語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【旅】美保関 ~神話と近代~

2015年05月10日 | □旅
     美保関灯台(1)

     美保関灯台(2)

     美保関灯台(3)

     美保関灯台(4)

     灯台ビュッフェ(1)

     灯台ビュッフェ(2) ~高浜虚子~

     灯台ビュッフェ(3) ~与謝野夫妻~

     門前町(1) ~初代・関の五本松~

     門前町(2)

     門前町(3)

     美保神社(1)

     美保神社(2)

     美保神社(3)
  
□「美保神社

     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】由志園 ~牡丹の館~

2015年05月10日 | □旅
   

   

   

   

   

     牡丹(鎌田錦)

     牡丹(千歳藤)

   

     製作:飯南町しめ縄クラブ

     大根島の模型
  
□「由志園
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】浮世絵展 松江水郷祭

2014年08月31日 | □旅
●「浮世絵の美 ~平木コレクションの名品~

 とき 2014年7月18日(金)-9月1日(月)
 ところ 島根県立美術館

   

●「松江水郷祭「松江だんだんまつり」」水郷祭

 とき 2014年8月30日(土)20時~21時
 ところ 島根県松江市の宍道湖畔

   
   

     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【詩歌】渋沢栄一の狂歌

2014年08月31日 | □旅
 朝寝坊昼寝もすれば宵寝する時々起きて居眠りもする
                         (渋沢栄一(号:青淵))

□淮陰生『完本 一月一話 ~読書こぼればなし~』(岩波書店、1995)
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】生田川 ~神戸(3)~

2014年07月12日 | □旅
 (1)開港場としての神戸が、旧幕府の治下にあったのは、わずか2日にすぎない。神戸村は、当時古くからの港である「兵庫」の地名で公文書に載っており、その兵庫の一部をさすにすぎなかった。
 開港と同時に、権利上の、「外国人居留地」が発足する。その居留地が神戸村の浜寄りに敷地を持ったために、兵庫の呼称がうすれ、あるいはいよいよ広称になり、神戸という地名が前面に出てきた。神戸が、その核としてあくまで居留地として発足したことが、前記の出生の事情と名称の変遷によって察せられる。
 誕生した神戸にあっては、あくまで外国人が主だった。かれらの貿易事務と、居住地の環境感覚を、政府以下、県庁・地下人が重んずることで都市の個性や市民に共通する都市感覚ができあがった。
 
 (2)神戸にとって、大阪は忌むべき旧時代の象徴だった。
 江戸中期以後、兵庫は北前船の出発港として栄えたが、廻船問屋の株は少なく、十数軒しか許可されなかった。大坂の同業者が、大坂奉行所に働きかけて兵庫港の成長をおさえこみつづけた、ということがあるらしい。
 大阪は、江戸とちがって、都市を装飾するところの政治や文化の権威というものがなく、兵庫港からみれば、そういう大坂に、大坂奉行所を通じて支配されていることが笑止千万だったにちがいない。
 兵庫が幕府直轄領になったのは江戸後期からで、それまでは尼崎藩の藩領だった。尼崎藩は兵庫港に陣屋を置いて藩吏を駐在させていたが、幕府直轄領になってから、その陣屋が、そのまま大坂与力の駐在所につかわれた。
 尼崎藩はその財政の上から、兵庫港の発展はじかに藩を利するものだっただけに、商人を大切にし、その商業活動を拘束するようなことはなかった。
 しかし、幕府直轄領になると事情が変わった。大坂に支配された。より具体的にいえば、大坂奉行所の背後にいる大坂の株仲間に支配された。
 開港によって、さらには幕府が倒れることによって、神戸は大坂から独立した。神戸人が大阪に対して持っている明色でないイメージは、ひとつには前記のような歴史の遺伝が、どこかに残っているのかもしれない。
 大阪といえば、神戸人にとって、実態以上に泥くさく思えるらしい。それは、かつて兵庫を支配した江戸幕府の泥くささ、江戸期の日本人の意地わるさ、頭にちょんまげをのせた反っ歯の阿呆面といった明治以前の日本人・日本文化の陋劣な部分のすべてが、すくなくとも開港早々の時期の神戸人には感じられた。それよりも、居留地の外国人のほうがはるかにスマートで美的だった。

 (3)公文書においては「兵庫」と称しつつも、実際には兵庫港ではなく、それよりずっと東方の神戸の村の海岸に開港場がひらかれたのは、慶応3年12月7日だ。西暦では1868年元日だ。
 この時期、日本は内戦(戊辰戦争)寸前で、極度に緊張していた。新首都は、薩長が幼帝を挟んで占拠している。大阪にあっては幕軍数万が集結し、対外的には(大政奉還した)先々月まで「日本国皇帝」だった徳川慶喜を擁している。のちでいう「鳥羽・伏見の戦い」がおころうとしていた。
 神戸の誕生が、革命の内戦前夜だったことは、都市性格の形成にとって重要な因子だった。

 (4)兵庫は見捨てられた。
 開港早々、京都の新政府の兵庫行政をうけもつべくやってきたのは、長州出身の伊藤なにがし47歳で、当時は俊輔と自称していた。のちの博文である。最初の職名は外国事務掛で、「兵庫奉行ノ事務ヲ管掌セシム」という辞令だった。4か月後、兵庫県知事になった。
 かれの庁舎は、旧幕時代、大坂奉行所の与力1騎が執務していた勤番所で、狭隘すぎて役に立たなかった。加えて、神戸村にできた運用所(税関)から遠すぎる。移転すべく、神戸村に近い坂本村に地所を求めたところ、兵庫の名主・年寄らが協議し、これでは兵庫が廃れてしまう、となげいた。県庁の新庁舎を兵庫に建ててくれ、と陳情したが、とりあげられなかった。
 工事が請負人に発注されたのは明治元年6月12日だ。このとき、旧幕時代、はるか蝦夷地までゆく北前船などの商港として栄光を築いた「兵庫」が決定的に衰退し、代わって「神戸」がこの一帯の港とまちを代表する呼称になった。同時に、江戸期の大坂の商権から独立した。神戸は、神戸にとって縁起のいい名前になった。
 
 (5)兵庫県庁にとっての最初の土木事業は、県庁を建てるほかに2つあった。
  (a)旧幕府からひきついだ居留地の敷地固めの土木工事を継続しなければならなかった。
  (b)開港場というカネの落ちやすい土地をねらって虞犯性の高い連中が流入してくるため、早々に監獄をつくらねばならなかった。
 加納宗七は、旧幕府にとって政治犯だったが、当の幕府が倒れたために、新政府の牢に入る必要がなかった。
 加納は紀州人だった。和歌山城下の御用商人宮本助七の次男として生まれ、幕末、とびだして志士仲間に入った。紀州脱藩陸奥宗光を頼ったらしい。陸奥は、坂本竜馬が長崎でやっていた浪士結社海援隊の有力メンバーで、坂本が大政奉還の工作のために京都で奔走していたときは、その秘書のような仕事をしていた。
 坂本は神戸開港の1か月半前に大政奉還を成功させ、その半月後に暗殺された。
 残された陸奥は復讐を誓った。黒幕は紀州藩重役の三浦休太郎と見てつけ狙い、12月7日夜9時ごろ、京都の旅籠天満屋で新撰組の幹部と酒を飲んでいる三浦を同志十数人とともに斬りこんだ。その中に町人あがりの加納もいた。
 斬りこんだ陸奥の同志はみな書生で、新撰組のようなそれ専門の連中に刃むかうのはむりだった。新撰組側には土方歳三もいた。たちまち斬りたてられて逃げざるをえなかった。
 天満屋事件は、神戸開港の日だ。
 事件後、加納は京を逐電し、居留地造成のためにごったがえしている神戸村にきて潜伏した。
 数日して、鳥羽・伏見の戦における薩長の勝利で、天下がくつがえった。

 (6)加納は晴れて神戸で商売をやった。
 かれは居留地に近接の西町で材木商をいとなんだ。無限に材木の需要があるだろうと見たのが、中った。
 元志士ということで、県庁にも顔がきいたらしい。
 まだ若かった伊藤博文がつくった兵庫県庁の庁内の空気や吏員の気分は、どの府県の府庁・県庁よりあかるくて、官のにおいが薄いといわれていた。「官民の交接頗る平民的」だった。明治早々の官の重苦しさはときに旧幕時代をこえるものがあったが、兵庫県庁の場合、居留地の気分の照り映えもあったろうが、伊藤という陽気な男のいい面が、庁内の気分をつくっていた。
 当時の兵庫県庁の管轄内の神戸区からのちに神戸市役所が誕生したのだが、この気分は県庁以上に市役所に遺伝することになったかもしれない。

 (7)神戸は山が海岸の市街地にせまっているために、川の長さがみじかく、豪雨のときなど、じかに滝が市街地にたたき落ちていくようなものだ。
 パークスの前任の英国公使だったオールコックが、兵庫に上陸してこのあたりの地理を見、生田川に気づいている。かれが見た生田川には、水が流れていなかった。六甲山系の多くの川と同様、乾燥が続くと水が涸れるのだ。加えて、山から土砂が押し流されるために、地面より高く川砂が堆積し、堤防が土塁のように高くなっている(天井川)。ために、大雨が降ると、付近を水びだしにした。
 この川の勢いは、できあがったばかりの居留地をおびやかしたために、居留地のひとびとのあいだで苦情が出たらしい。
 伊藤博文は明治2年7月に大蔵小輔になって神戸を去った。付替工事にどこまで関係したか、不明だが、ともかくも県庁が企画し、明治3年末か同4年のはじめごろに加納宗七が、工費3万両ちょっとで請け負った。
 あたらしい河道は、布引の滝の下から、まっすぐに線をひいたように、最短距離(1.9km)で海に落ちるというものだった。
 加納は、明治4年3月10日に着工し、わずか3か月で完工させてしまった。よほど物事のできる人物だったらしい。
 旧河川敷が、みごとな砂を堆積したまま残った。加納はこの土地の入札に参加しておとし、河道を幅18mの、当時としてはみごとな道路に仕立てなおし、海岸までつきとおした。道路の両側はたんねんに造成して宅地とし、希望者に分譲した。
 いま、旧生田川の西側の堤路に神戸市役所がある。市役所前の道路は、もともとは加納がつくったものだ。
 加納についての神戸における痕跡は、かれが造成した一画は加納町という町名がつけられているくらいだ。
 いまの神戸市街地の原形は、居留地の造成にあるというより、むしろ生田川をつけかえて、その旧河道を路幅の豪宕な道路に仕立てあげた明治4年のこの工事にある。これによって神戸市街の骨格ができあがった。

□司馬遼太郎『街道をゆく21 神戸・横浜散歩/芸備の道』(朝日文庫、1988)
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

 【参考】
【旅】布引の水 ~神戸(2)~
【旅】居留地 ~神戸~

   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】布引の水 ~神戸(2)~

2014年07月11日 | □旅
 (1)神戸の飲み水は六甲山系から湧き出る。当然、とびきりのものとされていた。
 かつて神戸に寄港する外国船のよろこびは、水槽の水を空にして神戸の水をあふれるほど積むことだった。神戸の水とは、布引の滝の水のことだ。厳密にいえば、布引の滝のすこし上の布引貯水池からパイプで送られる水だ。
 神戸にはあと2か所貯水池があり、水質は同じだが、船に対してはとくに布引から送られる。つまり貯水池の浄化水がパイプで港まで直送されるといった仕組みで、続いてきた。
 布引の水は、六甲の老化した花崗岩層をくぐってきて適度のミネラルを含んでいるためにうまいのだ、といわれるし、船が赤道をこえてもうまさに変化がない、などともいわれてきた。
 そういうコウベ・ウォーターについては、明治のころは、「水屋」というものが活躍して、寄港する船舶に水を売っていた。
 西宮をはじめ灘五郷にも、江戸時代、酒造屋に水を売る「水屋」という商売があったから、水を売ることは、このあたりでは慣れていた。明治38年、市が水屋から権利その他を買いあげて、以後、神戸市が直営し、市の財源の一つになっている。
 神戸の人口が膨張し、滝のひとつや二つではまちや船の飲み水をまかなえなくなった。いまは【注】、神戸市の水道ぜんたいの8割が淀川へ依存する。阪神水道企業団の水に、布引の水がポタポタという程度だ。

 (2)歴史的に水に恵まれていたせいか、神戸の水道は遅れた。
 横浜に水道をつくったパーマーを呼んで視察にきてもらうが、予算などのため、着工にいたらなかった。そのあと、W・K・バルストン・東京帝国大学衛生工学教師/内務省衛生局雇工師に依頼した。明治25年のことだ。
 その後、事が進まず、完工したのが明治33年だった。布引貯水池も、このときにできた。
 神戸ほど、上水道工事が容易な土地は多くあるまい。(a)水源がまちのそばにある。(b)市街地が背後の山から海へ傾いているため、パイプを敷設するだけで天然水圧で水はくばられてゆ「く。
 そういうまちで水道が他の都市にくらべ、よほど遅れたというのは、水についての逼迫感が乏しかったからにちがいない。
 「水屋」たちの利害感情も、ありは県会などに反映したかもしれない。
 もっとも、神戸の「水屋」たちも、山から水を汲んできて荷馬車に積み、岸壁から給水船に積みかえるという牧歌的なやり方ではとても追いつかなくなった。
 内外の船舶が輻輳して、大八車式の水運びではどうにもならず、当時、海岸通りにあった日本郵船会社などは給水にこまり、「神戸区がなさらぬなら、私設でつくる」と、明治22年に上申しているほどで、県をまごつかせた。
 ちなみに、神戸市は明治22年に成立し、水道は市が中心となる。ただし、神戸市は、市民への給水よりも船舶給水の問題を急務とし、しかも主導的であり、ときには恫喝的でさえあった。このあたり、同時代の大阪の事情とくらべてそのちがいを察するべきだ。
 
 (3)神戸の海側から山側をみると、東から西へ連峰がつらなっている。東からかぞえると、六甲山頂、摩耶山、再度山、ひよどり越から一ノ谷にいたる。それらの山麓が市街地になっている。市街地だけでいえば、東京の一区か二区ほどで、都市としてまことに適正な規模だ。
 この都市を成立させている水源地の滝を見ておけば、神戸の原形にふれる感じをするだろう。
 神戸は自然との関係においては奇跡のようなまちで、布引の滝など、遠くにあるわけではない。
 新神戸駅の背後(北)まで山が押し寄せている。滝は、駅から北へ、直線距離3~400mほどの山中にある。
 山道をのぼるうちに、山の中腹に展望台がある。四方は見えず、とくに背後は山壁にふさがれていて、見えるのは、木の間がくれの海の光だけだ。神戸ではたれもが港を見たがる。山手の異人館も、窓を港の方角にひらいて飽くことなく港を見る。滝が名所の布引の山中の展望台ですら、港が見えるようにしつらえられている。美人は見られることによってつくられるというが、神戸港はそういう港だ。
 布引の滝へは、展望台から、岩場の間に造られたせまい石段を降り、岩場の根の小径をくだってゆかねばならない。
 石段を降りると、岩場のあちこちに歌碑がある。
 この滝は王朝のころから歌の名所になっていて、鎌倉初期の歌(藤原定家)もある。
 小径はなにやら地の底へくだってゆく感じだが、布引の滝の「雄滝」については、枝道を右へ折れる(標識あり)。すべては雑木林のなかだ。
 枝道をくだってゆくと、樹間のむこうに滝の音がとどろきはじめる。ゆきどまりが茶屋だ。崖にひっかかるようにして建てられている。茶屋ののれんに「おんたき」という文字が染め抜かれている。雄滝は近畿のなまりどおり「おんたき」と訓ずるのかもしれない。
 たぎり落ちる雄滝を見るには、この茶店の手すりから身をのり出して右手を仰ぐようにせねばならない。すさまじいばかりの瀑布だ。落下して滝壺にいたる高さは43mもある。
 この場所からは見えないが、別に夫婦滝、鼓ケ滝といった短い滝があり、下のほうに14mの雌滝が」落ちている。布引の滝は、いくつかの滝が複合し、連動しながら、落ちてゆくのだ。
 雄滝は垂直の落下ではない。
 鉄さび色に濡れた山骨が、やや勾配を持ち、滝に背もたれさせているような感じで水を落としてゆく。布引というのは、その感じから出た命名だろう。白い拷の布を晒すような角度だから、布引と呼ぶか。平安朝のころから京都の公家・僧侶といった知識人が歌の名所にしていただけに、洗練された名前がつけられ、定着していったのだろう。
 布引の滝という名は、京都文化の延長のなかでつけられた名と考えてよい。布引の滝の源は、六甲山系のなかの獺池だ。これは山で働くひとびとが符牒としてよんでいた地名だろう。神戸における他の水源地の名が、島原、千刈であるというのも符牒めいていて、また同じ産経のなかのだんごノ奥池とか、瓢箪池、阪急池というのも符牒で、とても歌に詠みこめるほどには洗練されていない。これによってみても、布引の滝が、いかにそのあざやかな名前によって滝という自然の生命が、人文的にも深められてきたかがわかる。

  【注】「いまは」というのは司馬が神戸を歩いた頃のことで、以下同じ。

□司馬遼太郎『街道をゆく21 神戸・横浜散歩/芸備の道』(朝日文庫、1988)
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

 【参考】
【旅】居留地 ~神戸~

    雄滝
   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】居留地 ~神戸~

2014年07月08日 | □旅
 (1)故あって1980年代の神戸を調べている。その昔にも少し遡らねばならない。
 こういうとき、『街道をゆく』はまことに便利だ。第21巻の「芸備の道」「神戸散歩」「横浜散歩」は、週刊朝日1979年7月20日号~10月12日号、同1982年10月15日号~12月24・31日号に連載されている。その頃の「街道」の様子を伝えるとともに、司馬遼太郎らしい歴史的うんちく(というより人物的蘊蓄)が披露される。
 
 (2)古来、瀬戸内海という海の廊下がゆきつく奥座敷の大阪湾には、いま2つの都市がある。大阪と神戸だが、都市の性格、機能、市民文化が互いに違う(民度も違う、という意見もある)。
 神戸では、初老の旦那が横断歩道をわたる細君の手を執ることがあるのだが、東京ではそういうことをしない。大阪でもしない。
 神戸は横浜とともに、日本の大都市のうち、例外的に江戸期の城下町の伝統がない。1868年元日に開港し、都市化した。最初は、港の港長までも御雇外国人の英国人だった。さらに海岸の砂地に外国人居留地ができ、やがて山手に雑居地が成立して、都市としての原形をなした。この点、祖型は外国人がつくったにひとしい。
 この新都市にやってきて働く日本人は、外国人を主人とするなか、彼らの貿易の水揚げや船舶業務の利益のおこぼれをもらうことによって衣食する人が多く、海外の慣習や文化の影響を受けやすかった。旧幕時代に不自由ながら開港した横浜にくらべ、この点、神戸ではどれほど外国人のまねをしても旧幕府はとがめなかったし、攘夷志士に斬られる心配もなかった。
 初老の男性が細君の手を執って横断歩道をわたるのは、居留地文化の名残らしい。異人さんのまねをしているうちに、身についてしまったらしい。

 (3)神戸の居留地は明治32年に終了したが、気分としてはその後も残った。
 神戸の居留地のもとは、生田川の河口付近の泥と砂の低湿地だ。これを埋め立て、盛り土し、碁盤状に区画し、一番、二番と番号をふり、逐次建物がたつことによってできた。
 欧州の感覚では、都市は空閑の状態において設計されるべきものであった。この居留地にあっては、まだ建物もろくに建っていない明治元年11月13日、この地を使用する人々があつまって自治会をひらき、「街路樹を植えよう」と提議された。
 数ヶ月後に実現された。
 遊歩地のための芝生もうえられた。20年後には、この居留地は建物と緑がよくつりあって、公園のような都市美観をもつようになった。
 ここで神戸の原形が成立した・・・・というべきだが、当時、居留地をとりまく日本人の市域はきたなかったらしい。そのころの日本人にとって、目の前の居留地こそ都市思想の見本である、と考えるには、素地がなさすぎたらしい。
 神戸が、市も市民も一つの思想のもとに都市建設をするようになるのは、第二次世界大戦で焼かれてからのことだ。
 空襲で焼かれたのは、名古屋や博多など他の都市もそうだったが、復興と建設の結果、神戸のようにならなかったのは、まちの祖型についての記憶が神戸と異なっていたからに違いない。さらには、神戸においては、自分の都市の祖型を尊重するという開明的な(または、居留地や山手の異人館の美観についての憧憬心が)、市民の共通の気分のなかに息づいていたのだ。

 (4)神戸は開港早々から貿易取扱高が大きかったのに、2年間も銀行がなかった。最初に開設されたのは、1870年開設の香港上海銀行神戸支店だった。メリケン波止場のすじむかいにあり、赤レンガ造りで、高い階段があった。
 香港上海銀行は英国資本で、1864年つまり神戸の開市の4年前に創立した。創立ほどなく神戸に進出したのだ。
 初代支店長はヘンリー・スミス。はじめは業務内容も限られていて、1878年ごろになっても欧州人スタッフはJ・モリソン支店長とJ・J・クレイク出納係の2人だけだった。その後、居留地の区画の2番を買収し、1898年に銀行の建物が完成した。
 なお、海岸通りから一つ山手に入った通りに英国の植民地銀行があった。石造りの「インド・オーストラリア・中国のチャータード銀行」だ。第二次世界大戦後、1956年、銀行の正式の名はかつての略称どおりチャータード銀行になった。
 当初ブラウン商会が代行し、初代支店長のA・S・ハーバーは開設後まもなく死亡した。名高い演劇評論家ウィリアム・アーチャーの弟ジェームス・アーチャーが後任になった。同行は、開設後間もなく26番に移転、1913年、67番の土地に立派な建物を建てた。
  
 (5)司馬遼太郎が散歩した神戸市街地のなかで、西方の兵庫の湊は江戸期に廻船の発着場として栄えていたが、明治後、港市の中心となる神戸は寒村にすぎなかった。明治31年当時、砂灘一帯波浪の洗うに任せ、宮前浜と弁天浜とに神戸村の船入場を存するの外は、神のまにまになる風情を示し、汐風寒く、萩の枯葉を動かすのみ・・・・といったうら寂しい海浜だった。
 この地に最初に着目したのは、勝海舟・幕府軍艦奉行並(当時)だった。
 かれは家茂・将軍を説き、ここに海軍操練所をつくった。敷地は17,000坪。校舎は大坂の御船蔵を移築し、寮舍もつくった。練習船はオランダ製の観光丸など。教授は、勝校長ひとり。
 経費はすべて幕府持ちだが、内実は私学にちかい。応募資格を幕臣に限定せず、諸藩の士(明治の語感での「民間」に近い)を含めたばかりか、浪人でさえいいということになったからだ。げんに土佐の脱藩浪人(坂本竜馬)が塾頭だった。薩長の藩士も多く、最初から反幕気分が横溢して、ほとんど革命学校の様相を呈していた。
 蛤御門の変の直前の元治元(1864)年5月に開校。
 しかし、江戸の幕閣は勝の肚のなかを疑い、開講後半年余で閉鎖し、勝のなったばかり軍艦奉行もとりあげ、寄合にしてしまった。休職にちかい処遇だ。

 (6)勝は、海軍操練所時代の最初、土地の名家(生島四郎太夫)の屋敷に下宿し、次いで生田の森に近いところに屋敷をたて、寮生とはべつの書生をとりたてて住みこませた。
 勝は後年『氷川話』で語る。当時つまらない百姓家ばかりだったあの一帯の買い取りを生島にすすめ、半信半疑の生島はそれにしたがった。維新後、1坪何十円という高価になって、生島は非常に儲けた。
 司馬は、これを評していう。<勝は、経綸家として幕末にぬきんでた存在でありながら、小事についてもぬけ目のない目玉をもっていたし、それが自慢でもあった。>

□司馬遼太郎『街道をゆく21 神戸・横浜散歩/芸備の道』(朝日文庫、1988)

      ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】砂の美術館 ~砂で世界旅行・ロシア編~

2014年05月08日 | □旅
 ●氷河に眠るマンモス

 


 ●リューリック ~建国のヒーロー~                  ●キリスト教の受容

    


 ●豊かな民族性

    


 ●タタール人のくびき(モンゴル人支配の時代)             ●コサックの力

    


 ●ピョートル大帝と西欧化                       ●エカテリーナⅡ世とロマノフ王朝

    


 ●ロシアの音楽 -チャイコフスキーとバレエ-

     


 ●ロシアの文学 -トルストイの作品「戦争と平和」-

     


 ●ナポレオンの撤退

   


 ●ロシアの大自然

    


 ●シベリア鉄道と極東の都ウラジオストク

 


 ●ロシアの科学技術 -宇宙開発-

   


 ●ロシア・アバンギャルド

 


 ●ロシアの民話 -大きなかぶ-

 

 【砂の美術館
  第7期展示:砂で世界旅行・ロシア編~大国の歴史と芸術の都を訪ねて~
  開催期間:平成26年4月19日(土)?平成27年1月4日(日)

     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】名古屋城本丸御殿襖絵

2013年12月19日 | □旅

















     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】ルミナリエ

2013年12月18日 | □旅

















     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】薄氷

2013年12月17日 | □旅
 詩仙堂にて。

  

     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】冬の旅

2013年11月26日 | □旅
 11月22日。米子鬼太郎空港ターミナル店「炉端かば」にて。「海鮮ちらし」。
 
  


 同。米子鬼太郎空港の上空にて。大山、日野川、米子平野。

 


 11月24日。上野にて。国立西洋美術館付近。

  


 同。国立西洋美術館正面。次回展覧会の「モネ」の掲示が見える。

  


 同。国立西洋美術館前庭にて。「秋思」とでも題すべきか。

  


 同。国立西洋美術館「常設展」にて。ピーター・ブリューゲルの長男による「鳥罠のある冬景色」。
  


 同。東京都美術館にて。「【特別展】ターナー展 Turner from the Tate: the Making of a Master」の掲示が見える。

  


 同。東京都美術館入口付近。

  


 同。東京国立博物館日本館。
 
  


 同。東京国立博物館平成館。「特別展「京都―洛中洛外図と障壁画の美」。

  


 同。東京国立博物館。「秋の庭園開放」。

  


 同。東京国立博物館。「秋の庭園開放」。

  


 11月25日。八重洲ブックセンターにて。

  


 同。羽田空港第2ターミナルにて。「御門屋」の「揚げもち」。

  


 同。米子鬼太郎空港にて。国内線手荷物受取所。

  

     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【絵画】ジャンヌ・サマリーの肖像

2013年11月12日 | □旅
(1)「プーシキン美術館展 フランス絵画300年
 (a)期間:2013年9月28~12月8日
 (b)場所:神戸市立博物館

(2)「ジャンヌ・サマリーの肖像」
 (a)画家・・・・ピエール=オーギュスト・ルノワール
 (b)制作年・・・・1877年

   

(3)鑑賞のポイント
 (a)両目(瞳・目頭)、小指の指環(白色)が観る者の視線を集める。これら3点は逆三角形をなし、画面に安定感を与える。
 (b)モデルの個性を活かしつつ、夢見るような、可愛らしい、上品な女性、いわば「理想的な肖像画」をルノアールは創り出した。
 (c)ピンクの背景の中に、ところどころ使われている青・緑はピンクの補色に近い。補色は、互いを引き立て合う。
 (d)赤い唇と頬のチークが、若くて瑞々しい肌の血色をよくし、ジャンヌの愛らしさを引き立てる。
 (e)胸の大きく開いたドレスは、当時の流行のスタイル。舞台女優はパリ社交界の華で、彼女たちはトレンドを左右した。
 (f)頬杖は、伝統的に憂鬱を表すものとして描かれてきた。この作品ではしかし、観る人の視線をジャンヌの顔に集中させるための仕掛けだ。微笑むジャンヌの顔を、より強く印象づける。
 (g)印象派は、パレットで絵具の色を混ぜず、画面上に直接色を置く(「筆触分割」)。遠くから見たとき、色彩が目の中で溶け合う(「視覚混合効果」)。ジャンヌのドレスの縁取りを見よ。1色ではなく、緑・紺など様々な色を組み合わせている。

(4)佳人薄命

   

 当時20歳のジャンヌは、サラ・ベルナールのような一流の女優を夢見ていた。しかし、現実には、あまり売れない女優だった。降りてくるのは、喜劇の女中役ばかり。
 サラは、パリ演劇界の女王であった。
 シャルパンティエ夫人を介して、肖像画のモデル申込みがあった。画家のオーギュスト・ルノアールの名も印象派のことも、ジャンヌは聞いたことがない。
 自分が有名になるステップだ、とシャルパンティエ夫人からさとされた。ルノアールは何時か有名になるし、と。ジャンヌは受けた。
 当時37歳のルノアールは、磁器の絵付けをする職人出身の画家で、ジャンヌを目当てに芝居に頻繁に通っていた。
 会ってみてジャンヌが受けた印象は、「まあ、何て風采のあがらない絵描きだろう」。
 モデルになるのは承知した。とはいえ、
 「ずいぶん変わった色づかいの絵を描くのね」
 「アトリエがとてもきちんと片づいているのね」
 できあがったジャンヌの肖像は印象派展に出品された。しかし、誰も買う者はなく、ジャンヌが自分で買った。「まあ、あたしの初めての肖像画だし」
 作品は売れなかったが、ルノアールの友人たちは「あんな幸せそうな満ち足りた顔は久々に目にするぜ」と好意的だった。天衣無縫とは彼女のためにある言葉だな、云々。
 ルノアールは、新たなジャンヌ像を官展に出品した。ジャンヌが見ても、実物よりほっそりして、気品があって。
 ルノアールは告げた。「実物のあなたはこの絵よりもっと素敵ですよ」
 それは彼にとって、お世辞ではなかった。
 官展では、ある肖像画が評判になった。サラ・ベルナールの肖像画が。
 挫折感を味わったジャンヌは、二度とモデルにならなかった。
 やがて、裕福な投資家の息子、ポール・ラガルトと結婚し、3人の娘をもうけ、幸せな家庭を築いた・・・・が、好事魔多し。1890年、腸チフスにより逝去。享年33。
 ジャンヌの死後、彼女の所有していた肖像画はデュラン=リエル画廊に売却された。そこからロシアの大富豪、モロゾフの手にわたった。
 別名「夢想」と呼ばれる「ジャンヌ・サマリーの肖像」は、今日、プーシキン美術館が所蔵している。印象派時代のルノアールが描いた最高の肖像画と目される。

   

□市川裕一・編『プーシキン美術館展 フランス絵画300年 公式ガイドブック』(朝日新聞出版、2013)
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】「古代ハスの園」

2013年08月14日 | □旅
 「伯耆古代の丘公園・白鳳の里」の一部、「「古代ハスの園」」にて。

 【紅舞妃蓮】


 【誠蓮】


 【ネール蓮】


 【粉松球】


 【鶴頂紅蓮】


 【淀姫】


 【八重茶碗蓮】


 【鼓浪小紅蓮】


 【落霞映雪】


 【鶴頂紅蓮】


 【仏座蓮】


 【白万々】


 【白繍蓮】


 【白光蓮】


 【輪王蓮】


 【端光蓮】


 【金輪蓮】


 【ネール蓮】


 【粉松球】


 【誠蓮】


 【紅舞妃蓮】


     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【旅】濱田珠凰「指画の世界」展

2013年05月27日 | □旅
 (1)十年前かもう少し前、「とっとり花回廊」【注1】の一角で作品展を開いていた濱田珠凰【注2】さんと出会った。ちょっと話を交わし、名刺を渡したら、その後きちょうめんに毎年賀状をくださる。

 (2)珠凰さんは、米子市在住の「指画」家。中国で指画を修め、米子市を拠点に創作を続けている。
 彼女の個展が米子天満屋で開催中だ(本日27日まで)。地元での個展は7年ぶり。今展では、4枚屏風の龍の図をはじめ、花鳥風月を題材とする70点を出品する。観音菩薩を描いた早乙女太一の舞台衣装も特別出展されている。
 実演も3日、計6回あり、写真はそのスナップ。

 (3)石川光男・国際基督教大学名誉教授によれば【注】・・・・
 珠凰さんの筆を使わずに指と爪で描く画法は、国際的に評価が高い。
 眼光鋭い鷹や龍の強烈な迫力、牡丹や葡萄のみずみずしい生気は、絵に対する情熱と逆境の中での精進、天賦の才能によることは言うまでもないが、その奥深さの鍵は珠凰さんの次の述懐に秘められている。
 珠凰さんいわく、「絵は私一人の力で描いているのではない。自分の力だけに頼ったときに絵の質が低下する」。
 これは、日本の先達が到達した無我の境地だ。濱田さんは絵を描いているのではなく、描かされている。
 西洋では、自我を重視する。これに対して東洋、特に日本では無我を重視する。無我無心とは、主体性を失った状態ではなく、心身が自由闊達となり、他との一体感が生まれる。日本の武道や禅では、この境地を求めて多くの先達が精進を重ねた。この境地で対象に思いを込めるとき、主体の「気」が対象に浸透する。
 濱田さんの絵が気を発するのは、彼女に絵を描かせている何ものかの気が絵に乗り移っているからだ。珠凰さんに乗り移った龍の気迫。葡萄のみずみずしさは、この画家の心が感じた葡萄の生気にほかならない。
 気は理性や科学で理解するものではなく、直感で感ずべき世界だ。
 珠凰さんの絵がブータンをはじめとする各国各地の寺社に奉納されるのは、このような物心一如の世界への共感が背景になっている。

 【注1】「鳥取県立フラワーパーク
 【注2】「濱田珠凰オフィシャルブログ
 【注3】石川光男「気を発す無我の境地 ~濱田珠凰「指画の世界」展~」(2013年5月23日付け日本海新聞)。同氏には、「無我の境地が生む技の奥義」の評もある。
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

  

  

  

 【参考】
【旅】ゴッホ展/空白のパリを追う ~学際的アプローチ~
【旅】ジュディ・オングの版画 ~日本家屋または京都の再発見~
【旅】美の響演 関西コレクションズ
【旅】松江 ~須田国太郎を追って~
【旅】エル・グレコから宮永愛子まで
【旅】復興を絵画で表現できるか ~平町公の試み~
【旅】彫刻の街 ~鑑賞者の存在意義・考~
【旅】島根県立美術館 ~震災復興支援特別企画 ふらんす物語~
【言葉】手のなかの空/奈良原一高 1954-2004
【旅】オーストリア ~グラーツ~
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする