福祉大会(横浜大会)の第三分科会「最新の補聴器と人工内耳」で、講師の大沼直紀先生がFM補聴器を説明するにあたり、一枚のスライドをスクリーンに投影すると、会場がどよめいた。映っていたのは、第70代ミス・アメリカだった。
ヘザー・ホワイトストーン・マッカラムは、1994年に史上初めて障害者としてミス・アメリカに選ばれた。
そのヘザーの半生を母親が綴ったのが『ミス・アメリカは聞こえない』。以下は、その読書メモ。
なお、ヘザーは、2002年8月7日に人工内耳の手術を受けた。
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(1)ミス・アメリカというと、華やかなイメージをかきたてる。じじつ、本書にも華やかな舞台がつづられる。
だが、ミス・アメリカは、容姿だけで選ばれるのではない。社会貢献、明確な主張、審査員も聴衆も巻きこむカリスマ的魅力が必要である。だから、最終選考まで残るには、きびしい訓練と周到な準備が求められる。
ヘザー・ホワイトストーンが1995年度のミス・アメリカの栄冠を得るには、さらに乗り越えるべきもうひとつ障壁があった。審査員の質問をただしく聞きとる、という難関である。彼女の片耳はまったく聞こえず、他の耳も残存聴力は5%にすぎなかった。唇のうごきに視線をあてて「聞いて」いたのである。
(2)本書は、難聴児の教育のために奮闘した母親の手記である。
ひと言でいえば、奮闘。娘に合った教育・訓練プログラムをもとめて全米を文字どおり駆けずりまわった。また、セラピーを学ぶため通信教育を受けたり、遠隔地のリハビリテーション施設でスクーリングを受けた。地域や教育機関をうごかして、娘や同じ立場の子どもたちのために教育体制をととのえさせる活動もおこなった。
母ダフネの心身の負担は察するにあまりがある。
もとより経済的負担は過大で、父は切れてしまった。いつも経済的に苦しく、人生の重荷をつねに背おわされているのにはうんざりした、と。かくて離婚する。無理もない、とダフネは理解をしめすが、その精神的苦痛はたいへんなものだったらしい。抑制された筆致で伝えているが、夫や娘たちに狂態を見せることもあったらしい。醜悪なののしりあいがあった、とも書いている。
本書の価値は、このあたりにもある。きれい事ですまさず、ストレスや経済的な困窮を率直につづっているのだ。そして、それを簡潔に書きとどめるだけの節度が著者にはある。
父親ビルが悪いのではない。母親ダフネが立派なのではない。問題は、一定の発生率で発生する障害児の療育、育成と教育を個人的努力に大きく負わせる社会体制にあるのだ。
(3)ここまでは、どの障害児の保護者にも共通する話だ。
しかし、本書は、難聴児のコミュニケーション手段の選択とその結果について詳述されている点で特筆に値する。
就学前に、ダフネは、ヘザーの将来にとって決定的な選択をする。選択肢は5つ。
(a)手話のみ(伝統的手話コースと英語対応手話コースに分かれる)。
(b)トータルコミュニケーション(手話と口話の双方を取り入れる)。
(c)キュードスピーチ(読話の補助となるよう音韻を手であらわす)。
(d)多感覚アプローチの口話法(視覚、残存聴力、触覚を使用。読話も含む)。
(e)聴覚法の口話法(残存聴力のみを使用する)。
方々を見学した結果、ダフネは(e)の一つ、アクーペディック法を選択する。そして、地域中探しまわって、アクーペディック法を取り入れてみようというスピーチセラピストを見つけ、週2回、ヘザーを通わせた。
だが、幼稚園でも小学校でもヘザーの理解力、表現力は伸びなかった。ダフネは退職し、ヘザーの専属教師となった。
(4)転機は、ヘザーが11歳のときにやってきた。ミズーリ州セントルイスにあるろう中央研究所ろう学校(CID)に転校したのである。ヘザーの進歩はいちじるしかった。
しかし、手話を使うろう者のなかで、口話を使うヘザーは疎外感をあじわった。聞こえる者の世界と聞こえない者の世界のどちらにも属していない、と感じた。
ダフネが手話を受け入れるのは、ろう者が少なからず通っているジャクソン州立大学を進学先としてヘザーが選んだときである。口話能力はしっかり身についた、もう手話を学んでもいいだろう・・・・。ハイスクールは英語手話の学科を開設し、聞こえる生徒12人も参加した。ヘザーは、その一人と親友になった。この経過を要約すれば、
①重度の難聴児のコミュニケーション手段を親が決定している。
②親が選んだ口話は子にアイデンティティの未確立(聞こえる者の世界と聞こえない者の世界のどちらに属するのか不明)という課題を残した。
③口話を身につけた後に手話に接近している。
となると、就学前の選択肢の(3)-(b)、トータルコミュニケーションが最適だったのかもしれない。しかし、ダフネは、娘を聞こえる者の世界に置いたことを終始疑っていない。その是非は問うまい。というより、誰にもその是非を問うことはできないだろう。人生観、世界観の選択だからだ。ただ、親の選択が必然的に子の選択となる点で、割りきれない問題を残す。
(5)公立とはいえ、大学の費用の全額を出す余裕はダフネにはなかった。ヘザーの場合、学ぶだけでエネルギーのすべてをとられるから、アルバイトは難しい。財政事情を知るダフネの同僚が、ミス・ジュニア・スカラーシップ・コンテストを紹介してくれた。受賞すれば、学費が手に入る・・・・。
かくて、ミス・ジャクソン州立大学コンテスト、ミス・アラバマ・コンテスト、そしてミス・アメリカ・コンテストの道を歩んでいくことになるのだが、成功への歩みは、本書では付け足しのように思われる。
□ダフネ・レイ(高村真理子、瀧澤亜紀共訳)『ミス・アメリカは聞こえない -聴覚障害児を育てた母親の記録-』(径書房、2000)
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ヘザー・ホワイトストーン・マッカラムは、1994年に史上初めて障害者としてミス・アメリカに選ばれた。
そのヘザーの半生を母親が綴ったのが『ミス・アメリカは聞こえない』。以下は、その読書メモ。
なお、ヘザーは、2002年8月7日に人工内耳の手術を受けた。
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(1)ミス・アメリカというと、華やかなイメージをかきたてる。じじつ、本書にも華やかな舞台がつづられる。
だが、ミス・アメリカは、容姿だけで選ばれるのではない。社会貢献、明確な主張、審査員も聴衆も巻きこむカリスマ的魅力が必要である。だから、最終選考まで残るには、きびしい訓練と周到な準備が求められる。
ヘザー・ホワイトストーンが1995年度のミス・アメリカの栄冠を得るには、さらに乗り越えるべきもうひとつ障壁があった。審査員の質問をただしく聞きとる、という難関である。彼女の片耳はまったく聞こえず、他の耳も残存聴力は5%にすぎなかった。唇のうごきに視線をあてて「聞いて」いたのである。
(2)本書は、難聴児の教育のために奮闘した母親の手記である。
ひと言でいえば、奮闘。娘に合った教育・訓練プログラムをもとめて全米を文字どおり駆けずりまわった。また、セラピーを学ぶため通信教育を受けたり、遠隔地のリハビリテーション施設でスクーリングを受けた。地域や教育機関をうごかして、娘や同じ立場の子どもたちのために教育体制をととのえさせる活動もおこなった。
母ダフネの心身の負担は察するにあまりがある。
もとより経済的負担は過大で、父は切れてしまった。いつも経済的に苦しく、人生の重荷をつねに背おわされているのにはうんざりした、と。かくて離婚する。無理もない、とダフネは理解をしめすが、その精神的苦痛はたいへんなものだったらしい。抑制された筆致で伝えているが、夫や娘たちに狂態を見せることもあったらしい。醜悪なののしりあいがあった、とも書いている。
本書の価値は、このあたりにもある。きれい事ですまさず、ストレスや経済的な困窮を率直につづっているのだ。そして、それを簡潔に書きとどめるだけの節度が著者にはある。
父親ビルが悪いのではない。母親ダフネが立派なのではない。問題は、一定の発生率で発生する障害児の療育、育成と教育を個人的努力に大きく負わせる社会体制にあるのだ。
(3)ここまでは、どの障害児の保護者にも共通する話だ。
しかし、本書は、難聴児のコミュニケーション手段の選択とその結果について詳述されている点で特筆に値する。
就学前に、ダフネは、ヘザーの将来にとって決定的な選択をする。選択肢は5つ。
(a)手話のみ(伝統的手話コースと英語対応手話コースに分かれる)。
(b)トータルコミュニケーション(手話と口話の双方を取り入れる)。
(c)キュードスピーチ(読話の補助となるよう音韻を手であらわす)。
(d)多感覚アプローチの口話法(視覚、残存聴力、触覚を使用。読話も含む)。
(e)聴覚法の口話法(残存聴力のみを使用する)。
方々を見学した結果、ダフネは(e)の一つ、アクーペディック法を選択する。そして、地域中探しまわって、アクーペディック法を取り入れてみようというスピーチセラピストを見つけ、週2回、ヘザーを通わせた。
だが、幼稚園でも小学校でもヘザーの理解力、表現力は伸びなかった。ダフネは退職し、ヘザーの専属教師となった。
(4)転機は、ヘザーが11歳のときにやってきた。ミズーリ州セントルイスにあるろう中央研究所ろう学校(CID)に転校したのである。ヘザーの進歩はいちじるしかった。
しかし、手話を使うろう者のなかで、口話を使うヘザーは疎外感をあじわった。聞こえる者の世界と聞こえない者の世界のどちらにも属していない、と感じた。
ダフネが手話を受け入れるのは、ろう者が少なからず通っているジャクソン州立大学を進学先としてヘザーが選んだときである。口話能力はしっかり身についた、もう手話を学んでもいいだろう・・・・。ハイスクールは英語手話の学科を開設し、聞こえる生徒12人も参加した。ヘザーは、その一人と親友になった。この経過を要約すれば、
①重度の難聴児のコミュニケーション手段を親が決定している。
②親が選んだ口話は子にアイデンティティの未確立(聞こえる者の世界と聞こえない者の世界のどちらに属するのか不明)という課題を残した。
③口話を身につけた後に手話に接近している。
となると、就学前の選択肢の(3)-(b)、トータルコミュニケーションが最適だったのかもしれない。しかし、ダフネは、娘を聞こえる者の世界に置いたことを終始疑っていない。その是非は問うまい。というより、誰にもその是非を問うことはできないだろう。人生観、世界観の選択だからだ。ただ、親の選択が必然的に子の選択となる点で、割りきれない問題を残す。
(5)公立とはいえ、大学の費用の全額を出す余裕はダフネにはなかった。ヘザーの場合、学ぶだけでエネルギーのすべてをとられるから、アルバイトは難しい。財政事情を知るダフネの同僚が、ミス・ジュニア・スカラーシップ・コンテストを紹介してくれた。受賞すれば、学費が手に入る・・・・。
かくて、ミス・ジャクソン州立大学コンテスト、ミス・アラバマ・コンテスト、そしてミス・アメリカ・コンテストの道を歩んでいくことになるのだが、成功への歩みは、本書では付け足しのように思われる。
□ダフネ・レイ(高村真理子、瀧澤亜紀共訳)『ミス・アメリカは聞こえない -聴覚障害児を育てた母親の記録-』(径書房、2000)
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