語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【仕事】田宮俊作『田宮模型の仕事』

2016年09月14日 | ノンフィクション
 
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 世界にその名をとどろかせている田宮模型株式会社(現・株式会社タミヤ)の、創業期から1997年ごろ至るまでが回想される。
 それまでの主な製品が紹介されているから、かつて人生の一時期に手にした模型に再会して懐かしく思う人が少なくあるまい。いや、今日の大人にも無縁ではない。本書が言及するジオラマは、模型少年(または少女)の占有にとどめるのはもったいない。
 よい製品を生みだしたのは、寝食を忘れた努力があったからだ。そしてまた、消費者のニーズを敏感に汲み上げて新製品へ反映させたからだ。そうした実例が本書に豊富に紹介されている。
 作るだけでは売れない。売る戦略も必要である。その戦略は、田宮模型の英国総代理店RIKO社の前社長が寄せた思い出、33年間の付き合いの回想で構成される終章に詳しい。

□田宮俊作『田宮模型の仕事-木製モデルからミニ四駆まで』(ネスコ、1997/後に『田宮模型の仕事』文春文庫、2000)
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書評:『こちらロンドン漱石記念館』 ~来月閉館~

2016年08月29日 | ノンフィクション
 
 著者は、ロンドン漱石記念館長、翻訳家。
 新聞配達をしながら大学を卒業後、渡英してホテルマンとなる。働きながら、アダルト・スクールで西・仏・独語を学んだ。
 貧しさのあまり、「ホテルの食事以外は、よくてコカコーラにビスケット、ひどいときは食パンに水をつけて流しこむ」日々だった。
 ロンドン大学で言語学を聴講するが、早口で聞きとれない。自己嫌悪におちいったときに、かつて留学生だったころの漱石が同じ立場だった、と発見した。
 漱石の下宿や彼の個人教師(クレイグ先生)の家を探索。
 これが契機になって、漱石の足跡研究に本格的にとり組んだ。

 食費をけずって集めた資料がたまっていくにつれ、読みたい、と求める人が増えてきた。
 はじめのころは、訪問客があるつど資料をとりだしていたが、後年、家を手に入れて、一部を常設の資料室とした。これを1984年に記念館として一般公開した。

 5年間のホテル勤務の経験をいかして、旅行会社を自営。この事業は成功したが、10年めに廃業した。「同じポジションに長くいると、仕事の流れも悪くなる」
 以後、渡英当時抱懐していた夢、「日英のかけ橋」に専念する。

 本書は、三部で構成される。
 第一部は、全体の半分強を占め、滞英24年間の半自伝である。漱石記念館の活動、画家牧野義雄研究など日英文化交流史をスケッチする。
 第二部には、英国文化についての短いエッセイを集めた。話題は、パブの楽しみ、紳士クラブの機能と魅力、市民にしたしい美術館・博物館・公園、ふだん着のオークション、英国人のやさしさ、などなど。たとえば、古きよき街なみを語って自動販売機が稀れな点にふれ、日本における自販機の普及は会話の不足、コミュニケーション能力の低下につながる、という文明批評におよぶ。
 第三部は、留学を志すひとのための、痒いところへ手がとどくような心得である。
 語り口は軽妙。それでいて長い英国生活の体験を背後に感じさせる文章である。
 本書をつうじて、10代、20代の者は、型どおりではない生き方があることを知ることができる。
 不惑をすぎて惑う者は、自分がほんとうにやりたいことは何なのか、問いなおす機会をもつことができる。

  *

 本書文庫版の刊行当時、さる書評サイトをつうじて、著者と交信する機会をえた。著者のサイトを紹介していただいた【注】。このたび、久々にアクセスしたが、更新をかさねているのは何より。
 著者から書評を依頼されたり、著者のサイン入り本をいただいたり、アマチュアとはいえ書評家には書評家の愉しみがある。

 【注】ホームページ「倫敦<ロンドン>漱石記念館にようこそ!! 」はその後フェイスブックに変わった。
ロンドン漱石記念館/草枕交流館(熊本県玉名市天水町)
倫敦漱石記念館
英の漱石記念館 17年秋に閉館へ 来館者減少で
記事「ロンドンの漱石記念館 来月閉館へ」(日本海新聞 2016年8月29日)
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□恒松郁生『こちらロンドン漱石記念館』(廣済堂、1994年/後に中公文庫、1998)
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【ウィリアム・F・ノーラン】『ダシール・ハメット伝』

2016年08月27日 | ノンフィクション
 
 ハメットに傾倒した著者の、傾倒ぶりがうかがわれる伝記。作家論(ミステリーを書くことに興味を失った事情)としても部分的には作品論(たとえば『影なき男』の特徴)としても読める。
 単なる思い入れで書かれているわけではない。著者は本書に先立つこと十数年前にダシール・ハメット書誌を刊行している。
 職歴はもとより若き日の読書傾向といった細部の事実も掘り起こし、さらにはハメット作品の映画化に関する裏話を通じて当時の米国映画産業の一側面をも描きつくす。
 米国を一時席巻したマッカーシー旋風の残酷さを新ためて感じる。正義感と才能を併せもつ作家が、国家からいわれなき迫害を受け、社会に絶望し、自堕落な生活に流れ、アル中に陥った。
 とはいえ、全体を通じて感じられるのは、自分なりの倫理を最後まで守りとおした気骨のある一作家の生涯である。

□ウィリアム・F・ノーラン(小鷹信光・訳)『ダシール・ハメット伝』(晶文社、1988)
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 【参考】
【言論】マッカーシズムの教訓 ~政治権力と言論~
【本】ドルトン・トランボの闘い ~赤狩り時代のオスカー~
書評:『ジョニーは戦争へ行った』
書評:『眠れない時代』
【本】中野利子『外交官E・H・ノーマン その栄光と屈辱の日々1909-1957』
【映画談義】『真昼の決闘』 ~大衆操作~
【読書余滴】「High Noon」 ~『真昼の決闘』~

【杉山章象】『わたしは鍵師』

2016年08月26日 | ノンフィクション

 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 鍵師は、鍵を作り、あるいは他人が作った鍵を解く。地味といえば地味のきわみ、人間ではなくモノが相手の仕事だが、地味に徹し、モノに徹すると、人間的なドラマが向こうからやってくる。
 たとえば、奥さんには見せたくないものを金庫の奥深くしまったのはよいが、開けるに開けられなくなって鍵師を呼ぶはめになった悲劇。依頼を首尾よく果たしたのはよいが、体で支払います、と持ちかけられて、ほうほうのていで逃げだした喜劇。
 一芸に徹すると、じつに意外な世界が広がる。

□杉山章象『わたしは鍵師』(中公文庫、1988)
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【デキゴトロジー】一覧

2016年08月26日 | ノンフィクション
【言葉】名古屋弁訳『吾輩は猫である』
【震災】激震の神戸で地震に気づかなかった人、知らなかった人
書評:『デキゴトロジー -恋の禁煙室-』
【読書余滴】女が23年間悩みとおしたこと
【読書余滴】時代劇のズサンな時代考証
【読書余滴】会社の怪談、深夜の悲鳴

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【歴史】いちばん長い日/史上最大の作戦 ~ノンフィクションと映画~

2016年08月25日 | ノンフィクション

 (1)連合軍が上陸するその日は、敵味方双方にとっていちばん長い日になるだろう(ロンメル元帥)。

 (2)コーネリアス・ライアンのノンフィクションは、ノルマンディ上陸作戦をDデイ、つまり1944年6月6日の一日に絞って再現する。
 5千隻の船舶が午前5時半に攻撃を開始したのだが、知らせを受けた西部軍総司令官ルントシュテット元帥は、頑固に、ノルマンディは索制攻撃であって真の上陸地点は別にあると考えた。それでも念のために総統直属の2個装甲師団を海岸地方へ急行させようとしたが、ヒットラーは拒否した。ヒットラーと幕僚たちは、上陸から6時間以上たっても事態を把握していなかった。
 連合軍の謀略作戦の成功を示すエピソードだが、同時に、事実に立脚しない信念がいかに壊滅敵な結果をもたらすか、をも示す。

 (3)映画ではコータ准将がジープ(史実はトラック)に乗って丘の上にあがる場面で終わるが、原作ではさらに先がある。Dデイの2日前に休暇で司令部を離れたロンメルは、夜には司令部へ戻った。そして、第21装甲師団がまにあわなかった、という悪いニュースを真夜中に聞く。
 <この日から数えて、第三帝国は余命一年を残すばかりだった>

 (4)本書は、報道班員として参加した著者自身の体験をもとにしているが、それだけではない。戦後、著者は膨大な資料にあたり、また、連合軍、独軍、仏レジスタンスの生存者及びその家族千人以上にインタビューして、埋もれていた事実を掘り起こした。連合軍や独軍の将兵、仏レジスタンスや市民の動きを立体的に構成した。人物一人ひとりの行動が具体的で、行動を伴う心の動きが生々しい。巨視的な鳥瞰と細部の事実のバランスが巧妙で、序文にあるように「人間の物語」となっている。

 (5)映画『史上最大の作戦(The longest day)』は、1962年公開。監督は、ケン・アナキン、ベルンハルト・ヴィッキ、アンドリュー・マートン、エルモ・ウィリアムズ。出演は、ジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、ジャン=ルイ・バロー、ロバート・ライアン、リチャード・バートン、ロバート・ミッチャム、ショーン・コネリー、ロッド・スタイガー、ロバート・ワグナー、ポール・アンカ、スチュアート・ホイットマン、サル・ミネオ、ケネス・モア、クルト・ユルゲンス、ゲルト・フレーベ、ブールヴィルなど、英米独仏の当時活躍中の、あるいはその後さらに名をなした俳優が総出演している。製作のダリル・F・ザナックほかが、当時としては破格の制作費36億円を投じた。
 戦場では奇蹟的な出来事、信じがたい出来事が起きるらしい。米第82空挺師団の落下傘兵の小集団が集合地へ急ぐ最中、向かい側から行進してきた独軍の分隊と互いに1mも離れていない距離をすれ違うのだが、米兵の一人を除いて誰も気づかなかった。
 このシーン、原作にも書かれてある。というより、映画の原作者・脚本家はコーネリアス・ライアンだから、映像的にも印象に残るこの場面を漏らすことなく盛り込んだのだろう。

□コーネリアス・ライアン(近藤等・訳)「いちばん長い日」(『世界ノンフィクション全集 15』、筑摩書房、1968/後に(広瀬順弘・訳)『史上最大の作戦』、ハヤカワ文庫NF、1995)
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【中東】戦争 ~イスラエル建国からレバノン侵攻まで~

2016年08月24日 | ノンフィクション

 (1)著者は、1918年アイランド生、1935年パレスチナへ移住。英国で法律を学び、1939年英陸軍へ入隊、1947年除隊。除隊と同時に地下抵抗組織ハガナに復帰(後にハガナは国防軍へ吸収された)。1967年に西岸地区軍司令官、1975年に国連大使、1983年に第6代大統領に就いた。

 (2)原著は1982年刊。独立戦争、シナイ作戦、六日戦争、消耗戦争、ヨムキプール戦争、対テロ戦争(エンテベ救出作戦)、ガリラヤ平和作戦を豊富な軍歴から(著者はそのほとんどに直接関わった)克明かつ立体的に綴り、犀利な分析をくわえる。訳者あとがきによれば、優れた戦史研究に与えられる英国のHHウィンゲート賞を受賞した。著者の「客観的かつ正確な分析」には「アラブ側も耳を傾けた」。

 (3)今日のイスラエル及びパレスチナ自治国家を思いつつ、独立戦争の箇所(2段組み100ページにわたる)を読むと、いろいろと考えさせられる。
 第一、パレスチナにおけるユダヤ人とアラブ人との関係である。国連分割決議(1947年11月29日採択)は多くのユダヤ人にとって歓迎するべき事態だったらしい。安住の地が国際社会に承認されたのだから。人の住む余地の稀れなネゲブ砂漠を除けば、ユダヤ人の土地は今日のイスラエルに比べるとごくわずかである。
 その僅かな土地ですら侵略と見なすパレスチナ人の視点がある、といった議論、またその僅かな土地では満足しない一派がユダヤ人にいたし今もいる、といった議論はここではさて措く。
 国連分割決議のとき、ユダヤ人の多くはアラブ人との共生を前提としていたらしい。少なくともハイファをはじめとする各地で現在地にとどまるようにアラブ人住民を説得する動きがあったらしい。
 しかし、アラブ人指導者たちは「常々ユダヤ人を海中にたたきこみユダヤ人社会の抹殺を公言」し、これがアラブ人大衆の動向を左右した。そして、指導者たちはアラブの強大な正規軍の予期しない敗北に直面したときヒステリー状態になって「まっ先に逃げ去った」のである。すくなくとも本書はそう解説する。踏みとどまったアラブ人は15万人。原著刊行当時のイスラエル人口の15%を構成する。

 第二、人口からすれば圧倒的に少数、武器は貧弱なユダヤ人がなぜ大海のようにユダヤ人社会をおし包むアラブ人、そして物量において豊富なアラブ正規軍に勝利したか。
 独立戦争においてはいくつかのキブツが抵抗の拠点となった。たとえばテルアヴィブから約40キロ南方のヤッドモルデハイ。住民及び守備隊の200名余は、乏しい手榴弾と小火器のみでエジプトの正規軍(歩兵一個大隊、機甲一個大隊、砲兵一個連隊)を相手に5日間持ちこたえ、貴重な時間を稼いだ。
 余談ながら、1992年にこのキブツを訪れたとき、無数の弾痕の残る給水塔が当時のまま保存されているの目撃した。平原には散開する多数の不気味な黒い人形(エジプト歩兵を模す)がセットされていて、当時キブツの住民たちが受けた不気味な圧迫感の片鱗が肌で感じられた。

 (4)ヘルツォークは次のように分析する。
 イスラエルには勇気と柔軟性に加えて創造的思考があった。と同時に、アラブ側軍隊の無意味な指揮ぶりも勝因の一つだ。たとえばエジプト軍は教科書どおりの攻め方をした。戦場では予期しない事態が発生するのが常だが、エジプト軍の指揮官は新しい状況に即応する柔軟性を持たず、重大な局面を迎えると逡巡するばかりだった。上級レベルにおいては各兵種間の連携のとり方が非常にまずい。そのため、機甲、歩兵、砲兵の協力がもたらす効果を、エジプト軍は期待できなかった。
 ヘルツォークはさらに続ける。
 <エジプト軍は防御戦闘になると、がぜん見違えるような戦いぶりを示した。固定陣地線で射撃し、火砲の射撃計画が明らかである場合、エジプト軍の指揮官と兵隊は勇敢に戦い、きわめて巧みな防御戦をやるのである>
 その国の科学水準、技術水準のみならず、国民性や民族性が戦争において集中的にあらわれるのだ。
 現代社会、現代政治を読み解くために戦争に係る知識が必須なゆえんだ。

□ハイム・ヘルツォーク(滝沢義人・訳)『図解 中東戦争 -イスラエル建国からレバノン侵攻まで-』(原書房、1990)
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【本】藤沢高治『インド洋の小さな国 ~モルジブ諸島文化誌~』

2016年08月18日 | ノンフィクション
 
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 南島に憑かれた文化人類学者が、インドとスリランカで出会った日本人「手品師」、「髭」、「海賊」たちとともにスリランカの南南西の島々、すなわちモルジブ諸島をめぐる。
 島の暮らしは、21世紀の日本の生活水準からすれば貧困のきわみ、最低生活だ。
 だが、住民は心あたたかで、のびのびと暮らしている。
 ちなみに、スリランカ料理のカレー味の決め手モルジブ・フィッシュ(鰹節に似た乾物)の魚は、このあたりで獲れる。

□藤沢高治『インド洋の小さな国 ~モルジブ諸島文化誌~』(晶文社、1981)
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【本】癒しの旅 ~ギリシア・エーゲ海~

2016年08月16日 | ノンフィクション

 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)ギリシャ旅行案内。第1章はエーゲ海の主な島13、第2章はアテネ(都市の愉しみ)、第3章はペロポネーソス半島(コリントスほか)、中部ギリシア(デルフィほか)及び北ギリシア(マケドニア王国の地ほか)・・・・の3章で構成される。

 (2)ギリシアの緯度は日本とあまり変わらない。アテネは海流の関係で比較的温暖だが、緯度は新潟とほぼ同じだ。本土のもっとも南、ペロポネーソス半島さえ、真冬には雪が降るし、北西部の高地は3月まで豪雪に埋もれている。だから観光シーズンは・・・・と切り出し、宿の予約と交渉術、現地での行動のしかたなど解説するが、このあたりは地球の歩き方っぽい。
 ただし、これは導入部であって、本文は島や町、遺跡や博物館を神話や歴史を織りまぜつつゆったりとした口調で語る。
 タイトルの「癒しの旅」とは、世知辛い現代を生き延びる戦いに傷ついた心の傷を癒す、というほどの意味か。たしかに、一点の遺物から幾千年前の英雄を引き出されると癒やされる気分にならないでもない。

 (3)著者はギリシアとの付き合いが長いだけあって、「ギリシアの博物館は、規模の大小にかかわらず、どこでも明るくて親しみやすい」と展望してみせる。市場で「目の肥えた品選びをする男性の姿が非常に多い」といった観察も、なるほど・ざ・納得である。
 ただ、豊富なきれいな写真は概して小さすぎて楽しめない。参考文献が付いてないのも、ガイドブックとしては親切でない。

□楠見千鶴子『癒しの旅 ギリシア・エーゲ海』(ちくま選書、1999)
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【本】マフィアをはめた男 ~フェイク~

2016年08月14日 | ノンフィクション

 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 FBI特別捜査官、ドニー・ブラスコことジョセフ・ピストーネの回想録。
 マフィアのファミリーの一つに潜入し、幹部の篤い信頼を獲得し、その信頼を存分に利用して組織犯罪の証拠を集めた。偽装は完璧であった。摘発され、著者の正体を明かされた後も、あの彼が・・・・FBIの罠だ、と幹部はなかなか信じなかった、という。その分、組織の怒りは凄まじく、この潜入捜査官の首に50万ドルの賞金をかけた。
 映画化された。アル・パチーノが騙されたマフィア役を老練に演じている。

□ジョセフ・ピストーネ(落合信彦・訳)『フェイク ~マフィアをはめた男~』(集英社文庫、1997)
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【宮脇俊三】『時刻表2万キロ』

2016年08月13日 | ノンフィクション
  
 8月10日、古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。
 ひたすら時刻表を読み解き、列車で通ったことのない線区の列車にただ乗るだけ、名所見物もグルメもない馬鹿みたいな旅だが、ショーペンハウアーも言うように、愚行も徹底すれば偉大に至るのである。
 多忙な仕事のあいまを縫って旅するのだが、しなくても害はないけれどやりたいからやる。忙しいのか、余裕しゃくしゃくなのか、よくわからないが、目的だけは明快で、それを達成する意思は堅固。とにかく、読んでいるだけで自分も作者になり代わって鉄道旅行をしているような気分にさせられる。
 今後ぜんぶを再読することは多分ないが、処分する気になれない。

□宮脇俊三『時刻表2万キロ』(河出書房新社、1978/河出文庫、1980)
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【西木正明】オホーツク諜報船

2016年08月13日 | ノンフィクション
 
 8月10日、古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。
 いわゆるレポ船、北の海で情報活動を行う船とその乗り組み員を描いた快作。
 マスコミには「調査報道」があるが、本書はいわば「調査小説」。膨大な資料と丹念な取材のたまものであることは頁を繰るごとに実感される。本書が成るまでに10年の歳月を要したという。
 北方領土とインテリジェンス活動の見地からも、公刊から年経ていよいよ評価が高い本。

□西木正明『オホーツク諜報船』(角川文庫、1980)
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【立花隆】『戦争を語る』 ~中国からの引き揚げ~

2016年08月01日 | ノンフィクション


 本書は、立花隆が東京大学と立教大学で長年取り組んできた「デジタル・ミュージアム 戦争の記憶」【注】の、一部をなすものとして構想された「立花家の戦争の歴史」の一部抜粋版だ。
 <いま、戦争のことを知っている人が世の中からどんどん消えて行く中で、少しでも戦争の記憶を世の中にとどめるために>(第4章)という思いから刊行された本書は、立花隆の自分史の一部であるとともに、戦争という普遍的な問題に対する一家族の証言でもある。
 本書は4章で構成される。
 第1章 少年・立花隆の記憶
 第2章 「戦争」を語る、「戦争」を聞く
 第3章 おばあちゃん引き揚げ体験記(文・橘龍子)
 第4章 [立花家座談会]敗戦・私たちはこうして中国を脱出した

 【注】「デジタル・ミュージアム 戦争の記憶

□立花隆『戦争を語る』(文藝春秋、2016)
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書評:『辰野隆 日仏の円形広場』

2016年05月25日 | ノンフィクション
 著者、出口裕弘は、フランス文学者・作家。
 本書のテーマは、日本人にとってフランスとは何か、である。
 たとえば、映画がある。昭和初年代と10年代のわが国では、フランスの株は上がりづめだった。文学や絵画の作品が媒体だった。シャンソンも。
 あるいは、戦前、戦中、戦後をフランスですごした滝沢敬一の『フランス通信』がある。
 だが、「懐かしい斜陽の国」のイメージをわが国に広めたのは映画だった、と著者はいう。
 こうして、日本に入ってきたフランス文化が逐一検証されるのだが、何といっても、辰野隆の評伝が量的に多く、抜群に面白い。

 辰野隆(1888-1964)は、東大仏文科の名物教授だった。
 明治西洋建築界の大立者、辰野金吾を父にもち、小林秀雄を一番弟子とする。小林秀雄は、のちに昭和文学に大きな影響を与える。
 仏文学の紹介に生涯を捧げ、モリエールの名訳がある。
 随想家としても知られる。
 日本文学にも通じていた。府立一中の同級生、谷崎潤一郎をはじめ、幸田露伴、夏目漱石に詳しかった。
 辰野隆という「円形広場」の八方に道が通じている。

 大道は、当然ながら、仏文学である。
 大正末以降の日本文学には、仏文学が広く深く影響している。
 その源流に辰野隆がいる。
 博士論文はボードレールであるが、辰野は専門の枠内に閉じこもっていない。モリエールもボーマルシュもバルザックも、面白いものは面白い、と「まとめて面倒を見てしまおうとする心意気」があった。

 仏文学の草分けであるにとどまらず、この人の資質、生い立ち、器量、その一切が、友人、同学の士や弟子にとって豊かな栄養になった。
 苦労や弱音は自分一人のうちにとどめ、面白いことだけを報告する。どんな時でも話を面白くしよう、座を盛りあげよう、とする人だった。
 度量の広い人で、こんな逸話がある。
 食いつめた小林秀雄が、入口の扉を蹴って教室に闖入した。
 「おい、辰野、金を貸せ」
 親分、ちっとも騒がず、「儂だって、かりそめにもお前の先生だぞ」
 そして、財布をとりだし、10円を貸してやった。

 苦学力行して、唐津藩下級武士の子から東京帝国大学工科大学長に昇りつめた父親、金吾は厳格一点張りで、辰野堅固のあだ名を奉られた。
 隆には、二代目の寛闊さがあった。蔵書も惜しみなく弟子に貸し出している。

 辰野隆が先導する東大仏文科は、勉強するかぎり、「文学の実践」が許容された。
 小林秀雄と同時期(大正14年)の新入生に、中島健蔵、三好達治、今日出海がいる。その後も、門下から詩人・小説家・文芸評論家が輩出した。中村真一郎もその一人である。
 中村は、昭和23年、辰野隆の退官と同時に講師に採用され、やがては主任教授となるコースに乗せられた。けれども、研究者と作家の二足草鞋は困難と見きわめ、助教授昇進を目前にして辞任した。そのときの仏文科の主は、厳密な実証をもって鳴る鈴木信太郎教授及び渡辺一夫教授の両巨頭であった。
 仏文科と「実践」との蜜月は、終わった。

□出口裕弘『辰野隆 日仏の円形広場』(新潮社、1999)
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書評:『二人で少年漫画ばかり描いてきた -戦後児童漫画私史-』/『トキワ荘青春日記』

2016年05月18日 | ノンフィクション
 藤本弘と安孫子素雄は国民学校時代の同級生である。少年期に出会った映画と漫画、ことに手塚治虫漫画に決定的な影響を受けて、二人は漫画家を志した。
 上京して2畳の部屋に二人して下宿するが、ほどなくトキワ荘に移った。
 当時としては高額な敷金3万円を置いていく、という手塚治の好意のおかげである。
 同宿の先輩、寺田ヒロオはじつに面倒見のよい人物だったらしい。彼の傘下に同じ志をもつ者同士が集まり、「新漫画党」を結成した。
 アニメに手をだして失敗した。
 青年コミックに進出するが、読者のひとことから児童漫画に回帰する。

 二人の作品だけではなくて、他の漫画家による主な作品も紹介している(巻末に年表を付す)。
 昭和34、5年を境にテレビ受信機が急速に普及し、同時期に貸本店が衰退して(昭和37年の後半に終焉)、貸本漫画家が週刊誌へ進出した。
 こうした文化史的証言もふくんでいて、興味深い。

 知覚心理学者が喜びそうなデータもある。
 たとえば、影になって見えないはずの部分も詳細に描く、といった少年漫画の特徴。あるいは、「おばQ」の主人公は当初は頭の毛が10本、太りじしだったが、連載5、6回目には頭毛は3本に減少し、贅肉をおとしてスリムな体型となった。ゲシュタルト心理学の簡明化の法則を思わせるではないか。

 かにかくに、『二人で少年漫画ばかり描いてきた -戦後児童漫画私史-』は、戦後の少年漫画史の貴重な資料である。それ以上に、漫画ひと筋のまじり気のない情熱がさわやかだ。

   *

 『トキワ荘青春日記』は、昭和29年から昭和36年まで、二人が20歳から26歳まで、トキワ荘で過ごした7年間の記録である。大学ノートで20冊を越える日記に加えて、欄外面白付録と称する頭注がある。登場人物や雑誌の解説や昭和40年の物価一覧(ラーメン40円ほか)である。写真もある。当時と現在の。さらに「トキワ荘の同窓生」たちとの鼎談、漫画家略伝、カットや作品のさわりが挿入されている。
 ただの日記がじつに豪華な本に変貌している。

 新書版である。豪華というのはなかみのことだ。
 金銭的な豪奢のことではない。むしろ生活はじつに貧しく、慢性的な金欠病と呼んでもよかった。何度も書き直しを要求されたり、注文をこなしきれずに穴をつくってその後一時干されたりもした。
 順調満帆ではなかったにもかかわらず、「毎日がお祭りのような、ぼくたちの黄金時代」だったのは、個性的で活発、暖かみのある同業者との付きあいがあったからだ。

 トキワ荘は木造2偕建て、全22室。各室とも4畳半。
 手塚治虫が転居した後、二人はその部屋を借りた。入居当時「スポーツマン佐助」や「背番号0」を描いていた寺田ヒロオがいたし、やがて鈴木伸一、森安なおや、少し遅れて石森章太郎、赤塚不二夫が加わった。さらに、トキワ荘の住民ではなかったが、永田竹丸、つのだじろうが日参した。
 勤務時間に縛られることなく(ただし締切日に縛られ)、各自やりたいことをやって、楽しく充実していたらしい。
 管理社会の、しかも21世紀にはいってタガの緩んだ管理社会の片隅に棲息する者は、羨望の吐息をつくだろう。

□藤子不二雄『二人で少年漫画ばかり描いてきた -戦後児童漫画私史-』(毎日新聞社、1977)
□藤子不二雄『トキワ荘青春日記』(カッパブックス、1981)
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