語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【旅】ゴッホ展/空白のパリを追う ~学際的アプローチ~

2013年05月02日 | □旅
(1)展覧会 「ゴッホ展 空白のパリを追う」

(2)会場 京都市美術館

(3)会期 2013年4月2日(火)~5月19日(日)

(4)入場料 当日:一般 1,400円

(5)主催者あいさつ ~「ゴッホ展 空白のパリを追う」の特長~【注1】
 ファン・ゴッホ美術館の研究チームは、7年間をかけて多くの新発見に基づく新しい解釈や制作年代を提案した。
 パリ時代(1886-1888)、ファン・ゴッホが画家として大きく変貌を遂げた、しかし、この時期はファン・ゴッホの人生の中でも最も謎に包まれていた。弟テオと共に生活していたため、ゴッホ研究の大きな手がかりである書簡がほとんど残されていないからだ。ファン・ゴッホ美術館の研究チームは、長年ゴッホの自画像と見られていた絵が実は弟テオの肖像【写真①】であることを突き止め、二人の強い絆が証明された(世界的ニュースになった)。また、パリ滞在を境に躍進を遂げたファン・ゴッホがさまざまな造形的実験を重ねていたことも明らかにした。
 本展が届ける「ファン・ゴッホとパリ」の謎解きは、世界的なファン・ゴッホ研究に大きく寄与するのみならず、多数の美術ファンの好奇心を刺激する。
 本展の展示作品は、数点の特別出品を除き、ファン・ゴッホ美術館所蔵作品で構成されている。ファン・ゴッホを描いた肖像画1点を除き、すべてゴッホ作品(51点)である。ゴッホの自画像が多数公開され、出品作品のうち36点は日本初公開である。

    【写真①】

(6)ファン・ゴッホ美術館長あいさつ【注2】
 本展(長崎・京都・宮城・広島)では、ファン・ゴッホ美術館所蔵作品のうち、画家のパリ時代の絵画に焦点をあて、その美術史的な画材・技法に係る研究結果を発表する。
 ここ数十年、美術史家、保存修復家、科学者間の協力体制はますます重要になっている。ファン・ゴッホ美術館では、もはやこうした学際的協力体制は特別なものではない。

(7)みどころ
 (a)「ファン・ゴッホについて」・・・・ゴッホのライフ・ヒストリーをパリ時代以前、パリ時代、パリ時代以後に分けて記すとともに、彼の人物と作品の特徴を一筆書きで記す。
 (b)「みどころ・展覧会内容」・・・・展覧会の構成と注目してよいところ。

(8)学際的アプローチ
 「ゴッホ展」で提示された絵画の学際的研究の一例として、ゴッホが使用した色の研究をとりあげよう。「ゴッホ展」で最も印象深かった一つで、色の劣化、つまり絵画作品にも老化があることを教えている。
 ゴッホは、大胆で鮮やかな色づかいが高く評価されることが多いが、経済的理由から、あるいはその色の魅力に屈する形で品質の劣る顔料を使わざるをえなかった。不安定なことで評判の悪かったクロムイエロー(黄鉛)、シトロンイエロー(亜鉛黄)、コチニールレーキ(カーマイン)、レッドウッドレーキ(ブラジリンを使った赤色レーキ)、鉛丹、プルシアンブルーといった色の数々をゴッホは使用した。書簡の文面には使用する絵具の耐久性に対する懸念が伺える。
 こうした態度は、不安定な色の使用を断固拒否し、安定した代わりの色を求めたジョルジュ・スーラ、クロード・モネ、オーギュスト・ルノワールのような同時代の画家たちの妥協のない姿勢とは対照的だ。
 耐久性の乏しい赤色レーキの使用により、劣化の痛手をこうむっている作品の一つが「自画像」(1987年)だ【写真②】。この作品には著しい退色が認められる。ゴッホは、錫で媒染したコチニールにいくらか青をまzせた透明な紫の下塗りをほどこした。元は深く濃い赤色をしていたコチニールは、今ではほとんど見ることができない。結果として、この絵具層は無色透明に近い状態になってしまった。青だけは残されたが、これは単に軽く下塗りしたカルトンに薄く色をつけるにとどまっている。額縁の下に残る少し暗い褐色がかった紫が、上塗り層の元の色合いを示唆するが、この褐色がかった色合いもまた退色の結果だ。
 顔と上着にも有機顔料の赤が使われているが、この色はかなりよく残されている。この部分に使われている独特の明るく鮮やかなオレンジを紫外線光のもとで調べると、錫で媒染したコチニールよりも退色が遅いコップス・プルプリン(アカネの根からとった抽出物)が使用されていることが明らかになった。
 品質の悪い画材が画面に重大な劣化を引き起こし、その結果ゴッホが意図した鮮やかな色彩のコントラストを弱め、今日の作品解釈に影響を与えている。【注3】

   【写真②】

 「ヤマウズラの飛び立つ麦畑」(1887年)【写真③】は、以前は葦原を描いたもの、と考えられていた。しかし、前景に描かれた草花によって、それが誤りであることが明らかになった。ケシ、ヤグルマソウ、カミツレは、どれも耕地でよく見られる花々だ。風で左へなびいて揺れる植物が小麦であることは、短い円筒形に描かれた穂を見ればわかる。前景に描かれた刈り取られた畑は、ちょうど収穫が始まったことを示す。
 テオの未亡人ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルは、飛び立つ小鳥はヒバリである、と考えた。ヒバリは、当時も今もロマン派にとって自然体験のこの上ない象徴だ。
 しかし、この小鳥はヒバリではない。大きさ、黒い頭部から、もっと大きいヤマウズラであることがわかる。ヤマウズラは、地表近くを飛んで餌である草花の種を探す。(ゴッホ展では、ロッテルダムの自然史博物館所蔵の鳥の剥製も展示する。)
 近年、空高く、画面中央の上端近くに描かれたもう1羽の鳥の存在が指摘された。これこそヒバリではないかもしれないが、あまりにも小さくて特定できない。
 ヤマウズラは、鑑賞者あるいは刈る人に驚いて飛び立ったらしい。これは騙し絵の手法(トロンプ・ルイユ)の効果を高めると同時に、ほとんど遠近感のない風景に奥行きを与えている。
 作品の構図は、水平方向に3つの部分(空・小麦畑・前景の刈り取られた畑)に分けられる。ゴッホは、まず極めて単純な風景の骨格を決めるために、グラファイトを用いてパースペクティヴ・フレームで示された線をたどることから始めたらしい。これらは赤外線反射写真でも確認できるのは勿論、ところどころ肉眼でも見ることができる。フレームの大きさは、およそ46×60cmで、キャンパスの中央に置かれた。ゴッホは、フレームのワイヤーが交差する位置、つまり伝統的な遠近法でいう消失点にあたるところのちょうど上に、左上空へはばたくヤマウズラを描いたのだ。
 ゴッホがパリ時代に制作した作品の中で、明らかに田園風景を主題としたものは、この1点だけだ。この作品は、彼がオランダ時代の終わり頃にいくつか描いた揺れる小麦畑に似ている。しかし、刈る人や麦束が描かれていない点で異なる。ゴッホは、この時はまだパリで大きな人物像を納得できるように描くことができないでいた。【注4】

   【写真③】

 【注1】MBS/財団ハタステフティング(ルイ・ファン・ティルボルフ監修/有川幾夫・日本側監修/尾畑眞人ら・訳)『ゴッホ展』(株式会社DNPアートコミュニケーションズ、2013.4)の主催者「ごあいさつ」・・・・なお、この図版はファン・ゴッホ美術館所蔵のアントワープとパリ時代の絵画について詳細に書かれた文献の要約(ただし、脚注および学術的参考文献は割愛)
 【注2】前掲書のアクセル・リューガー館長「ごあいさつ」
 【注3】前掲書の第2章のうち「What colour was this?-どんな色だったのか?」
 【注4】前掲書の第2章のうち「What is flying there?-飛んでいる鳥は?」

 【参考】
【旅】ジュディ・オングの版画 ~日本家屋または京都の再発見~
【旅】美の響演 関西コレクションズ
【旅】松江 ~須田国太郎を追って~
【旅】エル・グレコから宮永愛子まで
【旅】復興を絵画で表現できるか ~平町公の試み~
【旅】彫刻の街 ~鑑賞者の存在意義・考~
【旅】島根県立美術館 ~震災復興支援特別企画 ふらんす物語~
【言葉】手のなかの空/奈良原一高 1954-2004
【旅】オーストリア ~グラーツ~
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】ジュディ・オングの版画 ~日本家屋または京都の再発見~

2013年04月29日 | □旅
(1)会場
 倉吉博物館(鳥取県倉吉市仲ノ町3445-8)

(2)会期
 2013年4月13日(土)~5月12日(日)

(3)入場料
 当日:一般 700円

(4)「ジュディ・オング倩玉 木版画の世界展」

(5)「ジュディ・オング倩玉 木版画の世界展」の楽しみ方
 歌手・俳優のジュディ・オングは、「ジュディ・オング倩玉」の雅号をもつ版画家でもある。日本版画院展に何度か入選しているほか、日展に13回入選、特選1回の画歴がある。
 ジュディ・オング倩玉作品の2大テーマは、花と日本家屋だ。
 花は母親の影響らしい。母親が花をこよなく愛したからだ、と述懐している。幼少の頃からたくさんの花々を観てきたが、<ある時、花にも“美人”がいることに気づきました>【注1】。この発見が、後に自ら創る人になる基盤となった。
 日本家屋への関心は、建築家である兄の影響が底にあるらしい。そして、日本家屋に対する関心が目覚めたのは22歳のとき撮影のため京都へ赴いてからだ。個性をもった家々を見てまわるうちに、「べた掘れ」してしまった。<世界の何処を歩いていても山は山、川は川、空は空、人は人で皆なんとなく似ているところがあります。でもその土地とちが生んだ古来からの建物だけは違うんですね。もちろん文化の流れで似たような形の物を観ることはありますが、全く同じという事はきわめて稀です。日本家屋というのは、大和民族が日本の気候風土、食文化、生活文化のすべてに適応する、無駄を全て削ぎ落とした、美しい最高傑作だと私は信じています。魔除けの鬼瓦、夏涼しく冬暖かい茅葺屋根、格子窓、障子、襖、縁側、雨に強い甍屋根、どれも本当に美しいものです。またその合理さには目を見張るものがあります。例えば、襖障子が閉まっていれば小部屋になり、全部開け放てば大広間になる。そして、そのコンパクトな造りにも驚かされます。例えば、(中略)入口横に畳み込まれた縁側のような椅子、これも生活から生まれたのでしょう>【注2】
 花にも“美人”があることを発見した版画家の目は、現代日本人の大多数が自覚せず、あるいは忘れ去ってしまった日本家屋の美、そして合理的機能を再発見している。
 日本家屋との出会いが京都であったからか、倩玉は京都の日本家屋をたくさん描いている。これは逆にいえば、「ジュディ・オング倩玉 木版画の世界展」は、版画の日本家屋を介した京都案内としても観ることができる。

  「昼下り」(1977年)・・・・茅葺屋根と縁側
  「夏天涼風」(1978年)・・・・古い民家と庭
  「揚屋」(1985年)・・・・揚屋「角屋」
  「芳香春暖」(1996年)・・・・揚屋「角屋」の「扇の間」
  「雨過苔清」(1999年)・・・・左京区下河原町の数寄屋づくり「清流亭」の客間【写真 上】
  「小庭雅緑」(2000年)・・・・「清流亭」の玄関から入って左手にある小さな部屋
  「山門迎福」(2002年)・・・・伏見の長建寺
  「京華春翠」(2003年)・・・・茶店の表玄関と前庭
  「祗園白川」(2004年)・・・・祗園白川の散歩道【写真 中】
  「銀閣瑞雪」(2006年)・・・・雪の銀閣寺
  「秋訪」(2007年)・・・・大徳寺
  「涼庭忘夏」(2008年)・・・・南禅寺付近の湯豆腐屋「順正」の玄関口【写真 下】
  「蓮池飛石」(2009年)・・・・平安神宮の池
  「廊橋浅秋」(2010年)・・・・東本願寺の別廊、渉成園枳殻邸の「回棹廊」
  「銀閣後庭」(2012年)・・・・銀閣寺

 【注1】ジュディ・オング倩玉『倩玉的世界木版画集』(株式会社ヒーモリ、2013)
 【注2】前掲書

   

   

   

 【参考】
【旅】美の響演 関西コレクションズ
【旅】松江 ~須田国太郎を追って~
【旅】エル・グレコから宮永愛子まで
【旅】復興を絵画で表現できるか ~平町公の試み~
【旅】彫刻の街 ~鑑賞者の存在意義・考~
【旅】島根県立美術館 ~震災復興支援特別企画 ふらんす物語~
【言葉】手のなかの空/奈良原一高 1954-2004
【旅】オーストリア ~グラーツ~
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】美の響演 関西コレクションズ

2013年04月28日 | □旅
(1)会場
 国立国際美術館(大阪市北区中之島4-2-55)

(2)会期
 2013年4月6日(土)~7月15日(月・祝)

(3)入場料
 当日:一般 1,200円

(4)展覧会「美の響演 関西コレクションズ」
 関西が誇る6つの国公立美術館(大阪市立近代美術館建設準備室、京都国立近代美術館、滋賀県立近代美術館、兵庫県立美術館、和歌山県立近代美術館、国立国際美術館)が所蔵する20世紀以降の欧米美術コレクションを一堂に集めた展覧会。
 別々の館が所蔵する同じ作家の作品を並べて鑑賞することもできる。詩情あふれるボックス・アートで知られるコーネルの作品は、滋賀、大阪市、国立国際の3館から5点。大きなカンバスを数色で塗り分けた作品が特徴のロスコの作品は、大阪市、滋賀、和歌山、国立国際の4館から傑作4点。
 出品作品は、主に20世紀以降の美術作品。セザンヌ、ピカソ、マティス、ブランクーシから、ロスコ、ルイス、ウォーホルらのアメリカ美術、そして現在活躍するリヒターやタイマンスらの絵画、シャーマンやシュトゥルートらの写真にいたるまで約80点。「近代絵画の父」ポール・セザンヌの「宴の準備」から始まり、多様化する現代美術に至る120年間の美術の流れが味わえるよう工夫された展示の仕方だ。
 ジュンリアン・オビー「イブニング・ドレスの女」(2005年)なぞ、液晶パネルの女性の眉、目、口元がわずかずつ変化するに伴って表情が千変万化する魅惑的な作品だ。
 こうした前衛的な現代美術の中にあって、「作品に主題を復権させた」キーファーの「星空」((5)-(d))は興味深かった。

(5)注目した作品
  (a)ヴァシリー・カンディンスキー「《絵の中の絵」 (1929年)

  

  (b)トム・ウェッセルマン「シースケープ #8」(1966年)

  

  (c)ジャン=ミシェル・バスキア「無題」(1984年)

  

  (d)アンゼルム・キーファー「星空」(1995年)

  

 【参考】
【旅】松江 ~須田国太郎を追って~
【旅】エル・グレコから宮永愛子まで
【旅】復興を絵画で表現できるか ~平町公の試み~
【旅】彫刻の街 ~鑑賞者の存在意義・考~
【旅】島根県立美術館 ~震災復興支援特別企画 ふらんす物語~
【言葉】手のなかの空/奈良原一高 1954-2004
【旅】オーストリア ~グラーツ~

     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】松江 ~須田国太郎を追って~

2013年04月02日 | □旅
 4月1日は「須田国太郎展」の会期の最終日。滑り込みで鑑賞。
 須田国太郎は、山陰と縁が浅からぬ画家だ。1928年の山陰旅行に始まり、1930年代の半ばから鳥取、島根、山口にしばしば足を向けた。この展覧会でも鳥取県の田後港や島根県隠岐の風景がが展示されていた。1950年に京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)教授に就任したが、1951年に鳥取大学で油彩画の集中講義を行っている。
 1950年から2年間続いた山陰旅行は、<須田が暗い色彩からの脱皮をはかろうとした後半の画業の分岐点にも相当する。>【左近充直美「山陰の風景 -「隠国」の世界観-」(『「須田国太郎展 没後50年に顧みる現代絵画のいま」図録』、2012)】

 ところで視覚芸術は、例えばアルタミラ洞窟壁画の素朴な線描画から、
  例えば、ゴッホの絵画、
  例えば、ドーミエの漫画、
  例えば、キャパの写真、
  例えば、ヴェンダース監督の映画
 ・・・・を経て、3次元コンピュータグラフィックス(3DCG)に至る長大な歴史をもつ。
 その視覚芸術の冒険のなかで、例えば須田国太郎「犬」(1950年)は何処に位置づけられるか。
 いや、須田国太郎に限らず、「これは」と思う作品に出会うたびに、そう思う。
 視覚芸術に接する体験、その体験を重ねていくとは、アルタミラ洞窟壁画から3DCGまでの歴史を振り返ることでもあるだろう。振り返るといっても、自分が知る(または知らない)歴史をホンの一部埋めていく作業でしかないけれども。

(1)島根県立美術館
 島根県松江市袖師町1-5

(2)企画展
 「須田国太郎展 没後50年に顧みる現代絵画のいま

(3)企画展の会期
 2013年2月15日(金)~4月1日(月)

(4)企画展の観覧料(コレクション展は別途)
 当日:一般 1,000円

(5)注目した作品
 (a)鷲(1943年)

  

 (b)校倉(乙)(1943年)

  

 (c)犬(1950年)

  

 (d)断崖と魚夫達(1951年)

  

 (e)鵜(1952年)

  

 (f)窪八幡(1955年)

  

(6)展覧会評 【坂下芳樹「須田国太郎展 神秘的色彩に宿る強い生命感」】
 須田国太郎(1891~1961年)は、日本の近代洋画家としては特異な経歴を持つ。学者として日本独自の油絵を追求し(美術史研究)ながら画家として絵を描いた。初めて個展を開いたのは41歳(遅咲き)。
 京都の町中で生まれ育った須田は、京都帝国大学で美学美術史を専攻。それとともに京都の関西美術院で絵画を学んだ。
 同大大学院を中退後、渡欧。選んだ留学先は、当時芸術の最先端で多くの画学生が向かったパリではなく、スペインだった。マドリードはプラド美術館の充実したルネサンス期ヴェネツィア派コレクションが目当てだった。
 古画を美術館で模写して西洋画の神髄に触れる一方、須田はスペインの風景を精力的に取材。強い西日に照らされたスペインの山並み、その色を反映したあかね色は、須田の描く風景に独自の色彩として定着した。
 新たな作風の模索を続ける須田は、戦後、動物などを描いた作品で新境地を見せた。須田の作品で最も親しまれるものの一つ「犬」((5)-(c))は、遠くに家々が立ち並ぶ前に、黒々と大きく犬を描いた。前景に黒いシルエットで配置された動物が、後景を引き立たせる。絵の表面は削ったりひっかいたりされ、複雑なマチエールを見せる。重厚で神秘的な色彩の中に強い生命感を宿した須田の表現の、一つの到達点だ。
 須田はあらゆる関係の書物を読み、周到に準備して制作を始めても、大胆に描き直しすることが多々あったらしい。
 絵の具を塗り重ねた暗い色調の中に、画家としてまた研究者として、絵と格闘した精神の軌跡がうかがえる。

 【参考】
【旅】エル・グレコから宮永愛子まで
【旅】復興を絵画で表現できるか ~平町公の試み~
【旅】彫刻の街 ~鑑賞者の存在意義・考~
【旅】島根県立美術館 ~震災復興支援特別企画 ふらんす物語~
【言葉】手のなかの空/奈良原一高 1954-2004
【旅】オーストリア ~グラーツ~
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】エル・グレコから宮永愛子まで

2012年12月21日 | □旅
(1)国立国際美術館
 大阪市北区中之島4-2-55

(2)展覧会
 (a)「エル・グレコ」展 ⇒ 作品リスト
 (b)宮永愛子「なかそら ~空中空~」展
 (c)国立国際美術館コレクション

(3)特別企画展の会期
 (a)2012年9月29日(土)~2013年1月6日(日)
 (b)、(c)2012年10月13日(土)~12月24日(月)

(3)観覧料
 (a)当日:一般 1,500円
 (b)+(c)当日:一般 420円

(4)エル・グレコ
 ドメニコス・テオトコプーロス、通称エル・グレコは、1541年、ヴェネツィア共和国支配下のクレタ島の首都イラクリオンに生まれ、1614年、フェリペ2世治下のスペインはトレドに没っした。
 エル・グレコが描くところの人物は、自分の存在を他人に押しつけていない。「この人物は他人を傷つけないだろう」と感じさせられる。例えば、その目。対抗したり、他人のあら探しをする目ではない。この世から少し距離を置くまなざしだ。
 写真は、「聖家族と聖アンナ」(1595年頃、油彩・画布)。

   

(5)宮永愛子
 1974年京都市・生/第22回五島記念文化賞美術新人賞受賞の2011年から米国・在住。

   

 (a)主催者による「なかそら ~空中空~」展の紹介(要旨)
 宮永作品は時間と共に変化していく。<例>2003年発表の「靴」を題材とした作品で用いられているナフタリンは常温で昇華するため、最初の形が保たれない。その作品は「シンデレラ」と名づけられた【注1】。童話「シンデレラ」の作中で自ら崩れゆくガラスの靴を直喩すると同時に、戻ることのない時間の非情な流れを象徴的に示した【注2】。
 作品「シンデレラ」の次の段階では、窯から出た焼物が長期間きれぎれに奏でる微かな音(貫入)をテーマとした作品を試みた。事物の形姿が変化する様が聴覚を通して認識される体験を、美術作品という枠組で普遍化しようとした。
 変化し続ける自分の作品を念頭に、宮永は「なかそら」という言葉を紡ぎ出した。古語「なかぞら」は、どっちつかずで心が落ち着かない状態を意味する。宮永の「なかそら」もそれに近似して、未だに揺らぎがあることを示す言葉だ。おそらく、万物は全て変化し続けながら存在している、ということを象徴する宮永の作品は、全て「なかそら」の状態にあるのかもしれない。

 【注1】「展示作品」の7。
 【注2】<ナフタリンで象られた靴は一瞬だけ固有の時を留め、結晶を結びはじめるでしょう。>と宮永自身は語る(リーフレット「beginning of the landscapes MIYANAGA Aiko」、ミヅマアートギャラリー)。

 (b)浅田彰(京都造形芸術大学大学院長)「エル・グレコから宮永愛子まで」(要旨)
 「なかそら ~空中空~」展では、白いナフタリンでかたどられた日常のオブジェが儚く消滅していく。
 宮永作品は淡雪のように儚く消えていくところがいかにも「日本的」であり「女性的」だと言われる。確かにそういう繊細な美しさをもつ。他方、モノが消滅していくのではなく、形を変えて存在し続ける過程を厳密に観察しようとするものでもある。
 ①展覧会に入口近くに置かれた細長い透明なケース(15m前後)には、奥に行くにつれ、ナフタリンの結晶が霜のように析出している。最初につくられたオブジェが順々に消滅していく・・・・のではなく、ケースに貼りついた結晶に形を変えて存在し続けていくのだ。モノは消滅することなく、ただ変化し続ける。そのようなヴィジョンのきわめて明確な表現だ(そこでの強調点は、エントロピーの不可逆的増大よりも、「空中空」が示唆する可逆性と質量の保存にある)。











 ②次に進むと、今度は天井と床を垂直に結ぶ透明パイプの中に糸でつくられた梯子が吊られてある。そこにもまたナフタリンの結晶が少しずつまとわりついていく。生成変化する物質=エネルギーの循環が世界を網の目のように貫いていることのメタファーと言えようか。
 ③さらにその次に置かれているのは、椅子をまるごとナフタリンでかたどってアクリルの中に封じ込めた大作だ。少しずつアクリルを固めていった過程が積層として読み取れる(途中で混入した泡もあえてそのまま残してある)。ここでもまた、テーマはモノではなくコト・・・・生成変化の過程なのだ。椅子の脚の下にある小さなシールに注目すれば、その点がいっそうはっきり見て取れる。小さな空気穴を封じたそのシールを剥がすとき、作品は呼吸を始め、椅子型のナフタリンは長い時間をかけて揮発していくだろう。消滅ではなく別の形での存在に向かって。「waiting for awakening」と題するこの作品は、まさにそのような覚醒(消滅の開始ではない)の時をじっと待っているのだ。
 ④その次の展示室(蝶の森)は、邪魔な柱が気にならないよう、あえて柱や梯子の林立する森のように構成され、そこここに蝶をナフタリンでかたどったオブジェがはめこまれている【注3】。空間構成への強い意志は買うが、いささか煩雑な印象を禁じ得ない。



 ⑤しかし、④のおかげで④を抜けたところにある吹き抜けの空間がいっそう広やかに感じられる。そこには、無数の金木犀の葉から葉脈だけを残したものをつなぎあわせた織物が、光を透かして静かに輝いているのだ【注4】。東北大震災の年にこつこつとつくられたこの織物は、その年のミズマアートギャラリーでの展覧会で見る者の目を奪ったのだが、いまや2倍にも3倍にも及ぶスケールに成長して観客を圧倒する。といっても、量感によって息詰まる印象を与えるのではなく、風通しのいい透明感によって自由な呼吸を促すのだ。
 宮永愛子には、「あいちトリエンナーレ2010」で多くの観客を魅了した「結」【注5】のように、糸や綱を水に浸して塩を析出させる作品もあり、大阪でもかつてアートコートギャラリーで展示された「境 大川 2008」はギャラリ―の前を流れる川の汽水域に浸した糸を空間いっぱいに張り渡したダイナミズムが印象的だった。対して、今回はあくまで金木犀の織物を主役とし、やはり美術館の近くの堂島川の水20リットルに浸した糸が脇にさりげなく添えられている。余白を大きくとることで、観客がゆっくりと呼吸できるようにしている。見事な展示だ。

 【注3】「展示作品」の5。
 【注4】「展示作品」の1~3。
 【注5】<インスタレーション「結(ゆい)」は、名古屋市街に流れる堀川から着想しました。堀川は400年前、名古屋城築城と同時に造られた輸送路としての運河です。木曽の山奥から檜が、木曽川を下り、海-川を上がりお城へやってきた道。森に生まれた木々が送った景色はどんなものだったのでしょう。>と宮永自身は語る(リーフレット「beginning of the landscapes MIYANAGA Aiko」、ミヅマアートギャラリー)。
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】復興を絵画で表現できるか ~平町公の試み~

2012年12月20日 | □旅
(1)兵庫県立美術館
 兵庫県神戸市中央区脇浜海岸通1丁目1番1号

(2)特別企画展
 「現代絵画のいま
 
(3)特別企画展の会期
 2012年10月27日(土)~12月24日(月)

(4)特別企画展の観覧料(コレクション展は別途)
 当日:一般 1,200円

(5)特別企画展の出品作家
 (a)野村和弘(1958年高知市・生/神奈川県・在住)★
   <見えることの極限を示す絵画を出品。壁画のタイプとタブローのタイプの両方からなる。>
 (b)平町 公(1959年広島県・生/神奈川県・在住)★
   <何十畳もの大きさの巨大パノラマ絵画を出品。神戸を題材にした新作。>
 (c)奈良美智(1959年青森県・生/栃木県・在住)
   <忘れがたい印象を残す子どもや動物などを描いて、幅広い層の人々を魅了してきた作家が、本展では最新作を展示します。>
 (d)丸山直文(1964年新潟県・生/東京都・在住)★
   <画面にアクリル絵の具を染みこませるステイン絵画の新作を出品。染みを形象化させる表現。>
 (e)法貴信也(1966年京都府・生/同・在住)★
   <ドローイングのような線、二重の線など、線を追求する絵画(新作)を出品。>
 (f)渡辺 聡(1967年兵庫県・生/同・在住)★
   <ドット・シール紙をキャンバスに貼ってから絵を描き、ドットを貼り直した絵と、ドットを剥がしたあとの残る絵を制作。>
 (g)石田尚志(1972年東京都・生/同・在住)
   <白い部屋に描いていく行為の軌跡をコマどりによって映像化した作品を出品。映像が、絵画の世界をあらわにする。>
 (h)居城純子(1974年静岡県・生/奈良県・在住)
   <マスキングを駆使して塗り残しや余白を表現にした絵を出品(近作及び新作)。>
 (i)三宅砂織(1975年岐阜県・生/大阪府・在住)★
   <透明シートに描いた絵を写真に転写する、いわゆるフォトグラム(新作)を出品。写真と絵画の境界。>
 (j)大のぶゆき(1975年大阪府・生/愛知県・在住)★
   <絵画をベースにした映像作品(新作)を出品。絵画が崩壊する過程をとらえる。>
 (k)横内賢太郎(1979年千葉県・生/三重県・在住)
   <光沢のあるサテン地に染料などで描いた作品を出品(新作を含む)。技法の混交性は、モチーフである文化の混交した文物によって増幅される。>
 (l)彦坂敏昭(1983年愛知県・生/京都府・在住)★
   <写真をコンピューターの画像処理など、複雑な過程を経て作成された絵画を出品(新作を含む)。>
 (m)二艘木洋行(1983年山口県・生/神奈川県・在住)★
   <コンピューターのお絵描きソフトで描いた作品を出品。シンプルな機能、低解像度だからこそ、生み出されるユニークな作品。インスタレーションも展示。>
 (o)和田真由子(1985年大阪府・生/同・在住)
   <透明シートを支持体にして、描いたり、透明メディウムを重ねたりした作品を出品(新作を含む)。三次元空間の構造を二次元に表す試み。>

 【注】作家/出品作品の特徴は、兵庫県立美術館の「出品作家」紹介から引いた。

(6)注目した作品
 展示会でカメラ撮影が許可された作品/作家がある((5)の★)。
 例えば、平町公「阪神工業地帯の暦・神戸港の図・六甲アイランド沖の図」(2012年)/墨、アクリル、キャンバス。



 これだけ大きいと細部に目が届かなくなりがちだが、細部がアナーキーなまでも独立した画面を作っている。
 江戸時代か、もっと昔に瀬戸内海を疾駆したであろう帆船も見える。





 海の底でつながるパイプ。 



 港を支える働き手の姿も垣間見える。





 絶滅した日本狼のように野性的な風貌の労働者がいる。



(7)平町作品のテーマ、制作の流れ
 兵庫県立美術館は「現代絵画のいま」展の図録を発行している。その中に、出品作家に対するインタビューが載っていて、平町は今回の出品作品のテーマ/コンセプトなども語っている。いわく・・・・
 テーマ/コンセプト・・・・2001年に「神戸 布引の滝図」を発表したが、布引の滝は現在も神戸市民の水瓶だ。目に見えない天に上がる滝に、阪神・淡路大震災で亡くなった人々の魂を鎮魂する思いを込めて制作した。今回、二度目の神戸を題材にした作品「阪神工業地帯の暦・神戸港の図・六甲アイランド沖の図」は、2006年に発表した「京浜工業地帯の掟・三部作」の対になるように企画した。一生懸命に復興を果たした神戸の人々の努力の跡を形にしてみたいと思った。
 本作品の具体的な制作プロセス・・・・今年5月、神戸を取材した。ポートタワーから俯瞰し、取材できない場所についてはインターネットの航空写真を利用して下絵を描き、イメージを固めた。そして、「神戸港」を2場面に分割して制作することに決めた。描く作業は、まず使用するロールキャンバス(2m×10m)8本を2回に分けて下塗りした。4本のキャンバスを床に広げ、2回上塗りした。この作業の後、キャンバスに木炭で下書きし、その上に墨とアクリル絵の具で彩色して構図を決めた。それから細部を詳しくしていった。
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】一口八態妖怪天井画 ~大山・「圓流院」の水木しげる~

2012年06月24日 | □旅
 「からす天狗」は、大山のシンボルです。水木しげる先生が「米寿」を祈念し、「圓流院」のため絵筆をとられた渾身の作です。
 天井画は、水木先生がまず原画を描き、拡大してシルクに移し、天井に貼ったものです。

 妖怪は、もともと神さまであり、仏さまでした。この神さまたちは、万物に憑依し、子どもたちだけでなく大人も、規範、規律、教え、戒め、たしなめなどの喩えとして、怖いもの、恐ろしいもの、または大事にしなければならない畏敬の対象でした。身近な存在でした。
 しかし、時代とともに忘れ去られました。おじいさん、おばあさんのいない核家族では、むかし話も対話もなくなって、ゆとりのない社会、人々の心の荒廃の中で、立場、行き場をなくし、さ迷っていました。
 ところが、水木先生の「幸福菌」で妖怪たちは蘇り、まちを活性化し、多くの人に元気、しあわせ、よろこび、えがお、うるおい、癒しを与え、まさに神さま、仏さまの世界に復活しました。
 神さま仏さまの世界は、神仏習合です。本地垂迹説によれば、日本の神々は、実は様々な仏さまが化身として日本の地に現れた権現なのです。徳川家康が亡くなると、日光東照宮に祀られて神さまになる。その神さまは、仏さまの化身である。そういうことです。

 妖怪さまは、開運のご守護です。
 本堂で大の字になり、開運の妖気シャワーを浴びてください。

 天台宗別格本山角盤山大山寺塔頭「圓流院」の陽気な(妖気な?)坊さんは、こう語った・・・・。

     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

  

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】彫刻の街 PART2 ~題名のない彫刻群~

2012年05月16日 | □旅
 題名のない彫刻群。以下は、仮につけたタイトル。


 テキも猿もの


 棺


 蝦蟇口のお化け


 とと


 ベッド


 妖しい


 同じく


 オバQ


 編み笠十兵衛


 アンモナイト


 岸辺


 白鳥は哀しからずや空の青海の青にも


 復興


     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】彫刻の街 ~鑑賞者の存在意義・考~

2012年05月14日 | □旅
 米子駅前に始まり、そこから徒歩5分の米子コンベンションセンターやイオン米子駅前店、それらの先を流れる新加茂川沿いに北へ向かうと中海に出る。さらに中海を弓手に湊山の麓をまわり、湊山沿いに公園に至るルートに彫刻の群が立ち並ぶ。片道3kmほど。
 彫刻はいずれも、美術館などに閉じ込められていなくて、街の中にあるのがミソ。よって、一群の作品の写真を題して「彫刻の街」。

 こうしたマチづくりには少なくとも(あくまでも少なくとも)3種類のマチ人間が必要だ。例えば彫刻の道、彫刻のマチの場合、
 (1)彫刻する人
 (2)作品を味わう人
 (3)コーディネーター
 ・・・・(2)がいちばん気楽に見えるが、(2)にもけっこうエネルギーが必要だ。アランのように、鑑賞を哲学にまで高める人もいる。鑑賞もまた創造なのだ。そして、(1)と(3)に比べて圧倒的多数の(2)がいなければ、他は虚無だ。小松左京『こちらニッポン・・・・』は、古都の国宝級仏像をめぐって、そんな思考実験をしている。自画自賛するつもりは毛頭ないが、鑑賞する(だけの)人々は、遠慮なく胸をはっていいと思う。


 「こころの言葉」(佐善圭・作)

 「夏・風の詩(うた)」(須藤博志・作)


 「月に向かって進め’96」(井田勝己・作)


 「相」(前川義春・作)


 「’96 WORK IN YONAGO」(登坂秀雄・作)


 「OFFERING(捧げ物)」(ロバート・シンドルフ・作)


 「光」(近田裕喜・作)


 「ゆめについて」(林宏・作)


 「記憶の形象」(斉藤和子・作)


 「あかね雲」(西村文男・作)


 「水のかたち」(高濱英俊・作)


 「米伝説」(平井一嘉・作)


 「宿借り(海辺の物語)」(西巻一彦・作)


     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】港まつり

2011年10月09日 | □旅
 境港市は、長さ20kmの大砂州で、面積28.79キロ平米、人口35,895人(2011年4月現在)だ。
 JR境港駅の玄関口から「水木しげるロード」が伸びる。路傍に139体の妖怪像が並ぶ。船着き場が駅に隣接する。そこを発着するフェリー・ボートの船体にも妖怪が描かれている。

  

 フェリーの船着き場に近い「海とくらしの史料館」には、魚介類の剥製が700種類、4,000点展示され、なかなかの迫力だ。

  

 シロナガスクジラのヒゲ板の大きさは、長さ1m、幅60cm。そのヒゲ板が1頭につき、320~330枚ある。ちなみに、これまで知られている最大のシロナガスクジラは、体長33m、体重170トンだ。

  

 「史料館」の中庭には、ナゾの彫刻が展示されている。埴輪とも、ディズニー映画のダンボとも、ミミズクとも見える妖怪だ。どことなくく岡本太作的だ。

  

 「史料館」を出ると、目前に「境台場公園」だ。その象徴となる「境港灯台」は、美保関灯台より3年早く、明治28(1895)年11月に開設された木造六角洋式灯台。高さ9.09mで、不動白光電灯3,500燭光は、23kmの沖合まで届いた。昭和9(1934)年に消灯。平成3(1991)年に復元された。

  

 昭和57(1982)年以来、この季節には「境港水産まつり」が開催されている。今年は10月9日に開催された。
 茹で蟹の大盤振る舞いもある。例年、大人気で、長い行列が並ぶ。カニ水揚げ日本一の旗がたなびいている。

   

     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】島根県立美術館 ~震災復興支援特別企画 ふらんす物語~

2011年09月25日 | □旅
 「湖畔の、このあたりに立つて、宍道湖に於て見るべきものはただ一つしか無い。荘麗なる落日のけしきである。そして、これのみが決して見のがすことのできない宍道湖の自然である。雲はあかあかと燃え、日輪は大きく隅もなくかがやき、太いするどい光の束をはなつて、やがて薄墨をながしかける空のかなたに、烈火を吹きあげ、炎のままに水に沈んで行く。おどろくべき太陽のエネルギーである。それが水に沈むまでの時間を、ひとは立ちながらに堪へなくてはならない」(石川淳『諸國畸人傳』)
 島根県立美術館の湖側に臨めば、小林如泥が目の当たりにした光景が甦る。

 美術館の湖畔側には、ナゾの彫刻が陳列されている。
 何とみるか。私には古代出雲大社の本殿と地表をつなぐ階段のように見える。
 一説によれば、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であった。

   

 いま、島根県立美術館では、「震災復興支援特別企画 ふらんす物語 ~愛知県美術館コレクション展~」が開催されている。
 会期は、2011年9月17日(土)から11月7日(月)まで。

 このたび、目を引いた作品は6点。
 アメデオ・モディリアーニ「カリアティード 」(1911-13年 )は、パリで画商ポール・ギヨームと知己になり、当初志した彫刻を捨て、絵画に専念し始めた頃の作品。ギリシア建築の梁を支える女像柱「カリアティード」がモデル。やや右方向に傾いた姿勢、背後の石壁の不均衡が画の全体に動きをもたらす。杏仁形の目、突き出た鼻、まん丸く盛り上がった胸はシンプルで力強く、質感に満ちた両上下肢とあいまって、生命感に満ちている。

  

 その他、ジャン・デュビュッフェ「二人の脱走兵」、高田博厚「女のトルソ」、海老原喜之助「雪山と樵」、金山康喜「静物」、三岸節子「落書」。
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代ハスの園 ~白鳳の里~

2011年08月07日 | □旅
  
  
  
  
  
  
    

     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】比叡山

2010年08月15日 | □旅
  オン アビラウンケン

 延暦寺大講堂に鎮座する本尊、大日如来を拝む際にとなえなければならない真言である。意味不明だが、ともかく老母の快癒を祈り、併せてお守りも入手する。
 大きな大きな大日如来像よりも、脇仏の弥勒像のほうに心惹かれる。モナ・リザよりももっと謎めいたほほえみが口元に浮かんでいる。
 ちなみに、弥勒には「オン マイタリヤ ソワカ」と真言を唱えるよし。



 ところで、延暦寺にいささか違和感を覚えるのは、山寺でありながら、舗装した道が縦横にのびている点だ。
 大講堂から、その南西西に位置する法華総持院東塔へいたる道も舗装されている。
 勾配のある道をのぼっていくと、右手に戒壇院がみえてくる。阿弥陀堂はさらにその先にある。

 法要があるらしく、阿弥陀堂の前に高級車が数台駐車し、付近のベンチに運転手たちが紫煙をくゆらせていた。
 法要中であっても、屋外で拝観者が拝観するのはさしつかえないらしい。賽銭を投じた母子がともども、敬虔に手をすりあわせては頭をさげるのであった。



 阿弥陀堂にむかって左手に東塔がある。
 比叡山振興会議のリーフレットによれば、「伝教大師は、日本全国6カ所の聖地に宝塔を建立しました。法華総持院東塔はそれらを総括する宝塔で、根本中堂と共に重要な振興道場です。信長の焼討ちから400年ぶりに再建され、塔の朱と自然の緑が溶け合って優美ですばらしいコントラストを見せています。内部の壁画も印象的です」
 たしかに朱と緑の対照は美しい。
 しかし、私には秋雲との対照がいっそう美しい。
 佐佐木信綱に「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」の名歌がある。
 「ゆく秋」は季語では晩秋である。では、「一ひらの雲」は、どのような雲なのか。



 歳時記でいう秋の雲とは、「代表的な秋の雲とされる鰮雲や鯖雲などの巻積雲を含めて、秋の雲一般と解してもいいが、俳句作品にあらわれる場合は、高空に刻々変貌する片雲、その爽やかないろと姿を示すことが多いようである。生絹(すずし)のような流雲によって、碧空は一層高く、そして深く仰がれ、思わず深呼吸をしたくなるような気分になる。月明の夜の雲は、また一段と爽涼」(飯田龍太)【注1】

 『俳句の中の気象学』によれば、秋の代表的な雲は巻雲や巻積雲である。
 巻雲は絹雲とも書き、すじ雲ともいう。5千メートルから1万5千メートルの高さにあらわれる上層雲で、雲粒はすべて氷晶からできている。氷晶は、上昇気流にはこばれた空気塊が一定の高度に達すると、その中にふくまれていた水蒸気が昇華してできる。ひとたび氷晶となると、ゆっくりと下に落ちていく。水滴より蒸発しにくいから、長く尾をひく尾流雲になる。上下の風速が同一なら、雲はまっすぐ下に尾をひく形になる。しかし、夏の間シベリアのはるか北に去っていたジェット気流が、秋にはふたたび南下して日本に近づく。ために、風速に上下差が生まれる。雲はカール状の巻雲になる。これに風向のちがいがくわわると、もっと複雑なカール状をみせる。横にながく伸びた巻雲の筋は、ジェット気流が日本に帰ってきた証である。大空に秋がきたことを示す。
 鰯雲や鯖雲、鱗雲は巻積雲である。巻雲とおなじく上層雲で、雲粒はほとんどが氷晶からできている【注2】。

 東塔の雲は、巻雲でも巻積雲ではなさそうだ。いわゆる羊雲のようにみえる。羊雲は高積雲。高さ3千メートルから6千メートルの中層雲で、雨を予兆する雲である。上層雲が現れた時点より低気圧や前線がさらに近づいていることを示す。じじつ、この翌日、古都は雨にみまわれた。
 さきの佐佐木信綱の歌の「一ひらの雲」も高積雲ではあるまいか。

 延暦寺バスセンターから比叡山頂までシャトルバスが運行している。
 ただし、山頂バス停は山頂にあるわけではない。バス停のすぐ先から遊歩道が伸びていて、てくてく歩いていくと、木々に囲まれた山頂に着く。霊山の頂上に何があるかというと、朝日放送、関西テレビ、読売テレビの中継基地がある。
 悄然と引き返すしかない。



 山頂バス停は、「ガーデンミュージアム比叡」の出入口に直面している。
 このミュージアムは、庭園である。薔薇、藤、睡蓮、その他の庭のほか、展望塔あり、押し花や香りの体験工房ありで、カフェもグッズ・ショップも設置されている。庭園全体の規模は神戸の布引ハーブ園に匹敵するだろう。ギャラリーでは、ちょうどこの時、**画伯の蓮の絵を展示していた。
 山頂バス停に近い出入口(プロヴァンスゲート)から園内の起伏のある道を歩いていけば、もう一つの出入口(ローズゲート)に達っする。そこから叡山ロープウェイの比叡山頂駅までほんのひとまたぎである。
 庭園のなかばほどに位置する「見晴らしの丘」からは琵琶湖を眺望できる。

 この庭園が独特なのは、磁器に模写された印象画派の作品が園内の随所に配置されている点だ。「ガーデンミュージアム」と称するゆえんである。
 たとえば、ラヴェンダーやローズマリーの咲く「香りの庭」にはモネの『草上の昼食』や『庭の女たち』が飾られている。
 あるいは、ベンチで休憩できる「プラタナス広場」にはルノワール『田舎のダンス』ほかが展示されている。



 おもしろいのは、絵の場面にあわせて造られた庭もあることだ。自然は芸術を模倣する。・・・・いや、模倣したのは、庭師だが。



 蓮は見ていて飽きない。見ていると、蓮がぐらりと揺れ、鯉が顔をだした。



 【注1】水原秋櫻子・加藤楸邨・山本健吉監修『カラー図説 日本大歳時記 秋』(講談社、1989、p.47)
 【注2】安井春雄『俳句の中の気象学』(講談社ブルーバックス、1987、pp.183-187)
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】鞍馬

2010年08月01日 | □旅
 叡山ロープウェイの比叡山頂駅からケーブルカーで降下すると、八瀬叡山口駅近くにいたる。叡山電車に乗り継ぎ、宝ヶ池駅で鞍馬線に乗り換えれば、鞍馬駅まで一直線だ。
 鞍馬駅を出ると、どでかい天狗の面がこちらをにらみつけているのが目にはいった。
 たちならぶ土産物屋の先にケーブルカーもあるが、わずか200メートルほど運行するだけなので、これも横目に見てすぎ先をいそぐこととする。エネルギーを節約しないであるけば、武芸上達のご利益がある鬼一法眼神社や由岐神社に詣でることができるからだ。由岐神社では、例年10月22日に名高い火祭が行われる。



 しかし、由岐神社から先が長かった。
 砂利道をしのぎ、無限につづくと思われる石段を昇り・・・・。
 ここでも中学生の修学旅行の一団に出くわした。私の目先をあるく生徒たちは、軽快な足取りで昇っていく。
 20台後半らしい、日に焼けて精かんな顔つきの教諭が後衛についていたが、途中で立ち止まって上着をぬぐと、サッサと先を急いで生徒たちを追い越し、たちまち姿が見えなくなった。
 かわって見えてきたのは、添乗員のお姉さんの後ろ姿である。形のよい脚が一段ずつ昇っていく。ところが、だんだん足取りが乱れてきて、引率する中学生より遅れがちになる。
 鍛え方が足りない。ツアーコンダクターは、一に体力、二に体力、三、四がなくて、五が饒舌ということを知らないのだろうか。・・・・知らないだろうね。私が考えついた格言である。

 由岐神社から水平距離で1キロメートル、高度差で100メートル、中学生の一団の背後について休みなく昇っていき、ようやく石段がとぎれると、そこが鞍馬寺であった。
 火鉢に煙草の吸い殻がさしてある休憩所で一服していると、スコッチ・テリヤを引き連れたマダムが入ってきた。先客の、やはり一服している眼鏡氏にテリヤを引き渡す。ちょっと写真を撮ってきますからね・・・・。
 写真をとらないと、不在証明ならぬ旅したことにならないと思う風潮はなげかわしい。しっかりと自分の眼でみて、脳裡に焼きつければよいのだ。
 しかし、記憶は薄れるものだ。スペインのマラガを再訪した沢木耕太郎も嘆いていた。
 それでも、と思う。記憶に残るもの、残らないもの一切をふくめて、それが旅というものだ。人生というものがそうだ、と言ってもよいかもしれない。

 鞍馬寺の裏手からさらに2キロメートル、昇降をくりかえすと奥の院魔王殿に到着する。
 道中に奇怪な木の根道にたびたび出 くわす。このあたりの砂岩ホルンフェルズはマグマ貫入の熱で灼かれてできたもので、風化しにくい。土壌の層は薄い。ために、木の根が地表を這うのである。
 奇怪なのは自然界だけではない。人の世もしかり。
 魔王殿までのルート上に義経堂がある。義経は奥州衣川館で自刃したのだが、その霊が鞍馬山を漂っているのだ。義経堂は、無念の思いにかられてさまよう義経の霊をなだめる祠である。目には見えないが、天狗がこのあたりを跳梁しているはずだ。

 
 

 魔王殿から急勾配の道を降りて先へすすむと、貴船神社が待ち受けている。さらに突き進めば叡電貴船口駅に達する。この間、水平距離でおよそ10キロメートル弱。歩いて歩けない距離ではない。しかし、この日は早朝から比叡山を歩いている。万歩計の数値はすでに2万歩を越えている。
 私たちは目を見交わし、無言で相談した。
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】竜安寺

2010年07月31日 | □旅
 竜安寺の池泉回遊式庭園は、「鏡容池」と呼ばれる。キョウヨウチである。石庭よりもこちらのほうが知名度の高い時代があったらしい。
 知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。『論語』がここでいう水は流水のことだと思うが、池でもさしつかえあるまい。
 いま蓮が盛りで、純白がまぶしい。
 しかし、辨天島の青鷺は、蓮には目もくれず、池底の獲物をねらっている。



 石庭の前は、修学旅行らしき中学生と青い眼の異人さんでいっぱいだった。
 中学生は徒党を組み、制服で一目瞭然である。自由行動をとっているらしく、引率の先生は見あたらない。
 中学生たちは、キャピキャピと写真を撮りあっている。
 十代のヤンキー娘が跳ねるように端から端まで歩きながら石の数をかぞえはじめた。能書きにあるとおり15個あることを確かめている。この無邪気さには抗しがたい。
 京都の寺社仏閣に群れる白人は、概して穏やかなまなざしだ。生き馬の目をぬくニューヨークのビジネス・パーソンとは、別の人種であるかのようだ。

 軒端を中学生と青い目の人に占領されているから、観客の頭越しに庭を眺望するしかない。
 奥にしりぞいて眺めると、別のものが見えてくる。
 土壁と、壁を越えて庭に垂れる緑の枝であり、塀の外に鬱蒼と茂る木立である。これらも庭の一部となっていることに気づく。
 こうした目でみれば、一枚の落葉も庭の一部を構成する。

  

 しかし、庭の中には石と砂しか置かれていない。
 わずかに苔の緑がところどころに散在するばかりだ。

  

 加藤周一には白砂が群青の海にみえ、5つの石の集まりが島にみえた。ひとたび立ちあがって、縁の端から端まであるけば、おどろくべし、島は互いに近づいたり離れたりしながら、広大な海の表面にあたかもバレーの踊子の動きのような、ほとんど音楽的な位置の変化を示すのであった。それは、疾走するジープから加藤が秋の瀬戸内海を眺めたときの印象と寸分ちがわぬ海なのであった。いや、むしろそれ以上に微妙な変化に富み、それ以上に広大な眺望を支配する・・・・。
 加藤の目には、竜安寺の石庭はクールベが描いたエトルタの海に似ていたし、伊豆や須磨明石その他、かつてみたあらゆる海に似ていた。しかし、正確にはそのいずれでもなく、そのすべてに通じ、そのいずれにも完全には実現されていないものなのであった。ある特殊な海ではなく、特殊な海に頒たれている海一般というべきだった・・・・。

 砂を波、石を島と見立てるならば、苔は平野部の草木に見立ててもよいだろう。
 あるいは、加藤の見立てから一挙に遠ざかって、個々の石を人に見立てることもできるだろう。
 素材がシンプルだから、かえってさまざまな解釈を引き出すことができる。
 さまざまの解釈を許すうえに、見る角度によって、ちがった相貌が目に入る。石と石との距離は、見る角度によって近くなり、また遠ざかる。したがって石相互の関係も、石と見る人の関係も無限の変化がある。
 見ていて飽きないから、時間はたちまち過ぎ去る。腕時計の針は2時間の経過を指摘するが、石を眺めてすごした2時間は、仕事に費やした2時間とは別個の時間である。フッサールのいわゆる内的時間意識がこれだろう。
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする