語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】東京電力の、下請け作業員の使い捨て

2011年04月03日 | 震災・原発事故
 1976年6月、福島第一原発の労働者の間で、被曝によるガン死が相次いでいる、という情報を得て、恩田勝亘は福島県の浜通り、別称“原発銀座”を訪ねた。
 福島原発に関連するガン死は複数あった。下請け企業の電気技師(30代)、近郊農家から来ていた清掃作業員(50代)、核燃料を原子炉に装架する作業に従事していた運転手(30代)・・・・原発の雇用体系は重層的だ。電力会社が原子炉を作る重電メーカーに発注し、その下に二次、三次と下請け企業が連なる。
 原発の管理区内で働く者には、放射線管理手帳の携帯が義務づけられている。ところが、手帳というものがある、ということを知る遺族はきわめて少なかった。無くしてしまうから、という理由で、下請け企業が預かってしまったのだ。死後、手帳の記載内湯を問い合わせたところ、「許容量以下でした」という回答が返ってくるばかりだった。

 1986年、平井憲夫氏(日立製作所系列の下請け会社の元現場監督)が実名告発に踏み切った。
 氏は、1980年に福島原発第1号機の原子炉建屋で清掃作業に従事した。危険度は、3段階のうち真ん中の区域だった。その区域でも怖いから、全面マスクを貸してくれ、と要請したが、東電からの回答は、マスクなしでやれ、というものだった【注】。
 作業後に、全身の放射能検査を受けさせられた。平井氏指揮下の作業員2人が大量の放射能を浴び、うち1人からは通常の500倍以上の数値が記録された。この作業員の体内の放射線量が通常に戻るのに3年4ヵ月かかった。全快はしなかった。気管支異常と出血斑、原爆被曝者にも共通する症状が出た。
 平井氏は、東電本社を訪れて、作業員が取りこんだ物質を尋ねたが、回答はなかった。その夜、親会社から、カネが欲しいのか、という脅迫めいた電話がかかってきた。

 以上、恩田勝亘「東京電力 その組織防衛と政界人脈、巨大資金」(「FRIDAY」2011年4月15日号)に拠る。

 【注】(a)電機設備工事大手「関電工」の社員ら3人が高レベルの放射線に被曝した(3月24日)が、その6日前(18日)に2号機の同建屋で毎時500ミリシートベルトの放射線量を確認していたにもかかわらず、その情報を東電は、この被爆した作業員らに伝えていなかった。(b)作業直前に線量を計測することになっているが、その手順を省略した作業が続出していた。(c)多い日で180人が携行線量計を持たずに作業していたことを、3月31日、東電は公表した(2011年4月3日付け朝日新聞)。
  厚生労働省は、労働安全衛生法違反の可能性があり調査したい、と述べ、原子力安全・保安院に対しても口頭注意した(2011年4月1日付け読売新聞)。
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