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語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【大岡昇平ノート】丸谷才一の、女人救済といふ日本文学の伝統

2010年12月15日 | ●大岡昇平
 丸谷才一は、『星のあひびき』所収の「わたしと小説」で次のようにいう。
 「近代日本文学は、小説中心であるとよく言われる。代表的な文学者を三人あげるなら、夏目漱石、谷崎潤一郎および大岡昇平だ」

 同じく『星のあひびき』所収の「女人救済といふ日本文学の伝統」で、「戦後日本最高の作家は、やはり大岡昇平なのではないか」と書き出す。以下、その要旨。初出は、2009年3月8日付け毎日新聞である。

   *

 「群像」誌は、二度にわたって戦後の秀作についてアンケートをとった。どちらも一位は『野火』だった。
 丸谷才一/三浦雅士/鹿島茂『文学全集を立ちあげる』の巻立てでは、漱石3巻、谷崎3巻、鴎外3巻、大岡2巻となった。戦後作家で2巻は、大岡だけだ。「この作家の高い評価はほぼ確立したやうに見受けられる」

 このたび、何回目かに読み返し、またしてもその偉容に打たれた。
 (1)かつてクリスチャンであった結核病みの若い知識人である敗残兵、という設定が必要にして十分である。余分な線が邪魔をしていないし、要るものだけはしっかり揃っている。これが長めの中編小説ないし短めの長編小説に幸いした。
 (2)敗兵による人肉食いという題材が強烈である。それは、信仰の薄い日本の知識人にふたたび神を意識させる力をよく備えている。巧みな話術によって筋が展開される。なかんずく緩急自在な時間の処理がすばらしい。
 (3)文体がこの主題に適切である。しかも美しい。明治訳聖書の系統を引く欧文脈の文章は、主人公の人となりにもキリスト教的な雰囲気にもふさわしい。この文体美は、わが文芸批評がなおざりにしがちな要素なので、強調しておきたい。

 末尾、キリスト教的信仰への復帰が狂人によってなされる。このせいで、意味が曖昧になる。難があるとすれば、この点だ。
 しかし、これもわが近代の知識人の精神風俗を写すのに向いていた、と見ることができるだろう。
 
 とにかく、丸谷は今回もまた深い感銘を受けた。
 第一次大戦は、ハシェク『勇敢なる兵士シュベイク』のほかさしたる戦争小説を生まなかった。他方、第二次大戦はノーマン・メイラー『裸者と死者』、J・G・バラード『太陽の帝国』、そして『野火』を生んだのである。

 大岡の長編小説からもう一つ選ぶとすれば、『花影』だ。丸谷のいわゆる新花柳小説に属する。
 哀れ深い名編だが、発表当時の反響には納得できないものがかなりあった。女主人公の描き方が冷酷だ、作者が自分を甘やかしている、誰それに迷惑をかける、云々。『花影』をモデル小説と見なし、そんなことをしきりに言ったのである。文学の専門家およびその周辺にいる人々のかかる反応は、素人っぽくて滑稽だった。
 『花影』は、女の流転の姿を描いた名編である。女主人公への愛情にみちている。読んでいて、まことに切ないが、読後に一種のカタルシスが訪れる。これは多分、日本伝来の女人往生の物語なのだろう。
 『野火』におけるキリスト教への関心といい、『花影』の女人救済といい、大岡には意外に宗教的なものへの思慕があるのかもしれない。

 大岡が短編小説の名手であったことを言い落としてはならない。大正文学と鴎外訳『諸国物語』で育った人だから、この領域に通じている。音楽に親しむことで、形式美の感覚がさらに磨かれた。
 まず指を屈するのは、「黒髪」だ。これも流転の女の半生を叙したものだ。配するに京都の地誌をもってし、水のイメージをあしらって様式美に富む。艶麗にして哀愁にみちている。
 「逆杉」も忘れがたい。尾崎紅葉『金色夜叉』の跡を追って塩原に旅した小説家が、密通者と覚しき男女を見かける話だ。文学論、小説論をまじえながらの叙事は楽しく、紅葉の文語体と張り合う大岡の口語体はしなやかで強い。清新にして見事である。文体の見本帖でもある異色作だ。
 もうひとつ、『ハムレット日記』。批評家的才能と作家的才能の組合せとしても、政治への関心の表現としてもおもしろい。志賀直哉、小林秀雄、太宰治など、『ハムレット』に材をとった文学者は多いが、彼らのなかでもっとも知的なのは大岡である。オフィーリアに対する哀憐の思いのもっとも深いのも彼であった。

【参考】丸谷才一「女人救済といふ日本文学の伝統 -大岡昇平『野火』『『花影』』『ハムレット日記』『黒髪』『逆杉』-」(『星のあひびき』、集英社、2010、所収)
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【大岡昇平ノート】『野火』のレトリック、首句反復 ~英訳『野火』~

2010年11月27日 | ●大岡昇平
 拙稿「『野火』の文体」にはレトリックの実例を挙げていない。
 反復・・・・反復には首句反復と結句反復があるが、ここでは首句反復(アナフォーラ)の実例を挙げる。

----------------(引用①開始)----------------
 もし私が私の傲慢によって、罪に堕ちようとした丁度その時、あの不明の襲撃者によって、私の後頭部を打たれたのであるならば--
 もし神が私を愛したため、予めその打撃を用意し給うたならば--
 もし打ったのが、あの夕陽の見える丘で、飢えた私に自分の肉を薦めた巨人であるならば--
 もし、彼がキリストの変身であるならば--
 もし彼が真に、私一人のために、この比島の山野まで遣わされたのであるならば--
 神に栄えあれ。
----------------(引用①終了)----------------

 「39 死者の書」の末尾であり、『野火』全編の末尾でもある。
 丸谷才一の引用は歴史的仮名遣いだが、ここでは大岡昇平全集に基づいて現代表記に改める。
 「もし」が首句反復となっている。
 あまり詩的な雄弁になりがちなせいか、それとも翻訳臭を嫌ってか、現代日本の散文では敬遠される手だが、『野火』では一箇所、上記のとおり大がかりに遣われている。この派手な高揚が、長い抑制のあげくになされていることを学ばなければならない。
 ・・・・と丸谷才一はいう。こう解説する前に、『ジュリアス・シーザー』から10行引用し、併せて翻訳を添えている。訳者名は明記されていないが、夫子の訳だろう。
 エリザベス朝の劇作家たち、特にシェークスピアは、このたたみかけていく技法を好んだ。

----------------(引用②開始)----------------
But if you would consider the true cause
Why all these fires, Why all those gliding ghosts,
Why birds and beasts from quality and kind,

 もし君が、なぜ火の雨が降るのか、なぜ亡霊がうろつくのか、
 なぜ鳥や獣が異常なことをするのか、
 なぜ老人が愚かしくなり子供が未來を予見するのか、
----------------(引用②終了)----------------

 ここでは丸谷の引用を3行しか孫引きしないが、引用①の英訳は次に全文引用する。シェークスピアの原文と比べると興味深い。訳者は Ivan Morris である。
 ちなみに原文では「もし」の後に読点が打たれているのは1箇所(引用①の4行目)だけだ。他方、英訳で“If”の後にコンマが入るのは2箇所(引用③の1行目と2行目)だ。原文だと「キリストの変身」という大胆な仮定に踏みこむ前にひと呼吸置く感じだが、英訳の場合、仮定が既定の事実であるかのように、最初の2行は緩やかな口調で、3行目以降は切迫した口調になる感じだ。順次盛り上げている。
 キリスト教にあまり縁のない極東の日本人としては、やはり原文の呼吸を大事にしたい。

----------------(引用③開始)----------------
If, at the moment I was about to fall into sin through my pride, I was struc on the back of my head by that unknown assailant ・・・
If, beacause I was beloved of God, He vouchsafed to prepare this blow for me in advance ・・・
If he who stuck me was that great man who on the crimson hilltop offered me his own flesh to relieve my starvation ・・・
If this was a transfiguration of Christ Himself ・・・
If He had indeed for my sake alone been sent down to this mountain field in the Philippines ・・・
Then glory be to God.
----------------(引用③終了)----------------

【出典】丸谷才一『文章読本』(中央公論社、1977、後に中公文庫)
    Shohei Ooka (translated by Ivan Morris) “Fires on the Plain”, Charles E. Tuttle Company, 1957, 1983 (7th printing)
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       英訳版『野火』
     
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【大岡昇平ノート】加賀乙彦の、大岡昇平における「私」と神 ~『俘虜記』と『野火』~(1)

2010年10月22日 | ●大岡昇平
 話を簡明にするため、ここでは次のように置き換える。

   X:作者=大岡昇平
   Y1:『俘虜記』の主人公=『俘虜記』の作中に登場する「私」=過去(俘虜時代)の大岡昇平
   Y2:『野火』の主人公=『野火』の作中に登場する「私」=田村一等兵

 なお、『野火』は、「文体」第3号(1948年12月刊)およびに「文体」第4号(1949年7月刊)に初出。。雑誌廃刊で中断。「文体」第3号掲載の冒頭の部分が削除されて、あらためて「展望」1951年1月号から8月号まで連載された。

(1)文体の魅力
 『大岡昇平における私と神』は、「展望」掲載の『野火』をはじめて読んだときの「鮮やかな印象」から筆を起こしている。
 「不思議な魅力を持った文体であった。時空を裁断する小気味のよい筆勢と粘着力のある文意の綾が私の眼を文章から離れ難くさせた。これは傑作になると思った。雑誌の毎号が待たれた」
 それから20年近く経た1970年、この論文は「展望」9月号に掲載された。
 本論文の冒頭で仮説を提出している。『野火』ではXと作中の分身Y2がXの資質に適合した形で成立している、と。このことは、作者が自己省察において何か独自なものを発見し、それをどのように表現したか、という問題に係わってくる、と加賀はいう。
 以下、要旨を2回に分けて記す。

(2)『俘虜記』の私小説的特徴
 『野火』は、疑いもなく小説である。
 他方、『俘虜記』は完全には小説ではない。記録文学、私小説、紀行文または随想の部類に属する。その理由は、何よりも作者(X)と作中の「私」(Y1)との関係による。Y1はXと同じ名前を持ち、過去のXと同じ年齢で同じ日時に同じ行為をする。つまり、Y1は過去のXであって、作品はこの「私」という単一の窓から窺われた出来事の記録である。それ以上でもなく、それ以下でもない。
 この場合、X=Y1である。両者の間に距離があることはある。Xは、Y1を対象化し、突きはなし、批判し、分析している。ただし、過去の自分を吟味するという記憶の濾過作用によって保たれている。この方法は、自分に対して分析を加える時に有効である。いわゆる知的な私小説の正統的手法である。XとY1との距離は遠いが、両者の関係は平行している。
 『俘虜記』の場合、この平行関係が短編としての連作を可能にする。体験を年代的に区切って描写していけば、次々に短編が生まれ、短編と短編との間には縦に流れる時間による連携がある。類聚すれば全体として大きな長編になりうる。記憶という一方交通のいとなみが現実世界を照らしているため、一つの短編に描かれた世界の細部が次の短編の細部と齟齬せず、しかもそこで記憶によって定着された世界についてXが自由な考察を行いうるのだ。
 記憶による制約が作品全体に統一を、考察の自由が作品に変化や厚みをもたらす。この私小説の開発した方法をXは最大限に利用している。

(3)『俘虜記』における作者と「私」の関係
 もっとも、『俘虜記』を小説と呼ぶのは読者の勝手であって、X自身は「記録」を書こうとしたのである。
 文章家としてのXは、紀行文、記録、私小説、考証といった嗜好が大きく、しかもこの方面で成功するだけの資質が備わっている。
 この領域で注目するべきことは、くり返しになるが、XとY1との平行関係である。Y1以外にXの分身は現れない。そこではいつも単一の視点が設定されていて、自分をはじめ他者や環界が描写される。
 この「私」の視点を吟味することは、Xという文章家の特質を考える上で大切である。

(4)『俘虜記』における「私」の視点
 (a)「私」は静止している。
 それは自分が一点に停って周囲の世界を観察する、といった視点である(物理的に静止していることを必ずしも意味しない)。他者の描写や地形が第一義であって、実際作中にはこうした描写にすぐれた文章が多い。その固定された視点から周囲に向けられる視線は感情に動かされず、非情なまでも描写的である。飢えや疲労によってY1の視線に曇りがこない。
 (b)「私」は周囲の世界に解釈を加える。
 作中の場面や状況に密着した解釈ばかりではない。ずっと後で行われたもの、作品を書いている現在に行われたものまで含む。解釈は一応知的で論理的な形をとっている。しかし、諸家のいうようにこの点を強調すると、Xの資質を見誤る。『俘虜記』の最初の短編『捉まるまで』で米兵を射たなかったわけに4つの解釈を呈出する。第一、自分のヒューマニティへの驚き。第二、射とうとは思わなかった気持ち。第三、射つ気が起こらなかったこと。第四、「内部の感覚」・・・・という心情的非論理的な現象が解釈の対象となっている。
 この解釈に終わりはない。「一つの」あるいは「ありうべき」解釈なのだ。
 『俘虜記』のなかの『タクロバンの雨』においても、解釈のいきづまりから「私」は自分の行為を規定している自分以外のものの力、「神の摂理」に想到する。これはすでに一つの思想である。『野火』の世界に一歩足を踏みいれている。
 行為を心情的に解釈しようとするが、解釈によっては行為はきっぱりと切断しきれない。その先に神がある。「神の摂理」が、行為のかなり後になって、俘虜収容所のなかで考察されていることに注目したい。『野火』において神が早くから作品の中に現れ、全編の結論になっていることと大きな相違である。

(5)『野火』と『俘虜記』(ことに『捉まるまで』)との比較 ~叙述~
 一見似かよった状況を描く作者の筆は、根本的に異なっている。
 まず表面的な叙述の比較を行ってみる。
 細部において共通する出来事は意外に少ない。物語として似ている点は、比島敗軍の一補充兵を主人公とすること、米軍とゲリラに追われながら逃亡すること、ついに米軍に捕らえられること、米軍の砲撃を受けたとき主人公一人のみが丘にのぼって逃げること、逃亡の途中で銃を捨てること・・・・だ。
 肺結核、人肉食、狂気などY2に起きたことは、Y1には起こらなかったことである。そして、『俘虜記』に登場する敗兵には起きたことだった。つまり、Y2に起きたことは、『俘虜記』において多くの兵隊が遭遇した出来事を選択して蒐集したものなのだ。
 要するに、Y2はXと平行関係になく、Xよりもっと拡張された敗兵一般を代表しているのだ。
 そればかりではない。Y2の行動には、他の小説から受けた影響も推測される。敗走する軍隊のなかを一人あてもなくさまよううちにヴェテランの伍長の一隊に会う場面など、『パルムの僧院』のワーテルローの場面を髣髴させる。また、『野火』の人肉食も全体の構成も、ポーの『ゴードン・ピム』から借りている(大岡昇平『作家の日記』)。
 作者の読書体験は、時には本人も意識しないほど深く影響しているのである。

(6)私小説の「私」よりも作者に近い小説の主人公
 前述のとおり、第一にY2はY1のようには作者と平行関係にない。第二にXの読書体験によってY2の行動や性格が補強されている。
 だからといって、Y2がXと無関係であるわけではない。あえて言えば、『野火』の主人公はXその人なのだ。もっと言えば、Y2はY1よりも大岡昇平なる作者の真の体験を形象化している。
 Y1は十全にXではない。Y2に比べるとむしろXからぬ面が多い。『俘虜記』を私小説と呼びながら、こう言うのは矛盾しているかもしれないが、この逆説にこそ大岡昇平の私小説の特色があるのだ。

(7)『俘虜記』と『野火』における作者の位置の相違
 『俘虜記』は告白体をとっている。しかし、この告白には、小説を書いている現在のXにとって不愉快なこと、不都合なことは省略されている。自分の過去の「私」に愛着を持ち、行為を正当化しようとする。換言すれば、明快で簡潔な『俘虜記』の文体は、書かれた事実を紙上に定着するとともに、書かれなかった(書けなかった)事実を切り捨ててしまう。
 小説を書いている作者は全能者を気取らねばならず、過去の「私」を全能者の高みから見下ろさねばならない。ところで見下ろされた「私」もまた全能者の分身であるからには、その全能性を継承しなくてはならない。これは『俘虜記』の方法からくる制約である。
 ところが『野火』にはそういった不自由さや強張りや窮屈さはない。XがY2の背後に隠れてしまったからだ。Xは体験のすべてをY2に仮託しうる。Y2がXその人であり、Xの真の体験を形象化しているというのは、そのような意味においてである。
 しかしながら、XがY2を描く前にY1を造型したことを忘れてはならない。『俘虜記』で行った自己省察は当然、後の作品に生かされている。『武蔵野夫人』ではスタンダリアン秋山、その妻、復員者の勉が作者の自己省察を分有する。そして、これらの分身はY2へと凝集していく。

(8)『武蔵野夫人』にみる大岡昇平の資質
 『俘虜記』でXと平行関係を保っていたY1の代わりに、Xの分身としてスタンダリアンの秋山、その妻の道子、復員者の勉が登場する。といっても、この3人にはY1のような視点としての役割は与えられていない。
 Xは、分身の背後に身を隠す代わりに、いきなり全能者として姿を現す。作中人物すべてを動かす力は、Xがにぎっている。
 『俘虜記』において解釈や説明の限界を自覚し、X以外の全能者、神を望みみたはずのXは、ここでは自分を神に擬している。そして、多くの可能な解釈のうちの一つを読者に押しつけようとする。
 この欠点にもかかわらず、『武蔵野夫人』は面白い。救いは自然描写のすばらしさにある。『俘虜記』以来のXの視点の特徴、視点の静止と解釈癖のうち、前者がここで後者を凌駕するのだ。静止した地点から自然を観察し描写する才能の冴えは、ラディゲ風の解釈に飽いた読者の目を引きつけ、小説のなかに誘いこむ。
 受動的に自然を描写すること、積極的に物事を解釈すること。一見相反するこの二つの傾向は、元来Xの資質としては同じ一つの傾向、静止した地点から観察し見る性格から発している。こうしたXの資質は、おそらく生得のものであって、Xが小説家よりも評論家として出発したのもそのためだろう。
 Xが見るという生得の資質を小説家の有力な武器として用いるためには、ミンドロ島における血みどろの敗戦体験が必要であった。見ることから創ることへの転換には、見たものを描写し解釈することが面白いと思うこと、つまり見たものを読者の前に提供することが意義があるという自覚がなくてはならない。
 Xは、敗戦体験を記録しようとした。この記録は、日本では小説とみなされ、小説として成功した。評論家、スタンダール研究家の閲歴をもつXは、西欧的本格小説をつくりたいと思ったであろう。しかし、その場合、『俘虜記』が成立した重要な基礎、静的視点と解釈を捨て去ることはできなかった。Xは、やはり全能者の道を選んだ。
 『武蔵野夫人』には自然描写とラディゲ風の解釈が相反せずに融和している箇所がある。しかし、全体として、『武蔵野夫人』の登場人物はXの意のままに動かされている傀儡にすぎない。『俘虜記』で進められた自己省察は、容易なところで秋山と勉と道子に分割されてしまった。

【参考】加賀乙彦『大岡昇平における私と神 -『野火』をめぐって-』(『文学と狂気』、筑摩書房、1971、所収)

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【大岡昇平ノート】加賀乙彦の、大岡昇平における「私」と神 ~『俘虜記』と『野火』~(2)

2010年10月21日 | ●大岡昇平
(承前)

 【注】X、Y1、Y2の定義は、(1)の冒頭を参照。

(9)大岡昇平の資質に合う体験的仮構の文学
 作者が全能者であって、成功した小説はいくらでもある。『パルムの僧院』しかり、『赤と黒』しかり、『ドルジェル伯の舞踏会』しかり。
 ただ、Xの資質にとっては、この全能者の視点をいれた本格小説の制作に限界があるのだ。
 静的な視点と解釈癖、つまり見るという資質にとっては見られたものの内実が問題になる。どのように見るかというより何を見たかが問題なのだ。現実世界における体験がXにとっては作品完成の重要な動機なのである。Xは、本質的に体験を記録し描写する私小説的作家であって、無から有を空想し虚構する想像力によって書く作家ではない。
 Xの作品ですぐれたものは記録文学に多い。『俘虜記』をはじめ、『父』『母』『神経さん』などの短編、それに中原中也伝などがそれである。
 小説としてもっともすぐれた作品は、『野火』と『花影』だ。
 次のような図式が成り立つ。『野火』は(おそらく『花影』も)、『俘虜記』の体験と『武蔵野夫人』の仮構の中間にある体験的仮構の文学である。この領域の仕事が、Xの資質にとってはもっとも生彩のあるものとなっている。そして、この資質の具現として特有な視点、Xと作中人物の特殊な関係があることはこれまで見てきたとおりである。

(10)大岡昇平における理論と実践 
 小説家の理論と実践とは必ずしも一致しない。
 理論家としてのXは、あきらかに西欧の近代作家を範とし、仮構による本格小説を文学の中心にすえている。数々の評論や『現代小説作法』などすべてそうである。
 しかし、実践家としてのXは、体験に密着した私小説、それから『野火』(や『花影』)の体験的仮構小説において才能を発揮するのである。資質がおのずから理論を制約してしまう。自己の資質を無視して理論どおりの作品を書こうとすると失敗する。

(11)大岡昇平の資質を生かした歴史小説
 Xには、自分の資質をうまく利用した、もう一系列の作品がある。天誅組を素材にした一連の歴史小説、会津敗軍の大鳥圭介を主人公とした『保成峠』『檜原』などだ。これに『レイテ戦記』を付け加えてもよい。これらはすべて文献を基礎とした考証で作品が組み立てられている。静的な視点と解釈癖を備えたXにはまさしくもってこいの領域である。
 ただ、こうした方法は、素材と解釈とが均衡を保ち、素材から生き生きとした人間像が浮かびあがった場合に面白い作品ができるが、Xはしばしば解釈癖が度をすごし、素材の中の人間がかすんでしまい、文献の訓詁のみが強調されすぎるきらいがある。

(12)『野火』における「野火」の意味
 Y1が最後まで明晰な意識を持ち続けたのに反し、Y2は狂気におちいる。
 『野火』のなかには異常な体験が次々と出てくる。それらの体験は、その場の異常な状況と相応して作品のリアリティを確乎たるものにしている。
 もっとも重要なのは、野火の幻影である。野火とは何か。それはまず単純にフィリピン人の存在を指している。田村一等兵は異国への侵入者である。この異国の民は常に侵入者を敵視している。敗兵にはゲリラの危険がつきまとっている。フィリピン人の日本軍へのすさまじい憎しみは、日本軍の敗走が始まるとともに一挙に爆発した。
 敗軍の一員としてY2はフィリピン人に追われねばならぬ。この公的状況に加えて、もう一つの私的状況が加わる。すなわちフィリピン人女性の殺害である。Y2は自責の念にも追われる身となる。殺人者が恐れるのは、彼を逮捕しようとする世人のみならず神である、とはラスコーリニコフ以来の公準である。殺人が神を呼びさます。彼は神に見られはじめる。神は姿を現さない。しかし、不断にこちらを見つめ、見とおすのである。そのまなざしのあわいに野火が現れる。
 こうなるともはや実在の野火ではなくなる。野火の幻影である。野火はゲリラという具体的な外的脅威を示している。Y2の心の火には明確な存在理由はない。心の中の火は神である。だが、Y2は神の存在を信じたくない。Y2は、不合理な幻影を見た自分に腹を立てている。Y2が神を見たとき、その時点で彼が狂ったことをXは用心深く書きこんでいる。
 Y2は、狂気においてしか神と出会うことができない。そこに日本の一知識人の不幸がある。Y2が狂気へ足を踏みいれた瞬間に、外部の野火、フィリピン人と内部の炎、神とが合一する。
 が、神の出現する体験のみは状況的説明を越えてしまう。それは外的状況をこえた内的なもの、真の狂気に近づくのだ。「私の心にある火」を書いたXの着眼は、この狂気に精緻なリアリティを与えている。
 この狂気は、精神病理学的吟味に十分耐えるだけの「科学的リアリティ」を備えている。真の狂気は、精神的なものよりもむしろ肉体の深みから立ち現れるのである。精神は肉体を了解【注】できない。

  【注】ヤスパース的「了解」である。

(13)キリスト教的でない神
 神は野火となった。
 次に神は丘の上の狂人に化身してくる。丘の頂上の木に背を凭せて動かぬ人とはゴルゴタの丘のキリストにほかならない。教会堂の十字架を見て少年期からなじんだ異国の宗教を思い出す挿話など、伏線は巧みにはられている。
 しかし、Y2にとって、キリストは神の一人にすぎない。人肉を食べさせてY2を飢えから救った永松は、「逗子の中に光る仏像の眼」を持っていた。この神は、キリストや仏陀を代表とする普遍的な何かである。
 それまでY2を見るだけだった神は、Y2に語りかけるようになる。ついに幻声になるのだ。Y2は、声に動かされる。自分の意志ではなく、神に動かされる。しかし、この神は、Y2を受け入れてくれない。
 Y2を見捨てたのは、神のうちキリストのほうであるとも言える。仏陀は、Y2を見捨てない。永松によって飢え死にからまぬがれさせ、その永松をも殺させ、ついには自殺を決意させる。このような神は、キリスト的ではない。
 Y2を死に誘ったのが野火であることに注意されたい。野火は、たえずY2を脅かした。死の象徴であった火に彼は近づき、ついに襲撃されるのである。そこでY2は、再び神に出会う。

(14)ニヒリズムの神
 『野火』は、宗教小説である。神を知らぬ男が、極限状況において神を発見する物語である。わが国の現代小説に、おそらくはじめて神を主題にする小説が現れた。
 『俘虜記』では、なぜ米兵を射たなかったかという解釈の行き詰まりから神の摂理の存在へと到達した。が、ここで到達した神は必ずしもキリストではない。Y1は、キリスト教に対してむしろ批判的であった。
 Y1は、収容所のなかで、自己の深奥にある神を、道徳を発見する。Y1はモラリストになるのだ。Y1は、うわべは収容所生活に適応しながら、衆愚のなかにあって徹底的に孤独であった。
 『俘虜記』の到達したところから『野火』は出発している。『俘虜記』が自己省察の結果神に到達したのに対し、『野火』は神の存在から出発している。射たなかったのは神のせいだという定言は、射ったら神はどうなるのかという実験へXを駆りたてた。
 Xは、記録から小説への転進を異常な努力で遂行し、立派にやりとげた。しかも宗教小説というもっとも困難な領域において。
 実験の結果は、意外であった。Y2が汚辱にまみれればまみれるほど、神はますます確乎として存在しはじめたのであった。と同時に、汚辱の果てにY2は狂わねばならなかった。孤独の極限に至らねばならなかった。
 しかも『俘虜記』で予想した神のように、神は柔和な姿では現れなかった。神はすべてを見とおし、叱責し、ついにはフィリピン人という恐怖の他者と合一さえしてしまう。Y2は、神にすがろうとして、いつも払い落とされる。Y2は、神を讃えることはできても神の国に入ることはできない。
 肯定的で柔和な神がこの世を包みこむのではなく、汚辱と狂気との死の状況の最中に不安な神が現れたのである。このプリアヴアティーブ(欠如的)な神は、結局ニヒリズムの神である。Xは、現代の知識人が当面しているニヒリズムの暗黒に光を見出す努力をする。モラリストXの姿勢は、精確に現代的である。

(15)創造したものによって作者が拡大される
 Y1とY2との差は、いまや歴然としている。『俘虜記』においてXとY1とは平行関係にあり、Y1はXより小さかった。他方、Y2はXとほとんど一体であり、しかもY2はXよりも大きいのである。
 『俘虜記』は自分の過去を整理しただけであるが、『野火』は新しい自分を創造したのである。『野火』を書いたことで大岡昇平は確実に自分を拡大しえた。小説家の創造のいとなみと喜びがそこにある。 

【参考】加賀乙彦『大岡昇平における私と神 -『野火』をめぐって-』(『文学と狂気』、筑摩書房、1971、所収)
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【大岡昇平ノート】加賀乙彦の、大岡文学における体験の深化と拡張 ~新しい方法論の創造~

2010年10月19日 | ●大岡昇平
(1)作品から体験への遡及作業
 体験が作品に結晶するには、それ相応の屈折や濾過の作用が必要だ。体験は、生のままで作品に結実しえない。
 真の文学作品は、文章がそれ自体として独立し、現実世界に対峙するだけの鞏固な構築を備えている。
 戦後夥しく書かれた戦記や戦争を主題とする小説群のなかにあって、真の文学といえるのはごく限られた作品にすぎない。大岡昇平の文学は、本当の文学的作品である。
 たとえば『俘虜記』は、文章として表された作品世界がまずもって加賀乙彦に迫ってくる。そこに描かれた世界が大岡の体験であったかどうかということは一義的興味とはならない。
 とはいえ、大岡の戦争体験がなかったら『俘虜記』が生まれなかったのは事実だ。
 作品への関心が出発点となって、体験へと遡る方向への作業があってもよい。その種の作業なら、加賀乙彦には大いに興味がある。

(2)『俘虜記』『野火』『レイテ戦記』における「私」と体験との距離
 戦争を取り扱った大岡の代表的作品『俘虜記』『野火』『レイテ戦記』を並べてみると、それらの間に際だった差が見られる。作者の体験へ向かう姿勢が、それぞれ意図的に違うのだ。
 『俘虜記』は体験と密着し、『野火』は体験と距離を置き、『レイテ戦記』はさらに遠方から俯瞰している。年を経るにしたがって、作者は自分の体験を突きはなし、吟味し、対象化していったかのようだ。
 『俘虜記』(の中の『捉まるまで』)と『野火』とは、米軍とゲリラに追われて逃亡し、ついに米軍の俘虜になるという物語の骨格はよく似ているが、その表現方法は根本的に違う。前者の「私」は、もっぱら静止して周囲を観察し描写していく。後者の「私」=田村一等兵は、たえず移動し、自己の内面へと向かい、小説的な状況をつむぎだしていく。前者は記録的、後者はより仮構的だ。後者は、作者自身の実際の体験から隔たった主人公を設定し、小説的想像力を駆使している。

(3)夢の力
 現実世界での体験は貧しく、何か色褪せて窮屈で一面的でありすぎ、作品世界での想像のほうが豊穣で、鮮明で自由で多面的である場合がある。ユンクやバシュラールの夢と想像力の研究成果にしたがって、夢のほうが現実よりもはるかにレアリティがある、と言ってもよい。『野火』が『俘虜記』に優るのは、そのような点においてである。
 作者の戦争体験と作品との距離は、『俘虜記』のほうが『野火』よりも近い。仮構性は『野火』のいたるところに読みとれる。肺結核、女の射殺、人肉食、野火の幻影など、『野火』の田村一等兵に起きたことは、すべて『俘虜記』の「私」には起こらなかった。
 だからといって、『野火』のほうが作者の戦争体験から遠い、とも言いがたい。体験は、必ずしも作者自身が行ったり思ったりしたことを意味しない。夢見ることもまた立派な体験である。そして、前述のとおり夢の世界のほうがリアリティが強い、という逆接が成立するのが文学の醍醐味だ。
 そこに作品の主題と構成が要求する方法が表れてくる。『俘虜記』においては、あくまで戦争俘虜という状況が主題だ。敗兵逃亡は、大きな作品のほんの序の口の話にすぎない。他方、『野火』においては、敗兵の逃亡記が全編の主題を覆っている。逃亡のもららすあらゆる状況が描かれている。

(4)敗者への関心
 敗兵への関心は、大岡の後年の作品へも長く余韻をひびかせている。大岡の歴史小説に見られる敗れゆく者への執拗で徹底した愛着は、敗兵体験を抜きにしては考えられない。中原中也や富永太郎への哀惜の念も、彼らがその生きた時代において敗れた人であったためだ、という理由づけも可能だろう。「作者は自分一個の体験を核にして、それを肥え太らせて次々と作品の創造を行っていったのである」

(5)体験の拡大と深化
 現実から夢への道程は、換言すれば個人的体験の拡大と深化である。大岡は、絶えずヴァリエーションを創りだし、体験を新しい体験へ増幅していく人だ。
 大岡はしかし、事実から離れた全くの空想世界へ移行してよしとする作家ではない。仮構は、現実以上にリアリティのある世界を呈示する作業である。小説の成立する基盤は、あくまで現実世界にあると大岡は考えている。大岡の戦争体験への関心が、ついに小説よりも戦記を書かせるようになるのはそのためだ。『レイテ戦記』の壮大な世界は、仮構としてではなく、事実として書かれている。「一人の敗兵の体験は、ついにレイテに散った8万人の将兵の体験へと拡張された」
 歴史という事実重視のいとなみを大岡は支持する。一見仮構へむかう精神と正反対のようでいて、現実を重層化し、深化したいという意図においては共通している。そこには、やはり自分の体験を核にして発想するという姿勢は貫かれている。
 井上靖の『蒼き狼』批判において大岡が示したように、大岡が目ざしたのは「もし仮構を用いるならば、事実をさらに事実に近付けるためにのみ用いること」であった。その見事な成果が『レイテ戦記』であった。

(6)『レイテ戦記』の新しさ
 『レイテ戦記』は、新しい形式の戦争文学である。一つの戦争を敵と味方の双方の視点から描くという点で空前である。「『戦争と平和』で、トルストイがナポレオン側の視点を遠慮がちに導入したところを、大岡は大胆にも乗り越えてしまった」
 「事実に歌わせる」「事実が自分で歌う」という大岡の意図は十分に果たされている。

(7)大岡文学の縮図
 「一方の極において体験は虚構へ向い、他方の極において事実に向う。これが大岡昇平の文学の構図である。これは小説家が小説を創出する方法として正統派に属する」
 戦争体験を核に作家活動を始めた大岡は、ながい創作活動のうちに体験の意味を方法的に自覚していった。大岡の戦争文学が単なる回想記や手記の域を脱して、文章として独立しえた裏には、この方法の自覚がある。作家の選ぶ方法とは、その人の資質に合致した生得のものである。大岡の方法の自覚とは、自己の資質の発見へと有機的につながってくる。

(8)大岡文学の新しさ
 大岡は、体験を一回限りの現象として流してしまわず、何回でも記憶として再生した。再生のたびに生じる記憶の内容のずれを知的に解明しようとした。この努力が重層する解釈である。解釈が加われば加わるほど記憶は不透明な厚みをまし、ついには記憶それ自体も変質をこうむる。知的な解釈がかえって体験の奥行きを増す点に、大岡の解釈の特質が見いだされる。
 『父』『母』ほか一連の私小説においては、体験と記憶の拮抗が作品に生気をあたえている。『幼年』『少年』では記憶を現場探索によって再吟味しようとする方法が開発された。従来の一面的な回想形式の幼少年記にみられない新しい世界が作りだされている。
 「戦争体験から創作への、ながい方法的探求は、過去の体験を現在の踏査によって検証し二重化するという地点まで到達したのである」

【参考】加賀乙彦『大岡昇平における戦争体験と創作』(『虚妄としての戦後』、筑摩書房、1974、所収)
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【大岡昇平ノート】加賀乙彦の、大岡文学における体験の深化と拡張 ~新しい方法論の創造~(2)

2010年10月19日 | ●大岡昇平
 【お断り】
 「【大岡昇平ノート】加賀乙彦の、大岡文学における体験の深化と拡張 ~新しい方法論の創造~」に一本化しました。
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【大岡昇平ノート】埴谷雄高が気宇壮大に読み解く『俘虜記』 ~『二つの同時代史』~

2010年10月18日 | ●大岡昇平
 『二つの同時代史』Ⅶ章に、『俘虜記』に係る埴谷雄高の見解が披露されている。
 第一、大岡文学は『俘虜記』から出発している。ドストエフスキーが『死の家の記録』から出発したように。
 『死の家の記録』にさまざまなロシア人のさまざまなタイプが描かれている。『俘虜記』にもさまざまなタイプの日本人が描かれている。日本人だけではない。多様なアメリカ人を描いている。この点、20世紀に生きた大岡昇平は、ドストエフスキーよりも広がっている。「大岡は日本人を発見したと同時に、世界の他の国をも発見したわけだ」
 これに対して、大岡昇平は冗談を言っている。「最初の洋行だからな(笑)」

 第二、『俘虜記』には、『野火』の原型がある。
 埴谷はいう。岩波版「大岡昇平集」では『野火』の解説に限定して書いたが、真に大岡昇平論をやるなら、おおかたの批評家がやっているように『死の家の記録』からドストエフスキー論をはじめると同様、『俘虜記』を徹底的にやるべきだ。
 大岡は、首肯していう。「そうだ。まあ、おれはサラリーマンのこすからい智慧を持ちながら、『パルムの僧院』のファブリスの無垢を理想型にしたまんま戦争に行った。それを農民出の兵隊の中に見出した。ところがその兵隊とおれは話の種がなかった。俘虜病院にいる間だけどね。そこでやけになって、俘虜収容所全体を反無垢、小児性が残っちゃった。それを『野火』で追っかけてみた、ってことかね、自己解説すると」
 埴谷は『俘虜記』から次のような人物を拾いだす。
 (1)4人の暗号兵仲間のうち一人はレイテ島で結核のため司令部からも病院からも追い出され、とうとう自爆して死んだ。 (2)黒川軍曹が人肉食の話をして大岡昇平を嫌な気持ちにさせた。
 (3)食べものを食べる前に儀式をする狂人が出てくる。
 (4)(1)と(3)は、『野火』の主人公の原型である。(1)から(3)までの「3人がアマルガメイトされ、そしてそこに、大岡自身の感覚と思索が緊密に注ぎこまれて、あの『野火』ができたわけだ」。こういう点でも『俘虜記』は『死の家の記録』と同じ位置を占めている。ドストエフスキーは、『死の家の記録』の事実から出発して、いろいろフィクションの傑作を書いた。ドストエフスキーと同様に、大岡昇平も『俘虜記』の事実の原型を消化して自家薬籠中のものとし、『野火』という傑作を書いた。

 第三、『俘虜記』には国際性、超階層性があり、日本的なものの発見がある。
 戦争という世界的背景があるから、日本人もいろんな回想の人物がみんな出てきた。敵方のアメリカ人も、ドイツ系やスペイン系や、いろんな人物が出てきた。「日本文学の光彩性とか言うけれど、国際性はあそこで発見されているんだよ」
 2,700カロリーの食糧を俘虜にだすとか、アメリカの兵隊と日本の捕虜をまったく同じに扱うとか、「これが国際性の始まりなんだよ」。
 そして、いろんな階層の日本人を書いている。戦闘で死に、捕虜収容所に来なかった者まで書いている。
 敗戦を知って暗闇で大岡が泣く場面、あるいは捕まって「殺せ」と叫んだ日本兵に対して、父母を嘆き悲しませるな、と涙を流しながら諭すフィリピン人(女房は日本人で息子は日本軍に志願)に、日本人は日本人を再発見する。

 かくのごとく『俘虜記』にはいろんなものがつまっている、というのが埴谷の見立てだ。
 そして、Ⅶ章冒頭で述べているところの、『俘虜記』を考える枠組みは、これまた埴谷雄高的な気宇壮大な説である。いわく・・・・
 日本人は、だいたい北と南からやってきた。縄文人は北からやってきた。弥生人は中国の南からやってきた。南から黒潮にのってやってきた者もいるだろう。数万年の間に、これらが重層的に重なりあって、いまの日本人になった。
 大東亜戦争は、原日本人を探し求める無意識的な探索である。「大東亜」とはいうものの、中国、仏印、マライ、ビルマ、フィリピン、インドネシア、ニューギニア、ポリネシア、ミクロネシアに行った。深層心理的には、歴史以前の重層的日本人の源を訪ねて、これら全部に行った。日本人が数万年にわたって夢見てきたことの実現である。本当のルーツ探しは無意識的なもので、資本主義帝国主義の時代だったから大東亜戦争という形をとった。
 アジアからヨーロッパにかけては大陸だから、歴史以前の民族は大移動していた。いまの国は、もとは歴史がはじまったときにそれらの民族が定着してできたものである。その昔は、変な人間がやたらに歩きまわっていた。
 ところが、日本に縄文人がきて以来、日本の向こうは太平洋で行き止まりだから、みんなこの国で雑居するようになった。そこで、胎児が夢を見るみたいに、無意識に日本人とは何かを考えていた。そこで大岡昇平はフィリピンに行くことになった。しかもそれは、日本人の国際性と非国際性と人間性の両端、それから日本そのものが問いなおされ始めた時代でもあった。
 人間性とか国際性とかいうものは、だいたいヨーロッパ文化から教えられてたものだが、それを身をもって体験したのが、あの戦争時代だった。大岡昇平は、フィリピンに行って、フィリピン人はもとより、山の上にいる土着民にもアメリカ人にも会った。そして、これが重要なのだが、日本人にも会った。こういう状況のなかで、日本人というものが問いなおされ、自覚され直したのだ。
 これが『俘虜記』を考える枠組みだ。

【参考】大岡昇平/埴谷雄高『二つの同時代史』(岩波書店、1984)
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【大岡昇平ノート】『死霊』をめぐって ~埴谷雄高との対談~

2010年10月16日 | ●大岡昇平
 『二つの同時代史』から、『死霊』をめぐる対話を抜きだしてみる。【 】内は引用者による補足。

●『死霊』は何と読むのか(Ⅱ章)
大岡 同時代にわからないものがあるってのは屈辱だから、この対談の間にらちをつけちまおう、ってのがこっちの目標さ。きみがおれに声をかけてきたのは、おれが『レイテ戦記』で大勢が死んだ話を書いた時からだよ。あれ以来おれは戦後文学派のなかに入ったわけだから、やっぱり『死霊』のせいだ。
埴谷 そうかな、『死霊』の呪縛にかかったのかな。
大岡 あれは怨霊だから「シリョウ」と読むはずなんだけれども、きみは「シレイ」と読まさすの?
埴谷 そうなんだ、無理を承知で。日本語は怨霊のリョウなんだけれども、そうすると恨めしやという感じになっちゃうんだよ。日本の怨霊は全部或個人に恨めしやという感情をもって出てくるんだね。ぼくのあそこに出てくる幽霊はみんな論理的な、しかも一見理性的で全宇宙を相手にするような途方もない大げさなことばかりしゃべる。そういた理性的幽霊しか出てこないから、いわば「進歩した」現代の語感をもってシレイと無理に読ませてるんだ。

●『死霊』を支える死者(Ⅶ章)
大岡 【『死霊』の初めに出てくる】「悪意と深淵の間に彷徨いつつ、宇宙のごとく私語する死霊達」。これは献辞かい?
埴谷 献辞だ。
大岡 つまり、これを書いたものということなのか。それとも死霊たちによって支えられておれは書いているんだということなのか?
埴谷 支えられているんだ。
大岡 そこのところがわからないように書いてあるわけ?
埴谷 いや、それはわかるように書いてある。このあいだも少し言ったけれども、【 『ファウスト』の】ゲーテは精霊に救われてるんだ。ドストエフスキーは神と悪魔に救われている。ろころがぼくたちにはそういう救いは何もないわけだ。それできみみたいに事実から出発して、たとえば日本が敗けたとききみがローソクを消した真っ暗闇のなかで涙を流すということを書くことは、これは本当に底の底から書いた文字の尊さといえるんだけど、ぼくはその事実を超えた数億年後の人間をいま書こうとしているわけだから、そうするとドストエフスキーやゲーテに習って、現実にないものを何とか使わないとやれない。そのために死霊を使うわけなんだよ。
    死者のみがぼくの妄想を支えてくれる。人間も自然も宇宙も、重さと広がりを持っている。質量があって重力を持っているわけだ。ところが引力も作用せず、形もなく、重さもないものは、死霊しかないんだ。ぼくは死霊を使って初めて、妄想を妄想でないごとく書けると思ったんだ。
 (中略)
大岡 きみとの付き合いは全然なかったけども、とにかく戦争の死者と、それから革命の死者ということをきみは言っていたね。
埴谷 そういうものが、現在のわれわれを支えているということなんだよ。
大岡 そうすると『死霊』は革命で死んだ死者というわけか。
埴谷 そういうことだ。
大岡 戦争はこれには出てないね。
埴谷 戦争はそちらの『レイテ戦記』や『俘虜記』や『野火』にまかせて、ぼくの『死霊』第五章の『夢魔の世界』というのは、革命で殺された奴が出てくるんだよ。
大岡 五章へきてやっとお前さんは理解されたんだよ。三章まではみんな何とか読んでいたけども、あれがベストセラーになったというのは、五章へきてやっと意味がわかったということからだ。
埴谷 そういうわけだね。平野謙が「お前の主人公は誰だ」というから、「ずっと後、五章くらいになって出てくるんだよ」と言ったら、「エッ! そういうことなのか」と言っていたよ。それはしょうがないんだ。初めに狂言回しはたくさん出てくるんだけど、本当の主人公あh五章ぐらいになってやっと出てくるわけだから、どうしようもないね。
    七章や八章が書けるかどうかわからないけれども、とにかくそういうことが考えられている。そういうものが戦後出てきたということは、やはり革命運動とか戦争とかの死者たちという重い背景があったからであって、それが戦後文学の大きな支えになっているんだ。深さじゃないけどね。そちらのこちらのもまだまだ深いとは言えない。ただし、大きくなったのは、戦後にわれわれが出てきてからですよ。そうぼくは信じている。

●深夜の饗宴(Ⅷ章)
埴谷 『死霊』を書くのは真夜中すぎなんだよ。 

●戦後文学(Ⅷ章)
埴谷 だいたいおれの『死霊』というのは、「近代文学」の第1号に出ているんですよ。このおれの『死霊』が終わらないうちは戦後文学は終わらないと思っている。
大岡 そりゃ、大変な自信だ。いつまでも完結しないでもらいたい(笑)。 

●武田泰淳とのつきあい(Ⅷ章)
埴谷 (前略)ところで、『死霊』のいちばんはじめの読者は武田なんだよ。武田は中国から帰ってきてしばらくたったある夜、おれが家族と晩めしを食っていると、千田九一というやはり中国文学の仲間と一緒にぼくのところへ訪ねてきたんだ。あの頃は相手がいるかいないかも考えずにいきなり行ってしまうんだよ。それがいちばんはじめ。
大岡 いつごろ?
埴谷 21年の秋。武田が帰ってきてそれほど経っていない。武田がぼくのとこへきて、とにかく「『死霊』は面白い、ああいうのはいままでの日本文学にないものだっていって、それから武田とのつきあいがはじまった。(後略)

●政治(Ⅸ章)
大岡 (前略)武田泰淳が『死霊』に共感したっているのも、そこに政治があるからだろう。
埴谷 もちろん武田にもそういう経験があるからね。
大岡 そういうことがピンときたのじゃないかな。とくに武田と野間には。野間の文体は『死霊』の影響があるよ。ねちねちとアプローチしていくというやり方ね。(後略)
 
●武田泰淳の『死霊』に対する挑戦(Ⅸ章)
大岡 (前略)文士てえのは因業な商売だよ。武田の『富士』を読んでから、こんど『死霊』を読むと、あれには埴谷の『死霊』を食っちゃおうっていう武田の意気込みが見えるね。だからあいつ瘋癲病院を書き出したんだよ。
埴谷 そうなんだ。きみが国木田独歩に挑戦するごとく、武田はおれの『死霊』に挑戦している。『富士』には「あっは!」と「ぷふい」もでてくるんだよ。「あっは!」と「ぷふい」がちゃんと出てきた上に、それから「黙狂」も出てきて、『死霊』にそっくりな設定をして挑戦している。それでやっと埴谷を超えたと武田は思っていたんだ。きみと同じで、あいつを超えなくちゃという対抗心と戦闘の精神は武田にも旺盛で、いろんな作家に挑戦したあげくに最後に残ったのがおれだったんだ。この『死霊』に対する『富士』の挑戦については、批評家は誰も触れていなくて、ただひとり亀井秀雄だけがそのことを指摘している。そして、ずっとあとだけれど、こんどは加賀乙彦が同じような指摘をしている。

 【長いので一部要約する。武田泰淳は挑戦精神が旺盛で、あいつは大丈夫、こいつも・・・・と鉛筆で名前を一つずつ消していった。武田はいつもはじめがよくて、最後はダメになるのだが、『富士』は最後までしっかりと持続している、というのが埴谷雄高の評価である。】

大岡 でも、『死霊』の第五章が出たときは、あれは武田にはなんともショックだったろうと思うよ。『快楽』はそれを目標にして中断したんだから。これは百合ちゃんがいっていたのか、何か書いたものがあったか忘れたけど、武田は挑戦相手の名前をリストにして、あいつはやっつけたって棒を引いて、また次にあいつもやっつけたと棒を引いて名前を消していったんだ。
 
●虚体(ⅩⅢ章)
埴谷 それは実証的物理学。おれのは妄想駅物理学だから、何でも自分流につくってしまうんだ。それでおれの頭にできあがったのが「虚体」なんだよ。その時代にはブラックホールという考えはまだなかったんだけど。
    「虚体」というのは、やはり、薄暗い独房のなかでの妄想の産物だな。僕は般若というのが本名で、だから般若心経の「色即是空、空即是色」というのは子どものときから頭に入れられている。しかし僕の考えるところでは「空」では足りないんだな、やはり「虚」というしかない。ひっくり返して「空即是色、色即是空」といってもそれは静止的空間なんだよ。何かの創造、つまり、虚無よりの創造の観点に立つと、「空」はすでにそこに静止的に在って、無からの創造という点で物足りない。ところが老子の「虚」というのは、生産的ななにかなんだな。
    だから、どちらかとえいば、僕は老子的「虚」に辿りついたわけだけれど、そこにポーとブレイクがはいってくる。ポーのイマジネーション、ブレイクのヴィジョンははやり生産的なものなんだね。そして、ポーを推しすすめるとイマジナリー・ナンバー、虚数へまで達する。マイナス1の平方根というのはすごい考え方なんだよ。虚数がなければ実数もない。
大岡 おれもこんど『死霊』を通読して「虚体」という考えが一番興味深かった。「虚体」を翻訳するときは、なんとかって外人みたいにエンプティなんていうよりは、虚数のイマジネールがいいだろうね。
埴谷 そうだね。イマジネールが生産的だが、この「虚」の翻訳は難しくてね。「虚像」はヴァーテュアル・イメージだから、そちらも考えてみたが、どうも何もない「虚」ではなくて、能産的な「虚」だから、適切というような訳語がないんだ。何もないようでいて、必ずそこから新しい何かが出現しなければならないんだから。ブラックホールでもビッグバンみたいにさらに爆発するかもしれないという仮説もあるしね。

 【長くなるから端折るが、埴谷雄高は詩人の菅谷規矩雄の議論を引いている。マイナス1の平方根の「冪」をとりあげて、「虚」は「負」の根となっていると言っているのだが、これはわが意を得た「虚体」論だ、と。】

●「愁いの王」(ⅩⅢ章)
大岡 (前略)話を『死霊』にもどすけど、この小説の中には、終戦直後からいままで断続して書いているうちに戦後の様々な事件が影をおとしているよね。第五章『夢魔の世界』のリンチ事件でも、戦争中の共産党のリンチ事件を踏まえているのはもちろんだろうけど、やっぱり連合赤軍のリンチ事件が踏み台だろう。
埴谷 それは、先号で話したように、君が安保を契機に『天誅組』を書きついでいったのと同じなんだよ。
大岡 そういう意味では『死霊』は戦後の歴史だよ。というよりはこれは戦後の虚史か(笑)。
埴谷 そういうわけかな(笑)。
大岡 「愁いの王」てのは、あれは天皇じゃないのか。
埴谷 まあ、大きくいえば、そうだよ。ああいう天皇がひとりくらいいてもいいといった意味での」愁いの王」だ。
大岡 つまり自分の臣下が一人もいない天皇になった。象徴になっているからね。
埴谷 日本では、だれもそういうことを文学的に象徴的にやっていないよ。政治的な、社会主義的な観点からの天皇制は論じられているけどね。しかし、あれはまた現天皇制に対する爆撃なんですよ。大絨毯爆撃。
大岡 そういう意味でも戦後の虚史だよ。これはおれが初めて言いだしたことだぞ(笑)。これでいいだろう?
埴谷 うーん。「虚体」をいいだした以上しようがねぇ。

●風俗となった『死霊』(ⅩⅣ章)
埴谷 (前略)大久保清という、八人の若い女性を白い車に乗せて、次々に強姦して殺した男がいるんだけど、これが何をもっていたかっていうと、柴田翔の『されどわれらが日々』と『死霊』なんですよ(笑)。自動車の中に。左翼の退廃の象徴ここにありって、あのとき、ずいぶん俺もからかわれた(笑)。
大岡 社会面は大きいからな。おれの『武蔵野夫人』も日暮里かどこかの電車事故で、身元不明の女性が持っていた。それからぐんと延びた。ところで俺は『死霊』第五章の少し前に出した『少年』という力作がてんでに食われちゃった(笑)。
埴谷 いや、食ったわけじゃなくて、大久保清の目のつけどころがそこまで時代の退廃を包みこんでいるわけだよ。もうどうしようもないね(笑)。

【参考】大岡昇平/埴谷雄高『二つの同時代史』(岩波書店、1984)
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【大岡昇平ノート】荒正人・石川淳・鉢の木会 ~埴谷雄高との対談~

2010年10月15日 | ●大岡昇平
 大岡昇平は、1909年(明治42年)3月6日生、1988年(昭和63年)12月25日没。
 埴谷雄高は、1909年(明治42年)12月19日生、1997年(平成9年)2月19日没。
 二人は同時代を生きた。それぞれの生涯を回顧した対談が『二つの同時代史』である。対談は、1981年6月22日から1983年9月13日まで14回にわたって行われた。

 20世紀の大部分を生きぬいた二人だから、話題は豊富だ。そして、それが自ずから時代の証言となっている。ことに作家の逸話、文壇秘話がおもしろい。
 たとえば、荒正人。近代文学社発行の雑誌「近代文学」の創刊時同人の一人である。他の同人は、平野謙、本多秋五、埴谷雄高、小田切秀雄、佐々木基一、山室静だった。
 埴谷雄高は荒正人を異常児と呼んでいる。
 荒は、自分の気持ちにちょっとでも引っかかるところがあると、その出版社の社員に朝の3時でも4時でも電話をかけた。ある出版社の社員があまりに困ったので、埴谷が間にはいり、いっしょに荒に話に行った。荒、社員に向かっていわく、「私を日本人だと思ってはいけません。私はユダヤ人です」
 埴谷はいう。「とにかく荒は生まれた瞬間から異常児なんだから」
 大岡、「集英社で漱石年表をやったときでも、女社員が二人、なんかミスして、土下座であやまされたっていう話を聞いたな」
 埴谷、「そうだよ。荒が喧嘩していない社はないんだよ。そして、喧嘩をすると、すぐ社長を呼べというんだ」 
 荒の尻ぬぐいはいっぱいあった。加藤周一や中村真一郎が荒に軽井沢コミュニストとやられて、マチネ・ポエチックの3人は全部脱退するという騒ぎになった。埴谷は荒を連れて、森有正と会った。森有正は加藤周一たちの先輩だから、その言うことを聞くだろう、というわけだ。荒には黙らせて、埴谷が森有正を説いた。「近代文学」は大同団結で、内部批判は互いにやってかまわないんだから、脱退する必要はない・・・・。
 加藤周一も、エゴイストよ、門は開かれている、出て行け、などと「イン・エゴイスト」という文章を書き、荒を怒らせた。
 埴谷、「本当にトラブルメーカーはいつも荒で、佐々木甚一と俺がいつもなだめ役。しかし、荒は実務派だから彼が事務局をやってなかったら、『近代文学』はあれほどつづかなかったね」
 本多秋五は大人だから最後まで我慢していたが、荒が亡くなったときの彼の追悼文は「不思議な文章」であった。いかに埴谷たちが悩まされたか、ということが書いてあったのだ。追悼文に。

 あるいは、石川淳。エネルギーに充ち満ちた豪放な文章の書き手だが、若いときは無頼で鳴らした。
 戦後すぐ中島健蔵と野上彰が「火の会」をつくった。「近代文学」の編集室が二階にあった文化学院で、「火の会」の何回目かの集まりがあった。
 当時、石川淳は酒癖がわるく、酔っぱらってみんなの酒びんを倒しまわった。中島健蔵たちはみんな、石川淳を殴った。
 埴谷たちが夜の編集会議をおえて出てきたら、誰か階段に倒れている。石川淳であった。
 中島健蔵が出てきて埴谷たちを説教した。「近代文学」のきみたちが石川を褒めるから、あん畜生がのさばっていけない・・・・。
 石川淳は人が大勢いると目立ちたがった。芥川賞選考会でも、反対意見を出す委員に「バカヤロー」とすぐ言う。「バカヤロー」は、その頃の癖であった。言われた委員は怒り出し、選考にならない。
 埴谷の家でダンスパーティが開かれたときのこと。石川淳は踊らないで、飲んでばかりいる。そのうち酔っぱらって、例の「バカヤロー」がはじまった。佐々木甚一の細君をつかまえて、「おまえは間男をする女だ」。
 中薗英助がもうれつに怒って、石川淳の前に座った。
 「わたしはどうですか」
 石川、「おまえもバカヤローだ」
 中薗英助が怒鳴った。「きさまもバカヤローだ」
 石川はパッと立ち上がり、サッと玄関に出て靴を履いた。あわてて見送った安部公房、「ああ、石川さんはけんかがうまい、逃げるのが」。
 埴谷からこの逸話を聞いた大岡昇平、総括していわく、「うまいね、それは。前に殴られた経験があるからだよ(笑)」。

 「鉢の木会」は、戦後派の作家・評論家が歓談する集いである。1949年頃、中村光夫・吉田健一・福田恆存の3人が始め、後に大岡昇平・三島由紀夫・吉川逸治・神西清(1957年病没)が加わった。丸善が「鉢の木会」に話しを持ちこみ、大判の季刊文芸誌『聲』を刊行した。1958年から1960年まで、全10号しか続かなかったが、掲載された6編が賞を得ている。福田恆存『私の国語教室』、山本健吉『柿本人麻呂』、円地文子『なまみこ物語』、中村光夫『パリ繁昌記』、福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』、江藤淳『小林秀雄』である。
 「鉢の木会」はなぜ消滅したか。以下、ウィキペディアによれば・・・・
 「一番年少の三島にとっても先輩格に当たるこれらの面々から、会の一員として迎えられたことは大きな自信になった。だがメンバーの一人吉田健一から『お前は俗物だ。あまり偉そうな顔をするな』と面罵される事件が起きた。三島は吉田から酷評された長編『鏡子の家』に続いて、有田八郎元外相をモデルにした『宴のあと』を書き、有田側からプライバシー侵害で訴えられていた。当初吉田健一は、父吉田茂元首相・外相の人脈で仲裁しようとしたが、結局三島を裏切り有田側に立つ発言を行い、二人は決別した。三島と中村はその後も共著を出す等、各個人同士での交流は在ったが、集いは自然消滅した」
 しかし、大岡昇平によれば、話はだいぶ違う。
 三島由紀夫が抜けたのは、文学座と福田恆存の「雲」とが分かれたからだ。「これは『雲』と杉村春子らが別れた日付ではっきりしているはず」と大岡。
 また、大岡昇平が抜けたのは、福田恆存が日本文化会議を起こしたからだ。「よき思想の集まり」・・・・。大岡いわく、「おれは福田の顔を見るのがいやになっちゃったんだよ(笑)」。
 要するに、二人とも福田恆存が脱会の本当の理由なのであった。
 しかし、表面は吉田健一のイヒヒの笑い声ということにされた。
 三島由紀夫は、新築祝いに招いた吉田健一に、なにか置物を手にとっては「おっ、これは高そうなもんでございますね、エッヘッヘッ」とか、東京会館のレストランのコックを呼んでつくらせた料理を「あっ、これはとても普段食えない」とか言われて嫌な顔をした。吉田が帰ってから、大岡昇平と中村光夫が三島を慰めた。「そのころはおれも三島と仲がよかった」
 大岡、「会えば会うほど吉田の奇声には悩まされた」「モーツァルトが聞いたら発狂するだろうという調子っぱずれな声でワアワアやるんだよ」「67年に、おれは朝日の文芸時評をやってたから、あいつの小説を、あまりたいしたものじゃなかったけれど、お愛想にほめたんだよ。そうしたら次の『鉢の木会』のときに、あいつ、『大岡さん、なんか言ってましたね、イッヒッヒッ』って言いやがった。本当にしゃくにさわる(笑)。それでおれ、中村に電話して脱退したんだ」

【参考】大岡昇平/埴谷雄高『二つの同時代史』(岩波書店、1984)
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【大岡昇平ノート】『野火』の文体 ~レトリック~

2010年10月09日 | ●大岡昇平
 丸谷才一『文章読本』全12章のうち第9章「文体とレトリック」は、例文のほぼすべてを『野火』から採る。逆にみれば、『文章読本』第9章は文体とレトリックの観点から切りこんだ『野火』論である。
 その議論の一例を引こう。

 レトリックは公的な表現である。「シェークスピアの本当にすぐれたレトリックは作中人物が自分自身を劇的な光で見るという状況において現れる」・・・・このT.S.エリオットの評語は、『野火』にじつにうまく付合する。『野火』はまさしく劇的な状況の連続で出来あがっている。しかも一人称で書かれている。孤独な敗兵は私的に内省するが、キリスト教的神を鋭く意識することで現代知識人の代表となり、きわめて公的な人物となった。公私の緊張した関係のせいで、主人公はレトリカルに表現するしかなくなるのだ。由緒正しい語句の引用は、公的な表現者に要請される義務である。 
 具体例をあげよう。『野火』には比喩がおびただしく、しかも隠喩より直喩がきわめて多いのだが、直喩と並んで多用される対句の例文を引く。
 「私が生まれてから三十年以上、日々の仕事を受け持って来た右手は、皮膚も厚く関節も太いが、甘やかされ、怠けた左手は、長くしなやかで、美しい。左手は私の肉体の中で、私の最も自負してゐる部分である」(29 手)
 このくだりを丸谷は次のように解説する。
 「この対句は、豪奢で端正な様式美を誇りながらしかも充分に論理的だが、といふのは、単にこの対句の範囲内で話の辻褄が合つてゐるせいだけではない。銃を捨ててさまよふ敗残兵にとつて、使ふべき道具は両手しかない以上、彼が左右の手を仔細に観察し比較することはまことに理にかなつてゐるからである。それは文脈から見て必然的な、それゆゑ高度に合理的なレトリックなのだ」
 そして、「これは近代日本文学における最も優れた対句の一つだ」とさえ極言する。

 隠喩(メタファー)、直喩(シミリー)・・・・叙述的直喩・強意的直喩、擬人法(プロソポピーア)、迂言法(ペリフランス)、迂言法の一種としての代称(ケニング)、頭韻(アリタイレイション)、畳語法(エピジェークシス)、反復・・・・首句反復(アナフォーラ)・結句反復(エピフォーラ)・前辞反復(アナディプロシス)、同じ構造の節や句をつづけざまに用いるパリソン、同じ長さの節を連続するイソコロン、その「親類筋」にあたる対句、羅列、誇張法(ハイパーボリ)、その反対の緩叙法(マイオウシス)、その「兄弟」曲言法(ライトウティーズ)、自然に見せかける修辞的疑問(レトリカル・クェスチョン)。そして、言いまわしの型にはまだあって、換喩(メトニミー)、撞着語法(オクシモロン)。さらに声喩ないし擬声音あるいは擬態音(オノマトピーア)がある。
 これら多彩なレトリックが『野火』全編に駆使されている。
 なお、レトリックは、ほかに諺、パロディ、洒落(パン)もあるが、少なくとも丸谷がみるかぎり『野火』には見出されない。

 ちなみに、話の運びもレトリックの一部である。
 論理的であるためには準備、伏線、眼目、但し書き(譲歩)や念押しといった操作が不可欠である。むろん、『野火』に例文を見出すことができる。

    *

 『水 土地 空間 -大岡昇平対談集-』所収の『翻訳と文体』は丸谷才一との対談である。
 大岡昇平の文体は、『パルムの僧院』を翻訳した(第1部は1947年に訳了)ときできあがった(大岡)。小説よりも詩(ポーやダンテなど)から多く摂取し、これが大岡の小説が19世紀的小説ではない一要素になっている(丸谷)。隠喩より直喩に凝った(大岡)。丸谷は大岡がよく対句を使うというが、あれは聖書からきている(大岡)。ビブリカルなレトリック、対句が大岡昇平の文体が漢文ふうにみえることの一つの理由だ(丸谷)。・・・・といった自己分析や指摘があって興味深いが、ここでは『野火』に話をしぼる。
 「夜は暗かった。西空に懸かった細い月は、紐で繋がれたように、太陽の後を追って沈んで行った」(「6 夜」)
 これを注して、大岡はいう。「太陽が月とつながって地平線に入っていくのは、あれは熱帯の特色であって、北回帰線の南だから、王道が垂直だから、すっとまるで本当に井戸の中へ入るみたいに、太陽が入ると月も金星でも続いて入っちゃう」「そういう事実問題があるんですよ。だから文体的な工夫だけでもない節もあるんです」
 観察と天文学的知識の裏づけがあるのである。言うべきものがあってこそ、レトリックが生きてくるのだ。

【参考】丸谷才一『文章読本』(中央公論社、1977、後に中公文庫)
    大岡昇平ほか『水 土地 空間 -大岡昇平対談集-』(河出書房新社、1979)

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【大岡昇平ノート】『フィクションとしての裁判 -臨床法学講義-』 ~捜査官の取調べと弁護士の役割~

2010年10月08日 | ●大岡昇平
 9月に明らかになった大阪地検特捜部主任検事の証拠品改竄は、検察の信頼を失墜させた。
 ここで思い出すのは、大野正男と大岡昇平の対談『フィクションとしての裁判 -臨床法学講義-』だ。
 大野正男は、1927年生、2006年没。サド裁判、砂川事件、全逓中郵事件、羽田空港デモ事件を担当した弁護士で、1993年、最高裁判事に着任。学生時代、吉行淳之介、清岡卓行、日高普、いいだもも、中村稔らと同人誌『世代』に参加した。大岡昇平の「顧問」だった。

 『フィクションとしての裁判』は、それぞれの分野の専門家が作家などに対して「講義」と題する対談を行うLECTURE BOOKSシリーズの一冊である。このシリーズ、竹内均一と石坂浩二の地球学講義(『アトランティスが沈んだ日』)、河合隼雄と谷川俊太郎のユング心理学講義(『魂にメスはいらない』)、下村寅太郎と小川国男の地中海文化講義(『光があった』)など魅力的なテーマと人材が配されていた。

 本書は、第1講「文学裁判」、第2講「『事件』をめぐって」、第3講「事実認定」、第4講「誤判の原因」、第5講「裁判の中心にあるもの」、第6講「陪審」・・・・の6講及び終章「臨床法学」について、で構成される。
 第1講は、サド裁判が話題の中心である。
 第2講は、大岡昇平『事件』を俎上にあげる。過失致死ないし傷害致死の微妙な判定、動機の問題を実務家が論評し、作家が作品を生みだす過程を明かす。弁護士には尋問の技術が不可欠だから判事を辞めて2~3年で身につくものではない、『事件』の菊池弁護士は生え抜きの弁護士であってほしかった・・・・と大野正男は注文している。ただし、菊池弁護士はうまくやっている由。余談ながら、この証人尋問の技術、弁護士に限らず、人間を相手に世をわたる職業人なら多かれ少なかれ必要とされる技術である、と思う。
 第3講をみると、一時期知られた古畑種基・東大教授の鑑定には、門下の大学院生が短時間で調べただけにすぎないものも含まれていたらしい。また、弘前大学教授夫人殺害事件では、当事者の一人である学長の心理鑑定が証拠として採用されているが、先入観、偏向のある鑑定人による鑑定は「前代未聞」と評されている。鑑定以前の問題、証拠の捏造もあるらしい。前述の事件では、最初引田一雄・弘前医大教授ほか2人が鑑定し、1年後に古畑鑑定が行われた。この間に白シャツに血痕が増えていた、という。このあたりの事情が明らかになって再審で被告は無罪となった。

 第4講で、捜査官の取り調べと弁護士の役割がとりあげられる。大野は、ある事件の体験を次のように語る。
 検察官は、被疑者を弁護士に面会させないようにした。準抗告して、ようやく面会がかなった。被疑者がどんな取調べを受けたか、克明にメモして日付を入れておいた。完全自供ではないが、3分の2ぐらい不利益な供述をしていた。大野は、検察官が最後に被告人の調書を証拠として提出する段階で、その任意性を争った。証拠とすることに断固反対した。そして、不当な取調べが行われたことの証明のため、自ら証人になって出廷した。作成したメモを全部法定に提出し、これに基づいて証言した。結果として、自白に任意性はない、と大部分が却下された。事件は無罪で結審した。
 こう語った後、大野は続ける。
 心理的その他いろいろな形で圧迫がある場合、弁護士がついて話を聞くということは、被疑者にとってもっとも必要なことだ。被告人や被疑者のためだけではない。検察官が仮に卑劣な取調べをやろうと思っても、やりにくくなる。
 「捜査官の場合は組織の問題ですから、誰かがおかしなことをすれば、直ちに全体の信用が問われます。(中略)自分たちはフェアにやっているということを保障するのは、自分じゃだめなんです(笑)。やっぱり、反対側から見ている人にも文句が出ないということが必要です。司法は全体として一つのルールにもとづいてやることを大前提にして成り立っているのですから、ルール違反を司法のなかでやり出したら、これはもう地獄ですね。だから、そういう担保として、捜査でも弁護人がついて、被疑者にいつでも面会して話を聞けることを保障するのは、捜査活動がフェアに行われていることを保障することでもある、そう考えるような視点が必要なんじゃないか、と思いますけれどね」

 ここから接見の秘密と盗聴の問題、人権の“建前”と“応用”の問題が展開されるのだが、大岡昇平研究家のため余談を付記しておく。
 スタンダールはナポレオン法典を読んでから小説を書いた、という逸話がある。わりと有名な逸話なのだが、これはフィクションなのであった。バルザックに対する返事にしか書かれていない。ナポレオン法典は、スタンダールのような引き締まった文章ではない。三島由紀夫は、自分は小説作法を民事訴訟法に学んだ、と言っているが、「それはスタンダールの悪い真似ですね。彼は私に聞けばよかったんだ」。
 「それから開高健が江藤淳と対談して、新憲法の文章は気が抜けている。旧憲法のほうがしまっている。スタンダールがナポレオン法典を手本にしたように、手本にできる憲法がほしい、と言ったから、ナポレオン法典は民法だ。まあ、刑法を含めて、彼の治世に出来た法体系全部をそう呼ぶ場合もあるけれど、憲法は最初からほかの法律とは別だ、と言ってやったら、彼は一言もなかったですね」

 なお、本書の副題「臨床法学」は、現場から発想する法学のこと。一般理論や立法はさておき、法律を紛争解決の手段として見る。
 現場では、法律学では教えない「事実認定」が鍵になる。100%わかったことだけで事実を組み立てていくと、とんでもない結論に達することもある。空白の部分は「フィクション」で埋める。それが証拠上認め得る範囲なのか、限界を超えてしまったのか、という惑いを現場ではいつも抱えているのだ。

【参考】【大岡昇平ノート】大野正男/大岡昇平『フィクションとしての裁判 -臨床法学講義-』(朝日出版社、1979)
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【大岡昇平ノート】大岡昇平の松本清張批判

2010年08月25日 | ●大岡昇平
 大衆文学も推理小説も現象として存在するだけである。それらは読者の要求に応えるという意味で阿諛の一形式であり、阿諛は常に人を堕落させるのである。(「大衆文学批判」、「群像」1961年7月号)

 松本清張の推理小説は、これまで私の読んだ英米の傑作と比べては、至極お粗末なものだが、私は彼の一種の反骨が好きである。味噌汁のぶっかけ飯が好きな老刑事なんて常套的善玉は少し鼻について来たが、とにかく彼が旧安保時代以来、日本社会の上層部に巣喰うイカサマ師共を飽きることなく、摘発し続けた努力は尊敬している。『日本の黒い霧』が「真実」という点で、いかに異論の余地があるとしても、私はこの態度は好きだ。どうせほんとの真実なんてものは、だれにもわかりはしないのである。(「推理小説論」、「群像」1961年9月号)

 日本交通公社発行の『旅』に連載された出世作『点と線』は、当然鉄道を取り入れ、列車時刻表と小荷物発送手続の知識を土台にしていた。『霧と影』以来水上勉がしつこく書くのは若狭一帯の未開の自然である。今のところこの二人の作家が、推理小説ブームの中で、ずば抜けた売行を示しているのは、これ等地理的要素のためもあるだろう。(前掲論文)

 しかし、私は松本清張や水上勉の社会的推理小説は、現代の政治悪を十分に描き出していない、彼らの描くものは一つの虚像であるという意見である。伊藤の論点【引用者注:伊藤整「『純』文学は存在し得るか」、「群像」1961年11月号】に、大体において賛成しながら、この点は譲ることは出来ない。それを述べるのが「松本清張批判」と題した今回の目的である。(「松本清張批判」、「群像」1961年12月号)

 後日社会的推理小説家になってから書いた「小説帝銀事件」「日本の黒い霧」は、朝鮮戦争前夜の日本に頻発した謎の事件を、アメリカ謀略機関の陰謀として捉えたものであり、栄えるものに対する反抗という気分は、初期の作品から一貫している。
 しかし、松本の小説では、反逆者は結局これらの組織悪に拳を振り上げるだけである。振り上げた拳は別にそれら組織の破壊に向かうわけでもなければ、眼には眼の復讐を目論むわけでもない。せいぜい相手の顔に泥をなすりつけるというような自己満足に終わるのを常とする。初期の「菊枕」「断碑」に現れた無力な憎悪は一貫しているのである。(前掲論文)

 しかし私は松本にはこういう本当の意味の人生観照【引用者注:平野謙のいわゆる「「現世的な妄執をこえる精神の確乎たる領域」「自他を客観視する無私の眼」、東都書房版『日本推理小説体系』松本清張篇解説】はないと思う。彼の小説が読者にアピールするのは、もっと生な、荒々しいものである。敗者の運命は一応客観的に描かれているが、それは社会の片隅に窮死した個人の中の潜在的破壊力を誇示するという形になっている。例えば原子核という物質の状態で、エネルギーを暗示するような手法である。彼のいわゆる即物性は、怨恨とか執念とか、人間の感情を、生のまま提示する手段なのである。
 松本の主人公は大抵こうした孤独な狼だが、この立場から、どうして社会小説が生まれるのか、松本自身が次のように説明している。
 「未知の世界から(?)少しずつ知って行くという方法。触れたものが何であるか、他の部分とどう関聯するか、という類推。これを推理小説的な構成で描いた方が、多元的描写から生じる不自由を、かなり救うように思われる。少しずつ知ってゆく、少しずつ真実の中に入って行く」(「推理小説の魅力」中央公論社版『黒い手帖』所収)
 これは極めて実際的な考え方で、小説作法として、近代小説の常道からはずれていない。彼の小説が一種の安定感を持っているのは、こういう彼の手法の保守性のためである。しかしその結果読者に提供される社会や組織の姿は、必ずしも正しい輪郭を持っていないのである。
 「少しずつ入って行く」「未知の世界」といっても、それは読者にとって、未知であるにすぎず、作者には既知である。松本個人の立場から見た世界である。
 これを松本は意識していないらしく、その結果出てくる欠陥を、最初に突いたのは、松本の礼讃者である平野謙なんだから、私は少し狐につつまれたような気分である【引用者注:平野謙「政治小説覚え書」、同人雑誌『声』、1960年9月第9号】。(前掲論文)

 松本にこのようなロマンチックな推理【引用者注:下山事件替え玉説】をさせたものは、米国の謀略団の存在に対する信仰である。つまり彼の推理はデータに基いて妥当な判断を下すというよりは、予め日本の黒い霧について意見があり、それに基いて事実を組み合わせるという風に働いている。
 同じような例が『小説帝銀事件』にもある。(前掲論文)

 松本の推理小説と実話物は、必ずしも資本主義の暗黒面の真実を描くことを目的としてはいない。それは小説家という特権的地位から真実の可能性を摘発するだけである。無責任に摘発された「真相」は、松本自身の感情によって歪められている。「菊枕」や「断碑」等初期の作品以来一貫していた怨恨があり、被害妄想患者の作り出す虚像に似ている。CICも旧安保時代の官僚の腐敗も事実である。ただ松本の推理小説はその真実を描き出してはいない。彼は「社会機構の深部の真実は知り得ない」と逃げているが、これは多くの社会小説を目指す作家が、殺されても口にしなかった言い訳である。(前掲論文)

 松本や水上の小説の流行を、日本の社会史的段階として論じることも出来るはずである。松本や水上のひがみ精神と、その生み出した虚像が、これだけ多くのホワイトカラーと女性を誘惑する時代は健全とは言えない。(前掲論文)

 松本のようにひがみから資本主義全体を組織体として捉える心理傾向は、安保デモに参加した小市民の一部にあった。同時に激情を導いて、大衆行動に持っていく指導者の行動にもあったのである。右翼テロに見られた日本人の「古い質」の溢出は、日本の大衆社会が西欧の大衆文化論では割り切れない二重構造を持っていることを示したが、これらを文学の対象に扱った文学者はいなかった。(前掲論文)

【出典】大岡昇平『常識的文学論』(講談社文芸文庫、2010)
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【大岡昇平ノート】『レイテ戦記』にみられる批評精神(抄) ~日本という国家、軍隊という組織~

2010年07月30日 | ●大岡昇平
●「4 海軍」
 大本営海軍部はしかし、【台湾沖航空戦後の】敵機動部隊健在の真実を陸軍部に通報しなかった。今日から見れば信じられないことであるが、恐らく海軍としては全国民を湧かせた戦果がいまさら零とは、どの面さげてといったところであったろう。しかしどんなにいいにくくともいわねばならぬ真実というものはある。

●「5 陸軍」
 山本五十六提督が真珠湾を攻撃したとか、山下将軍がレイテ島を防衛した、という文章はナンセンスである。真珠湾の米戦艦群を撃破したのは、空母から飛び立った飛行機のパイロットたちであった。レイテ島を防衛したのは、圧倒的多数の米兵に対して、日露戦争の後、一歩も進歩していなかった日本陸軍の無退却主義、頂上奪取、後方攪乱、斬り込みなどの作戦指導の下に戦った、第16師団、第1師団、第26師団の兵士たちだった。

   *

 死んだ兵士の霊を慰めるためには、多分遺族の涙もウォー・レクエムも十分ではない。

   家畜のように死ぬ者のために、どんな弔いの鐘がある?
   大砲の化物じみた怒りだけだ。
   どもりのライフルの早口のお喋りだけが、
   おお急ぎでお祈りをとなえてくれるだろう。

 これは第一次世界大戦で戦死したイギリスの詩人オーウェンの詩「悲運に倒れた青年たちへの賛歌」の一節である。私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。75ミリ野砲の砲声と38銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私に出来る唯一のことだからである。

●「7 第35軍」
 増援軍の遅延は必ずしもこういう軍の楽観のせいばかりではない。それは一般に日本軍隊の非能率化、船舶の不足、各地の状況の悪化と関係がある。

   *

 これらレイテ戦初動の作戦の誤りは、米上陸軍を2個師団と速断したこと、従来の米軍の行動から見て、ゆっくり橋頭堡を固めてから、内陸進撃を開始するだろうから、レイテ平原に溢出するのは1週間前後だろう、と勝手にきめていたことから起こっている。つまりこっちが縦深抵抗に変更すれば、敵も内陸進撃を早めるだろうと予想する、要するに想像力が欠けていたのである。

●「8 抵抗」
 日本兵の白旗による欺瞞はニューギニア戦線でもよく見られた行動である。20対1、50対1の状況になった時,敵を斃すために手段を選ばずという考え方は、太平洋戦線の将兵に浸透していた。しかし白旗は戦闘放棄の意思表示であり、これは戦争以前の問題である。こうでもしなければ反撃の機会を得られない状態に追いつめられた日本兵の心事を想えば胸がつまる。射ったところでどうせ生きる見込みはない。殺されるまでに一矢を報いようとする闘志は尊重すべきである。しかしどんな事態になっても、人間にはしてはならないことがなければならない。

●「9 海戦」
 しかしこの新しい構想は、古い艦隊撃滅の観念に捉われていた現地司令官に理解されず、栗田艦隊のレイテ湾突入中止によって、画餅に帰する。しかし同時に米第三艦隊司令官ハルゼー大将を誤らせて、聯合艦隊は全滅を免れ、多くの艦艇を連れて帰ることになる。/ その経過において、われわれの創意と伝統との矛盾、アメリカ側には驕りと油断との関係が、複雑な艦隊行動となって現れているのである。

   *

 すべて大東亜戦争について、旧軍人の書いた戦史及び回想は、このように作為を加えられたものであることを忘れてはならない。それは旧軍人の恥を隠し、個人的プライドを傷つけないように配慮された歴史である。

   *

 軍艦もまた民族の精神の表現といえる。「大和」「武蔵」は、わが国の追い着き追い越せ主義の発露といえる。排水量72,000トン。46センチ主砲9門は世界最大の威力である。仰角45度で発射すれば、富士山の二倍の高さを飛んで、41キロ(東京より大船までの距離)遠方に達する。その他多くの日本造艦の技術者の智恵をしぼって建造されたもので、その性能は極度の機密に守られていたので、伝説的畏敬と信頼を寄せられていたのであった。
 しかし200カイリの攻撃半径を有する空母に対しては、その巨砲も用うる余地なく、一方的な攻撃を受けて沈まねばならなかったのである。
 起工当時海軍内部にも山本五十六や大西滝治郎等いわゆる「航空屋」の反対意見があったが、主力艦対決主義は日本海海戦以来の伝統であり、その偏見の下には無力であった。空母中心に艦隊を組み、戦艦は主砲以外はすべてを空母掩護用の高角砲に切り替えたアメリカ海軍の柔軟性に屈したのである。

   *

 巨艦はそのあまり複雑な機構のため、一部に不測の故障が起こると、一挙に戦力を損じたのである。

   *

 空から降ってくる人間の四肢、壁に張りついた肉片、階段から滝のように流れ落ちる血、艦底における出口のない死、などなど、地上戦闘では見られない悲惨な情景が生れる。海戦は提督や士官の回想録とは違った次元の、残酷な事実に充ちていることを忘れてはならない。

●「10 神風」
 こういう戦果の誇張は、散華した僚機への同情という感情的動機を持ったものだったのだが、軍首脳部にますます特攻を促進さす結果になった。

●「11 カリガラまで」
 友近少将は30日漸くセブからオルモックに渡ったような呑気さで、折柄オルモックに上陸した第1師団に、カリガラ平原会戦を指示したくらい実情にうとかった。諸部隊が行方不明ならば、情況悪化を想像してよいはずなのに、タクロバン入城の夢に取りつかれて、都合の悪いことは考えたくなかったのである。

●「12 第1師団」
 軍隊の行動に責任を負う旧軍人の回想には、こういう作為があるから警戒を要する。

●「17 脊梁山脈」
 山は常に美しく、時として荘厳であり、観光道路上の自動車の窓から眺めれば、ほほえむように人を迎える。しかしもし人間が生活とか戦争とか登山の必要から、徒歩で山に入るならば、そのあらゆる起伏、気候、林相、そこに棲む諸動物によって、恐るべき障害となって現れる。

●「18 死の谷」
 20日の攻撃命令は、友近少将の回想にも、『第1師団レイテ戦記』にも現れない。レイテ戦の惨状が明らかになった戦後では、遺族に対する遠慮から、自然になされる隠匿であるが、事実はこの段階で、最も犠牲が多く出たのである。軍隊とは、このように愚劣で非情な行動が行われ、しかもそれを隠匿する組織であることを覚えておく必要がある。

   *

 これらはみな今日の眼から見た結果論というのは易しい。しかし歴史から教訓を汲み取らねば、われわれは永遠にリモン峠の段階に止まっていることになる。ただしこれは必ずしも旧日本陸軍の体質の問題だけではなく、明治以来背伸びして、近代的植民地争奪に仲間入りした日本全体の政治的経済的条件の結果であった。レイテ沖海戦におけると同じく、ここにも日本の歴史全体が働いていた。リモン峠で戦った第1師団の歩兵は、栗田艦隊の水兵と同じく、日本の歴史自身と戦っていたのである。

●「24 壊滅」
 35軍は俄作りの軍で、人材に乏しく、敗軍と共にあまりかっこいい様子を見せなくなる。目賀田少尉のような予備士官学校出の部隊付将校に、却って肚の据わった人物が見出されるようである。

●「25 第68師団」
 動員下命は6月25日、校長来栖猛夫少将がそのまま旅団長となって、7月3日公主嶺出発、13日釜山に着いた。聯隊長沖静夫大佐が飛行機で東京へ飛び、聯隊旗を受領してきたが、兵隊はあまり関心がなかったといわれる。最新式の装備を持つと共に、聯隊旗に対する物神的畏敬の念も失われたのである。

●「28 地号作戦」
 現在のところ、準公刊戦史とでもいうべきは服部卓四郎『大東亜戦争全史』だが、その筆者服部大佐は当時の作戦課長にほかならず、工合の悪いことは隠蔽されているのである。大佐は緒戦以来陸軍の作戦指導の実際に当たって来たが、宮崎部長の就任に伴う方針変更、さらに20年2月の沖縄増強案について独断専行があって、罷免された。レイテ決戦続行も大佐の失敗といえるので、大本営指導の線は『大東亜戦争全史』では隠蔽される。

●「30 エピローグ」
 一勝を博して和平交渉に入るのはレイテ戦から存在した夢であるが、こっちの肚を見透かした敵が断固「否」といって、あくまで攻撃して来たらどうするか、むしろその方がありそうだ、と考える思考力を失っていたのである。
 ただ天皇と国民の前に、面子を失いたくないという情念、危険に対する反応としての攻撃性、及びこれらの情念を基盤として生れた神国不敗の幻想にかられて、その地上軍事力(国内的にはクーデタ的暴力となる)を背景に、主張したのであった。
 しかしその軍事力の基礎は国民である。徴集制度は、近代の民族国家の成立の根本的条件であるが、それが政治と独立した統帥権によって行われる場合、反対給付を伴わない強制労役となる。そのように日本の旧軍隊は徴募兵を牛馬のように酷使した。本土決戦では二千万人の国民が犠牲になれば、アメリカは戦争をやめるといい出すだろうと計算された。
 フィリピンの戦闘がこのようなビンタと精神棒と、完全消耗持久の方針の上で戦われたことは忘れてはならない。多くの戦線離脱者、自殺者が出たのは当然だが、しかしこれらの奴隷的条件にも拘わらず、軍の強制する忠誠とは別なところに戦う理由を発見して、よく戦った兵士を私は尊敬する。

   *

 しかし申すまでもなく、これは今日から見た結果論である。国土狭小、資源に乏しい日本が近代国家の仲間入りするために、国民を犠牲にするのは明治建国以来の歴史の要請であった。われわれは敗戦後も依然としてアジアの中の西欧として残った。低賃金と公害というアジア的条件の上に、西欧的な高度成長を築き上げた。だから戦後25年経てば、アメリカの極東政策に迎合して、国民を無益な死に駆り立てる政府とイデオローグが再生産されるという、退屈極まる事態が生じたのである。

   *

 これは太平洋で戦われた唯一の大島嶼の戦闘であったから、日米双方に幾多の錯誤があった。しかし老朽化した日本陸軍は、現代戦を戦う戦力も軍事技術も持っていなかったので、米軍の錯誤も重大な結果を生まなかった。戦闘は終始米軍の主導の下に行われ、日本軍の決戦補給は事実上は消耗補給となって、じり押しに敗北に追い込まれたのである。

   *

 作戦の細目には幾多の問題が残った。16師団の半端な水際戦闘、第1師団のリモン峠における初動混乱、栗田艦隊の逡巡、ブラウエン斬込み作戦の無理などがあるが、それらは全般的戦略の上に立つさざなみにすぎず、全体として通信連絡の不備、火力装備の前近代性--陸軍についていえば、砲撃を有線観測によって行い、局地戦を歩兵の突撃で解決しようとする、というような戦術の前近代性によって、勝つ機会はなかった。
 しかし、そういう戦略的無理にも拘わらず、現地部隊が不可能を可能にしようとして、最善を尽くして戦ったことが認められる。兵士はよく戦ったのであるが、ガダルカナル以来、一度も勝ったことがないという事実は、将兵の心に重くのしかかっていた。「今度は自分がやられる番ではないか」という危惧は、どんなに大言壮語する部隊長の心の底にもあった。その結果たる全体の士気の低下は随所に戦術的不手際となって現れた。これは陸軍でも海軍でも同じであった。
 陸海特攻機が出現したのは、この時期である。生き残った参謀たちはこれを現地志願によった、と繰り返しているが、戦術は真珠湾の甲標的に萌芽が見られ、ガダルカナル敗退以後、実験室で研究がすすめられていた。捷号作戦といっしょに実施と決定していたことを示す多くの証拠があるのである。
 この戦術はやがて強制となり、徴募学生を使うことによって一層非人道的になるのであるが、私はそれにも拘わらず、死生の問題を自分の問題として解決して、その死の瞬間、つまり機と自己を目標に命中させる瞬間まで操縦を誤らなかった特攻士に畏敬の念を禁じ得ない。死を前提とする思想は不健全であり煽動であるが、死刑の宣告を受けながら最後まで目的を見失わない人間はやはり偉いのである。
 醜悪なのはさっさと地上に降りて部下をかり立てるのに専念し、戦後いつわりを繰り返している指揮官と参謀である。

   *

 ここで演説は中断された。「声がつまって、続けることができなかった」とマッカーサーはいっている(『マッカーサー回想録』1964年)。しかし彼はなにかいう必要がある時、いわずにおくような男ではなかった。彼の勝利と栄光の記念すべき日の演説では、美辞麗句と泣き真似で十分だった。それ以上何かいうのは危険でもあったのだ。

   *

 マッカーサーがフィリピン諸島の隅々まで米軍を派遣したのは、日本軍に占領された資源を、フィリピン人のためではなく、アメリカの投資家と金持ちのフィリピン人のために確保するためであったと信ずべき理由がある。

   *

 1945年8月15日、日本降伏後の日本戦後処理については、われわれはよく覚えている。われわれはアジアにおいて、フィリピンと共に、アメリカ軍を「解放軍」と読んだ唯一の独立国である。コミュニストがアメリカに協力した、世界で唯一の国である。

   *

 それにも拘わらず神の如きマッカーサーと民政局はあくまでワシントンに反抗して、12歳の民主主義国家日本の育成に努めたということになっている。しかし朝鮮戦争が勃発すると、この民主主義の神は、最も積極的な作戦を推進した。常に情報分析で間違えてばかりいた(いつもその主人の喜びそうな情報ばかり集めるからである)ウィロビイを信頼した結果、中国の介入に関して見通しを誤る。1950年のクリスマス敗戦の後にも、台湾中立化廃棄(蒋介石の軍隊の朝鮮における使用)、鴫緑江対岸爆撃を主張して、罷免された。
 民主主義の神のこの突然の変貌は、1949年から1年の間に行われたと考えるよりも、それが1943年のオーストリアにおける予言的所感以来、彼の一貫して変わらないアジアの武力制覇の構想であったとする方が筋が通る。日本占領初期の民主主義的蜜月は、ソ連と対日理事会をごまかすための猿芝居であったと見るほうが現実的である。

   *

 太平洋戦争はアメリカの極東政策と日本の資本家の資源確保の必要との衝突として捉えるのが適切であるなら、二つの軍事技術が、哀れなフィリピン人の犠牲において、群島中の一つの農業島の攻防戦に尖端的な表現を見出したのが、レイテ島をめぐる日米陸海軍の格闘であったといえよう。

   *

 レイテ島の戦闘の歴史は、健忘症の日米国民に、他人の土地で儲けようとする時、どういう目に遇うかを示している。それだけではなく、どんな害をその土地に及ぼすものであるかも示している。その害が結局自分の見に撥ね返って来ることを示している。死者の証言は多面的である。レイテ島の土はその声を聞こうとする者には聞こえる声で、語り続けているのである。(全巻の掉尾)
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【大岡昇平ノート】『レイテ戦記』にみる第26師団(1)

2010年07月19日 | ●大岡昇平
 主として『レイテ戦記』に基づき、一部他の資料から補足しながら、レイテ戦における第26師団の動きを追跡してみる。

<符号>
 A:軍、野砲兵聯隊。Ab:砲兵大隊。As:独立砲兵聯隊。B:旅団。Bs:独立混成旅団。D:師団。FA:航空軍。FL:野戦病院。i:歩兵聯隊。ibs:独立歩兵大隊。is:独立歩兵聯隊。K:騎兵聯隊。KD:騎兵師団。P:工兵聯隊。SO:捜索聯隊。T:輜重兵聯隊。ⅠⅡⅢ:大隊番号。
 【今堀】:今堀支隊の動向、【斎藤】:斎藤支隊の動向、【重松】:重松大隊の動向、■日本軍の概況、○米軍の概況、【US】:米軍の動向。
 なお、『レイテ戦記』にならい、「聯隊」の表記は日本軍に、「連隊」の表記は米軍に適用する。

<出典>
 文末の(04)・・・・以下は、『レイテ戦記の』各章である。(04) 「4 海軍」、(09) 「9 海戦」、(12) 「12 第1師団」、(13) 「13 リモン峠」、(14) 「14 軍旗」、(15) 「15 第26師団」、(16) 「16 多号作戦」、(17) 「17 脊梁山脈」、(18) 「18 死の谷」、(19) 「19 和号作戦」、(20) 「20 ダムラアンの戦い」、(21) 「21 ブラウエンの戦い」、(22) 「22 オルモック湾の戦い」、(23) 「23 オルモックの戦い」、(24) 「24 壊滅」、(25) 「25 第68旅団」、(26) 「26 転進」、(27) 「27 敗軍」、(28) 「28 地号作戦」、(29) 「29 カンギポット」、(30) 「30 エピローグ」。
 また、<年>は太平洋戦争年表(『レイテ戦記』巻末)、<重>は「重松大隊の戦記」、<雨>は「第一師団戦闘行動経過表」。

------------------------------------
 ■師団長幕僚以下、高級将校は皆戦死しているから詳しいことは伝わらない。ただし、聯隊ごとの戦記は比較的早く、昭和33年に刊行されている。(15)
 ■「師団からの帰還者は300余名であるが、大部分はマスバテ島漂着部隊とルソン島残存部隊で、レイテ島からの帰還者は、将校1、兵22,計23名にすぎない。万事はっきりしないことの方が多いのである」(15)
 ■マスバテ島漂着部隊とは、レイテ島へ輸送中に空襲を受けてマスバテ島に避難し、終戦時まで山中に残った部隊約200名のことである。(15)

【昭和10年】
2月
 ■熱河省で歩兵2個連隊を基幹として11Bsが編成された。(15)

【昭和12年】
10月
 ■11Bsは、静岡から名古屋、岐阜にいたる東海、中部地方の第3師団管区から現役兵をもって補充され(下士官は主として久留米)、師団に昇格した(26D)。11is、12is、13isを基幹とし、歩兵各聯隊は1個大隊が4個中隊のフル編成で、「山西省の八路軍と対峙、対ゲリラ戦の経験を持つ歴戦の部隊であった」(15)

【昭和18年】
10月20日
 ■16D20i、レイテ島討伐。<年>

【昭和19年】
3月8日
 ■インパール作戦開始(7月退却)。<年>

3月12日
 ■牧野中将(16D長)、D司令部(ルソン島ロスバニヨス)に着任。<年>

4月13日
 ■16D司令部、レイテ島進出。<年>

6月9日
 ■マリアナ沖海戦。<年>

7月初旬~
 ■1Dと同じく対米作戦参加の内命を受けた26Dは、対戦車肉薄攻撃、輸送船舷側の昇り降りなど、南方派遣部隊としての訓練を行った。(15)

7月7日
 ■サイパン島の日本軍全滅。<年>

7月13日迄
 ■原駐地厚和、大同に集中を終わった。(15)

7月24日
 ■捷号作戦が決定された。うち、捷1号は比島を対象とする。(04)
 ■比島派遣14Aが昇格して第14方面軍となり、26D(蒙彊)、8D(満州)、戦車第2師団が戦闘序列に入った。ルソン島中南部の防備を強化するためである。(04) また、ビサヤ、ミンダナオ方面の警備に当たっていた師団、混成旅団を集めて35Aを創設した。35Aは第14方面軍の隷下に入った。(04)
 ■1D(満州)は上海に移された。状況によって、随時、比島あるいは南西諸島に派遣できるよう準備された。(04)

7月28日
 ■鉄路釜山に着いた。そこで師団長が交替した。山県栗花生中将が転補された。(15)
 ■第14方面軍、第35軍新設。<年>

8月8日
 ■26Dは輸送船「玉津丸」「日昌丸」等(8隻、(12))に乗船した。(15)

8月9日
 ○米軍、ダバオ空襲(撤退後初めての攻撃)。<年>

8月10日
 ■九州の伊万里湾で30数隻の大輸送船団を組んで出航した。台湾の馬公を出る時は、改装空母「大鷹」ほか12隻の護衛が付いた。(15)
 ■バシー海峡で、敵潜水艦により、護送空母「大鷹」、駆逐艦1、輸送船6が撃沈された。この頃、目的地に到達するもの平均45%という数値になっていた。(12)

8月22日
 ■ルソン島マニラに着いた。1Dより早い。当時、マニラの状況はそれほど悪化していなかった。(15) 26Dの任務は、リンガエン湾から東海岸バレル湾にいたる中部ルソンの警備だった。(15) しかし、給養はきわめて悪く、副食は腐ったような水牛の塩汁ばかりだったので、下痢患者、栄養失調者が増えた。移動中、道傍の養魚場の魚をとろうとして、補充兵の警備員に叱られたりした。(15)
 【重松】重松大隊(Ⅲ/13is、大隊長重松勲次少佐)、マニラ港入港。停泊すること1日半で下船。リンガエン湾の警備に就いた。<重>

8月27日
 【重松】中部ルソン島タルラック州サンミゲルに進駐。警備と演習に明け暮れた。<重>

9月9日
 ○ダバオ大空襲。<年>

9月17日
 【斎藤】齋藤二郎大佐、海没した安尾大佐の後任として、聯隊長(13is)に着任。<重>

9月21日
 ○ルソン島に第1回目の大空襲があった。<年><重>

9月25日
 ○米軍、ペリリュー島上陸。<年>

9月29日
 ■グアム、テニアン両島の日本軍全滅。<年>

10月6日
 ■第14方面軍司令官山下大将着任。<年>

10月8日頃~10月7日
 ■マニラ集結命令。<重> 26D主力はマニラ付近に集結した。しかし、最初に出た命令は、波止場の荷揚げ作業であった。「こうして26師団の兵士たちは、決戦参加に先立ち、すき腹を抱えての24時間労働で体力を消耗する不運に見舞われた」(15)

10月10~14日
 ■<台湾沖航空戦><年>

10月17日
 ○米レンジャー部隊、スルアン島上陸。<年>

10月19日
 ■捷1号作戦発令。神風特別攻撃隊編成。<年>

10月20日
 【US】米軍、レイテ上陸。<重>
 ■大西滝治郎中将(第1航空艦隊司令官)、特攻を決定。<年> ○米軍、レイテ島上陸(1日で10万を超える人員と10万トン以上の補給物資を揚陸)。<年>
 ■16D(牧野四郎中将)など約2万が配備されているのみ。師団司令部のあるタクロバン正面は手薄、敵上陸第1日で通信網を寸断され、集積物資の多くを失った。→戦況は上級司令部には伝わらなかった。(レイテ決戦決定)<年>

10月24~26日
 ■レイテ沖海戦(09)

10月26日
 ■レイテ島進出の命令が26Dに下った。(15)

10月28日
 ■レイテ島輸送の「多号作戦」が正式に決定された。(15)

10月30日迄
 ■26Dの諸隊は軍装検査を終えた。(15)

10月31日
 【今堀】26Dの先遣部隊、今堀支隊(12is(Ⅱ欠)1,000名、(12))は、1Dとともに出航した。(15)

11月1日
 ■1D(片岡薫中将)主力、オルモック上陸。<年>

11月1~4日
 【今堀】11月1日朝、今堀支隊は、1Dとともにオルモックに到着。午後のうちに上陸を完了した。(12) 今堀支隊所属の野砲4門も上陸した。(17) 今堀支隊は、ドロレスから、水と食糧を求めてまずダナオ湖をめざした。(17) ダナオ湖は、ドロレス=ハロ道から約2キロ南、周囲6キロ、湖面標高800メートルで、折しも雨季と悪路が重なり、ゲリラの襲撃とあいまって苦難の行程だった。(17) 「作戦する前から、蛙やとかげを探さなければならないとは悲惨」な状態だったが(17)、脊梁山脈を越えて(15)、ダナオ湖からハロ側へ3キロ下り(17)、「今堀支隊は脊梁山脈中の小径を抜けて、4日までにハロを見下ろすラアオ山に進出し、後続の師団主力の到着を待っていた」(12)

11月2日
 ■第35軍司令官鈴木中将、レイテ島進出。<年>

11月2日頃
<ダムラアンの戦い>
 ■先着41i(30D)は当面の必要からカリガラ方面に使用され、1個大隊がブラウエン道に先遣されたが、主力は予備としてオルモックにとどめられていた。(20)

11月3日~
 【今堀】11月3日以来、今堀支隊はハロ西方のラアオ山上にあって、4日以来(13)ハロの米長距離砲陣地に斬り込み隊を送り(21)、155ミリ長距離砲を破壊した(17)。 今堀支隊と10キロ離れた552高地に第1聯隊(1D)が東南2キロにわたって展開し、その西北「三ツ瘤高地」東南の脊梁山脈に49聯隊(1D)が展開していた。(13)
 【US】今堀支隊と対峙したのは、米24Dである。(14) オルモック東北方、ラアオ=マムバン山の線で、ハロの米1KD(後に24D)と対峙した。(23) なお、今堀支隊所属の野砲1個大隊は、山路運搬不能なので、ドロレスに待機し、ダムラアンの戦いに加わった。(20)

11月4日
 【重松】102D所属の1個中隊が加わった。徒歩道打通のため師団工兵も加わっていた。(21)

11月5日
 ■○<リモン峠にて日米交戦><年>

11月7日
<ダムラアンの戦い>
 ■35Aは、とりあえずオルモックにあった364大隊(55B、10月27日上陸)の1個中隊をカモテス海に沿って南下させたが、撃退された(10日までに)。(20)

11月8日
 ■最高戦争指導会議、レイテ決戦続行決定。<年>

11月8~11日
 ■「多号作戦」第3次、第4次輸送が実施された。(15)
 ■11月8日に組んだ船団は、11月1日に1Dの輸送を成功させた方式を踏襲したものだった。輸送船は26Dを乗せた「金華丸」「高津丸」「香椎丸」を主体とした。(14) 11月8日から9日にかけて、1Dの追求部隊は1,500トン級輸送船3に乗って先発した。荒天を利用し、22ノットの高速を生かして、素早く軍旗及び人員の輸送に成功した。(14) 9日、26D主力、オルモック上陸。
 【重松】11日払暁を期し上陸すべき準備をしたが、夜明けとともに米海軍機が反復攻撃、艦艇発動機故障等により不成功となり、携行兵器のみで上陸。オルモック街道を急遽。師団主力とともにドロレス(オルモック北方)付近に集結し、今堀支隊の前線基地まで進出した。<重> 重松大隊は重機関銃以下を揚陸し、後に迫撃砲6門増加。<重>

11月9日
 ■レイテ島は雨季に入った。<雨> この年のレイテ島の雨は例年より多かったと言われる。(21)

11月9日
 【US】午後、「米軍が絶対優勢にあるレイテの空の下では信じられないことだが、3隻の日本快速輸送艦がオルモック港に着き、1,000名以上の新手部隊の揚陸に成功した。さらに大型輸送船3、護衛艦多数よりなる別の船団が、レイテ西岸を南下、第5空軍の攻撃にも拘わらず1隻も撃沈されずにオルモック湾に入った」という「ぞっとするような報告」を米第6軍司令官クルーガー中将は受けた。これは軍旗とともに主力を追求中の1Dの残部3大隊と26Dの主力であった。(13)
 ■しかし、平均速度12ノットの本隊の方は、11月1日のようにはうまくいかなかった。レイテ島周辺の航空状況は9日の間に一変していた。(14) 「残念ながら26師団を乗せた輸送船団は、米機の爆撃と大発の不足により重火器を揚陸出来ず、兵員1万を上陸させることが出来ただけだった」(13) 上陸した26Dの兵士約1万名は、三八銃に弾薬130発、食糧1週間分を携行しただけだった。(16) 重火器、トラックと燃料その他軍需資材(6,600トン、(16))多数は揚陸できないまま、輸送船は撃沈された。「この日からレイテ島の補給は枯渇し、敗勢が現れてくる」(14)

11月12日
<ブラウエンの戦い>
 ■先遣今堀支隊のいるラアオ山からハロへの溢出が予定されていた26Dは、方面軍命令により、急遽1個大隊(重松大隊)をアルブエラ方面へ派遣した。マホナグ、ルビを通る土民道によって脊梁山脈を越え、ブラウエン方面の偵察と攻撃準備を行うためである。(16)
<ダムラアンの戦い>
 【US】この頃、米7師団の先鋒1個大隊がアルブエラの南20キロのダムラアンまで北上していた。(16)
 ■「この敵と対抗しながら、ブラウエン攻撃を実施するという面倒な任務が、手ぶらで上陸した26師団に課せられることになるのである」(16) 11月2日にバイバイに出現した米軍は、その後増加の形勢にあった。オルモックに対する直接の脅威なので、後にこれに対処するため26Dの斎藤支隊(基幹Ⅰ、Ⅱ/13isに、Ⅱ/12is、Ⅱ/11isの一部を加えた)が派遣された。後、支隊のみならず師団の全力を注入することになる。(20)

11月12日
<ダムラアンの戦い>
 【US】バイバイに出現した米軍は、その後増加の形勢にあった。(20)

11月12日頃
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】オルモックに対する直接の脅威なので、これに対処するため26Dの斎藤支隊(基幹Ⅰ、Ⅱ/13isに/12is、Ⅱ/11isの一部を加えた)が派遣された。後、支隊のみならず師団の全力を注入することになる。(20)

11月12日
<ブラウエンの戦い>
 ■14方面軍は、「和号作戦」を35Aに下達。35軍は、26Dにアルブエラ~ブラウエン方面へ指向せよと命令した。26D主力はダムランを目指して進撃を開始した。<重>
 【重松】山中の地形、敵情の偵察を任務とする重松大隊は、オルモックを出発した。(21) 夕刻、重松大隊は、和号作戦先遣隊としてイピル地区出発。タリサヤン川南岸を東進した。 <重> 11月13日~15日の間に、山中の地形、敵情の偵察を任務とする重松大隊は、オルモックを出発した。(21)

11月13日
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】26Dの井上大隊(Ⅱ/12is)がダムラアン方面へ派遣された。(20) バイバイの敵の北上は35Aにとってさしあたり脅威であった。1個大隊(13is)がダムラアン方面に派遣された。(17)

11月14日
 ■26Dはオルモックに到着した。(17)

11月15日
<ブラウエンの戦い>
 【重松】重松大隊、マホナグ着。
 【斎藤】井上大隊の半分がカリダード付近で、他の半分がパラナス川付近で交戦した(互いの兵力を確かめ合った程度)。(20) 同日夕、13is主力(Ⅰ、Ⅱ)はイピルを出発、タリサヤン川(パラナス川の北7キロ、ブラウエンに向かう山径の分かれるところ)に向かった。(20) 1個大隊(13is)の先頭はパラナス川北岸に達し、米軍の先鋒と接触した。(17) 川岸から1キロ退いて、稜線に陣地を構築した。13isは野砲4門の配属を受け、アルブエラの南に布陣した。(17)

11月17日
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】先遣井上大隊(Ⅱ/12is)は、斎藤大佐の指揮下に入り、斎藤支隊主力はパラナス川の線に進出した。(20) 斎藤支隊は、バイバイからカモテス海沿岸を北上中の米7Dの先頭とダムラアン(オルモック南方20キロ)で接触した。(19) 米軍の勢力は増大する傾向にあるので、さらに1個大隊を増強された。これは当時イピルにあった26Dの全力である。(19) 【重松】<ブラウエンの戦い>ルビ着。(21) 重松大隊は、マリトボから山に入り、脊梁山脈を越えて、その先頭は11月17日、全隊は22日、ブラウエンの西4キロの287高地に達した。(21) 287高地は、ブラウエンの西4キロ、ブラウエンの南でレイテ平野に溢出し、東流してドラグで海に入るダギタン川上流左岸の要地である。(21)

11月20日
<ブラウエンの戦い>
 【重松】ルビ南東2粁に進出。この時一部の敵と遭遇し、これを撃退した。<重>

11月21日
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】軍命令、26Dはアルブエラ方面の敵をカリダート以南に撃攘すべし。(20)

11月22日
<ブラウエンの戦い>
 【重松】重松大隊の尖鋭中隊は、287高地(ブラウエン西方10キロ)に進出した。(19) 重松大隊、マタグバ東方地区に進出。先遣の小泉集成中隊(小泉少尉を長とする学徒兵将校を中心の集成中隊200名、102D)を掌握。<重>
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】26D司令部はマリトボ(タリサヤン川南)に前進、作戦指導に万全を期した。(20)

11月23日
<ダムラアンの戦い>
 【US】米第511降下連隊(1個大隊欠)はブラウエンを出発した。ダギタン川を遡行して脊梁山脈に入った。ダムラアンから北上する米第7師団と対峙する日本兵の背後を衝く作戦部隊だが、山中で散り散りになってしまった。しばしば26Dと交戦したが、統一指揮を失って分隊毎に単独行動をとったので、日本兵の損害も大きくなかった。(21) 当時西海岸にあった米軍の全兵力は、歩兵3個大隊、軽戦車1個小隊(2台?)。火力はリモン峠方面とは比較にならないほど貧弱なもので、11月23日時点で総数14門であった。砲兵はすべて前線から1,500ヤード後方、ダムラアン(オルモックの南20キロ)の町の南のバガン川の両岸に集結していた。(20)

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【大岡昇平ノート】『レイテ戦記』にみる第26師団(2)

2010年07月19日 | ●大岡昇平
11月23日
<ブラウエンの戦い>
 ■第4航空軍は、「天号作戦」を発令した。「天号作戦」は、ふつう、後に沖縄戦の段階で行われた特攻作戦の総称である。「『決号作戦』『天号作戦』など、後に陸海軍の終末的決戦の名称が、レイテ戦の段階で現地軍によって使われているところに、決戦の気構えが窺われる」(19) 高千穂空挺隊による「天号作戦」も薫空挺隊と同じ飛行場殴り込み作戦だが、胴体着陸ではなく、落下傘降下による正攻法である。(19)
 ■南方総軍は、「和号作戦」を発令した。(19) 「天号作戦」が実施される翌日、26Dの1個大隊(=重松大隊)及び16Dの残部1,600名が飛行場を攻撃、確保する。あとから26D主力が逐次マリトボ=ブラウエン道より溢出、戦果を拡大する、というもので、決行日を12月5日から10日までの間とした。(19) 「和号作戦」は、地上軍の作戦の呼称で、「天号作戦」と結合した全体がブラウエン攻略作戦である。(19) この頃、26D主力はまだ必要な軍需品を受け取っていない。(19)
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】斎藤支隊の実数は2個大隊、これに対する米軍も実施2個大隊であった。(20) 兵力は2個大隊ずつでほぼ均衡し、米軍の火砲数と補給が十分でなかたので、日本側が攻勢に出て、1週間にわたる激戦となった。斎藤支隊は、レイテ戦の経過中、もっとも巧みな戦いを戦った。(20) 1830、パラナスの戦いは26Dの砲撃から始まった。(20)

11月23~27日
<ブラウエンの戦い>
 ■「リモン=バイバイ間100キロの間には、スペイン統治時から、山越えの徒歩道が二つあった。一つは26Dの先遣今堀支隊が通った道で、オルモック北方5キロのタンブコから右に切れ、ダナオ山の裾野中のドロレスを経て、アルト山(1,550メートル)の北を通って、ハロへ出る約30キロの道である。支隊は11月4日までに、ハロを見下ろすラアオ山(1,000メートル)マムバン山(1,300メートル)の中間の線に進出した」(17)
 ■「もう一つの脊梁山脈越えの山径は、オルモック南方10キロの町マリトボから、タリサヤン川を遡り、山中のルビを経て、ディナガット川の上流に降り、ブラウエンに出る20キロの道である。これも古い道であるが、脊梁山脈はこの辺では最も厚い。川は深い峡谷を付くって、道は錯綜している。むろん砲車は通行不能で、せいぜい山砲を分解すれば搬送出来ないことはないという程度である」(17)
 ■だが、この道があったからこそ、ブラウエン斬り込み作戦が採用されたのだ。(17) 作戦は、第4航空軍と協力して空挺部隊を降下させ、16Dの残兵、アルブエラから山越えに進出する26D主力とともにブラウエン地区の三つの飛行場を占拠するというものだった。「その規模は雄大、日本的奇襲の観念にも適い、レイテ戦の掉尾を飾るにふさわしい作戦であった。ただそれを遂行する兵力、補給の裏づけがなく、脊梁山脈の自然的条件に妨げられて、26師団の将兵は最も苛酷悲惨な行動を強いられることになった」(17)
 ■方面軍は予想もしなかったが、山道は荒廃して殆ど存在せず、徒歩道を作ることすら困難な状態だった。(21)
 ■26Dは、上陸以来工兵隊をアルブエラに派遣して、海岸道路に平行した野道を野砲道に改造しようとしていた。しかし、雨に妨げられて工事は進捗せず、作戦に間に合わなかった。「和号作戦」は砲兵を持たない斬り込み作戦なのであった。(21)  先着41聯隊(30D)は当面の必要からカリガラ方面に使用され、重松大隊(Ⅲ/13is/26D)がブラウエン道に先遣された。26D主力は予備としてオルモックにとどめられていた。(20)

11月23~27日
<ブラウエンの戦い>
 ■26Dは、師団司令部をイピル(オルモックの5キロ南方)に置き、オルモック南部の警備を兼務としつつ、次期作戦準備に専念した。(20) 「26師団の上陸によって、レイテ島上の陸軍兵力は45,000になった。当時定められていた1個師団の1日の補給量は、糧秣、弾薬、ガソリン等合計150である(そのうち100-120トンは弾薬)。3個師団が戦闘するためには、毎日少なくとも450トンが揚陸されなければならない。ところが第2次輸送(第1師団主力)が、予定量1万立方メートルを揚陸しただけで、以後12月末までに6,500立方メートルしか揚陸していない」(16)
 ■「糧食は3個師団分で1日3食とすれば白米50トンである。マニラから積み出した白米7,000トン、そのうち到着したのは1,000トン、20日分にすぎない。しかもその多くは陸上輸送力不足のため、オルモックに集積されたままで、前線に届かなかった。かりに輸送がうまく行ったとして、途中輜重兵、部隊幹部のピンはねによって、最前線に届くのは出荷量の10分の1というのが軍隊の相場である。前線の歩兵部隊が、飢餓によって戦闘力を失って行ったのは当然であった」(16)
 ■「しかし揚陸に成功した場合でも、トラック不足のため、オルモック、フアトンに蓄積されたまま、敵の爆撃の目標になるだけだった。最後にはオルモック逆上陸によって、敵に鹵獲されることになる」(16)
 ■レイテ戦続行のためには有効な補給が必要であり、そのため東海岸の飛行場を奪回しなければならない。かといって、カリガラ方面を迂回している余裕はない。かくて、方面軍作戦は、12月7日のブラウエン斬り込み作戦となって実現するところの敵航空基地撃破に向かって進んだ。(16)

11月24日
 ○米B29、東京初空襲。<年>

11月25日
<ブラウエンの戦い>
 【重松】1個小隊が東方2キロのブラウエン背後の205高地まで潜行し、別の1個中隊は東南方3キロの327高地に着いて右側を偵察した。(21) 同日、マタグパ、パグフドラン東方高地で米軍と交戦した。(21) 11月下旬、補給不十分なまま米第511連隊と交戦を重ねたあげく、多くの栄養失調、マラリア、下痢患者が出た。(21)
 【今堀】今堀支隊の川上少尉がダガミの16D司令部に連絡に行った。その時点での16Dの状況の報告が「レイテ戦史」に記録されている。16Dはすでに1か月間山籠りし、マラリヤ、下痢、栄養失調で死亡病臥する者多く、この頃では1日の人員消耗数75名に達していた。(21)

11月26日
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】夜、米軍陣地を一気に抜く好機が生じたが、「ただ理由のわからない米軍の退却に戸まどいし、直ちに戦果を拡大して完全勝利に持って行く判断をする将校がいなかった」(20) 「逸機」である。9日に輸送船で多数の中隊長が戦死したのが打撃だったといわれる。(20)
<オルモック湾の戦い>
 ■26D司令部は、南方へ移動するとき、イピルの国道西側にあった砂糖工場に書類を埋めた。(22)

11月26~27日
 ■薫空挺部隊、ブラウエン方面に強行着陸。<年>

11月27日
 ■ペリリュー島の日本軍抵抗終わる。<年>
<ブラウエンの戦い>
 【重松】「マタグバ方面に敵第86師団進出アルガゴトシ」と報告。山に入ってすでに半月経ていた。補給は十分でないから、この頃は多くの栄養失調、マラリア、下痢患者が出ていた。同日1230~1800、「287高地後方ニ進入シ来タレリ敵100ヲ奇襲攻撃シ其ノ半数以上ヲ殺傷、ソノ他ノ戦果ヲ得タリ」と報告した。ダキタン川渓谷に沿う小高地を巡って米511iと苦闘。<重>

11月27-28日
 ■多号第6次輸送。これより、「26師団は、上陸16日目にやっと弾薬と食糧を支給された」(19)

11月28日
 ■35Aは、「和号作戦」を下達。(19) この頃26D司令部は斎藤支隊の作戦指導のためマリトボに移動していたが、「ブラウエン方面専念」の命令を受けた。(19)
 ■35Aは、最初ブラウエン作戦に批判的だったが、作戦決定の上は総力をあげて実施体勢を整えていた。成功すれば東海岸の米軍航空兵力は著しく減退し、輸送状況が改善されるはずだから、レイテ戦の主導権奪回のための必死の作戦といえる。(19)
 ■しかし、この場合も障害は情報の不足だった。米軍はブラウエン地区の3飛行場のうち、サンパブロは11月23日に、ブリ、バユグは11月30日に放棄し、新たな飛行場をタナウアン海岸に建造中だった。日本軍はそれを知らなかった。(19)
 ■ブラウエンへの「突入は一応成功したが、残念ながら、労多くして効少なき結果となった。レイテ島東海岸の米空軍に何ほどの打撃を与えることが出来なかったのである」(19)

11月28日
<ダムラアンの戦い>
 【US】米軍には部隊の交替があった。(20)

11月28日
<ダムラアンの戦い>
 ■26Dでも戦線整理が行われた。(20)
<ブラウエンの戦い><ダムラアンの戦い>
  【斎藤】「和号作戦」決定に伴い、井上大隊(Ⅱ/12is)残部はブラウエン作戦参加のためルビへ転進を命じられ、支隊主力には以後、カモテス海に沿った本道に縦深抵抗を行う任務を課せられた。(20)

11月28日~30日頃
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】13isは支隊戦闘指揮所と共にアルブエラ東南の185高地(606高地)に集結していた。正面の米軍の阻止を命じられたのはⅡ/11isであるが、その打6中隊は全滅、第5中隊も激減している。第8中隊がバロゴ東方へ撤退した時、兵力は半分に減っていた。(20)

12月1日
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】26D司令部がブラウエンに向かってからは、野砲、工兵、輜重、その他カモテス海沿岸の諸隊は、斎藤大佐の指揮下に入った。大佐が与えた命令は、国道を見下ろす諸高地の「死守」であった。(20)
<ブラウエンの戦い>
 ■夕刻、「和号作戦」実施の命令を受けた35Aは、オルモックを立って、イピルに一泊した。同日、マリトボにあった26Dも脊梁山脈に分け入った。ほとんど司令部だけの行軍だった。(21)
 ■カモテス海側を北上する米第7師団主力の防禦には斎藤支隊を残し、主力は敵とすれ違いに前進する。側敵行進という最も危険な作戦だが、第35軍は乾坤一擲の奇襲で主導権を奪い返そうとしたのだ。(21)
 ■だが、26Dは実質2個大隊にすぎなかった。先遣重松大隊(Ⅲ/13is)はすでに半月山中にあって戦力を消耗しており、井上大隊はダムラアン方面でさんざん叩かれた欠損部隊だった。砲を持たず、斬り込み程度の効果しか見込めなかった。(21)
12月2日 <ブラウエンの戦い>
 ■35A司令部はイピルを発し、正午、5キロ南のマリトボに着いた。鈴木35A司令官は、所定の5日には26Dはブラウエンを攻撃できない、7日に延期してくれ、と方面軍に懇請した。しかし、6日には68Bを乗せた第8次多号輸送船団がマニラを出発する。ために米航空兵力に一撃を与えておかねばならない、と方面軍は鈴木司令官の要請を拒否した。(21)

12月3日
<ブラウエンの戦い>
 ■工兵聯隊長の指揮する1個小隊は287高地を確保。重松大隊主力は205高地を進出中で、その一部はブラウエン南方5キロ327高地を前進中(詳細不明)。野中集成大隊(10月末オルモックに到着した30D77iの一部を基幹に当時オルモック周辺にあった雑軍を集成)は、0430ルビ着、1500、287高地に前進。井上大隊(Ⅱ/12is)は、夕刻、ルビ着(予定)。(21)
 26D戦闘司令所は4日午後287高地に前進予定。しかし、師団主力は、作戦準備完了予定日の3日、まだルビにあり、軍司令部も到着していなかった。(21)
 【重松】205高地付近を進出。6日、ブラウエン飛行場に40組の斬り込み隊を投入予定。(21) 一部は327高地(ブラウエン南方5キロ)を前進中。(21)

12月5日
<ブラウエンの戦い>
 ■ルビの軍司令部に到着した方面軍派遣参謀田中光祐少佐は、周辺を視察してぞっとした。飢餓に瀬している26Dの兵士たちは、「いずれも眼ばかり白く凄味をおびて、骨と皮ばかりである。まるでどの顔も、生きながらの屍である。地獄絵図のような悽愴な形相である。その上丸腰で、武器をもっていないために、全く戦意を喪失していた」(21) これは師団主力ではなくて先遣重松大隊の傷病兵か井上大隊の状況であった。「やがてブラウエン作戦が中止、退却に移ってからは全軍が似たような状況に陥る」(21)

12月6日
<ブラウエンの戦い>
 ■朝、「ブリ飛行場を攻撃した150名の兵士がいたのは、16師団の名誉でなければならない」(21)
<ブラウエンの戦い>
 【重松】払暁、サンパブロに突入できるのは重松大隊だけだったが、「これは11月17日以来、すでに20日間山中にあって、米兵と交戦していた部隊である。糧秣はとっくに尽き弾薬は不足していた」(21) 夜、重松大隊は「予定通り突入」という報告を師団司令部に電報したまま、連絡を断った。(21)
 【重松】26Dの僅かな生還者の話では、重松大隊将兵は出発時に自分の持っている幕舎まで焼いて帰らぬつもりで出発した。しかし斬込み後若干は帰ってきた。しかし、飢餓のためもう体力の限界で動けない者が多かった。<重>

12月6日
 【US】米11空挺師団の511連隊(1個大隊欠)は、11月25日以来ブラウエン攻略作戦部隊と交叉して山中を西進していたが、その先頭がマホナグ(カモテス海を見下ろす)に進出した。それから26Dと混戦になった。(27)

12月6~7日
<ブラウエンの戦い>
 ■土居参謀のメモによれば、「和号作戦」を実施する地上兵力は、16D主力と26Dの1個大隊であった。(18)
 ■和号作戦、16D・高千穂空挺部隊、ブラウエン飛行場攻撃。<年>

12月7日
 ■68B、サン・イシドロ上陸。<年>
 ○米77D、オルモック上陸。<年>
 ■和号作戦中止。<年>
<ブラウエンの戦い>
  ■中村高級参謀が「ルビ」に帰来し、「第26師団は昨6日夜先遣重松大隊の一部が夜襲に向かったのみで師団全体では動いていない」旨報告した。<重>
<オルモック湾の戦い>
 ■米第77師団がオルモックに逆上陸し、それまで50日間の戦いに終止符をうった。(22)
 ■劇的なことに、ブラウエン飛行場群への突入作戦が行われ、35軍司令部、26D司令部をあげて、オルモック西南方20キロの山中に入っていた。26Dの斎藤支隊は、米第7師団に対して退却戦を戦っていた。(22)
<オルモック湾の戦い>
 ■「オルモック湾の朝は静かに明けた。少し雲があったが、風は穏やかだった。海面が明るくなるにつれ、ダムラアンからオルモックに到る沿岸の日本兵は、平らなオルモック湾が80隻の艦艇によって廠われているのを見たわけである。遂に聯合艦隊が助けに来てくれた、もう大丈夫だ、これまで頑張った甲斐があった、という言いようのない歓喜が、何も知らない兵の心を充たした。/しかし夜がすっかり明け放たれ、その夥しい船舶が星条旗を掲げているのを見ると、歓喜は一瞬にして、絶望と変わった。この時からレイテ西海岸の日本兵は戦意を失った」(22)
<ダムラアンの戦い>
 ■払暁、カモテス海沿岸を防備していた日本兵は、オルモック湾が艦船で覆われているのを見た。歓喜の声が湧き上がったが、海上が明るくなるにつれ、聯合艦隊だと思っていた各艦艇が星条旗を掲げているのを見た。「やられた」という虚脱感が将兵をとらえる。「7日以後、カモテス海沿岸の戦いは、絶望の戦いとなる」(20)
<オルモック湾の戦い>
 ■アルブエラ方面にあった26D工兵は、米軍の砲撃に会うと、2キロ内陸の山脚地帯に退いた。米7師団のオルモック進撃路は開放された。(22)
<オルモック湾の戦い><オルモックの戦い>
 【今堀】リモン峠の急迫に伴って12月6日に1D配属されることになり、リモン峠方面への転用が決定した今堀支隊の先遣第1大隊が、12月7日、ちょうどドロレス(オルモック東北8キロ、標高200メートル、ダナオ山の裾野の補給基地、オルモック湾が見はらせる)まで下って来ていた。(22)(23) 友近少将は今堀支隊の1D配属を取り消し、光井部隊と協力して、キャンプ・ドーンズ(オルモック南1キロ)の防衛をするよう命じた。(22)
12月7日夜、実力2個中隊の上条大隊(Ⅰ/12is)は、軽機3、速射砲2を受領してから、車輌輸送でイピルに向かった。オルモック南方で下車、1時間展開前進して敵と接触し、射撃を加えたが反応がないので2キロ後退、竹藪や地隙を利用して壕を掘った。オルモックの南3キロのパナリアン川の線だったらしい。(23)

12月7~8日
 ■「ゲリラが侮るべからざる戦力を持っていることを身をもって知っていたのは、比島に長い駐屯の経験を持つ16師団、102師団だけだった。第1師団、26師団と増援部隊には、戦況、匪情について形式的な訓話ぐらいしか与えられなかった。しかも意気阻喪を考慮して、著しく偽装されたものだった」(18)
<ブラウエンの戦い>
 ■7日未明~8日後半、空挺第3聯隊、16D、重松大隊との連絡が成り、共に行動した。8日朝、軍戦闘指令所に田中方面軍参謀、26D峰尾正生参謀到着。田中参謀は「重松大隊の位置まで行った。第26師団主力は7日の斬込みには間に合わなかった」と報告した。<重>
 【US】米第77師団がオルモックに上陸する直前、レイテ島の米軍兵力は7個師団と1個連隊、補給部隊を入れれば総数27万人に達していた。これに対する日本軍は、すでに半数に減った1D、裸の26Dに第16師団の残部3千人に過ぎなかった。(18)

12月7日
<オルモック湾の戦い>
 【US】7日払暁、米77D2個聯隊、デボジト逆上陸。<重> 1740、米軍の先頭部隊はイピルの村に入り、多くの機密書類を得た。(22)

12月8日
<オルモックの戦い>
 【今堀】水田に足をとられて米軍の進度は遅かったが、上条大隊は最初の1時間で壊滅的打撃を受けた。大隊長上条少佐は重傷を負った。(23) この間に、今堀支隊の主力(聯隊本部、通信隊、聯隊砲中隊、1個中隊を欠く第3大隊、第1大隊第4中隊、計約500名)がオルモックに到着。オルモックの北、コゴン東方の高地に配置された。(23)

12月9日
<ダムラアンの戦い>
 ■11isは巧妙な退却戦を行い、12月9日、11is第8中隊主力はタリヤサン川南岸高地に後退した。(20)
<オルモック湾の戦い>
 ■7日の米軍デボジト逆上陸に伴い、軍司令官は「戦闘指令所は9日朝反転」と決意し、峰尾参謀に「第26師団は一部を以てブラウエン南西6キロを扼して軍の転進擁護爾後すみやかに主力をもってオルモック平地に転進。上陸中の米軍を攻撃。16師団の収容」の命令を下した。<重>
<オルモック湾の戦い>
 ■35軍司令官は「和号作戦」中止を命じ、フアトンに転進した。(27) 35A戦闘司令所はマホナグからタリサヤンへ移動を開始した。(21)
 ■26Dは、アルブエラ方面の敵撃破、を命じられた。「しかし師団主力はダムラアンの戦い以来重大な損害を蒙っており、ブラウエン方面から退却してくる兵士は、16師団の敗兵と似たような飢兵で、とても新しい作戦を企画するなど思いもよらない。/海岸から5キロ上流のタリサヤン河谷に停止して、ブラウエン方面から下って来る敗兵を収容するのが精一杯であった」(27) 命令変更を申請したらしいが、35A司令部は15日以来移動を続け、19日にはリボンガオで急襲を受けて西方に退却していた。(27)
 ■1月中旬、漸くマタコブ南方地区に集結との軍命令を受けるが、師団はこの間にも米軍と交戦した。(27)
<ブラウエンの戦い>
 【重松】師団が反転を命ぜられたのは9日。先遣の重松大隊は、師団命令でこの地に残留。イピルを出発して1か月経ており、飢餓と体力の消耗、弾薬の補給も皆無の中、殿軍として、追求の米軍をこの地で阻止する任務を与えられた。白井聯隊長(高千穂挺身隊)の手記には「18日重松大隊とマタグバ東北4キロ付近ジャングル中にて遭遇せり」とある。<重> ブラウエン方面へ進出していた重松大隊の後退は、さらに難渋を極めた。(21)
<オルモックの戦い>
 【今堀】司令部をフアトン(オルモック北方6キロ)に移すとともに、すでにラアオ山を出発していた今堀支隊主力をオルモック北方の丘陵に配置して反撃を準備した。(22) 1か月以上脊梁山脈の雨と霧の中に露営していたから、マラリアと栄養失調で病兵が増加、転進中も多くの落伍者を出して、大隊がドロレスに着いた時の兵力は約200であった。(23) 久しぶりに満腹感を味わった兵士は、オルモック湾内にひしめく敵の艦船を目撃した。(23)
<オルモックの戦い>
 【今堀】今堀支隊は、ラアオ山を撤収するにあたって、前田集成大隊(バレンシア野戦病院退院者、オルモック駐屯の16師団の下士官)の400名を残してきていた。(23) 12月9日、このうち3個中隊300名も急遽オルモックに呼び返された。(23)
 【今堀】戦訓「レイテ戦史」が記録するオルモック防衛戦力のうち今堀支隊の戦力は、第1大隊(大隊長負傷)2個中隊約100名、第3大隊3個中隊約250名、高千穂部隊80名、であった。主要な戦闘は今堀支隊の受け持ちになったが、合計約350名にすぎなかった。(23)

 【重松】この頃、ブラウエン方面に進出していた26Dの重松大隊(Ⅲ/13is)は後退し、アルブエラ方面をめざしたが、難渋を極めた。(23)

12月11日
 ■8D5i、パロンポン上陸。<年>
 ○米軍、オルモック奪還。<年>
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