さてホテルの話しになったが、実際室内での光源は、昔は横にあった。日本だとあんどんだ。これにしたって日本では江戸時代まで菜種油が高価すぎて、庶民は使えなかった。ローソクなんてもう本当に高価。ほとんどがいろりとかで光をとっていたのだろう。これは実際ヨーロッパでもそうだったようで、暖炉の光とかを使っていた。
更にだ、ヨーロッパの家は窓が小さい。これは更に光が横にある状態になる。
でっかい窓や、豪華なシャンデリアは実際17世紀を超えないと出てこない。板ガラスの量産が出来るようになってようやくだ。しかも王くらいしか使えないものだった。シャンデリアも昔は全部ローソクが光源だった。あのガラスは多分、ローソクの数をより多く見せるための工夫なのだろう。キラキラひかるガラスは、30本のローソクを100本にも見せたのだろう。
とにかく暗いのだ。
この暗い部屋に画期的な商品が表れた。ランプだ。いままでのローソクの何倍も明るい。まぶしいので、天井に吊るすようになった。しかし構造上、真下に光が届かない。そこで天井や壁から反射する光で生活していた。
さて間接照明の始まりだ。だがもっと明るく、例えば本を読もうとすると横に置くしか無い。芯の高さの調整で明るさを変えられるから、まぶしさも多少は和らいだろう。
革命が起きたのは、エジソンの電球の発明だ。ランプのように真下がダメとかそういった事がない。軽くてランプより明るい。いままでと効率も違う。ホヤを磨いて油を足してと言う作業がない。
ただやっぱり明るすぎたのだと思う。横に置かれる事はもう無くなった。横に置いても、ライトスタンドのように傘で相当に弱くして真下を照らす程度に抑えられた。
いまでもヨーロッパは、家のなかってこんなもんだろ、と言う具合にサイドライトを多用している。ホテルはその流儀にそっている。そしてほの暗い雰囲気で、豪華さを演出している。
「陰影礼賛」になってきた。
実は写真のライティングの基本は、そうとうにイレギュラーなものだ。天が一番強く柔らかい光源で、横は演出的な役割になっている。なぜこうなったのかと考えれば、写真はその生まれから屋外のものだったからだ。初期のダゲレオタイプ、あの銀盤に映し出される一点ものの写真だが、感度がめちゃくちゃ低い。好天下で10分とかかかっていた時代だ。明るいレンズが作られてなんとかなったが、露出に相当の時間がかかったのは間違いがない。
実はこれが影響している可能性がある。
その上、もしかするとロマン派の、自然の発見、と言うものがあるかもしれない。人類は長らく自然であったが、文化文明が進むにつれて、分離して行った。だがそれに気がつかなかった。気がついたのはロマン派の文学者だった。
科学が、ロマンを切り開いた瞬間かもしれない。当時「太陽の鉛筆」と言う写真集がある。カロタイプを生み出したイギリスのタルボットの作品だ。いまでもこの写真集にある、写真の利用法は、変わっていない。芸術にもなれば記録にもなる。そういった訴えがある。
いま追加されたのは、「共有」と言う概念が強調されたことだろうか。
ロマン派の幻想は、写真の出来の悪さで一蹴された。フランスは絵画の代わりにするのをためらい、イギリスは絵画とは違うが、これってイインジャねと言い放ち量産できる方法を開発し、ドイツは最後に印刷とあわせてグラジャーナリズムを発明した。
この間たった50年しかないのだが、これが近代というものだ。
またしても大脱線してしまった。
更にだ、ヨーロッパの家は窓が小さい。これは更に光が横にある状態になる。
でっかい窓や、豪華なシャンデリアは実際17世紀を超えないと出てこない。板ガラスの量産が出来るようになってようやくだ。しかも王くらいしか使えないものだった。シャンデリアも昔は全部ローソクが光源だった。あのガラスは多分、ローソクの数をより多く見せるための工夫なのだろう。キラキラひかるガラスは、30本のローソクを100本にも見せたのだろう。
とにかく暗いのだ。
この暗い部屋に画期的な商品が表れた。ランプだ。いままでのローソクの何倍も明るい。まぶしいので、天井に吊るすようになった。しかし構造上、真下に光が届かない。そこで天井や壁から反射する光で生活していた。
さて間接照明の始まりだ。だがもっと明るく、例えば本を読もうとすると横に置くしか無い。芯の高さの調整で明るさを変えられるから、まぶしさも多少は和らいだろう。
革命が起きたのは、エジソンの電球の発明だ。ランプのように真下がダメとかそういった事がない。軽くてランプより明るい。いままでと効率も違う。ホヤを磨いて油を足してと言う作業がない。
ただやっぱり明るすぎたのだと思う。横に置かれる事はもう無くなった。横に置いても、ライトスタンドのように傘で相当に弱くして真下を照らす程度に抑えられた。
いまでもヨーロッパは、家のなかってこんなもんだろ、と言う具合にサイドライトを多用している。ホテルはその流儀にそっている。そしてほの暗い雰囲気で、豪華さを演出している。
「陰影礼賛」になってきた。
実は写真のライティングの基本は、そうとうにイレギュラーなものだ。天が一番強く柔らかい光源で、横は演出的な役割になっている。なぜこうなったのかと考えれば、写真はその生まれから屋外のものだったからだ。初期のダゲレオタイプ、あの銀盤に映し出される一点ものの写真だが、感度がめちゃくちゃ低い。好天下で10分とかかかっていた時代だ。明るいレンズが作られてなんとかなったが、露出に相当の時間がかかったのは間違いがない。
実はこれが影響している可能性がある。
その上、もしかするとロマン派の、自然の発見、と言うものがあるかもしれない。人類は長らく自然であったが、文化文明が進むにつれて、分離して行った。だがそれに気がつかなかった。気がついたのはロマン派の文学者だった。
科学が、ロマンを切り開いた瞬間かもしれない。当時「太陽の鉛筆」と言う写真集がある。カロタイプを生み出したイギリスのタルボットの作品だ。いまでもこの写真集にある、写真の利用法は、変わっていない。芸術にもなれば記録にもなる。そういった訴えがある。
いま追加されたのは、「共有」と言う概念が強調されたことだろうか。
ロマン派の幻想は、写真の出来の悪さで一蹴された。フランスは絵画の代わりにするのをためらい、イギリスは絵画とは違うが、これってイインジャねと言い放ち量産できる方法を開発し、ドイツは最後に印刷とあわせてグラジャーナリズムを発明した。
この間たった50年しかないのだが、これが近代というものだ。
またしても大脱線してしまった。