上陸。

 「アリラン峠」は、「わが復員」(『ある補充兵の戦い』所収)の末尾の「とても好きな箇所」を引用し、擱筆している。【注1の(9)】
 私も好きな箇所だ。以下は、引用符は付けないが、引用である。

 畳の上に寝るのは一年半ぶりである。背中に当たるのと同じ柔らかい感触の平面が、まわりにもずっとあるという感じは、まったくいいものだ。
 片づけをすませて上がって来た妻は、横になりながら、
 「折角もう帰って来んと諦めてたのに」といった。
 意味のないことをいいなさるな。久し振りで妻を抱くのは、何となく勝手が悪かった。
 「もし帰って来なんだら、どないするつもりやった」
 私は今でも妻と話すときは関西弁を使う。友と東京弁で語り、横を向いて妻を関西弁で呼ぶ芸当を、友は珍しがる。
 「そりゃ、ひとりで子供育ててくつもりやったけど、一度だけ好きな人こしらえて、抱いて貰うつもりやった」
 「危険思想やな」
 我々は笑った。

 【注1】
 (1」)「大岡昇平、そして父のこと(1) はじめに
 (2)「大岡昇平、そして父のこと(2) 召集まで
 (3)「大岡昇平、そして父のこと(3) 教育召集
 (4)「大岡昇平、そして父のこと(4) 妻との面会
 (5)「大岡昇平、そして父のこと(5) 1937年「南京陥落」
 (6)「大岡昇平、そして父のこと(6)「スタンダール研究」
 (7)「大岡昇平、そして父のこと(7)「レイテ戦記」
 (8)「大岡昇平、そして父のこと(8)「ミンドロ島ふたたび」
 (9)「大岡昇平、そして父のこと(終り)
 (10)「大岡昇平、そして父のこと(番外編) ”戦争は知らない”

 【注2】1915年に生まれ(1909年生まれの大岡昇平より6歳ほど若い)。1939年4月、大学(経済学部)卒後、「K造船所」(神戸、同年12月に「K重工業」に社名変更)入社。1939年12月(24歳)、応召し、歩兵第40連隊(鳥取)に入営。新兵教育終了後、「陸軍経理学校」(旧「満州」の「新京」)に入校。主計幹部候補生の教育を受け、「中支野戦貨物廠」に配属(第13軍〈上海〉直轄)。1945年8月、敗戦により、中華民国(国民党)に抑留され、1946年8月(31歳)に帰還。1947年、「K重工業」に復帰。【注1の(1)】

 【注3】<戦場の事実は兵士には偶然のように作用するが、その一部は敵味方の参謀の立てる作戦と司令部の決断によって、支配されているのである。レイテ島における決断、作戦、戦闘経過及びその結果のすべてを書くことが、著者の次の野心となった。>【『レイテ戦記』の「あとがき」】

 【注4】
 ⑦<フィリピンで捕虜になったことが恥ずかしくて芸術院会員などという国家的栄誉はどうしても受けられません。とにかく天皇陛下の前には出られません。>【1971年11月30日付け「読売新聞」】
 ⑧<あの辞退のことばとは、あのときふっとその場でというのが朝日新聞に出たけれども、そうじゃないんだ。・・・・おれはもうずっと前から言っていたんだよ。そろそろくるころだと思って。>【『二つの同時代史』】
 ⑨<誰も僕の気持を察してくれない。/なさけない気持で、僕はやっぱり生きている。/わかって貰えるのは、みんなだけなんだ。>【『ミンドロ島ふたたび』】
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【大岡昇平ノート】小林信彦と台湾沖航空戦 ~沢村栄治小伝補遺~

2011年11月23日 | ●大岡昇平
 往年の剛速球投手、沢村栄治の夭折の背景に台湾沖航空戦(1934年10月10~14日)がある【注】。
 この闘いで、日本軍は航空母艦を轟沈・撃沈11隻、撃破8隻、戦艦を轟沈・撃沈2隻、巡洋艦を轟沈・撃沈3隻、その他の戦果をあげた。
 この大戦果が、陸軍をしてレイテ決戦決断を後押しした。
 ところが、まったくの虚報だったのだ。

 大戦果を聞いて、国民はどう反応したか。
 佐々淳行『戦時少年』(文春文庫、2003)には何も書かれてない。佐々少年は、神風特攻隊の噂を聞いても、無敵連合艦隊(じつは既に壊滅していた)をまだ信じていた。
 集団疎開中の小林信彦は、もっと醒めていた。より正確にいえば、小林少年の集団疎開仲間、早坂少年は醒めていた。台湾沖とルソン島近くに米空母が19隻もいるはずがない・・・・。

 堀栄三・少佐/大本営陸軍情報部も、同じ疑問を抱いた。
 堀の専門は「米軍の戦術の研究」だった。彼は、台湾沖航空戦の直前、フィリピン行きを命じられ、そ途中、台湾沖航空戦と台風にあって、出発は延期された。
 10月14日昼、堀は古い偵察機で鹿児島県の鹿屋基地に飛び、「戦果判定」に立会することになった。彼は、まず報告されてくる戦果が、未帰還の搭乗員があげたものが多いのに気づいた。正確な数字はなく、「根拠のない歓喜」だけがある。
 堀は、新田原飛行場(宮崎県)に戻り、大本営あてに「直視した戦果」の緊急電を打った。海軍の戦果に疑いあり、という短い電文だ。夕暮れと夜間の戦闘が多く、未熟な搭乗員たちが戦果の判断を見誤ったが、「未帰還の搭乗員」への「思いやり」から上官たちはすべての報告を「戦果」にしていたのだ。

 海軍上層部は、大戦果が幻であることを10月16日午前に知った。
 ところが、同日昼前、昭和天皇は勅語を発表する考えを明らかにした(木戸幸一内大臣の日記)。
 海軍上層部は追いつめられた。海軍は、戦果が怪しいことを陸軍に知らせなかった。

 10月16日、フィリピンのクラーク飛行場に到着し、大きな衝撃を受けた。
 もう大丈夫だ、と一人の参謀は言った。
 「なんですか?」
 問いかける堀に、相手は、
 「知らんのか、昨日のラジオ放送を」
と怪しむような顔をした。台湾沖航空戦は大勝利で、敵空母を19隻撃沈撃破した、という。「朕深ク之ヲ嘉尚ス」

 こうして、堀の貴重な情報は葬られた。電文は、陸軍電報綴りの中に残っていない。
 この時、電報を「握り潰した」のは、瀬島龍三・中佐/大本営陸軍部作戦参謀だった。瀬島は堀に語った。「あの時、自分がきみの電文を握り潰した。戦後、ソ連から帰ったら、何よりも君に会いたいと思っていた」
 握り潰したことが、「こちらの作戦を根本的に誤らせた」とも瀬島は明言した。
 しかし、後に刊行された瀬島の回想録では、「台湾沖航空戦のころは自宅で静養していた」と書かれている。「握り潰し」は堀の思い違いではないか、と編集部は注している。
 陸軍部と海軍部は対立していた。陸軍部の中でも、情報部(堀が属する)と作戦部(瀬島が属する)は反目していた。作戦部は情報部の報告を軽視し、捨てる傾向があった。
 まして、勅語が出たのでは、堀の正論は通らない。
 この戦果発表の誤りは、陸軍出身の小磯首相さえ、すぐには知らなかったふしがある。
 他方、レイテ決戦に批判的な山下泰文・大将/第14方面軍司令官は、襲来する敵航空機が減らないことから、大戦果は誤報と察していた。しかも、堀が部下に配属された。
 しかし、寺内寿一・大将/南方軍総司令官はレイテ決戦の命令を撤回しなかった。
 その結果、制海権と制空権を喪失した日本軍は、レイテ島とその周辺海域で人員と物資をひたすら消耗していった。

 【注】「【大岡昇平ノート】沢村栄治の悲劇 ~原発・プロ野球創成期・レイテ戦記~

□小林信彦『東京少年』(新潮社、2005)
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【大岡昇平ノート】沢村栄治の悲劇 ~原発・プロ野球創成期・レイテ戦記~

2011年11月15日 | ●大岡昇平
 読売新聞社主・正力松太郎といえば、その政治的野心をCIAに利用されて日本に原発を持ちこみ【注1】、結果として、3・11に東日本の山河に大量のセシウムが降り注ぐ遠因となった人物だ。
 正力は、原発にまだ手を出していないころ、野球少年に手を出した。
 読売新聞の全面ガラス張りの社長室で、17歳の少年とその父親の賢二に、正力は力強く言った。
 「とにかく日本の野球も必ず職業野球の時代がやってくる。だから栄治くんのことは僕に任せてくれないか。そのときだけの面倒をみるというのではなく、先の先まで面倒をみるから、正力を信用して万事お任せください」
 元警察官僚の正力は、この親子の信頼を踏みにじった。少年は後に三度も応召し、最後に海の藻くずと消えた。

 沢村栄治は、京都商業時代、大阪の名門の市岡中との対戦で、延長13回に奪三振31個という超弩級の記録を残している。
 1934年年11月20日、沢村は一躍その名を全国に知られた。アメリカメジャーリーグ選抜軍相手の「日米大野球戦」第9戦で9奪三振の完投を果たしたのだ。1回裏一死からは4連続で三振を奪った。そのなかには、3番ベーブ・ルース、4番ルー・ゲーリックがいた。結果的には、7回に、大リーグで三冠王を達成したゲーリックにホームランを打たれて1対0で敗れはしたものの、17歳にして快投した沢村を大リーガーたちは「スクール・ボーイ」の愛称を捧げた。

 この沢村に目をつけたのが、市岡忠男・読売新聞運動部長だ。
 市岡は、早稲田大学の先輩、政界のフィクサー的な森伝を訪ねた。森は、右翼から宗教関係者まで広く顔のきく秋本元男を京都に送った。
 京都商業の近くに等持院がある。その住職、栂道節は若年時、関精拙・天龍寺管長のもとで修行した。関は、政界のフィクサー的怪僧だった。彼のもとには、戦前の軍人、政治家をはじめ、右翼から左翼まで集まり、さながら梁山泊だった。
 秋本の父、武男は陸軍少将で、関とつながりがあった。その関を媒介にして、栂と秋本が結びついたことが、沢村獲得の大きな決め手となった。
 栂は、沢村が通う京都商業校長の辻本光楠と昵懇の仲なのだった。

 準備中の「大日本東京野球倶楽部」に沢村を参加させる内輪話が行われたのは、嵐山を前にした料亭だった。集まったのは、秋本、市岡、栂、辻本、それに沢村の京都での保証人であり親代わりだった伊東藤四郎の5人だった。
 伊東は、沢村の全日本軍入りに難色を示した。沢村は慶應義塾大学野球部監督の腰本寿のコーチを受けていること、沢村自身が慶大進学を希望していること、が反対の理由だった。
 辻本も、沢村の慶大進学を希望していた。しかし、市岡の説得に翻意し、沢村の身柄を市岡に一任する覚悟を決めた。
 なおも抵抗する伊東に対しては、「不肖この秋本が全責任をもつ」と秋本は話を打ち切った。

 冒頭で記した読売新聞社長室において、沢村の全日本軍入りが正式に決まった。
 1934年12月26日、「大日本東京野球倶楽部」(後の読売ジャイアンツ)が結成され、沢村は京都商業を中退してプロ入りした。
 翌1935年、「大日本東京野球倶楽部」は米国に遠征し、128日間、109試合を戦った。戦績は75勝負33敗1分けだった。生まれてまもない日本プロ野球と沢村の人生の、短い絶頂期だった。

 沢村のもとに最初の召集令状が届いたのは、全日本軍入りからわずか3年後の1937年のことだ。沢村は、その後さらに2度召集を受けた。
 3度も出征するという異常事態は、沢村の学歴と密接に関連していた。プロ野球選手の多くは、兵役延長を狙って、私立大学夜間部に籍を置く便法をとっていた。大学に籍があれば一時的に兵役を先に延ばすことができたし、出征しても幹部候補生の資格があるため激戦地への出征は免れることができた。
 だが、沢村には中学中退の学歴しかなかった。一兵卒として激戦地へ出征せざるをえなかった。
 慶応入りを望んでいた沢村を正力が強引に全日本軍入りさせたことが、沢村の悲劇の始まりだった。

 1938年4月、沢村は中国戦線に赴き、激戦地を転戦した。この時の最後の戦闘地は、78人の部隊中、生還者わずかに22人だった。この戦闘で沢村は、左掌に貫通銃創を受けた。
 1940年春、復員した沢村は再び巨人軍のユニフォームを着た。しかし、全盛期とは別人だった。2年間余の軍隊生活は、沢村の投手生命を完全に奪っていた。
 翌1941年10月、再召集を受け、フィリピン戦線で爆撃を受けて命からがら島に泳ぎ着くような戦闘を経て、1942年秋に復員した。三たび巨人軍のユニフォームを着たが、もはや1勝もあげることのできない体になっていた。
 1944年になって、新婚の妻のつてで兵庫県川西市の工員として働いていた沢村は、他日を期して巨人への復帰を打診すべく、巨人軍事務所を訪ねた。迎えた市岡忠男は、冷酷に馘首を告げた。読売の職員として残る道さえ断ち切った。直後に沢村の来訪を受けた鈴木惣太郎は、その顔はいままで見たことのないほど青ざめていた、という。
 沢村は、巨人軍から解雇されたことを、鈴木以外に、家族にも漏らさなかった。
 沢村の三度目の応召は、それから8ヵ月余の後の1944年10月のことだ。その2ヵ月後の12月2日、門司港からフィリピンに向かった。

 ちなみに、大岡昇平は沢村より5ヵ月早く、同年7月3日に門司港を出港している。当時も戦況は厳しかったが、まだ大岡には船中で生涯を回顧する余裕があった。しかし、その5ヵ月の間に、戦況は激変した。米軍がレイテ島に上陸した(10月20日)。そして、台湾沖航空戦(10月10~14日)があり、比島沖海戦(10月24~26日)があり、制空権を完全に失った。10月19日には神風特別攻撃隊が編成されている。
 「沢村が配属された津33連隊の主力部隊は、すでに比島派遣軍第16師団に編入され、マニラ付近に駐屯していた。沢村もこの部隊に合流し、レイテ島水際作戦に参加することになっていた」と佐野眞一は記す。
 レイテ戦は、投入兵力84,006名、戦没者79,261名。生還者2,500名。生還率は、わずかに3%にすぎない。三度目の応召で沢村の運命は定まった、とも言える。
 しかし、他方、仮に大岡昇平と同じく12日間を要してマニラに辿り着くことができたとすれば、到着は12月14日だ。レイテ島決戦が事実上放棄された日だ【注2】。12月18日には、大本営はレイテ島決戦放棄を決定している。沢村がレイテ島に派遣されずに終戦まで生き延びた可能性は捨てきれない。

 現実には、マニラに到着することさえできなかった。沢村を乗せた輸送船は、台湾沖を過ぎるあたりで魚雷に襲われ、轟沈した。沢村は海没した。
 享年27。長女は、生後3ヵ月にも達していなかった。

 【注1】有馬哲夫『原発・正力・CIA -機密文書で読む昭和裏面史-』(新潮新書、2008)
 【注2】「【大岡昇平ノート】『レイテ戦記』にみる第26師団(3)

 以上、佐野眞一同「沢村栄治の巨人入団と京都人脈 ~新忘れられた日本人171~」(「サンデー毎日」2011年11月6日号)、同「沢村栄治の三度の召集と中学中退の経歴 ~新忘れられた日本人172~」(前掲誌11月13日号)、同「沢村栄治をクビにした巨人の非情 ~新忘れられた日本人173~」(前掲誌11月20日号)に拠る。
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【大岡昇平ノート】本をタダで入手する法 ~『パルムの僧院』と文体~

2011年11月06日 | ●大岡昇平
 毎年11月の今頃、わが市では2日間にわたって「本の市」が開催される。図書館の蔵書が放出され、併せて市民の蔵書が提供される。もちろん無料。それどころか、手提げ袋から段ボール箱まで、主催者は用意している。毎回、押すな押すなの盛況だ。高齢者が多く、幼児連れや若い女性も少なくない。ネクタイにスーツ姿は稀だ。
 一昨年の収穫は動物行動学で、昨年のそれはE・S・ガードナーだった【注1】。
 今年は、東南アジアブックスの10册。鶴見良行も著者の一人だ。

 『パルムの僧院』(「世界の文学 第9巻」、中央公論社、1965)も、本の市で入手した1冊。
 『僧院』は、角川文庫(1951年版および1970年改版【注2】)しか読んでない。「世界の文学 第9巻」をめくると、貴重な付録5点【注3】が添付されていることに気づく。もっと早く読んでいたら、『僧院』理解がもっと深まっただろうか。たぶん、そうだろう。しかし、そんなに深まらなかったような気もする。確かなことは、10代の終わりに初めて読んでから今日までに『僧院』を9回読み返したことだ。そして今、10回目の再読の途中だ。
 大震災、原発事故、TPP参加是非、ギリシャ債務危機・・・・世間がこんな時に200年前のフィクションを暢気に読んでいていいのだろうか。
 もちろん、いい。

 大岡昇平は、『僧院』を訳することで文体を確立した(と自分で言う)。
 スタンダールの文体は、彼自らの覚書によれば、「【注3】-(3)」のような文体だ。それは他方、大岡のいわゆる散漫な文体でもある。
 20世紀に生きた大岡は、『花影』で緊密な文体を築いた。そして同時に、『武蔵野夫人』の閉鎖的空間を完成させた。窮屈な、あまりに窮屈な。
 他方、『僧院』の自由闊達は、『武蔵野夫人』と同時平行で書きつがれた『野火』に具現している。『僧院』のロンバルディアを駆けめぐる情熱は、『野火』においてはレイテ島の密林を彷徨しつつ独言つ華麗なレトリックに転化した。しかし、『野火』は構成に問題を残した。
 『レイテ戦記』はれっきとしたノンフィクションだ。それを文学者は文学として評価する。奇妙といえば奇妙だが、『僧院』と近縁性を見れば、解けない謎ではない。『僧院』は、戦記としても読めるのだ。単にワーテルローを描いているだけでなく、専制政治への抵抗という「戦さ」を描いているのだから。一例・・・・初めて謁見したときにエルネスト4世から繰り出される言葉の剣を捌くファブリスの姿と、圧倒的に優勢な米軍の攻撃に力を尽くして耐える、例えばリモン峠の日本の兵士たちと、重なって見える。

 【注1】「【読書余滴】本をタダで入手する法、E・S・ガードナー、プライベート・バンク
 【注2】「世界の文学 第9巻」は1951年版と同じ訳文だ。<例>第14章末尾・・・・<Intelligenti pauca!(慧き者は少しにて足る)と署長は狡猾な様子で叫んだ。>(1951年版)/<Intelligenti pauca!(賢者にはわずかな言葉で通じる)と署長は狡猾な様子で叫んだ。>(1970年版)
 【注3】訳者・大岡昇平の解説等をもとにその内容を記すと、
 (1)参考年譜・・・・スタンダールは事件を実に雑然と語っているので読者の理解を助けるために添えられた。小説のなかの事件と、その背後にある歴史的事実が年代順に整理されている。ピエル・マルチノが初めてつけたボサール版にアンリ・マルチノのガルニエ版の訂正を併用した。
 (2)バルザックへの手紙・・・・バルザックの『パルムの僧院』論に対する礼状だ。よって、先にバルザックの『僧院』論に目を通しておくべきだが、『僧院』論のさわりは解説で紹介されているから、未読でもあまり困らない。<サンセヴェリ-ナ夫人の性格は全部、コレッジオから取りました(私の魂にコレッジオが与えるのと同じ効果を与えるという意味です)>などという打ち明け話があって、興味深い。
 (3)マルジナリア・・・・『僧院』の欄外にスタンダールが書き込んだ覚書、訂正、異文だ。日記も含まれている。例えば、<明晰と理解しやすい対話(後者は感情のニュアンスをよく描き、その一つ一つを跡づけるものである)を愛したため、私は自然に、現代小説の少し誇張した文体とは反対の文体で書くことになった>。
 (4)ファルネーゼ家の興隆の起源・・・・以下、訳注を引く。<これは現在パリの国立図書館にある稿本で、スタンダールが1833-34年に買ったイタリアの写本を筆写させたものである。『カストロの尼』『パリアノ公爵夫人』など『イタリア年代記』と呼ばれる中編小説群の稿本の一つである>うんぬん。
 (5)若き日のアレッサンドロ・ファルナーゼ・・・・スタンダールの最初の下書きと見なされる。
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【大岡昇平ノート】原発事故または戦争の事 ~8月15日のために~

2011年08月15日 | ●大岡昇平
 東京およびその周辺都市に放射能のホットスポットが発覚している。
 福島第一原発事故は、健忘症の都会人に、田舎に建設した原発で電力を調達しようとする時、都会人がどういう目に遇うかを示している。それだけではなく、どんな害を田舎に及ぼすものであるかも示している。その害が結局、都会人の身に撥ね返って来ることを示している。被災者の証言は多面的である。原発が放出した死の灰に覆われた土は、その声を聞こうとする者には聞こえる声で、語り続けているのである。

 【注】下敷きは大岡昇平『レイテ戦記』の「エピローグ」。なお、ポツダム宣言受諾は8月14日。日本では1963年以降、8月15日が終戦の日となっているが、諸外国では終戦の調印が行われた9月2日が終戦記念日とされる。

   *

 レイテ島の戦闘の歴史は、健忘症の日米国民に、他人の土地で儲けようとする時、どういう目に遇うかを示している。それだけではなく、どんな害をその土地に及ぼすものであるかも示している。その害が結局自分の身に撥ね返って来ることを示している。死者の証言は多面的である。レイテ島の土はその声を聞こうとする者には聞こえる声で、語り続けているのである。

【出典】大岡昇平『レイテ戦記』の「エピローグ」

   *

 昭和19年12月5日、レイテ島はマリトボの東方、山間のルビに置かれた第35軍司令部に到着した田中光祐少佐(第14方面軍派遣参謀)は、周辺を視察してぞっとした。
 飢餓に瀬している第26師団の兵士たちは、「いずれも眼ばかり白く凄味をおびて、骨と皮ばかりである。まるでどの顔も、生きながらの屍である。地獄絵図のような悽愴な形相である。その上丸腰で、武器をもっていないために、全く戦意を喪失していた」。
 これは師団主力ではなく、先遣重松大隊の傷病兵か井上大隊の状況であった。
 「やがてブラウエン作戦が中止、退却に移ってからは全軍が似たような状況に陥る」

【参考】大岡昇平『レイテ戦記』((『大岡昇平集 第10巻』、岩波書店、1983)の「21 ブラウエンの戦い」
 ⇒「『レイテ戦記』にみる第26師団(2)

   *

 私は頬を打たれた。分隊長は早口に、ほぼ次のようにいった。
 「馬鹿やろ。帰れっていわれて、黙って帰って来る奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ。そうすりゃ病院でもなんとかしてくれるんだ。中隊にゃお前みてえな肺病やみを、飼っとく余裕はねえ。見ろ、兵隊はあらかた、食糧収集に出動している。味方は苦戦だ。役に立たねえ兵隊を、飼っとく余裕はねえ。病院へ帰れ。入れてくんなかったら、幾日でも坐り込むんだよ。まさかほっときもしねえだろう。どうでも入れてくんなかったら――死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領してるんじゃねえぞ。それが今じゃお前のたった一つの御奉公だ」
 私は喋るにつれて濡れて来る相手の唇を見続けた。致命的な宣告を受けるのは私であるのに、何故彼がこれほど激昂しなければならないかは不明であるが、多分声を高めると共に、感情をつのらせる軍人の習性によるものであろう。情況が悪化して以来、彼等が軍人のマスクの下に隠さねばならなかった不安は、我々兵士に向かって爆発するのが常であった。この時わが分隊長が専ら食糧を語ったのは、無論これが彼の最大の不安だったからであろう。
 いくら「座り込ん」でも病院が食糧を持たない患者を入れてくれるはずはなかた。食糧は不足し、軍医と衛生兵は、患者のために受領した糧秣で喰い継いでいたからである。病院の前には、幾人かの、無駄に「座り込ん」でいる人達がいた。彼等もまたその本隊で「死ね」といわれていた。

【出典】大岡昇平『野火』(『大岡昇平集 第3巻』、岩波書店、1982)の「1 出発」
 ⇒「『野火』とレイテ戦(2) ~主人公の行動~
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【大岡昇平ノート】身体に抵抗する精神 ~『成城だより』の文学的でない読み方~

2011年02月01日 | ●大岡昇平
 大岡昇平は、若年の一時期と旅行中のほか日記をつける習慣がなかった。1970年代のなかば、もの忘れがひどくなったのを自覚して簡単な日録をつけはじめた。これを膨らませ公表用日記が『成城だより』である。
 『成城だより』は1979(昭和54)年11月8日から1980(昭和55)年10月17日までで、大岡昇平は1909(明治42)年3月6日生まれだから、70歳から71歳にかけてのことだ。
 ちなみに、『成城だよりⅡ』が1982(昭和57)年1月1日から同年12月15日まで、72歳から73歳にかけて。『成城だよりⅢ』が1985(昭和60)年1月1日から12月13日まで、75歳から76歳にかけて。
 最後のあとがきは77歳の誕生日(1986(昭和61)年3月6日)に記された。2年後、1988(昭和63)年12月25日に大岡昇平は鬼籍に入る。享年79。
 要するに、『成城だより』は、大岡昇平の70歳から76歳までの6年間にわたる晩年の思想と行動を、2回の中断をはさんで、詳細に垣間見せる。

 厚生労働省の簡易生命表によれば、大岡が没した1988年の平均寿命は、男性75.54歳(女性81.30歳)だ。
 大岡は、当時の平均寿命より少し長く生きたわけだ。
 ちなみに、2009年では男性79.59歳(女性86.44歳)だ。この20年間余のうちに男性4歳強(女性5歳強)、平均寿命が伸びたことになる。

 ところで、講談社文芸文庫版『成城だより』は2001年に刊行された。その解説で、加藤典洋はこう書いている。
 『成城だより』は、「文学的な日録でありつつなお、1980年代前半を生きる、年老いた戦後文学者の日々の生活感を伝える。気がついてみればこれは、またとない日記文学の傑作ではないか。そういうことにわたしは今回、これが書かれて20年もして、はじめて気づいたところなのである」
 しかし、『成城だより』に記されるのは、時代の中の「生活感」だけではない。加齢に伴う「生活感」も少なからず記される。いや、少なからずとは控え目な言い方であって、ズバリいえば頻出する。試みに身体に係る懸念ないし不調を記した箇所に付箋を貼ってみるとよい。100枚では足りない。
 大岡が公表を予定して書いた日記(『成城だより』)全体は、加藤が日記文学の傑作と評価するように、きわめて独特な内容と文体をもち、万人に普遍的ではない。
 しかし、大岡が日記の片隅に書きとめた老化は、万人に共通する。いま、晩年の大岡の年代にある者は、『成城だより』に、もう一人の自分を見いだすことができる。そして、定年をむかえる団塊の世代は、そう遠くない将来、自分の心身がどのように変貌するかを、大岡の日記から見てとることができる。

 大岡昇平という稀代の自己分析家は、明晰なまなざしをもって、自分の身体の衰えを驚くべき冷静さで観察している。若くしてランボーに親しんだ大岡は、「私は一個の他人である」という警句を知らなかったはずはない。あるいは、アランの「魂とは物質に抵抗するものである」も当然知っていただろう。
 「歳月は勝手に来て勝手に去る」とは、山本夏彦一流の皮肉な洞察だが、人間の身体もまた、その精神とは別個に、勝手に成長し、勝手に衰えるのである。
 身体の衰弱に伴って精神も衰弱するのが通常だが、大岡昇平という巨大な知性は、身体だけを勝手に衰弱させた。こうした人もいるのだ。近年では、免疫学者にして文筆家の多田富雄も、身体とは独立に知性を維持した一人だ。
 事は高齢者に限らない。老若男女を問わず、事故、病気その他の理由によって身体機能の低下に直面する者にとって、大岡昇平や多田富雄は一つのモデルとなるだろう。
 以下、『成城だより』から一部を引く。【 】内は、引用者による補注である。

    *

1979年
11月8日(木) 晴 【70歳】
 「1976年来、白内障手術、二度の心不全発作で、老衰ひとく、運動は散歩だけとなる。それも駅まで15分の距離で疲れる。往復できず、帰りはタクシーとなる」
 「スモークドビーフサンドなるものメニュにあり、ローストビーフより塩気少いとのこと、それは心不全にはよいので、注文する。ついでに百グラム買い、駅に行くのをやめて、引き返す。歩行距離は駅まで片道と同じぐらいなり。駅付近へ行って、本屋の新刊棚をのぞいても、このところ原稿製造のために、読むべき本たまりあり、買っても読めない」

11月12日(月) 晴
 「【8月に大野正男との対談を】気軽に引き受けたけれど、7月より体調悪くなり、しくじった。三度の対談はなんでもなかったが、その後の整理、加筆に手間取る。新年号原稿の中へ割り込んで来て、閉口す」
 「温かい日続く。暖かいうちに、散歩しておかないといけない。12月から外出禁止となる。心不全には風邪が敵、発熱がよくない」
 「散歩の必要。大腿筋のごとき大きな筋肉を働かすと、脳内の血行が活発になるとの説あり。実際、古今東西に歩行の詩文多く、筆者も以前は行き詰まると書斎内をぐるぐる歩き廻ったものだった。この頃はその元気はないけれど、とにかく歩いて膝を屈伸するのに快感あり。こんなことにも快感を意識しなければならぬとは、情けないことになった」

11月13日(火) 晴
 「白内障手術してより空間感覚かわり、その上、椎骨血管不全、つまり立ちくらみあり、よろよろ歩きにて、コンサートに行けず、音楽のよろこぶべき来訪なり」【「音楽」は、大江健三郎持参の武満徹の新作レコード『イデーンⅡ』『ウォータ、ウォータ』『ウェイブズ』などを指す。】

1980年
1月16日(水) 晴
 「順天堂病院。11時着。レントゲン、心電図。先月あった心臓肥大去る。暮の18日から、まるひと月、何もしなかったのだから、よくなるわけだ。利尿剤は週に2日1日1錠、あとは半錠に減る。つまりあまり疲れない日が5日あることになる」
 「となりの東京医科歯科大病院に『海』編集長塙嘉彦君入院しあり。面会謝絶だが、奥さんに挨拶して帰るつもり。病院裏のスナックへ入って、スパゲティを食べたが、自動ドア絶えず開閉して、寒気を感じる。お茶の水は風邪強く、寒いのなり。歯科大の正門まで百メートルの道歩くのがこわくて、失礼させてもらう。/すでに感じた寒気にて風邪を引いたのではないか、との恐怖あるなり。店を出ればタクシーすぐ来て、助かる。車の中はあったかい。/成城に帰り、すぐ寝てしまう。別に寒気なく、大丈夫のようなり」

3月6日(木) 曇 【71歳】
 「わが71度目の誕生日。ケーキ、花など下さる方あり、感謝感激の至りなるも、当人はあまりめでたくも感ぜず、戸まどい気味なり。71歳まで生きられると思っていなかった。戦争に行ったのが35歳の時なれば、戦後35年、もはやそれと同じ歳月を生きたことになるのなり」
 「戦争に行った人間は、なんとなく畳の上で死ねないような気がしているものなれど、すでに手足の力なく、眼くらみ、心臓鼓動とどこおり、よろよろ歩きの老残の身となっては、畳の上ならぬ病院の、酸素テントの中なる死、確実となった。ところが『現代詩手帖』3月号芹沢俊介氏の『“戦中派”の戦後』を見ると、鮎川信夫の文章よりとして『親族の軍人が口にした』という『畳の上で死ぬ方がよほど恐しい』との言葉引用しあり。これもわかる。されば畳の上でしぬのがこわいので、あらぬ幻想にかられるに非ずやと疑う」
 「寒気ややゆるみ、庭前の梅、咲きはじむ。しかし起きるのはやめておく。娘と孫来る。誕生日のケーキを切ったが、なるべく小さいのをもらう。糖尿病に悪ければなり。娘のみ『おめでとう』と唱うる声、うつろにひびく」

3月12日(水) 晴
 「またもや寒き日。順天堂大の北村和夫教授の定期診察日(先月はさぼった)。レントゲン、心電図、快調とのこと。関西まで長距離旅行の許可出る。昨年6月の状態に、やっと戻った。『堺事件』について調査旅行可能ということ」
 「家人と共に50階のパーラーまで上って一服。筆者は二度ばかり、このあたりのホテルに泊まって、40階より俯瞰景の経験あるも、なんだか20階くらいの感じしかしない。白内障手術して空間せばまりたるなり。もはや常人にあらざる悲哀」

【参考】大岡昇平『成城だより(上下)』(講談社学芸文庫、2001)
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【大岡昇平ノート】『成城だよりⅡ』にみる21年後の改稿、批判の徹底の理由 ~『蒼き狼』論争~

2011年01月22日 | ●大岡昇平
 筆者はかつて『蒼き狼』について、作者井上靖氏と論争せしが、モンゴル人はなおチンギス・ハンを民族の誇りとしあるも、井上氏発明の「狼」精神により、つまり家畜の敵たる狼の真似して征服欲を充たせるとの説に不満との記事、最近新聞の小欄にて読みしことあり。その民族の誇りを踏みにじって、モンゴルへ「蒼き狼」のロケに行ったテレビ局の無神経度、日中戦争以来、不変の発展途上国蔑視の現れなり。
 『蒼き狼』に関する拙文、論争なれば、偏執的直し癖ある小生も、その後いじらず。ところが井上氏はいじる。例えば小生井上氏の「頭を害う山犬」はナンセンスにて、原文は「頭口」つまり家畜のことなりと書きしが、井上氏は翌39年版「新潮文庫」より「頭口を害う山犬」(187頁)と意味不明文に直しあり、拙文は無効になる。ちっとも知らなかったが、これはフェアではないだろう。文庫には60の注をつけながら、この「頭口」なる難字には知らぬ顔をしている。
 文庫には解説として35年6月の「別冊文藝春秋」に書いた「『蒼き狼』の周囲-成吉思汗を書く苦心あれこれ」が収録されているだけだが、岩波版「井上靖歴史小説集」第4巻(1981年9月)には、小生との論争文がかかげられている。論争のテキスト三つあるが、井上氏が反論され、私が再反論した。(「成吉思汗の秘密」「群像」昭和36年3月号)。氏はそれに答えられなかった。ところで岩波版には「自作を擁護する」のに都合のいい第二論文だけ載せている。例えば、「大岡氏は『元朝秘史』というものに対して、何か思い違いがあったのではないか、と思う」と誹謗している。つまり史実を記したものと思っている、というのだが、私はすでに第一論文で「古事記と同じ目的で成立した王家の歴史」と相対化しているのである。それは第三論文でも繰り返したことなのに、ぬけぬけと論破されたテキストを収録しているアン・フェアな態度を非難しておく。自分が答えられなかった論争のテキストを、本文の末尾に収録する無神経には呆れるほかはない。これは現在最も新しい版なので特に記しておく。
 氏は「元朝秘史」の「あゝ、四頭の狗が行く」を「私の表現として借りて」!!「四頭の狼が行く」とした。私は第三論文「成吉思汗の秘密」でモンゴル人は家畜の敵である狼よりも、家畜を守る狗になりたいだろう、と書いた。氏は実は那珂通世博士の「成吉思汗実録」訳文の古拙さをそのまま写した。これは当今はやりの引用の織物として一応許されるかも知れない。しかし、肝心の「狗」を「狼」にかえてるのはあまりひどいではないか、と私はいったのである。私の真意は借用ではなく、「剽窃」ではないか、というところにあったのだが、当時、私は井上氏をそこまで傷つけるに忍びなかった。(私は論争は好きだが、相手の目玉に指を突っ込むようなことはやらない。お互いに文学という苦しい作業をやっているのだから)。
 しかし論点を勝手に書き改めて、私の論争文を無効にされては、やむを得ない。私もこの次からは自分の文章も改めて、当時指摘することをさし控えた他の欠陥も暴き出すつもりである。「頭を害う山犬」を「頭口を害う山犬」に改めることによって、氏が陥った自己矛盾を指摘するつもりである。

   *

 以上のように大岡昇平は、『成城だよりⅡ』1982年5月14日に書いた。
 そして、言葉どおり実行した。同年9月24日刊の『大岡昇平集』第14巻は『蒼き狼』論を含むが、巻末の「作者の言葉」にいわく・・・・
 「その次に加筆の多いのは、井上靖『蒼き狼』に関する1961年の二つの論文です。論争文のテクストなので、やたらとテクストを加筆訂正する癖がある私も、翌62年刊の『常識的文学論』以来いじくっていません。ところが井上氏が論争点の一つ『頭を害う山犬』を『頭口を害う山犬』と訂正したので、私の文章は無効になっています。当時言及を控えた二、三の点と共に、大幅に加筆しました」

【参考】大岡昇平『成城だよりⅡ』(『大岡昇平全集』第22巻、筑摩書房、1996)
    大岡昇平「作者の言葉」(『大岡昇平集』第14巻、岩波書店、1982)
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【大岡昇平ノート】『成城だより』にみる判官びいきまたは正義感の事 ~大西巨人vs.渡部昇一の論争~

2011年01月21日 | ●大岡昇平
 『成城だより』1980年10月15日に大岡昇平は次のように書く。この日記は、大西巨人の痛烈きわまる反論「破廉恥漢渡部昇一の面皮を剥ぐ」(『大西巨人文選3 錯節 1977-1985』、みすず書房、1996)の前に書かれた。
 【注】は、引用者による。

   *

 順天堂超音波検査予定日。朝日新聞朝刊社会面に大西巨人対渡部昇一氏の論争の記事あり。新聞持って出て、タクシー内で読む。10月2日付「週刊文春」の渡部氏のコラム「古語俗解」に載った時から、気になっていた問題だった。渡部氏は先月中旬、「週刊新潮」に載った無署名記事に基づいているのだが、『神聖喜劇』を完成するまで前借り生活していた大西氏が、次男野人君が血友病で入院手術中、生活保護【注1】を受け、千五百万円の医療補助費を受けたことに関してである。大西氏の長男赤人氏が同病であることは周知のことである。渡部氏は、遺伝(?)性とわかったら、第二子をあきらめるのが、多くの人が取っている道である。「<未然に>」【注2】(傍点渡部氏)避けるのが理性的処置であり、社会に対する「神聖な義務」である、と大西氏を難じているのだが、これは第二子を儲けるに当たって、大西氏が医師に相談したことが、週刊新潮に掲載されているのを、故意に無視した、不当な攻撃である。大西氏は激怒して「社会評論」(思想運動編集)に反論を書くという。
 ヒトラーが戦争中、精神病者、ユダヤ人、ジプシーなど劣等人種を断種した。これは一般に彼の残虐行為の中に数えられるものであるが、渡部氏は西独へ遊学中会った西ドイツの医学生から、この非人道的犯罪の功績の面を考えているドイツ人の数は、必ずしも少なくないだろうと想定されることを聞いた、という。医学生からの見聞など根拠にするのは学者として不見識であろう。氏はまたノーベル賞受賞者の名【注3】をあげているが、ノーベル賞は最近値打が落ちている。1912年頃なら第一次世界大戦直前であるから、好戦的論文でも賞貰える。
 渡部氏はベストセラー『知的生活の方法』によって、データカード式整理法なんて、素人にはどうせ三日坊主になる作業をすすめたタレント学者であるが、故意に歪曲したデータに基づく人身攻撃となるとおだやかでない。
 大西氏の激怒は当然であり、多くの身障者の反撥を招くであろう。みつ口の児が生まれたら、あと子供を生むのをやめるのが「常識」であり、「神聖な義務」であろうか。筆者は不安の裡に、次に正常児を生んだ例を聞いている。精神病者、精神病質者に至っては、その範囲は予想できないほど広く、現在の医療はヒトラーをなつかしんでなぞいないのである。
 第一、すでに一人の難病を持った長男を持った大西氏が、自分たちがいなくなった後に、長男を助けるべき弟妹を儲けようと思うのは、健全な子供を生める確率が高いならば、親として当然の人情ではないか。それを無視して気の利いたらしいことをいっていればいいと思うラウドスピーカー精神こそ、異常であろう。大西氏はなんでも徹底的にやる人であるから、この際デモ学者を退治しておいてくれるのが、望ましい。朝日の記事には、大西氏が予め医者に相談したことが、抜けているから、為念。ただし遺伝学者のコメントを載せて、現在病気を起こす遺伝子は二千あって、持っていない人はいないとある。渡部氏は他人のことをいう暇に、自分の遺伝子を勘定してみたらいいだろう。

 【注1】大西巨人によれば、「血友病者など難病者にたいする医療保障(代謝異常者等医療補助)」であり、生活保護ではない。埼玉県では指定疾患医療給付制度である(大西前掲論文、p.154)。現在の医療費助成制度でいえば、小児慢性特定疾患治療研究事業や先天性血液凝固因子障害等治療研究事業がこれに当たる。
 【注2】<>は、引用者が挿入した。<>内の3文字は原文では傍点であることを示す。
 【注3】大西前掲論文によれば、アレクシス・カレル。

【参考】大岡昇平『成城だより』(『大岡昇平全集』第22巻、筑摩書房、1996)
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【大岡昇平ノート】『成城だより』にみる啖呵の切り方 ~「堺事件」論争異聞~

2011年01月20日 | ●大岡昇平
 『成城だより』1980年6月11日に大岡昇平は次のように書く。

   *

 「国文学 解釈と鑑賞」森鴎外特集し、菊池昌典、平岡敏夫対談して、拙論「森鴎外における切盛と捏造」を問題にしている。菊池氏は73年来「展望」に「歴史小説とは何か」を連載した。「切盛と捏造」(75年「世界」6、7月)を、その中の氏の「堺事件」評価に対する反論と「主観的に理解しています」とあれど、これはとんでもない主観的うぬぼれなり。
 文士が歴史家に期待しているのは、史実との関連にて、歴史家の抱く文学についての概念は、ひどく古風にて、その鑑賞については、失礼ながら、特に期待せず。菊池氏が小説としてどう評価されようと実は問題にしていない。
 私は単行本に入れてないが「切盛と捏造」の前に「堺事件疑異」という短文を「オール讀物」75年3月号(1月販売)に書いている。菊池氏の名前を出したことはないし、主旨は「切盛と捏造」と同じで、末尾の朝廷御沙汰の土佐藩扱いへのすり替えについてである。
 74年8月「月刊エコノミスト」10月号のために、私は氏と対談している。蝶々喃々と語り合った相手に、半年後にこっそり反論するほど私は悪趣味ではない。
 (中略)
 国文学界の反論は論外である。似而非考証や言いくるめの連続であって、私は度々反論を各誌より頼まれているが、断っている。反論すれば、鴎外に触れねばならず、筆者は鴎外の子孫と親交があるのでしない、とこれも書いた。しかし、こう同じことが何度も出て来てはたまらぬ。二、三、ここで対談者平岡敏夫氏の「要約した三点」についてだけ簡単に答えておく。
 第一、「もとの資料が、たとえば、三ヶ条にしぼって朝廷を削除したというんですが、鴎外が見ている資料が、もともと三点にしぼってあったとか」と平岡氏はいう。
 これは尾形仂『鴎外の歴史小説』所収「“堺事件”もう一つの構図」にある次の一条である。「大岡氏は、鴎外がフランス公使の五ヶ条の請求の内、皇族陳謝を含む二ヶ条を省き、土佐侯陳謝を冒頭に据えているのを、もう一つの最大の“切盛と捏造”に数えているが、これは『始末』(鴎外の見た資料)に、<時勢上止むを得ず彼れが要求を容れ、(中略)>云々と述べているのを、そのまま襲ったまでで、<史料>との関係に関する限り、まったく問題にならない」
 とあるのを踏まえている。これを読んだ人は原資料には、三ヶ条しかあげてない、と思うだろう。ところが原資料にちゃんと五ヶ条があり、「まったく問題にならない」は、尾形氏のレトリックである。私の論旨にも不備があったが、文士はこういう場合「まったく」とはいわない。こんなレトリックを使う連中を相手にしたくない。
 ボス吉田精一は「森鴎外は体制イデオローグか」(「本の本」75年12月)で、鴎外と賀古の世話役だった「常磐会」が、私のいうように「山県有朋の歌道善導兼時局懇談会」であったことを示す文献は一つもないとのたまう。ところが鴎外日記明治44年10月15日に「常磐会に山県公の第に行く。清国へ兵を出すことを聞く。」とある。国文学者はどうか知らないが、文士はこれを文献と見なすのである。 

【参考】大岡昇平『成城だより』(『大岡昇平全集』第22巻、筑摩書房、1996)
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