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語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】原発震災の共犯者 ~原発中毒の社会学~

2011年12月27日 | 震災・原発事故
 開沼博『「フクシマ」論』(青土社、2011)は、原発立地地域の歴史を戦後史に位置づけ、「原発中毒」と分析した。ヤク中やアル中と同じように、「もっと原発を」という逃れられないサイクルに陥った、と。問題は、そのサイクルに自らはまっていったのか、それとも強制されたか、だ。【上野千鶴子】
 現実は、おそらく「喜びながら」原発を受容した側面があった。【開沼博】  
 環境社会学の概念で言えば、(a)利益を得る「受益圏」=原発の電力供給を受けている大都市圏の私たち。(b)苦しみを味わう「受苦圏」=迷惑施設を造られて困る地元の人たち、という構図だ。(a)と(b)が重ならないのが公害の本質だが、よく見ると、地元の人たちも利益を得る構造があったわけだ。【上野】
 外から見ると(b)だが、中に入ってみると苦しみだけではない。だからこそ、原発中毒の構図が固定化した。【開沼】
 未来を見出せずに都会に出ていく子どもや孫を、もしかしたら原発によって引き留めることができるかもしれない、という悲願があったのだろう。【上野】
 原発は1ヵ所で1万人規模の雇用を作り出す。【開沼】
 沖縄の米軍基地問題と構造的に似ている。基地誘致を自己決定したわけではないが、基地経済への依存がある。沖縄振興特別措置法があるから生活が成り立っている。基地がなくなれば食い詰めてしまう人たちがいる。【上野】
 原発のある地域と同じだ。【開沼】

 「原発を選んだのはリスクも込みだった」という自己責任・自己決定論をどう考えるか。【上野】
 「一億総懺悔」と同様の思考停止状態が生まれかねない。【開沼】
 それはまずい。天皇の戦争責任と庶民の戦争責任を一緒にできないのと同じだ。東電にしても、経営者、株主、社員、それぞれの立場に応じて責任の軽重は問うべきだ。【上野】
 彼らも、安全確保に努め、みんなが楽しく生活できるようにしよう、というある種の「善意」があるはずだ。だからといって全肯定できないが、推進側の「善意」にも留意する必要がある。【開沼】
 破局への道は善意で敷き詰められている、とも言う。反省するには、責任を明らかにすることが大事だ。原発事故に至る過程では、それぞれの場面で誰かが意思決定していた。その中には、決定権の大きい人も小さい人もいたはず。受益とともにリスクを引き受けた、とは言えまい。【上野】
 日本全体として「夢のエネルギー・原子力」を受け入れ、たまたま貧しかった福島にそれが実現した。40年たって自己責任論を持ち出すのは酷だ。【開沼】
 その点、『「フクシマ」論』でポストコロニアリズムを論じたのはすごく意味がある。経済力も構造的な暴力だ。選択肢のないコーナー際に追い詰められた地方の人たちが同意を強制されて、一体誰がノーと言えたか。【上野】
 一方に原子力行政・産業という中央の「原子力ムラ」、他方に原子力と手を携えることで戦後社会を生き延びてきた農漁村=地方の「原子力ムラ」がある。両者の内実を見ることで、多くの人が悪いイメージをもつ原発が40年間も維持されてきた謎が解ける。【開沼】

 どれだけ犠牲を出せば、原発はいらないと判断できるのか。今回の被曝は十二分な犠牲であり、高すぎた授業料だ。社会学者として分析してほしい。【上野】
 外の人は原発推進か反対か、と問うが、原発のある地域の人はそういう問いの立て方をしない。「それは地元にとっていいか、悪いか」が基準だ。地元のためになる、と原発を選んできた。【開沼】
 目前の短期利益が長期利益に反する、という結果が出たのが今回の原発事故だ。次世代までツケがまわる、という認識はなかったのか。【上野】
 科学的なリスクより生活上のリスクが優先課題だ。うちは年寄りを抱えている、とか、子どもの進学問題がある、とか。地元の人なりに長期利益を考えた結果が現在の状態だ。【開沼】

 社会科学は規範科学だから自分の価値観が入るのは当然。本当は、言いたいことがあるのでは?【上野】
 知識人や反対運動の側に、「なぜ40年前から反原発運動やその思想がある中で、原発を維持し、このような結果をもたらしたのか」という根本的な問いへの意味ある反省が出てこない。外に敵を作ることに熱心になっているが、これはあなた自身の問題だ、と言いたい。【開沼】
 原発反対派が「成功」できなかった責任も問われなければならない。ヨアヒム・ラートカウ(ドイツの環境歴史学者)はこう指摘する。「ドイツの反原発運動の成功は、市民の抗議やメディア、政治、行政、司法、そして学問の相互作用からも説明される。日本ではダイナミックな相互作用がほとんど展開されていない」・・・・こういう分析を聞くと辛い。【上野】
 野鳥保護団体は、風力発電のプロペラが希少猛禽類を真っ二つにして殺してしまう、と発表した。推進派学者は「そのリスクは0.00何%にすぎない」、行政官は「地域振興策として意味あるから、鳥のことは卑小な問題だ」、メーカーは「技術が進めば大丈夫」・・・・原子力ムラと何も変わらない。「脱原子力ムラ」に置き換わっただけだ。【開沼】

 3・11のショックは大きかった。これだけの犠牲を払っても日本を変えられないのなら、一体誰がどうやったら変えられるのか。若い人に問いかけたい。【上野】
 変わることへの期待感が持てない中、変える意欲がなくなり、「他人任せ」になっているのかも。しかし、「変わらない」と思わせた責任の一端は先行世代にもある。【開沼】
 ドイツでは学生運動を繰り広げた「68年世代」が緑の党をつくった。日本では全共闘を体験した私たち68年世代が政治権力の中枢に入れず、政治的影響力を持つことに失敗した。それがなぜなのかを考えなきゃいけないと、今つくづく思う。【上野】
 それぞれの世代、それぞれの立場で、「誰かが悪い」と言って切り捨てないで「自分のどこが悪かったのか」と考える余地はある。その中にこそ答があるように思う。【開沼】

 以上、対談:上野千鶴子/開沼博「わたしたちは「共犯者」なのか」(「サンデー毎日」2011年1月1・8日号)に拠る。
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