(1)宗教にはそれぞれ民族的なものがある。日本の宗教について知りたいのであれば、どうすればよいか。まず紹介したいのは、鎌倉初期に天台座主の座にいた慈円(慈鎮)の書いた『愚管抄』だ。当時の知が凝縮された、まさに総合知の本だ。
(2)京都御所から比叡山は、北東の方向にある。北東は丑寅になる。これは鬼門だ。鬼というと、つい角が生えている赤鬼、青鬼を思い浮かべるが、このイメージはかなり後世のものだ。平安時代初期ぐらいまでの鬼は、まだ角が生えていないし、隠れている。姿は見えないけれども悪さをするのが鬼だったのだ。鬼門である丑寅の方向からありとあらゆる悪いもの、見えないけれども悪さをするものが降りてくる。京都に悪影響を与えることを防ぐためにつくられたのが延暦寺ということになる。
(3)当時、宗教の力はすなわち理論の力だった。だから、天台座主は日本最高の理論家、体制のイデオローグだった。この天台座主だった慈円の『愚管抄』は、いまはあまり読まれなくなっているが、日本人の宗教性を考えるうえでとても重要だ。中央公論社のシリーズ「日本の名著」のなかで、北畠親房の『神皇正統記』とセットになった巻がある。この二作を読むと、近代につながる日本人の宗教性については、ほとんどわかる。
(4)『愚管抄』は、グローバリゼーションの本だ。当時の日本にとって、グローバルスタンダードとは中華秩序だった。中国の『礼記』のなかに百王説というものがある。すべての王朝は100代目を超えたあとは必ず滅びる、という下降史観とでもいうべきものだ。
そうした考えは日本にも及んでいて、この『愚管抄』のなかに認められる。『愚管抄』の当時、天皇は84代目、あと16代でこの王朝は滅びる。これは普遍法則だから、我々は逃れることができない。だから、それに備えて、中国の秩序、中国のルールをきちんと習得することが日本の生き残りの道だ、と考えるのだ。
この『愚管抄』は、鎌倉時代初期に書かれた本なので、例えば、武士の誕生についても論じられている。天皇親政という建前があるのに、なぜ武家が力をもったのか。なぜ平家が力をもって、その後、源氏が力をもったのか。
『愚管抄』は、壇ノ浦の合戦を重視する。壇ノ浦の合戦で、天皇の正統たる証ともいえる三種の神器は海に沈んだ。そのなかで勾玉は上がってきたけれども、剣は沈んだままになった。『愚管抄』は、それを天命と考える。つまり天皇から剣が取り離された、だから、剣の機能というのはつかさつかさで武士集団が持つべきである、と理論化した。
(5)これに対して異を唱えたのが、南北朝時代に書かれた北畠親房『神皇正統記』だ。
「大日本(おおやまと)は神国(かみのくに)なり」という言葉ではじまる。日本の特徴は神道にあるけれども、神道は理論化ができない。それゆえに、他国の思想とくらべないと、日本の特徴はわからない。そういってインド(天竺)、中国(震旦)、とくに中国との比較を重視する。
同じ漢字を使って、同じような古典テキストを重視しているけれども、我々は中国とどこが違うのか。中国は易姓革命、すなわち天の意思が変わったら地上の秩序も変わって王朝が交代する乱脈きわまりない国である。大日本(おおやまと)は神の国だから、王朝は変わらない。だから、天皇にも皇后にも姓がない。
(6)北畠親房が注目するのは、武烈天皇と継体天皇の関係だ。『日本書紀』では、武烈天皇は暴君、残虐な天皇として描かれている。武烈天皇には世継ぎは生まれなかった。当時、世継ぎができないというのは、天の意思にかなった政治をしていないことを意味した。この場合、日本では中国とは異なるかたちでの易姓革命、放伐がおこなわれる。同じ天皇家という樹木のなかで、幹が枝になり、枝が幹になる。すなわち幹であった武烈天皇の系統はなくなり、枝であった部分が大きくなって継体天皇になった。
武烈・継体の関係は、歴史実証的に見れば明らかに系統としては繋がっていないはずで、別王朝の誕生と見ることも可能だ。しかし、日本ではそういう神話では包摂しなかった。日本においては王朝交代がない。だから百王説は間違いで、グローバルスタンダードの論理、つまり易姓革命は一定の限定のもとでしか適用されない。グローバリゼーションは日本においては独自の変容を遂げる、というのが『神皇正統記』の考え方だ。いまは一時的に間違った人たちが権力をとっている。しかし、それは必ず正しい方向に戻ってくる、という復古維新思想のテキストといえる。
□佐藤優『牙を研げ 会社を生き抜くための教養』(講談社現代新書、2017)の第2章の「③『愚管抄』と『神皇正統記』--グローバリゼーションをめぐって」
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【参考】
「【佐藤優】プロテスタンティズムという思考の鋳型 ~『牙を研げ』~」
「【佐藤優】日本兵は捕虜になるとよくしゃべる理由、米軍の日本研究 ~『牙を研げ』~」
「【佐藤優】ソ連軍の懲罰部隊が強かった理由、日本軍の「生きて虜囚の辱めを受けず」 ~『牙を研げ』~」
「【佐藤優】『牙を研げ 会社を生き抜くための教養』 ~各章の小見出し~」
「【佐藤優】『牙を研げ』 ~まえがき~」
「【佐藤優】『牙を研げ 会社を生き抜くための教養』 ~目次~」
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(2)京都御所から比叡山は、北東の方向にある。北東は丑寅になる。これは鬼門だ。鬼というと、つい角が生えている赤鬼、青鬼を思い浮かべるが、このイメージはかなり後世のものだ。平安時代初期ぐらいまでの鬼は、まだ角が生えていないし、隠れている。姿は見えないけれども悪さをするのが鬼だったのだ。鬼門である丑寅の方向からありとあらゆる悪いもの、見えないけれども悪さをするものが降りてくる。京都に悪影響を与えることを防ぐためにつくられたのが延暦寺ということになる。
(3)当時、宗教の力はすなわち理論の力だった。だから、天台座主は日本最高の理論家、体制のイデオローグだった。この天台座主だった慈円の『愚管抄』は、いまはあまり読まれなくなっているが、日本人の宗教性を考えるうえでとても重要だ。中央公論社のシリーズ「日本の名著」のなかで、北畠親房の『神皇正統記』とセットになった巻がある。この二作を読むと、近代につながる日本人の宗教性については、ほとんどわかる。
(4)『愚管抄』は、グローバリゼーションの本だ。当時の日本にとって、グローバルスタンダードとは中華秩序だった。中国の『礼記』のなかに百王説というものがある。すべての王朝は100代目を超えたあとは必ず滅びる、という下降史観とでもいうべきものだ。
そうした考えは日本にも及んでいて、この『愚管抄』のなかに認められる。『愚管抄』の当時、天皇は84代目、あと16代でこの王朝は滅びる。これは普遍法則だから、我々は逃れることができない。だから、それに備えて、中国の秩序、中国のルールをきちんと習得することが日本の生き残りの道だ、と考えるのだ。
この『愚管抄』は、鎌倉時代初期に書かれた本なので、例えば、武士の誕生についても論じられている。天皇親政という建前があるのに、なぜ武家が力をもったのか。なぜ平家が力をもって、その後、源氏が力をもったのか。
『愚管抄』は、壇ノ浦の合戦を重視する。壇ノ浦の合戦で、天皇の正統たる証ともいえる三種の神器は海に沈んだ。そのなかで勾玉は上がってきたけれども、剣は沈んだままになった。『愚管抄』は、それを天命と考える。つまり天皇から剣が取り離された、だから、剣の機能というのはつかさつかさで武士集団が持つべきである、と理論化した。
(5)これに対して異を唱えたのが、南北朝時代に書かれた北畠親房『神皇正統記』だ。
「大日本(おおやまと)は神国(かみのくに)なり」という言葉ではじまる。日本の特徴は神道にあるけれども、神道は理論化ができない。それゆえに、他国の思想とくらべないと、日本の特徴はわからない。そういってインド(天竺)、中国(震旦)、とくに中国との比較を重視する。
同じ漢字を使って、同じような古典テキストを重視しているけれども、我々は中国とどこが違うのか。中国は易姓革命、すなわち天の意思が変わったら地上の秩序も変わって王朝が交代する乱脈きわまりない国である。大日本(おおやまと)は神の国だから、王朝は変わらない。だから、天皇にも皇后にも姓がない。
(6)北畠親房が注目するのは、武烈天皇と継体天皇の関係だ。『日本書紀』では、武烈天皇は暴君、残虐な天皇として描かれている。武烈天皇には世継ぎは生まれなかった。当時、世継ぎができないというのは、天の意思にかなった政治をしていないことを意味した。この場合、日本では中国とは異なるかたちでの易姓革命、放伐がおこなわれる。同じ天皇家という樹木のなかで、幹が枝になり、枝が幹になる。すなわち幹であった武烈天皇の系統はなくなり、枝であった部分が大きくなって継体天皇になった。
武烈・継体の関係は、歴史実証的に見れば明らかに系統としては繋がっていないはずで、別王朝の誕生と見ることも可能だ。しかし、日本ではそういう神話では包摂しなかった。日本においては王朝交代がない。だから百王説は間違いで、グローバルスタンダードの論理、つまり易姓革命は一定の限定のもとでしか適用されない。グローバリゼーションは日本においては独自の変容を遂げる、というのが『神皇正統記』の考え方だ。いまは一時的に間違った人たちが権力をとっている。しかし、それは必ず正しい方向に戻ってくる、という復古維新思想のテキストといえる。
□佐藤優『牙を研げ 会社を生き抜くための教養』(講談社現代新書、2017)の第2章の「③『愚管抄』と『神皇正統記』--グローバリゼーションをめぐって」
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【参考】
「【佐藤優】プロテスタンティズムという思考の鋳型 ~『牙を研げ』~」
「【佐藤優】日本兵は捕虜になるとよくしゃべる理由、米軍の日本研究 ~『牙を研げ』~」
「【佐藤優】ソ連軍の懲罰部隊が強かった理由、日本軍の「生きて虜囚の辱めを受けず」 ~『牙を研げ』~」
「【佐藤優】『牙を研げ 会社を生き抜くための教養』 ~各章の小見出し~」
「【佐藤優】『牙を研げ』 ~まえがき~」
「【佐藤優】『牙を研げ 会社を生き抜くための教養』 ~目次~」
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