1940年体制を構成するいま一つの重要な要素は、「日本型企業」である。これは、企業別労働組合、年功序列賃金、終身雇用によって構成される。
これらも、日本経済の変貌に伴って、大変化が見られた。ことに90年代後半以降、製造業の成長が頭打ちになるにつれ、顕著になった。労働組合の影響力は低下し、終身雇用は保障されなくなった。雇用構造が正規労働者を中心とするものから転換し、非正規労働者が増加した。賃金構造も変わった。
しかし、次の面では「日本型企業」が根強く残っている。40年体制を構成する要素の中で最後まで残ったものが、これだ。そして、日本経済の改革に対する大きな阻害要因になっている。
(1)閉鎖性
日本型企業は、閉鎖的で、外に開かれていない。
企業間の労働力移動は、いまだに限定的だ。とりわけ、企業の幹部や幹部候補生が企業間を移動することは、めったにない。経営者が内部昇進者であることは、少なくとも大企業に関するかぎり、まったく変わっていない。
日本には、経営者の市場が存在しない。経営が組織の範囲を超えた普遍的な専門技術であるという認識がないからだ。日本の大企業で、内部昇進のルートをとらない最高幹部が誕生したのは、経営破綻した企業か(日本航空)、その後身か(新生銀行)、経営危機に陥った企業(日産自動車)でしか見られない。
大企業の幹部は、経営の専門家ではなく、その組織の内部事情(とりわけ人的関係)の専門家であり、過去の事業において成功してきた人々だ。よって、企業経営の究極的目的は、これまで築いてきた企業の姿と、従業員の共同体を維持することに置かれる。時代の変化に適応して企業の事業内容を変化させることは、相対的に下位の目標とされる。環境が変わっても、過去に成功した事業を捨てない。過去に成功した人々が実験を握っているから、過去の成功にとらわれて、変化する世界の中で変革を拒否する。
かくて、本来は未來を開く推進力となるべき企業が現状維持勢力となってしまう。世界経済の大変化にもかかわらず、これまでのビジネスモデルを継続することに汲々とし、企業の存続だけを目的とするようになる。
(2)市場経済システムの否定
日本型企業は、市場経済システムに対する否定的な考えに強く影響されている。
株式会社制度は、株式の売買が自由に行われることを前提にしている。業績のふるわない企業の株価が下落し、経営に影響が及ぶことが期待されている。
しかし、日本の大企業の多くは、株式の持ち合いによって、こうした圧力から守られている。外貨の導入に強く抵抗する。このため、市場の圧力が経営に影響しない。この意味においても、日本の大企業は閉鎖的である。
日本経団連は、こうした考えを正当化している。資本主義の根本原理を否定し、資本の論理に任せるな、と主張している。きわめて奇妙な光景だが、経団連は戦時期の「統制会」の上部団体が1945年に名称を変えたものだ。当然いえば、当然のことだ。
新しい産業が生まれる力は市場に存在する。その力は、上記のようなメカニズムが働くことで、日本経済から失われている。その結果、日本経済はグローバルなスタンダードから外れ、衰退していく。
経済に活力が失われ、新しく発展するよりも従来のものを守りたい欲求が強まると、高度成長期以上に1940年体制的な色彩が濃厚になる。
(3)「アカ」の過激思想家・岸信介
(1)と(2)の日本企業の特性は、日本社会の必然であり日本社会に固有のものである・・・・わけではない。戦前の日本企業は、戦時と日本企業とはきわめて異質なものだった。日本にも「欧米流の資本主義」があった。
株主が会社の経営者を選任し、経営の基本を決めるのが株式会社制度だ。形式的には日本企業もこの形態をとっているが、形骸化している。
しかし、戦前の日本では、株主の影響力が強く、実態もそうだった。ところが、戦時経済改革によって銀行融資の重要性が高まったため、企業構造は大きく変質した。とくに大企業においては、株主の影響力は形骸化し、企業は実質的には経営者と従業員の共同体になった。
これは、社会主義経済における国営企業に近い。日本の経済史は、1940年前後に大きな不連続を経験している。
商工次官岸信介をはじめとする「革新官僚」は、「所有と経営の分離」をめざした。公共的な目的への奉仕だ。このため、配当を統制し、企業が「資本に拘束せらることなく生産の確保増強及び拡大再生産に対する国家的責任」を果たせるようにしようとした。
当時の財界は、市場経済の思想にのっとって、強く反対した。当時の日本では、岸は「アカ」の思想の持ち主とされた。
今日、岸は「保守反動政治家」の代表選手と目されている。日本人の考えは、戦時期を経てガラッと変わったのだ。
40年当時の革新官僚の「過激な思想」は、戦後日本の標準になった。そして、今の日本でも当たり前のものと考えられている。
(4)国際競争
日本企業は資本面で国際競争にさらされていない。だから、日本企業は変革できない。資本面からみると、日本は鎖国状態にある。
このため、経営者は直接競争にさらされることがない。競争は、経済パフォーマンスを向上させる最も基本的な手段だ。日本では、製品の競争はあっても、経営者や資本面の競争はない。
外資に対して、日本の経済界はつねに「脅威」と警戒する。しかし、外国の資本が日本に入ってくるのは、従業者にとっては歓迎するべきことだ。経営に刺激を与えて日本経済を活性化する、と期待されるからだ。
2007年に三角合併が解禁されたが、ほとんど効果をあげなかった。経団連は強く反対し、経産省も海外企業進出事案に反対した。日本企業は必死に防衛策を固めた。
かつては、どの国も程度の差はあれ、外国資本の進出にはネガティブだった。80年代に日本が米国を買ったときにも、米国国内で強い拒否反応が起きた。
しかし、これに関する状況は、90年代に大きく変わった。そして、外国企業の進出にオープンな姿勢をとった国が発展した。その典型は、英国とアイルランドである。
*
以上、参考文献の第11章「3 最後に残った40年体制:日本型企業」に拠る。
これに続く「4 未來を開くために何が必要か」において、野口は日本が対処する方法を示す。第一、古いものの生き残りや現状維持を助けない。第二、このままでは生き残れないと認識する。また、日本経済活性化のために、人材と資本で日本を外に向かって開き、「閉じこもり」から脱却することを説く。詳しくは、本書をご覧いただきたい。
【参考】『増補版 1940年体制 -さらば戦時経済-』(東洋経済新報社、2010)
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これらも、日本経済の変貌に伴って、大変化が見られた。ことに90年代後半以降、製造業の成長が頭打ちになるにつれ、顕著になった。労働組合の影響力は低下し、終身雇用は保障されなくなった。雇用構造が正規労働者を中心とするものから転換し、非正規労働者が増加した。賃金構造も変わった。
しかし、次の面では「日本型企業」が根強く残っている。40年体制を構成する要素の中で最後まで残ったものが、これだ。そして、日本経済の改革に対する大きな阻害要因になっている。
(1)閉鎖性
日本型企業は、閉鎖的で、外に開かれていない。
企業間の労働力移動は、いまだに限定的だ。とりわけ、企業の幹部や幹部候補生が企業間を移動することは、めったにない。経営者が内部昇進者であることは、少なくとも大企業に関するかぎり、まったく変わっていない。
日本には、経営者の市場が存在しない。経営が組織の範囲を超えた普遍的な専門技術であるという認識がないからだ。日本の大企業で、内部昇進のルートをとらない最高幹部が誕生したのは、経営破綻した企業か(日本航空)、その後身か(新生銀行)、経営危機に陥った企業(日産自動車)でしか見られない。
大企業の幹部は、経営の専門家ではなく、その組織の内部事情(とりわけ人的関係)の専門家であり、過去の事業において成功してきた人々だ。よって、企業経営の究極的目的は、これまで築いてきた企業の姿と、従業員の共同体を維持することに置かれる。時代の変化に適応して企業の事業内容を変化させることは、相対的に下位の目標とされる。環境が変わっても、過去に成功した事業を捨てない。過去に成功した人々が実験を握っているから、過去の成功にとらわれて、変化する世界の中で変革を拒否する。
かくて、本来は未來を開く推進力となるべき企業が現状維持勢力となってしまう。世界経済の大変化にもかかわらず、これまでのビジネスモデルを継続することに汲々とし、企業の存続だけを目的とするようになる。
(2)市場経済システムの否定
日本型企業は、市場経済システムに対する否定的な考えに強く影響されている。
株式会社制度は、株式の売買が自由に行われることを前提にしている。業績のふるわない企業の株価が下落し、経営に影響が及ぶことが期待されている。
しかし、日本の大企業の多くは、株式の持ち合いによって、こうした圧力から守られている。外貨の導入に強く抵抗する。このため、市場の圧力が経営に影響しない。この意味においても、日本の大企業は閉鎖的である。
日本経団連は、こうした考えを正当化している。資本主義の根本原理を否定し、資本の論理に任せるな、と主張している。きわめて奇妙な光景だが、経団連は戦時期の「統制会」の上部団体が1945年に名称を変えたものだ。当然いえば、当然のことだ。
新しい産業が生まれる力は市場に存在する。その力は、上記のようなメカニズムが働くことで、日本経済から失われている。その結果、日本経済はグローバルなスタンダードから外れ、衰退していく。
経済に活力が失われ、新しく発展するよりも従来のものを守りたい欲求が強まると、高度成長期以上に1940年体制的な色彩が濃厚になる。
(3)「アカ」の過激思想家・岸信介
(1)と(2)の日本企業の特性は、日本社会の必然であり日本社会に固有のものである・・・・わけではない。戦前の日本企業は、戦時と日本企業とはきわめて異質なものだった。日本にも「欧米流の資本主義」があった。
株主が会社の経営者を選任し、経営の基本を決めるのが株式会社制度だ。形式的には日本企業もこの形態をとっているが、形骸化している。
しかし、戦前の日本では、株主の影響力が強く、実態もそうだった。ところが、戦時経済改革によって銀行融資の重要性が高まったため、企業構造は大きく変質した。とくに大企業においては、株主の影響力は形骸化し、企業は実質的には経営者と従業員の共同体になった。
これは、社会主義経済における国営企業に近い。日本の経済史は、1940年前後に大きな不連続を経験している。
商工次官岸信介をはじめとする「革新官僚」は、「所有と経営の分離」をめざした。公共的な目的への奉仕だ。このため、配当を統制し、企業が「資本に拘束せらることなく生産の確保増強及び拡大再生産に対する国家的責任」を果たせるようにしようとした。
当時の財界は、市場経済の思想にのっとって、強く反対した。当時の日本では、岸は「アカ」の思想の持ち主とされた。
今日、岸は「保守反動政治家」の代表選手と目されている。日本人の考えは、戦時期を経てガラッと変わったのだ。
40年当時の革新官僚の「過激な思想」は、戦後日本の標準になった。そして、今の日本でも当たり前のものと考えられている。
(4)国際競争
日本企業は資本面で国際競争にさらされていない。だから、日本企業は変革できない。資本面からみると、日本は鎖国状態にある。
このため、経営者は直接競争にさらされることがない。競争は、経済パフォーマンスを向上させる最も基本的な手段だ。日本では、製品の競争はあっても、経営者や資本面の競争はない。
外資に対して、日本の経済界はつねに「脅威」と警戒する。しかし、外国の資本が日本に入ってくるのは、従業者にとっては歓迎するべきことだ。経営に刺激を与えて日本経済を活性化する、と期待されるからだ。
2007年に三角合併が解禁されたが、ほとんど効果をあげなかった。経団連は強く反対し、経産省も海外企業進出事案に反対した。日本企業は必死に防衛策を固めた。
かつては、どの国も程度の差はあれ、外国資本の進出にはネガティブだった。80年代に日本が米国を買ったときにも、米国国内で強い拒否反応が起きた。
しかし、これに関する状況は、90年代に大きく変わった。そして、外国企業の進出にオープンな姿勢をとった国が発展した。その典型は、英国とアイルランドである。
*
以上、参考文献の第11章「3 最後に残った40年体制:日本型企業」に拠る。
これに続く「4 未來を開くために何が必要か」において、野口は日本が対処する方法を示す。第一、古いものの生き残りや現状維持を助けない。第二、このままでは生き残れないと認識する。また、日本経済活性化のために、人材と資本で日本を外に向かって開き、「閉じこもり」から脱却することを説く。詳しくは、本書をご覧いただきたい。
【参考】『増補版 1940年体制 -さらば戦時経済-』(東洋経済新報社、2010)
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