語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『眠れない時代』

2016年05月11日 | ノンフィクション
 1950年2月、ジョセフ・レイモンド・マッカーシー上院議員は国務省職員205人を共産主義者として告発した。以後、1954年の暮れまで、告発対象者を陸軍、マスコミ、映画、大学、ニューディーラーの各界の関係者にひろげ、審問にあたっては自白、密告、偽証、協力者のリスト提出を人々に強要し、事実を歪曲しては米国全土を恐怖におとしいれた。 
 いわゆるマッカーシー旋風、アカ狩りである。

 1952年、非米活動調査委員会による第2次喚問がおこなわれた。
 戯曲家リリアン・ヘルマンも呼び出された一人である。
 前年に喚問された者に、リリアンの夫、ダシール・ハメットがいた。『マルタの鷹』ほかのハードボイルドで、今なお、日本でもファンの多い作家である。
 ダシールは、党との関係を認め、入獄した。出獄してから死ぬまでの10年間は、無収入であった。

 リリアンたち被喚問者は、前年の審問会をまのあたりにしていたから、失職、社会的地位の喪失も覚悟していた。
 委員たちの高圧的にして一方的な追求に対して、筋をとおすには勇気がいる。
 じじつ、喚問された者の大部分は屈した。
 映画界では、たとえば、美男子として名高い俳優ロバート・テイラーは、委員会側の「友好的な証人」となり、委員会に迎合して自分の意見をねじ曲げ、はては3人の脚本家を売った。
 たとえばまた、脚本家にして『エデンの東』ほかの映画監督エリア・カザンは、40名の友人を引き渡した。

 リリアンは、過去の言動や交際していた人々の顔ぶれからして、夫と同じ裁定がくだされる可能性が高かった。
 リリアンは、夫ダシールと異なって、党との関係はなかった。そう証言し、自分が知る党員の名をあげれば追求をまぬがれることはわかっていた。
 しかし、リリアンは、他の人を陥れることで自分自身の「潔白」を証明するつもりはなかった。
 「良心を今年の流行に合わせて裁断することはできない」

 毅然たる性格が危機を乗り越えさせた。
 「自分については語ろう。しかし他の人への言及を要求されるならば憲法修正第5条を援用する」と、事前に委員会へ書簡を送ったのだ。
 弁護士は、機敏にうごいた。取材中の新聞記者へ書簡のコピーをばらまいたのである。世論を味方につける作戦である。
 リリアンは無傷で審問会をやり過ごした。
 この対抗方法は、後に続く者の導きの糸となる。
 トニー賞、ピュリッツァー賞受賞の劇作家アーサー・ミラーも、リリアンにみならった一人である。

 1991年、映画『真実の瞬間』が公開された。
 アカ狩りにあった主人公の映画監督(ロバート・デ・ニーロ)は、職も友人もつぎつぎに失うのだが、審問会の席上、友人の名を売ることを断固として拒む。
 リリアンの抵抗がここにも引き継がれている。
 『真実の瞬間』は、映画の町ハリウッドの、映画による、いささか遅すぎた自己批判である。

□リリアン・ヘルマン(小池美佐子訳)『眠れない時代』(サンリオ文庫、1985、後にちくま文庫、1989)
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書評:『憂国のスパイ -イスラエル諜報機関モサド-』

2016年04月21日 | ノンフィクション
 著者ゴードン・トーマスは、1933年中東生まれ、英国育ち。スエズ動乱から天安門事件まで海外特派員として活躍した後、ノンフィクション作家に専念する。本書を公刊するまでに37の著書があり、『さすらいの航海』は映画化されてアカデミー賞5部門にノミネートされた。

 本書は、イスラエルの諜報機関、モサドことハ・モサド・レ・テウム(「調整の機関」を意味する)に関するレポートである。1951年の創設からダイアナ妃の事故死まで、主な作戦あるいは事件がしばしば新事実をもとに綴られる。
 規模は小さいが、大国の諜報組織を凌駕するほどの力を発揮してきたモサドに新たな照明があてられた。

 取材の範囲は広い。
 「主な取材協力者」だけでも、2人のモサド元長官をはじめとする21名。このほか、本文にたびたび名があげられている元機関員たち、モサドと敵対したPLOの戦闘員やバチカンの協力者などとのインタビューの録音テープは、合わせて80時間に及ぶよし。

 古くは、アイヒマンの逮捕やエンテベ空港人質救出作戦などの世界を感嘆させた作戦、ちかくは惨めな失敗に終わった作戦、たとえば近く1997年、ハマスのリーダーであるハーリド・メルシャン暗殺未遂事件が記される。
 これらは今ではわりとひろく知られた事どもだが、本書で初めて明らかにされた事実もある。

 たとえば、第14章(メイドが運んだ爆弾)。1986年、ヨルダン生まれのパレスチナ人ネザル・ヒンダウィは、妊娠中の愛人に爆弾をもたせてエルアル航空に乗り込ませようとした。ロンドン空港に限らないが、イスラエルへ向かう者の検査は厳しい。爆弾は発見され、首謀者は逮捕され、関与を疑われたシリア大使館は閉鎖された。
 イスラエルの厳重な保安体制の賛歌として引かれる例である。
 ところが、本書によれば、これには裏があり、モサドがシリアの影響力を弱めるべく画策した陰謀なのであった。

 かにかくに、かって闇の中に埋もれていた歴史的事実が、市民の目にふれるようになった。歴代のモサド長官の実名がすべて、初めて本書で公開された点からしても、時勢の変化を感じとることができる。
 それは、本書公刊当時のパレスチナにおける和平への動きを反映していたのかもしれない。

 本書をもとに、その後5年間にテレビで6本の2時間ドラマが制作されることになっていた。また、12本のドキュメンタリーも制作されることに。
 実現したのであれば、隠蔽されていた国家活動が市民によって検証されることになったはずだ。

□ゴードン・トーマス(東江一紀訳)『憂国のスパイ -イスラエル諜報機関モサド-』(光文社、1999)


書評:『兵役を拒否した日本人』

2016年04月17日 | ノンフィクション
 ドストエフスキーの一登場人物はいった、「イエスが現代に甦ったならば、今の教会から異端と宣告されるであろう」と。
 原点に立つ宗教者は、現実と対峙する。制度化され、社会体制に組みこまれた宗教組織とも鋭く対決する。

 戦前、無教会主義キリスト教の一派、ワッチ・タワーの初代日本支部長をつとめた明石順三も現代に甦ったイエスの一人であった。
 明石は1889年生、18歳で渡米した。ロサンゼルスやサンフランシスコで邦人向け新聞の記者として働くうちにワッチタワーの運動にふれ、入信。帰国して灯台社を設立し、1926年から精力的に伝道した。最初は神戸に拠り、ついで本拠を東京へ移した。

 記者の経歴からもわかるように、明石は広い社会的視野の持ち主であった。その伝道は、既成宗教団体の腐敗を批判するだけでなく、ファシズム批判や戦争批判におよんだ。
 当然ながら当局ににらまれ、1933年に最初の弾圧を受けた(大本教弾圧に先立つ)。
 明石は屈せず、2年後に再建する。当時、組織的に戦時下抵抗をおこなっていた共産党は壊滅状態にあり、まさにその名のとおり、灯台社の活動は暗夜の灯であった。

 折しも徴兵された社員の3名が兵役を拒否する。
 銃器を返還したときの上司の反応は、周章狼狽、動転、畏怖であった。
 事態を重視した当局は、1939年、第二次弾圧に踏みきる。支部長の明石から奉仕員の少女まで130余名の社員を連行して、数年間にわたる拷問、暴行、迫害のかぎりをつくした。
 弾圧は朝鮮や台湾(高砂族)の信者にもおよび、とりあつかいは苛酷であった。
 その結果、明石の妻をはじめとする多くの社員が獄死、病死、発狂する。

 兵役を拒否した村本一生は、獄中手記で、中国侵略の不当性を衝き、日本の敗戦を予言した。村本は生きのびて、戦後、栃木県の鹿沼に居を定めた。
 明石も生きながらえて敗戦をむかえ、村本と合流した。戦後、新たに手にしたワッチ・タワーの文献をむさぼるように読んだが、失望する。
 明石は、米国の総本部へ7か条にわたる長文の批判書を送った。米国のワッチ・タワーが国旗を掲げたのは信仰への裏切りではないか、戦争に協力したのは単に組織拡大に窮々としただけではないか、云々。
 そこには、教義に忠実に非戦を貫いた自信があふれている。
 総本部は応えず、除名の処置をもって対処した。思想の正邪を問わず、組織による物理的的排除をおこなったのである。

 ワッチタワーとの関係を断たれてからは、明石は伝道に従事していない。
 晩年、執筆に没頭したが、その立場は戦前から変化していない。村本一生も静かに市井に生き、あえて戦時下抵抗を誇ることはなかった。

□稲垣真美『兵役を拒否した日本人 -灯台社の戦時下抵抗-』(岩波新書、1972)
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【小林照幸】続・宝飾品を大衆化した男 ~新しい事業モデルの開発~

2016年03月25日 | ノンフィクション
 (4)大久保利春の経営哲学。
 『宝石と男』を著した小林照幸はいう。生前にぜひとも一度お目にかかりたかった・・・・。それだけの魅力をもつ経営者だったらしい。
 進取の気象は、商品の陳列にも見られる。

 1962年、東京都立川市の中武デパート(現・フロム中武)に立川店を出店した。チェーンストアの第一歩である。
 時計や宝飾品を陳列するには、箱型のガラスショーケースがいる。サイズはさまざま、型も長方形があれば正方形もある。壁に沿う格好で置いたり、門のように置いて店舗の入り口を確保することになるが、それだけで40坪が収まるわけではない。店舗の中にもガラスショーケースを配置する。
 大久保は、客はどう歩いて店内を見てくれるか、をあれこれと思案した。そして、まず何よりも肝心なことは客の安全だ、と気づいた。大久保が気になったのは、店内の真ん中に置くことになるガラスショーケースだった。四隅は鋭利だ。当たると痛い。もし人が倒れて体をぶつけでもしたら大怪我につながりかねない。とすれば、四隅を削ればよいが、安全性は確保できても、そのガラスショーケースに腕時計や宝飾品を入れて、客が鑑賞するように見てくれるだろうか。
 こう考えたあげく、楕円形のガラスショーケースを業者に発注した。普通のガラスショーケースの倍に近い費用がかかった。立川の店舗に置くと、空間的にやや手狭に感じられた。一回り、二回り小さくすればよいか、と思えなくもない。平行する直線のある程度の長さがないと、楕円形ならば見た目にも優れたものとは言いにくい。楕円形のショーケースを見てからほかの商品を見る、ということからも、注目度を大久保は確認できた。客の目で見て、大久保はハタと気づいた。ショーケースの中の商品が回転していたら楽しいだろう。動きがあれば、人はより注目するはず。
 ここで、次のアイデアが浮かんできた。ガラスショーケースを円型にしたら、おしゃれではあるまいか。楕円形のショーケースでは、「客動線」が鈍るような気がする。中の商品を1分間に1回転させるよう伝導で動くようにすれば、いけるんじゃないか。
 客の安全確保の試行錯誤から、円型ガラスショーケースのアイデアが生まれた。
 制作費は、普通の従来のガラスショーケースの3倍ではきかない。蛍光灯も通常の直線の蛍光灯というわけにはいかない。曲線の蛍光灯を特別注文で発注した。円型ショーケースの中の電動仕掛けも業者とあれこれ相談した。
 円型ショーケースは新鮮で、訪れる人の目をひいた。指環や金製品は蛍光灯の光をあびて、キラキラッと輝く。歓声をあげる客も少なくなかった。
 大久保が考案した円型ガラスショーケースもオープンフロア形式も、業界では当然のように模倣された。大久保は、真似てもらうのはむしろ光栄だ、と受けとめた。

 (5)広告も奇抜にして大胆。
 1964年12月に横浜に出店を開く前、10月1日から横浜駅西口に乗り入れるバス200台、各私鉄に広告した。
  <宝石・時計のお買い物は
   12月までストップ
   日本一を目指す オオクボ ダイヤモンド地下街進出>
 そして、<全商品5割引きセール! ただし、抽選により・・・・>。
 効果はてきめんだった。「ストップの店」の名は、またたくまに広まった。
 開店すると、オパールの原石を研磨する工程の実演に、商店街を歩く人は歩みをとめて見入った。世界の宝石を展示し、客が実際に指にはめてみる、首にかけてみる、という試みには、口コミもあって、連日多数の人が押しよせた。
 東京オリンピック開催中は、朝日新聞社の協力を得て毎朝、店のショーウィンドウに速報版を掲示した。連日黒山のひとだかりができた。
 ところで、先の広告は、じつは大久保夫人佐代子のアイデアだった。
 「女房に惚れ、地域に惚れ、商売に惚れろ」
 大久保の哲学、人生訓である。なによりも身近な細君の理解、協力がなければ商人としてやっていけない。細君が語ることにも耳を傾け、よいと判断したことは商売に反映させた。

 (6)大久保は、十代にして、すでに陋習を断ち切る意思と進取の気象に富んでいたらしい。
 丁稚奉公時代の自戒は(1)に記した。自分が嫌だと思う仕事は、やらせられる者にも嫌なはずだ、自分が経営者になったときには、従業員には絶対にこんなことはさせたくない・・・・。
 これは、1930年前後において、農村出身者としては珍しい反応だ。きだ みのるは『にっぽん』で変則的な報復主義 loi de talion を指摘している。食糧飢饉のひどい年にジャガイモを盗まれた農民が、「盗んだ奴は誰か解らねえが、おらでねえことは確かだ。そしておれ以外の者であることも確かだ。そんならおれ以外の者の畑から盗み返してやるべえ。そうしねえじゃあ腹の虫が納まらねえや」。
 あるいは、「今日自転車で山に仕事に行ってよ、日暮れし方に山を降りていざ帰るべえと思ったら、自転車の空気がぬけてるじゃねえか。よく調べてみたら誰か鎌でタイヤをひっかけチューブまで切ったんだわ。さあ口惜しくって頭がカッカとして法はねえのよ。自転車をひきひき戻る途中でよ、道に置いてあった誰かの自転車のタイヤを見ると口惜しまぎれに鎌でひっかけ空気のぬける音を聞いたらすうっと気分がおさまったよ」。
 もっとも、きだの引く事例と大久保の場合とは、若干異なる。きだの場合、犯人が解らないので他人即ち社会に対して報復するのだ。「これは『口惜しさ』をしずめ、ゆがめられた感情の平衡を取りもどすため普通に行われる的方法のように見える」と、きだは解説する。大久保の場合、「犯人」は主人に特定されていた。
 しかし、「犯人」が特定される場合でも悪しき連鎖は起きる。旧日本軍では、上官にビンタをはられた二等兵は、後に階級が上がると部下にビンタをふるった。戦後も、企業のなかで上司の無理難題に耐えた若者が、出世の階段をのぼるにつれて部下に無理難題を平然と押しつけた。

 (7)こうした大久保だから、早くから社員教育に取り組んだのも首肯できる。
 1964年、社員70人規模の会社としては、当時異例の「教育課」を設置した(後に「教育人事課」となる)。社員教育を徹底的に体系化しようとしたのだ。
 時々刻々変化する商品の傾向を把握し、先を読み、さらには客の思考をつかんでいくことも社員教育に含まれる。
 必要なときにすぐ役立つものではない。継続し、常に“これでいいのか?”と問いながらやっていく。何年先に答が出るかわからない試みを社内に取り入れた。
 社員教育は、内定者から始めた。高卒社員は九州を主体に採用したのだが、これは素直で真面目、という印象が大久保にあったからだ。夏休みの頃に、鹿児島県を中心に各地で現地説明会と採用試験を開催した。仕事内容を説明し、これはと見こんだ者に内定をだす。翌春の上京までに本社教育課から「入社前通信教育」をおこなうのだ。これは、家族にとっても、子どもたちが将来務める会社のことを知るよすがになる。入社後は、各店舗で先輩がマンツーマンでコーチした。かくて、定着率は100%という珍しい数値が実現した。
 新しい社員教育の方法も開発した。どんな客が来て応対できるように、ロールプレイイング形式で学ぶのだ。5人前後でチームをつくり、長所を指摘する係、欠点を指摘する係を一人ずつ置いて、残り3人が店員、客の役割をはたす。文句をいうわがままな客の役も大切で、どう応対できたか、などを採点し、考える。当時では珍しい試みで、NHK教育テレビや民放のテレビ番組で紹介された。
 肩書きのない若い職員たちで「経営研究会」を発足させることも行った。彼らの希望やしかるべき方策について遠慮なく意見をだしてもらい、経営に反映させるのだ。併せて、「持ち株」も導入した。

□小林照幸『宝石と男 -商業史発掘ノンフィクション-』(商業界、2005)
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 【参考】
【小林照幸】宝飾品を大衆化した男、大久保利春 ~一代で百以上の店舗を実現~


【小林照幸】宝飾品を大衆化した男、大久保利春 ~一代で百以上の店舗を実現~

2016年03月25日 | ノンフィクション
 (1)小林照幸『宝石と男 -商業史発掘ノンフィクション-』は、3つの観点から読むことができる。
  (a)宝飾品専門小売店チェーン「株式会社ベリテ」の創業者、大久保利春の伝記。
  (b)「株式会社ベリテ」の社史。
  (c)大久保利春の経営哲学。

 (2)大久保利春伝。
 大久保利春は、1914年生、2003年没。
 生家は、横浜市郊外の現・横浜市都筑区中川の農家である。土地持ちで、当時としては比較的裕福な家庭だった。ただ、身体虚弱で、後の徴兵検査では丙種合格となるほどだから、父親は米屋を利春の進路として考えた。
 9歳のとき、関東大震災にあう。生家は、奇跡的にも大きな被害をまぬがれた。
 14歳のとき、「亀ケ谷時計店」(東京・港区)で丁稚奉公を始めた。時計修理の技術を学ぶのは充実感があったが、主人が同業者に貸した金の利息取り立てを命じられて、気持ちがすさんだ。苦しい経営に利息が払えない者がいて、同情してしまう。かといって、利息を受け取らないで帰れば、主人から怒鳴りつけられる。貰うまでは待ちます、と相手の店の前で座りこむだが、頭を下げて主人から金を借りた当初の負い目は忘れて愚痴や嫌みを言い放つ者もいる。・・・・自分が嫌だと思う仕事は、やらせられる者にも嫌なはずだ、自分が経営者になったときには、従業員には絶対にこんなことはさせたくない、と大久保は自戒した。
 1936年、22歳のとき、品川区二葉町に「大久保時計店」を構えた。親から学資代わりの独立資金をもらった。3,000円・・・・土地と店舗を楽に購入できる金額だった。間口は2間(約3.6メートル)、奥行が5間(約9メートル)、店の面積は10数坪だった。
 戦中、戦後の混乱期は端折ろう。
 1948年、戦火をまぬがれた店は5男の弟に譲り(利春は8人兄弟の3男だった)、品川区武蔵小山に「株式会社 大久保時計店」を開店した。社長夫妻のほか社員は3人だった。前年、武蔵小山駅前周辺に商店街、住宅街の復興計画がある、という噂を耳にしたのが、この地に進出する動機となった。
 朝鮮戦争による経済回復も追い風となって、店の売上げは順調に伸びた。
 大久保は、「武蔵小山商店街振興組合」(組合員約160人)の理事兼宣伝部長として、商店街の近代化に奔走した。1951年から、商店街の500メートルをアスファルト舗装し、街灯やネオンを設置した(組合員拠出)。さらに、「横の百貨店」たる商店街をめざしてアーケード建設部長となり、1961年に500メートルの都内初のアーケード完成に導く。1955年には経営する店を改装し、このころ宝飾品を取扱い始めるとともに、女子社員を初採用した。
 ・・・・以下は割愛するが、次の(3)からおおよそを察っすることができる。

 (3)「株式会社ベリテ」社史。
 以下、「ベリテ」のホームページを参考に主な事項を年表としてまとめる。

 1936年 「大久保時計店」開店
 1948年 「株式会社大久保時計店」(法人化)
 1962年 中武デパート(現・フロム中武、東京都立川市)に立川店を出店(チェーンストアの第一歩)
 1965年 「株式会社オオクボ」(商号変更)
 1967年 目黒ステーションビル(現・アトレ目黒、東京都目黒区)に目黒店を出店(宝飾品専門店の第一号店舗、駅ビル出店開始)
 1971年 阪急ファイブ(大阪市北区梅田)に大阪店を出店(近畿へ進出)
 1975年 ダイエー仙台店(仙台市)に仙台店を出店(東北へ出店)
 1978年 札幌駅地下街(札幌市中央区)に札幌店を出店(北海道へ進出)
 1984年 店舗数50店舗突破
 1989年 ソラリアプラザ(福岡市天神)に福岡店を出店(九州へ進出)
 1990年 店舗数100店舗突破。
 1991年 「株式会社ジュエル ベリテ オオクボ」(商号変更)
 1991年 東京証券取引所市場第二部へ上場
 1993年 徳島店(徳島市)を出店(四国へ進出)
 1997年 新ブランドショップ「ラ・ベリテ」の店舗展開を開始
 2001年 取手市の取手ボックスヒルへインストアとして宝飾工房1号店を設置
 2005年 「株式会社ベリテ」(商号変更)

 (続く)

□小林照幸『宝石と男 -商業史発掘ノンフィクション-』(商業界、2005)
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【佐藤優】モクスワ大学講義ノート(基本方針) ~独自の時代区分~

2016年03月19日 | ノンフィクション
 1.世界史における20世紀は暦とは一致していない。第一次世界大戦の勃発した1914年に始まり、ソ連が崩壊した1991年に終わっている。
 2.第一次世界大戦の勃発により、啓蒙主義も自由主義神学もすべて基盤を失ってしまった。
 3.神学上の20世紀は、カール・バルトの『ローマ書講解』第二版が刊行された1922年に始まる。
 4.神学は常に時代を先取りする。第一次世界大戦後、1910年代末から1930年代半ばまでに、カール・バルト、ヨセフ・ルクル・フロマートカ、エミール・ブルンナー、パウル・ティリッヒ、フリードリヒ・ゴーガルテン、ディートリヒ・ボーンヘッファーなど、弁証法神学とその周辺にいたプロテスタント神学者が提起した問題と、それに対する基本的回答は、20世紀の思想界が抱える問題を全て先取りしている。
 5.カール・バルトの神学については、「近代の完成」「近代の超克」いずれの形でも読解が可能である。私としては、「近代の完成」という読み方をする。

   *

 プロテスタント神学が佐藤に課された講座であった。それにしても、ずいぶん風変わりな時代区分ではある。風変わりではあるが、佐藤神学の体系の一片鱗をかいま見ることはできる。
 佐藤にならって、暦とは別の20世紀・・・・あるいは21世紀を自分なりに定義するのは、決して無駄な作業ではない。

□佐藤優『甦る怪物(リヴィアタン) 私のマルクス ロシア篇』(文藝春秋、2009)
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【政治】選挙に勝利するためのテクニック ~『政治家やめます。』~

2016年02月26日 | ノンフィクション


(1)写真(pp.59-60)
 2年以内に行われる総選挙に向かって、早くも準備が始まった【注1】。まず、背広での写真撮影である。ポスター用はもちろんだが、名刺向けの写真だった。
 吊り下げで売っている背広を三着ほど買い込み、名古屋市の写真スタジオで撮影することになった。撮影に臨むにあたり、忠治がメガネに関してアドバイスしていた。
「いいか、ポスターを撮影するときは、レンズの入っていないフレームのものも用意するんだ。日頃使うメガネと同じフレームのものを、だ。レンズの入ったままのメガネで撮影するとな、顔の輪郭がレンズによって不自然に切れてしまう。わかるだろ? 記念撮影ならば、それも仕方ないが、多くの人に顔を覚えてもらう選挙ポスターでは、顔がアップになるだけに、その点も配慮しなければならない。メガネを掛けている政治家にとって、これは常識だぞ」

 【注1】1988年。

(2)名刺(pp.69-70、p.76)
 名刺を配るのも仕事、人に頭を下げるのも仕事、と度胸をつけるために動く統一郎の姿に、忠治はもちろん忠治の秘書、ブレーンらもあれこれ指示を出す。最初の2万枚はあっという間にはけ、そんなことを繰り返しているうちに、
「この名刺、もう3枚もらったよ。5枚ためたら、何かもらえる?」
「午前中に、半田市でもらったよ。また、くれるの?」
 と質問されることもあった。
 新たに写真入りの名刺を4種類、新調した。「今こそ道を」「日本の開発はまず道路から」「決断 今こそ道路を」「物の豊かさよりも心の豊かさを」と写真もそれぞれ変え、衆議院の解散までに10万枚配ることを目標にした。1日平均で300枚、約1年間名刺を配り続けることになる。

 11月3日【注2】にはこの日だけで2,405枚を配った。1日における最高記録だった。

 【注2】1988年。

(3)自民党の「虎の巻」(pp.65-66)
 2年以内には行われる総選挙の準備を自民党が進めてゆく中、統一郎の元に「虎の巻」が届けられた【注3】。正確には忠治の事務所に届けられたものだが、「自由民主党選挙対策委員会」が編纂する、文庫本より一回り大きいソフトカバーで250ページほどの「衆議院選挙実戦の手引」だった。参議院版も年ごとに発刊されている。
 現役の代議士に10冊送られてくるもので、第1章には「立候補決意から選挙まで」、第2章には「選挙のための実務準備」から第9章に「投票当日の注意」、第11章は「選挙運動における主な禁止事項」とあり、すべて「です・ます」調で解説していた。選挙違反事項の法律解説、電話の掛け方の事例、職業によって掛ける時間帯を考慮することなど、まさしく当代随一の選挙指南本といえた。
「これを候補者だけでなく、選挙に携わるアルバイトなどにも読ませるように」
 という党本部の意向であり、10冊以上必要な場合は1冊500円で頒布していた。 

 【注3】1988年。

(4)私家版「虎の巻」(pp.67-68)
 忠治が残した選挙の虎の巻がある。住宅地図だ。改訂版が出るたびに購入する選挙区の住宅地図に、「忠政会」に入会している者の家には赤鉛筆で○がしてある。南知多町に所用があれば南知多町の住宅地図を、武豊町に行くのならば武豊町の住宅地図を持参して、支持者の自宅に参上して、挨拶し、ポスターを手渡して「なにとぞ、よろしくお願いします」と依頼するのは常識だった。

(5)個別訪問(p.45)
 14回の当選を果たしているものの【注4】、終戦後、2回の出馬は涙を飲んだ。3回目となった選挙で初当選を飾ってから13回連続で当選を果たしたが、連続14回はならず、落選も経験した。革新の社会党に食われたのだ。75歳を超え、誰もが「引退か」と思いもしたが、忠治は歩行に困難をきたしている右足でも軽自動車を自ら運転し、右足を引きずって、知多半島を一軒一軒訪ねる地道な努力で、14回目の当選を果たした。

 【注4】主語は久野忠治。

(6)ネクタイ(pp.73-74)
 統一郎を神輿に乗せ、神輿を担ぐ陣営としては、リクルート事件も竹下も関係はないが、一般有権者にとってイメージ的に竹下派はよくない。総理総裁【注5】という援軍を得た丹羽陣営に対して、久野陣営は選挙区で名刺を配って顔を覚えてもらい、ミニ集会を活発に開く地道な作戦で勝負することにした。
 統一郎の意識には海部に対する対抗心めいたものもあった。その意識がネクタイに現れていた。海部は水玉模様のネクタイをトレードマークにしている。統一郎は、水玉模様のネクタイは一切使わず、斜めのストライプのものしか身につけなくなっていた。道路公団勤務のときは、ネクタイを締めるにしても地味めだったが、立候補を決意してからは派手めとなった。

 【注5】海部俊樹。引用した一節は、1989年8~9月日頃のことと推定される。

(8)記念撮影(p.74)
 自民党本部の幹事長室を統一郎は訪ね、幹事長の小沢【注6】に面会し、握手で記念撮影をした。この記念撮影は選挙区の支持者へのピーアールでもあり、「当選後はよろしくご指導をお願い致します」という儀礼的な意味もあった【注7】。

 【注6】小沢一郎。
 【注7】1989年9月14日より少し前のことと推定される。

(9)ミニ集会(p.75)
 巨人が日本シリーズで近鉄相手に3連敗から4連勝した10月【注8】には、田中角栄、福田赳夫、鈴木善幸といった首相経験者が引退を表明し、ひとつの時代に区切りが訪れた。これで「三角大福中」は中曽根が残ったが、その中曽根はリクルート事件で落選を恐れ、首相経験者ながらも群馬3区の選挙区を地道に歩き回り、戸別訪問、ミニ集会を開催し「三人寄れば中曽根が来る」とまで揶揄された。

 【注8】1989年。

(10)ポスター(p.80)
 当落に関係することではないといっても、公示当日の午前中に選挙区内のすべての掲示板に貼れるかどうか、は組織力を把握する目安として、マスコミはもちろん、他陣営も注目している。貼れなければ泡沫候補扱いにされかねないのである【注9】。

 【注9】第39回総選挙は、1990年2月3日届け出、2月5日公示。選挙運動は15日間である。

(11)選挙カー(p.86)
「おい、見ただろ! 61歳になる草川昭三先生が、雨の中を、窓から身を乗り出して手を振っておるんだぞ!」
「52歳になるお前が恥ずかしがっていてどうするんだ! 士気に影響する!」
『自民党公認 くの統一郎』と似顔絵の看板が屋根に付けられ、車体にはルビ入りで「久野統括一郎」と入った選挙カーに乗って初の「お願い」から戻るや、ブレーンたちに食ってかかられた。統一郎と同年齢ぐらいの者らが主だが、みな忠治の応援を手伝ってきて、選挙運動はベテランの域に達している。いくら統一郎が初出馬といっても、物足りなさを遠慮なく口にした。

(12)電柱(p.94)
 そんな中、統一郎は犬や猫と動くもの、さらには電柱が視界に入ると「人だっ!」と反射的に頭を下げるようになった。正確に言えば、この現象は選挙カーの助手席から身を乗り出して応援をしているときに感じるものではない。自民党の愛知県連が所有する、後部座席が屋根のないオープン式となっている演説用の特別仕様車に乗ったときに起こる現象であった。助手席に座れば視界が180度以内だが、このオープンカーに立つと、視界は左右の背後、地表も含めて180度以上に広く感じる。車はゆっくり動いていても、オープンカーは高さもあるだけに、統一郎は動くものが視界に入ると、「人がいるっ!」と咄嗟に頭を下げるが、「なんだ、犬か」「猫じゃないか」と何度も思い知らされた。人の姿も途切れ、一休みだな、と思う間もなく、視界に人が入ったと思い、慌てて頭を下げると、それは電柱だったということも多分にあった。

(13)演説会(pp.90-91)
 演説会でも容赦なく、ブレーンは注意する。
「どうして、会場の真ん中の花道を通らないんだ! 笑顔で歩きながら、両脇の人に握手しながら、演壇に向かうためなんだぞ!」
「どうして、両脇に行ってしまうんだ! 真ん中だぞ! 真ん中を歩け!」
 統一郎はハイ、と頭を垂れて、会場の真ん中を歩くが、ぎごちなさはどうしても抜けない。

(14)挨拶(p.89)
 挨拶文をバッチリ記憶したと思ったとき、バス旅行に行く遺族会の出発前に、バスの中で見送りの挨拶をすることになった。いざ、バスの中に入るや、気温の差で統一郎のメガネが曇った。メガネの曇りで人が見えなくとも、暗記した通り言うことができると思った途端、統一郎はすっかり挨拶文を忘れていた。それからというものは、場の雰囲気をつかみながら、あまりカッコイイことを言おうとするのはやめた。

□小林照幸『政治家やめます。 ~ある国会議員の十年間~』(角川文庫、2010)の「「第1章 初出馬」
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【政治】における義理、政治家に向く性格・向かない性格 ~『政治家やめます。』~

2016年02月26日 | ノンフィクション


 (1)「政治の世界もな、義理と人情で成り立っているんだ」
 忠治はこう言ったことがある。政局、時局が混乱を呈しながらも、党利党略、派閥の論理が優先される政治にあるこの言葉。義理と人情を重んじなければ、生きてゆけぬのが永田町という世界だった。

 (2)(1)は、『政治家やめます。』の序章に出てくる久野忠治の観察だ。
 義理とは何か。
 万国共通に「おれも遣るからおまえも寄こせ(Do ut des)」だと、きだ みのるは整理する(『にっぽん』、岩波新書、1967)。
 ここから「聞く義理はない」のごとき表現が生まれる。

 (3)ところで、(1)の引用に続き、小林照幸は次のように書く。
 「だが、それを貫き通すのには必然、統一郎は『いい人』にならなければいけないことを肌身を持って知った。統一郎の選挙区である知多半島の愛知8区、旧愛知2区で行われた市長選や県議会議員選挙の地方選でも、強く思い知らされた。自分を納得させて、偽る姿が必要だった」

 (4)自分を偽るとは、どういうことか。
 自衛隊は軍隊であり、違憲だ、と統一郎は考えていた。しかし、ガイドラインに反対の立場を持っていたとしても、自民党や派閥が成立に向けて動いている以上、反対の余地はなかった。そこまではまだいい。だが、自民党は自民・自由の連立に加えて公明党を抱きこんだ。1999年4月27日、3党の賛成多数でガイドライン関連法案は衆議院特別委員会で可決された。
 統一郎は「冗談じゃないよ」とつぶやいた。これまでボロクソに両党が言いあってきて、泥仕合をした仲だ。社会党と組む以上の禁じ手じゃないか。
 「『四月会』での活動、選挙区では公明党、創価学会を叩き、時にはコケにもしてきた。それが、こういう形にあるとは・・・・」

 (5)自民党の公明党抱きこみを見て、統一郎は思い出した。かつて県議会選挙で一議席に二人の自民党候補を立てるのは変だ、と解決策を求めたところ、「自民党とはそういうところなんだッ!」と一喝されたのだ。
 「政権を維持するためには何でもやる『何でもアリ』。それが自民党という、他の政党にはない強烈な個性だった。その個性があったからこそ、55年体制の単独政権もなし得たのであり、その個性がないから55年体制下で野党は野党だったわけだ。/統一郎は、3期9年となった代議士生活で55年体制の崩壊を見た。また、野党も『何でもアリ』となった。それを素直に受け取れる自民党の政治家も多いのだろうが、統一郎は、半田市長選の一件もあり、とても受け入れられなくなっていた。/(自分は政治家に向いていない。向いていないから政治家はもうやめよう。引退だ。疲れた・・・・)/永田町の出来事がいよいよ決意を固くしたのだ」

 (6)政治家に向かない性格・・・・。
 小林照幸は、久野統一郎のきちょうめんさにも、政治家に向かない性格を見てとる。 
 <統一郎は金の管理を自分で行うことにした。リクルート事件などで、献金には疑わしい視線が注がれるだけに、秘書任せは安心できなかった。(中略)この時点で既に統一郎は大物議員になる素養がなかったことになる。リクルート事件見られたように、大物議員は金の管理は自分では行わない。「秘書が」「妻が」と言ったように、万一のときに自らに危害が及ばないように、あらかじめ予防線を張っているのである。統一郎自ら管理するということは、根が真面目な統一郎の姿が反映されていたともいえる>

 (7)贅言ながら、自民党から国政をになう政治家として立つには、統一郎と逆の性格を持てばよい。いや、これは独り自民党に限った話ではあるまい。
 君子、危うきに近寄らず。金銭管理は細君か秘書に一任する。検察の質問には、知らぬ存ぜぬを通す。
 党や派閥が政敵と野合しても気にしない。むしろ、党や派閥が勢力を拡大すれば、結果として自分がのし上がる好機と見る。昨日の敵は今日の友、明日にはまた敵になるかもしれないが、明日は明日の風が吹く。
 そして、県会議員選挙において、それぞれ義理のある複数の候補が立った時、旗幟を鮮明にせず、いずれにも愛想をふりまくのだ。

□小林照幸『政治家やめます。 ~ある国会議員の十年間~』(角川文庫、2010)
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【政治】自民党代議士への有権者のタカり方・カネのむしり方

2016年02月26日 | ノンフィクション


 (1)「よろしくお願いますと言うんなら、メシぐらい食わせろ」
「お茶も飲ませんで、1票入れろ、はないだろう?」
「選挙事務所では飲み食いが自由なんだろ? 俺たちも招け。弁当ぐらいはあるだろ?」
 などと統一郎【注】の耳元に、こんな言葉が入るのだ。「1票ほしいなら、何かよこせ」「何かもらって当然」と見返りを求める構図。統一郎は政治不信の根源を見た気がしたのである。
 こんなこともあった。選挙事務所に戻ってきたポスター張りのボランティアの一団に「ご苦労様」の意から、おにぎりとお茶を出す。このとき、おにぎりを手にした一人が、「この中に入っているの?」と統一郎に冗談交じりとも取れるし、取れない口調で言う。
 「おにぎりの中に1万円札は入っているのか?」の意味である。
 だが、迷う統一郎に、14回の当選キャリアのある忠治【注】が、明快な言葉で慰留した。
「候補者は落選してもいいがな、生活を賭けた人は生きていけなくなるんだぞ。だから、皆、熱くなるんだ。わかるかな? 陣営にはそんな弱気を少しでも漏らしてみろ、結束にヒビが入っても、もう、まとめている時間なんてないんだぞ。マスコミに言ったら、大変なことになるからな」

 【引用者注】久野統一郎は二世議員。忠治はその父親。統一郎の初出馬における父子問答である。

 (2)飲み食いの炊き出しは、選挙を一緒に戦ってくれる支持者の慰労の役割も果たしているわけで、自民党選挙の典型例といえた。中曽根康弘、福田赳夫の両首相が立っていた旧群馬三区では、中曽根レストランと福田食堂がうまさを競った、という話があるほど、選挙期間中は支持者や1票をいれようか、という人を選挙事務所あるいは借りた場所で、飲み食いさせて選挙戦を競ってゆく。

 (3)こんなことがあって、カラオケ大会には、練習してから“本番”に臨んだのだった。
 こうした行事には1万円や5千円など、規模によって金額に差は出るものの、金を置いていかなければならない。1日に多ければ20件近くに熨斗袋を置いてゆく。
 しかし、統一郎のこの気配りも、忠治を知る者にとってはまだ不満のようだった。忠治はこうした催しには差し入れも怠らなかったからだ。
 圧巻だったのは、酒入りのオリジナルの5合徳利である。徳利の表に市川崑の筆による似顔絵と焼酎を引っ掛けた『久野チュー』と書かれている。優に1万本以上は作り、「忠政会」総会や国政報告会など各種催しで配布し、贈呈した。そのたびに「忠政会」の青年部長である栃尾や内田は、酒の入った徳利を何箱も運搬した。その他にも、ボールペン、鉛筆はもちろんのこと、揮毫を印刷した手拭い、団扇、扇子、タオル、ペナント、灰皿、カレンダー、手火鉢、傘など「久野チュー」の名前入りの忠治関連グッズが多数作られ、支持者らに配布されていった。
 昭和30年代、選挙前には、知多市に一門別の大相撲の巡業を招き、歌手の市丸を招いて公演を開催したり、といずれも入場無料で市民を集めて土俵上、舞台から忠治が挨拶した。
 自らの代議士生活20周年のときには、シングルレコードもつくった。

 (4)統一郎が代議士を引退した頃から、「久野統一郎君 ご苦労さん会」をやろう、との声が持ち上がり、琵琶湖畔への日帰りのバス旅行が企画されたのだった。企画を知らされたとき、統一郎は、
(あんな勝手なやめ方をしたけど、友達とは本当にありがたいものだ。ご招待してくれるんだな)
 と嬉しく思ったが、これは統一郎の勝手な思い込みだった。統一郎から感謝の旨を伝えられた世話役は、
「何をとぼけたことを言ってるんだ。勘違いするな。お前がお世話になった俺達に“ご苦労様でした”と言う会だぞ。選挙で俺達、いろいろと手伝ったんだからな、全額とは言わないが、みんなの旅費のある程度の負担はしろよ」
 と言ってきた。勝手にやめた手前、こう言われては返す言葉もない。

 (5)(1)~(4)は『政治家やめます。』からの引用だが、本書は選挙運動の収支も記す。
 統一郎の初出馬では、自民党から公認料および政治活動資金が各500万円支給された。このほか、陣中見舞いや寄付を合わせて合計2,671万円の収入があった。支出の合計は1,265万円余だった。支出のうち最多は人件費で、649万円余。ついで印刷費245万円余。食料費は43万円余だった。
 ちなみに、2回目は収入3,070万円、支出2,009万円余だった。

 (6)代議士となった統一郎の年収は、1,500万円前後だった。
 私設秘書は、交際費をふくめて一人当たり1千万円を要する。選挙区の事務所の維持費は、年間6千万円を要した。東京もふくめると1億円だ。

 (7)父親の後援会「忠政会」は、個人は1万円、法人は10万円の後援会費を募ることで維持してきたが、仮に千人の後援会員がいても、それだけでは機能しない。企業からの献金などがなくては、とても維持できない。「そして、金をもらったら、金をくれた人の意にはもう反せなくなる」
 統一郎の後援会「統友会」も同様に組織された。さらに、統一郎が議員に転職するまで勤めていた日本道路公団は後援会「道統会」、母校の早稲田大学の理工学部土木工学科の同窓生は「稲門会」をそれぞれ組織した。これらの後援会費、献金を足しても年間5千万円、6千万円にはならないこともある。「そんなとき、面倒を見るのは後援の企業と派閥の領袖たちである」
 派閥から、盆には「氷代」、暮には「餅代」が、それぞれ百万円の札束何本か代議士に渡される。年間約1千万円。この金が、選挙区での活動資金になる。統一郎は、父親の教えに従い、選挙区の有力者に分配した。

 (8)後援会の会費だけでは、政治活動資金としては苦しい、あと年間2千万円はほしい・・・・。
 そう統一郎がブレーンと相談した結果、パーティを開催することになった。
 パーティ券は1枚2万円。選挙区で金を集めるわけにはいかないから、東京で開く。パーティ券は一人当たり20万円を超えると、選挙管理委員会に収支報告しなければならない。大手企業や支援団体も心得ていて、買うのは20万円までだ。派閥の幹部は、まとめて50枚、100枚と買ってくれる。
 普段「世話になっている」中小企業や代議士には、「ご招待券」と刻印した券を送る。代議士仲間は、パーティ券と同額を「お祝い」の袋に入れて来場する。中小企業は、最低でも5万円、10万円は包んでくる。
 統一郎の初のパーティでは、4千万円が集まる見とおしとなった。

 (9)細かいことだが、自民党の勉強会こと部会では朝食が出る(秘書には出ない)。ご飯、みそ汁、生卵、野菜の煮付け、シラス干し、お茶が定番だ。
 野党は朝食を出さない。「与党と野党の違いは、そこだよ」と先輩議員。
 ・・・・ただし、野党となったとき自民党が朝食を提供したか否かは定かではない。

□小林照幸『政治家やめます。 ~ある国会議員の十年間~』(角川文庫、2010)
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【小林照幸】殺されてゆくペットたち ~動物を愛する者の非情~

2016年02月01日 | ノンフィクション
 (1)ペットが殺されてゆく。
 飼い主に捨てられたペットが、殺されてゆく。
 2004年度には、全国で39万匹余が殺処分された。
 バブル期には、年間60万匹をが殺処分された。

 (2)日本では、少なくとも1,700万匹の犬猫が飼育されているらしい。ペット業界が1兆円産業に成長したのは、飼う人が多くなったからだ。ペットをしてコンパニオンアニマル(伴侶動物)と呼んだりもする。
 かたや、捨てられる犬猫も増えている。
 飽きたから捨てる・・・・オモチャ感覚なのだ。ラブラドール・レトリーバー、ハスキー、ダルメシアンなどブームになった犬が、チワワといった新たなブームの犬が出現すると捨てられる傾向が日本では強い。
 あるいは3月、人事異動の季節には、公的機関に持ちこまれる猫の数が他の月よりもぐんと増える。犬も同様だ。異動した息子夫婦から飼育を頼まれたものの、大型犬なので杖で歩行する老夫婦には飼えない。そこで公的機関に相談するのだが、殺処分と聞いて絶句する・・・・ものの、やはり「引き取り」となったりする。

 (3)『ドリームボックス』は、ある県の動物愛護センター(以下「センター」と略する)に勤める獣医師、主任技師にして狂犬病予防員・動物愛護管理員の日高史朗にスポットライトをあて、その7日間を追跡する。
 わずか1週間の間に、住民の身勝手、無責任がわんさと、霰のようにセンター職員に襲いかかる。
 たとえば、「抑留犬日報」に飼い犬らしきを見つけてセンターを訪れた若い男女。首尾よく見つけた。犬も飼い主に再会して喜び、尻尾をふる。日高もホッとして心の中でつぶやく。これで生き延びることができたね。
 ところが、突然、二人は注文をつけるのだ。あの雑種はいいから、こっちのダルメシアンをちょうだい・・・・。

 (4)吠えてうるさいからゴルフクラブのアイアンで叩いたら足の骨が折れた、安楽死させてくれ・・・・。
 春休みに10日間、ヨーロッパに旅行するから預かれ、県の施設だからタダで泊めろ・・・・。
 散歩に連れていく時間がなくて放し飼いにしていたら、センターが勝手に連れて行き、勝手に殺した・・・・。
 なかには、ひとたび遺棄したものの、思い返して返還を求める者もいる。ただし、電話で話すのは子どもなのだ。母親らしきが、子どもの背後から指示している・・・・。

 (5)ある日、日高は、路上に飛び出したところを車にはねられた大型犬を現場で公用車に積みこんだ。体重が50キロ近くあるロットワイラーである。首輪はなかった。飼育に困った飼い主が遺棄したのだ。
 カナダやオーストラリア、ドイツの一部の都市では、飼い犬にICチップの装着を義務づける。飼い主に最後まで面倒をみる責任を果たさせるべく、飼い主の住所・氏名のデータを記録いたICチップを専用の注射器で背中の皮膚の下に埋めこむのだ。

 (6)動物の愛護及び管理に関する法律(動物愛護管理法)は、病気、老衰、飼い主がもう飼えない等による「引き取り」を定める。
 狂犬病予防法は、飼い主に捨てられた犬、首輪が外された徘徊犬、いわゆる野良犬などの「捕獲・保護」を定める。
 「引き取り」「捕獲・保護」された犬猫の多くは、保健所を経由してセンターに運びこまれる。
 「引き取り」は、翌日に殺処分だ。他方、「捕獲・保護」は5日間公示し、飼い主に返還する機会を与える。

 (7)センターは、三棟の建物から構成されている。
 研究棟・・・・会議室、事務室、休息室、更衣室、検査室、手術室。
 管理棟・・・・犬や猫を抑留し、管理する。成犬抑留室(1~5)、小型犬抑留室、猫抑留室、咬傷犬抑留室に分かれる。
 処分棟・・・・「ドリームボックス」と2基の大型焼却炉がある。
 それぞれが扉と廊下によって結ばれるが、管理棟と処分棟を結ぶステンレス製の床の廊下は「自動追い込み通路」と呼ばれている。抑留室から「自動追い込み通路」へ移動させられた犬猫は、動く壁に押されて追いこまれ、鉄製の箱に閉じこめられる。箱は「ドリームボックス」と呼ばれる。箱に炭酸ガスが注入されると、犬猫はたちまち意識不明になり、眠るがごとく死に至る(はずだ)。だから「ドリームボックス」と呼ばれる。
 殺処分は、かつては職員がバットで力任せに殴り殺していた。 
 センターは、毎年15,000匹の犬猫を殺処分している。不思議なことに、犬と猫の割合は3対2で毎年一定している。
 全国のすべての都道府県に、センターと同様の殺処分を行う施設が存在する。

 (8)焼却処分には、毎週900リットルの灯油が使用される。年間46,800リットル、灯油1リットル当たり73円とすると、年間342万円。
 資源の無駄遣い、税金の無駄遣いだ・・・・と日高は何度となく独り言つのだ。

 (9)焼却された犬と猫の骨は、毎日1袋分出る。
 家庭菜園が趣味のセンター所長は、自分の畑に肥料として撒いた。作物の生長のよさに近隣の農家が驚いた。どこのメーカーなのかと問われて説明したところ、当然ながら気味悪がられた。しかし、そこは年季の入った所長のこと。かくかくしかじかで骨になったのだ、肥料とするのが功徳なのだ、と先方を納得させてしまった。いまでは多くの近隣の農家がこの肥料を使用している。
 作物の成長がよいのは、処分された犬や猫の“もっと生きたい! ずっと生きたい”という願いが骨になっても残っているからだ。そう、この所長は言っているらしい。
 犬や猫の無念の死は、人間の無責任が原因である。

□小林照幸『ドリームボックス -殺されてゆくペットたち-』(毎日新聞社、2006)
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【本】旅がもたらす歓喜 ~『美しい夏の行方 -イタリア、シチリアの旅-』~

2016年01月21日 | ノンフィクション
 

 (1)夏が来れば思いだすのは、尾瀬の空だけではない。たとえば富士山頂の西日であり、隠岐の奇岩である。あるいはストックホルムの市庁舎であり、ネゲブ砂漠の朝日である。
 夏になると、旅への衝動が胸の奥から湧き起こる。著者・辻邦生も、こうした一人だったに違いない。

 (2)旅は詩や音楽と同様に魂を高揚させる機会だ、と著者はいう。だが、本書に、歓喜、幸福、魅惑、活力といった言葉がくりかえし出てくるのは、訪れた土地がイタリアのせいだ。
 生きる歓喜は、照りつける太陽から生まれる。テヴェレ河と同じく凶暴なその光に耐えられない者は、夏のローマを去るしかない。「だが、それに耐えられる者は、ローマは思わぬ歓喜を贈ってくれる」

 (3)歓喜は、海からも贈られる。
 日本の都会の多忙な生活の中で括弧に入れられていた肉体は、地中海にくると、ある確実な存在感となって復活し、「肉体は突然楽器のように幸福の歌を奏でだす」。
 さればこそ、地中海の港に生きる民は、お話にならないくらい貧乏だのに「今日暮せる以上のものは絶対に稼ごうとしない。<いま>という時のなかに、まるで象嵌されたように、はまりこみ、明日のことなど考えないのだ」

 (4)清貧の聖者、アッシジのフランチェスコも、地中海の民と同じ血筋をひく。「<何ももたない>というその最低の地点こそが、もっとも豊かな歓喜の場所だ」
 著者もまた旅においては、<いま>を生きる人となる。絵を見るために美術館に出かけたら、入館を待つ長蛇の列にたじたじとなった。しかし、すぐに目的を刻々の出来事を味わうという点に切り替えたのだ。ウフィッツィ宮殿の壁のダンテ像に不屈を読みとり、踏み減らされた石畳にベアトリーチェの足跡をしのびながら。
 旅の悦楽は、「見えないものを見る」(飯島耕一)想像力から生まれるところが大きいのかもしれない。
 イタリア、シチリアの旅では、その場その場の即興的印象に集中し、旅する喜びの中に自分を解きはなつことができた、とあとがきに記されている。

 (5)辻邦生は、もはや亡い。
 だが、彼がものした数々の作品は、これからも読者に生きる喜びを分かち与え続けるだろう。

□辻邦生(写真/堀本洋一)『美しい夏の行方 -イタリア、シチリアの旅-』(中公文庫、1999)
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【本】中野利子『外交官E・H・ノーマン その栄光と屈辱の日々1909-1957』

2016年01月20日 | ノンフィクション
 (1)日本で生まれ、日本で育った日本史家にしてカナダの外交官、E・ハーバート・ノーマンの評伝である。1990年刊の『H・ノーマン--あるデモクラットのたどった運命』全体の手直しに加えて、ノーマン復権を伝える終章が追加された。
 全体のなかば近くの紙数が、マッカーシズムによる圧迫とそれによるノーマンの反応、そしてノーマン評価の変遷に割かれている。

 (2)ノーマンは、ナセル大統領がスエズ運河国有化宣言を行った3週間後に、エジプト大使兼レバノン公使として赴任した。英仏そしてイスラエルの侵攻によるスエズ危機は、カナダの首長レスター・ピアソンが国連臨時総会で創設を提唱した国連緊急軍(UNEF)の派遣により沈静した。カナダは積極的中立を唱えて英国と距離をおき(ミドル・パワーの外交政策)、真っ先に自国の軍隊を派遣したのである。
 ピアソンはその功によって後にノーベル平和賞を受ける。現地でピアソンを支えたのがノーマンであった。

 (3)不眠不休の努力が実り、中東に平和が訪れたちょうどその時、米国でノーマンの告発がはじまった。
 激務がもたらしたストレスがいわれなき避難に対する抵抗力を奪った、というのが著者の解釈である。

 (4)自決に至る最後の20日間の叙述は、関係者の証言に基づいているだろうが、小説もどきの臨場感を現前させている。
 著者は、その父親、奔放な文体の持ち主の中野好夫に似ない淡々たる語り口でノーマンの生涯をたどっているが、晩年を記す段になると記述はにわかに生彩を帯びる。

 (5)それにしても、米国上院司法委員会治安小委員会(SISS)による事実歪曲のメカニスムは、読んでいて慄然とする。
 マッカーシーたちは、最初に結論を設定し、結論に導く証拠を探しだそうとしているのだ。
 共産党員であることが、それだけで罪であるかどうかという問題を脇においても、多くは冤罪だった。
 マッカーシー一派は、人心に漠然たる恐怖を植えつけることによって、事実をねじ曲げる操作を強化した。その結果、告発する側に権力をもたらし、告発される側に過大な重圧をもたらした。
 不当な重圧は、ナイーブな人間を生死の選択に追いやる。ある晴れた日にビルの屋上から身を躍らせたノーマンのように。

 (6)最大多数の幸福は、いっぽうでは多数の圧制となり、個人やマイノリティ・グループに対する不当な抑圧を生む。
 それは、今日の日本にも厳然として存在する事実である。

□中野利子『外交官E・H・ノーマン その栄光と屈辱の日々1909-1957』(新潮文庫、2001)
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【本】絶筆『「死への準備」日記』を補完~『よく死ぬことは、よく生きることだ』~

2016年01月20日 | ノンフィクション
 (1)絶筆『「死への準備」日記』を補完するエッセイほかを収録し、「死への準備」「人生最後の日々を過ごす場所-心豊かに死を迎えるには」「ガンと生きる」「三度目の再発」の4部で構成される。

 (2)ガンを病む気鋭のジャーナリストが自らの闘病体験を赤裸々に記す。と同時に、米国における進行性ガン患者、末期ガン患者を取材し、その生活と「今を生きる」態度を報告しつつ考察する。米国人はどのように死への準備を進めているか・・・・。感傷とは無縁の、硬質で歯切れよい文体はさわやかだ。

 (3)千葉敦子が乳ガンの手術を初めて受けたのは東京の病院においてだった。この時のガンは直径2センチ以下で、周りのリンパ節やわきの下のリンパ節への転移はなく、まず再発はありえないだろう、と主治医は予測した。しかし、無情にも2年半後、首のつけ根のリンパ節にガンが再発する。放射線によってガン細胞の増殖を抑え、小康を得た千葉敦子は、活動の根拠地をニューヨークへ移した。
 移住して早々、胸の内部リンパ節にガンが再々発した。非常に危険な状態であり、患部に放射線照射をしたあと、抗ガン剤を静脈から入れる化学療法を7か月間も受ける。
 異国で病と闘い続けるうちに、また米国の末期ガン患者の生活を知るにつけ、日本の末期ガン患者の扱いに疑問をもつ。たとえば米国では患者は「納得のいくまで医師に相談ができる」のだが、日本の場合は・・・・。

 (4)単行本は、1987年刊行。
 日本の終末期医療は四半世紀前の米国の域に達したか。医療における患者の人権は? 患者の主体性は?

□千葉敦子『よく死ぬことは、よく生きることだ』(文春文庫、1990)
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【言葉】名古屋弁訳『吾輩は猫である』

2016年01月19日 | ノンフィクション
<原文>
 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。・・・・

<名古屋弁訳>
 ワッシャァナモ ネェコダギャァモ。名マャアワ マンダ ナャアワャアモ。
 ドオコデ 生マレタヤラ テエンデ 見当ガ ツカンガャア。ナンダシラン 薄グラャアジトジトシタトコデ、ニャアニャアナャアトッタ事ダケワ オボョオトルガナモ。・・・・

□週刊朝日編『デキゴトロジー 愛のRED CARD』(朝日新聞文庫、1996)
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【本】特権にあぐらをかく人、かかない人 ~『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』~

2016年01月12日 | ノンフィクション
 (1)米原万里は、その父が雑誌『平和と社会主義の諸問題』編集局に勤務した関係で、1960年1月から1964年10月まで、約5年間、プラハのソビエト学校へ通った。
 十代のなかばに交流した同級生3人の思い出と、約30年後のそれぞれとの再会を綴ったのが本書である。
 ただし、単なる懐旧譚ではない。

 (2)「嘘つきアーニャ」は、ルーマニアのチャウシェスク政権の側近にして各国の大使を歴任した父をもち、裕福で、そのくせ政府御用達のおおげさな革命的言辞をてらいもなく口にする少女だった。
 たとえば、ロシア語でタワーリシチに相当するソードルフ(同志)を連発した。属国同然の衛星国にされてしまったチェコスロバキアの民はソードルフの呼称を喜ばない。にも拘わらず、アーニャはこの用語に固執した。
 後年、アーニャの奇妙なふるまいの背景を著者は知る。アーニャ一家はユダヤ人、つまり被差別民族なのであった。

 (3)アーニャの言辞と実生活の矛盾を幼い著者は感じつつも、人のよい彼女のため口にしない。
 やがてアーニャが病的な嘘つきであることを同級生たちは知る。
 アーニャが嘘をつくときに誠実そうにまっすぐ相手の目を見つめる性癖も周知の事実となった。どうしようもない嘘つきであることを含めて、アーニャは同級生たちに愛された。優しくて友だちを大事にする人だったからだ。

 (4)チャウシェスク政権崩壊(1989年)後、著者はルーマニアを訪れる機会を得た。
 アーニャの父はしぶとく特権階級に居座りつづけ、裕福な生活を維持していた。
 しかし、その兄は両親の偽善を嫌悪して、一介の物理学研究員として質素な生活を送っていた。
 くだんのアーニャは、両親(にかぎらずルーマニアの特権階級の教育方針だったが)の画策が功を奏して海外で学び、英国人と結婚してロンドンの旅行雑誌社に就職していた。

 (5)国際電話で久闊を叙し、プラハで再会したアーニャは、「常にその時々の体制に適応しようと全身全霊で打ち込んで」きた少女時代そのままだった。「常に勝ち組にい続けるための過剰適応という名の習性」。
 母校をともに訪れたとき、アーニャは平然とうそぶく。かつては黒白で割りきっていたが、現実は灰色だ。国境なんて21世紀にはなくなる。私の中でルーマニアは10%も占めていない・・・・。
 著者はショックを受けて、問う。
 「ルーマニアの人々の惨状に心が痛まないの?」
 痛むにきまっている。アフリカにもアジアにも南米にももっと酷いところはたくさんある、というのが彼女の返事であった。
 ルーマニアはあなたの育った国ではないか、と追求すると、そういう狭い民族主義が世界を不幸にするもとなのだ、とアーニャはかわすのであった。「丸い栗色の瞳をさらに大きく見開いて真っ直ぐ私の目を見つめるアーニャは、誠実そのものという風情だった」

 (6)旧友の30年後も変わらぬ性癖をとおして、特権にあぐらをかく人間の「真っ赤な真実」が赤裸々に示される。
 しかし、著者の旧友は嘘つきアーニャばかりではない。ギリシア系移民の子リッツァは、プラハの春に続くワルシャワ機構軍のチェコ侵入に反対したため、石もて追われるごとく(西)ドイツへ移住した。あるいはベオグラード出身のヤスミンカ。彼女に再会したとき、その父はボスニア選出最後の大統領として多民族間紛争の十字路サラエボに敢えてとどまり、明日をも知れない日を送っていた。
 そして、異国へ逃れた人々の「右であれ左であれ、わが祖国」(ジョージ・オーウェル)の思い。著者は多くの亡命音楽家や舞踊家に通訳者として接し、彼らが涙ながらにもらす望郷を耳にする。
 「西側に来て一番辛かったこと、ああこれだけはロシアのほうが優れていると切実に思ったことがあるの。それはね、才能に対する考え方の違い。西側では才能は個人の持ち物なのよ。ロシアでは皆の宝なのに。だからこちらでは才能ある者を妬み引きずり下ろそうとする人が多すぎる。ロシアでは、才能がある者は、無条件に愛され、皆が支えてくれたのに」
 これは、西側に属する日本に対する批評でもある。

 (7)「人生相見ず、ややもすれば参と商のごとし」と杜甫のいうように、知友と会う機会はめったにないが、会えば常に喜ばしい、というわけではない。
 本書は、アーニャを主軸とする3人の旧友を通して、東欧のここ四半世紀の激変をひと筆書きするとともに、時の政治を利用する人、逆に抵抗する人を描きだす。しなやかで切れ味鋭く、感傷とはさらさら縁のない文章は、かえって読者をして憂愁に引きずりこむ。

□米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川書店、2001)
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