どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

北朝鮮・雑感

2013-01-29 21:41:45 | インポート
私は儒教が嫌いだ。正確に言おう。国家が飼いならした儒教が嫌いだ。そしてあの礼節が嫌いだ。形式ばかりで本質が無い。
それを国家運営に使っちゃう、北朝鮮って何だろうと思う。天子様のそばには悪い奴はおけないと言って、失脚した人や反体制派を全部殺したり地方に追いやった上に、強制労働させているんだろうな。李氏朝鮮と同じ事をやっているに違いない。中はもうグズグズだろう。


さてミサイル発射実験が成功し、お次ぎは核実験と言われて来たがそうなりそうだ。
実はあまり関心が無いのだ。ミサイルもそうだった。もうどうでもいいのだ。あまりにも予想通りだと一切関心を引かない。
多分3.11以前だったら核実験に対してもっとナーバスになっていただろう。ただフクイチがあって、60年代の太平洋での空中核実験と、80年代の中国の核実験で核に汚染されている事が解って、何かが壊れた。だからヌーとかというキャラを作ったりしてしまう。
この積み上げの上にもう一枚積み上げるだけの、そんな実験にしか見えない。

なぜ核が大国しかもてないのか?確かに疑問だ。パキスタンなんてもっている。イスラエルだってもっている。インドももっている。それでも大国以外は持つ意味の無い兵器だ。

使った後どうするのかが難しい兵器だからだ。相手がその一発で屈服すればいいのだが、屈服しなかった場合とんでもなくめんどくさい事になる。基本戦争は占領するまでが戦争だと言うことだ。もちろん相手が先に降参すればいいのだが、そうそう何発も同時には打ち上げられない兵器でもある。その上落としたら落としたで、その地域に兵士を送り込む事が出来ない。

例えば北朝鮮がアメリカ・ワシントンに議会が行われている時に、核を正確に落としたとする。これでアメリカのトップは全滅だ。所がどっこい各州があっという間に連係を組むだろう。その前に軍が自動的に動く。作戦を立案してしまうのだ。連邦議会は消滅しても、新たに出来るだけだ。その間あっという間に他の国が宣戦布告する。韓国は当然だ。日本は今の憲法下では出来ないが、間違いなく物資支援を約束するだろう。


小国は使ったら最後、消滅する運命にある兵器なのだ。

もちろん抑止力はある。それも限界がある。正直な所、首都陥落の際に敵を巻き添えに爆発させる程度だ。
まあだから抑止力なのだが。だが実際の所はどうなのだろうか、既に抑止力の効果は薄れているのではないのか。あの冷戦時代での抑止力とは、大国同士の抑止力だ。互いに打ち合ったあげくに人類が滅びると言うものだ。この愚だけは避けなければ行けない。戦争する意味が根本的に無くなるからだ。
ところが小国の2~3発だったらどうなのだろうか。例えば全部日本に落としたとしても日本人はある程度生き残る訳で、占領も出来ないのなら全く意味がない。その上周辺国からアメリカまで含めてフルボッコにされるのだから割にあわない。
多分イスラエルだってそうだ。イランに核を打ち込んだら、あのアメリカまで敵に回すだろう。

小国はプライドにかけて作っているだけに過ぎない。そして外交上のカード、しかも決して切っては行けないカードを持ちたいだけだ。だがそのカードももう古びている。

冷戦時代だったら、北朝鮮が核を打ったらアメリカが呼応し、ソ連が呼応し、中国が呼応し、ついでにインドとパキスタンが打ったかもしれない。こっそりとイスラエルもだ。
だが今では、北朝鮮が打った瞬間に通常兵器が北朝鮮にわんさか落ちるだろう。世界核戦争にはならないのだ。


そんな事は北朝鮮も解っているだろう。なのになぜ実験をするのだろうか。孤立もここまで来れば開き直りなのだろうか。

その上で、なぜ中国は北朝鮮を甘やかすのだろうか。確かに北朝鮮は中国の保護国だ。しかしもうそろそろ愛想をつかしてもいい頃だ。プラグマティストの中国とは思えない。儒教的な建前があるのは解るが、そういった配慮をチベットやウイグルに向けないのも不思議だ。

ここからは私の妄想なのだが、北朝鮮が最大の仮想敵国にしているのは、中国なのではないのだろうか。日本とアメリカ、韓国が仮想敵国と言われているが、実際の所アメリカを仮想的にするほどの国力は無い。せいぜいがんばって韓国だが、これこそ核を使えない相手だ。使ったが最後同胞殺しの汚名を着る事となる。朝鮮半島統一という野望にとって最大の障害だ。


核の抑止力が最大に発揮されるのは、実は攻め込まれたときだ。本当の自爆テロがあると思わせる。その狂気を持てるかどうかが問題になる。


さてニュースで、北朝鮮では人肉が食べられている、と言うものがあった。ホントかいなと思うのだが、少なくともそういったウワサが立つほどに飢餓状態にあるようだ。
日本では、江戸時代の天明の飢饉の時に人肉食の伝説が残っている。ただ史学的には否定されているもののようだが、そういった伝説が残るほどに酷い飢饉だったのは間違いが無い。確実かも知れないというのに、日本陸軍の人肉食の伝説だ。これはもしかするとそうかもしれないという話しだが、一応否定はしておく。
ただそこまで民衆が追い込まれているのは、確かなようだ。

儒教の問題は、本来は民を豊かにする政治学なはずなのだが、衒学的に論述され都合のいいように変化し、本来の目標を失う事だ。民のために天子が汗をかくのではなく、礼節の美名のもと天子のために民が滅びる、そういった逆転を許す事にある。

今北朝鮮が、イチイチ言われてプライドを傷つけているのは、アメリカではない。多分中国なのだろう。
ただ、これも歪んだ儒教的発想だ。

私が興味が無い理由は、ここにある。


PS
儒教国家ではないキューバがなぜかある意味、堯とか舜であるのが面白い。
あと日本も韓国も中国も、準備万端にしている。何を?地下資源探索のためだよ。


アフリカ雑感

2013-01-29 14:54:41 | インポート
アフリカと言う大陸は、私には恐ろしく遠いイメージがある。熱帯雨林があると言う事で、アマゾンとゴッチャになったイメージがあったりする。それでいて砂漠とかある。ラクダとライオンとゴリラの王国だ。

だがよくよく考えると、カルタゴやエジプトがあり古代文明の栄えた土地でもあった。もちろんこれは地中海の話しであって、南部の方はまた違うのだろう。ただ解っているのは、ローマの頃から王族がいたり、それなりの国家があったと言う事だ。

さてそういった王国があって持続した場合、その地域の人はなんとか民族とよばれる事になる。
ただ今現在アフリカでは、民族ではなく、族と言う呼称が多く使われている。どうゆう意味なのだろうか。

確かに狩猟民族や遊牧民族のように、広いテリトリーが必要な生活習慣の場合、人口が抑制されて民族と言うほどの人口単位にならない、と言う事があるのかもしれない。エジプトとかカルタゴが変なだけであって、そこにギリシャ人もいたのが大きいのだが、中世から近代に至るまで今のように争い続けていたのかと言えば、疑問だ。

チョロッと中国の三国史になるが、当時漢民族は戦闘に明け暮れて人口を大幅に減らしてしまったと言われている。これは国家規模の戦闘での問題だが、小さい族の単位では、全滅とかそういった戦闘を避けるはずだ。小競り合いの内に吸収合併で、それなりに大きな単位になり、族から民族へとなったと思うのだが、そうはいかなかったようだ。

もう一つ考えられるのは、アフリカ大陸が以外と多様性があると言う事かもしれない。砂漠あり高山あり海あり、まあいろいろ。その中でその環境に合わせた習俗をもった、族が残った、と言う事かもしれない。

ただ決定的な事件があった。それは奴隷売買だ。

近代で、奴隷制度があった。これは古代奴隷制と区別しなければ行けない。近代の奴隷制度は徹底して封建的であった。古代から中世は、以外とそうではなかった。自分で努力すれば奴隷から解放出来る制度だった。
奴隷とは自由が制限される、そういったニュアンスだ。だが近代奴隷制は、人間を労働力としてしか見ない。
例えが良くないかもしれないが、刑務所と強制労働所の違いだろう。刑務所は確かに人権を無視した存在だが、個人は尊重される。しかし強制労働所は、個人もへったくれも無い。壊れたら終わり。機械より扱いが悪かった。


その近代奴隷制の、その奴隷の供給源がアフリカだった。しかしどうやって移民させたのかが問題になる。
もちろん最初は、西洋人が彼らと戦って捕虜にしたものを市場に出したのだろう。需要が多くなってからは、その族間の対立をうまく利用して、まあ内部分裂で負けたものを奴隷として市場に出すという構造になる。
族間の抗争が激しくなる。まあそれでも、殺してしまったら意味が無いしあまりにも傷ついていたら市場価値が無くなる。そういった程度の抑制はあったかもしれないが、「族」で切り分けられる歴史がここにあると思う。


アフリカでの部族抗争の根底には、このような背景があるのではないのか。奴隷制度廃止までの間に、戦闘的部族を育成してしまったのだ。また人狩りと言う収奪で利益を上げて来たのだ。命がけかもしれないが、楽な方法だ。他の産業に移行するよりは、繰り返した方が楽だ。
その上、強者優先という風習を作ってしまった。これが子供の労働へ繋がっているのではないのか。

西側の残した負債はあまりにも大きい。ただこの抗争の中で、圧倒的強者が表れなかった。強いて言えば南アフリカだったが、白人主義だったので他の国から反発され、更に国際的に孤立してしまった。エジプトは、僕らアラブだし地中海だし、人種が違うしと、あまり関心が無かった。
もう60年くらいかかって、ようやく資源からの収入でなんとか立ち上がれた。それがアフリカで、これからの発展が期待されて来た。南アフリカも以前のように拡張主義的では、少なくとも、無くなった。部族抗争も以前よりは少なくなり、問題はソマリアとか一部にとどまっているように見えた。

この中で、カダフィのリビアが大きかった。かれはアフリカを自認していたし、イスラムでもあった。石油資源から出る金をアフリカにバラ巻いて安定を図っていた。もちろん部族抗争に油をそそいでいた事もあったが、アフリカの強者として、地域の安定に貢献して来たのは確かだ。
その武器庫が解放されて、イスラム原理主義者たちの手に渡った。


さてアフリカ、特にチュニジアはイスラムでも神秘主義、スーフィーという、それが中心だ。穏健な宗派で知られている。なぜならコーランの教えを、神との合一で飛び越えようと努力するからだ。いちいち現世に関わっていられないからだ。当然イスラム・スンニ派からは異端とされている。

さてスーフィーから原理主義は決して生まれない。それがなぜはびこるのだろうか。

異端を最も嫌うのがワッハーブ教団、スンニ派だ。原理主義の母とも言うべき、元祖イスラム原理主義だ。
サウジアラビア建国史へと繋がる。ワッハーブとサウディ家が出会うのは第一次世界大戦前。ワッハーブ教団はまだ小さい存在だった。力が無く布教には限界があった。そこにサウジアラビアを独立させようと立ち上がったのがサウディだ。この二つが結びついた。ワッハーブはサウディに宗教的なお墨付きを与え、サウディは力で奉仕した。
そこにトルコを牽制しようとイギリスがやって来た。あのアラビアのロレンスだ。当時サウディアラビアとシリアはトルコ領だった。ここで独立戦争が起きればトルコが西側に兵を送れなくなり、連合国が有利になると考えたのだ。この試みは成功した。かくして悪名高いサイクス・ピコ協定の爆弾を抱えたシリアが誕生し、誰もが当時ここまで大きくなるとは思っても見なかったサウジアラビアが出来た。

サウジアラビアはメッカとメディナというイスラム2大都市をもつ。ワッハーブはこれでイスラム世界の権威になりサウディ家はメッカの太守と言う最高の栄誉を手に入れた。

さてここで気がつくと思うが、ローマ皇帝とローマ教皇の立場である。これが協調してうまく進めば二原論になる。つまりサウディアラビアは発足後二原論で動いて来た。しかしローマの例からもこれはうまく行かない。なぜなら神の意向の方が圧倒的に強いからだ。バランスをとるのがとても難しい。ローマはそれに失敗した。
王家は宗教のトップのウラマーを牽制する事で、なんとか現実路線に進めたいのだが、ワッハーブはもともと原理主義だ。そうやすやすとは言う通りにならない。それでもサウディ家は、少しずつワッハーブの手足を縛りながら近代化を進めてゆく。

互いに不満を持つ両者がはじめたのがワッハーブの「輸出」だった。各地域にモスクを寄進したりするのだが、当然ワッハーブの城だ。豊富なオイルマネーを背景にワッハーブは力を使いだす。
彼らのだ一嫌いな、異端を「正当な」スンニに改修させるのだ!もう同じスンニでもマレーシアやインドネシアのように開放的なスンニまであれやこれやとやっている。当然アフリカのスーフィーにはもう徹底的にだ。そうもはやサウジアラビアでワッハーブの理想は達成出来なくなったからだ。国王もこの特にうるさい連中をさっさと追い出したがっている。両者の思惑が一致したのだ。
アフリカの原理主義者たちの中には、このワッハーブ由来のものが多いだろう。

10年ほど前からだろうか、アフリカのイスラム情勢が混沌として来たと私の耳にも入って来た。スーフィーの伝統が崩れはじめて来たと言うのである。宗教はコミュニティの問題でもある。宗教が安定しているとコミュニティも安定する。その宗教対立が起きているとなれば、当然コミュニティも不安定になる。
若者の就職難も輪をかけた。大人は古い伝統を維持しようとするし、若者は将来の不安から伝統を捨て去ろうとする。そこに宗教が入り込んで来た。


さて西洋史の一端が、このアフリカに濃縮されている。植民地支配だけではない。勝手な国境の線引きだけではない。奴隷制度、プランテーションと労働搾取、暴力支配、そして結果として宗教での混乱も遠因として持ち込んでいる。

さてカダフィーは何と戦って来たのだろう。あの暴力支配が必要だったのはなぜなのか。そしてなぜアフリカに金をばらまいていたのだろうか。
9.11以降あの大嫌いなアメリカと簡単に手を結んだのはなぜだったのだろうか。

彼はサウジアラビアと戦っていたのだ。ワッハーブと戦っていたのだ。サウジアラビアの金に匹敵する金をばらまき、ワッハーブの影響を弱くしようとしていたのだろう。アメリカはそれに気がついていたかもしれない。しかしアメリカは「民主化」と言う大義名分には逆らえなかった。そしてサウジアラビアは盟友でもあった。

シリアのアサド政権のあの強面ぶりと言うか、勝っても国が滅びるだけのあの無茶苦茶さも、なにかこういった裏があるのだろうか。

近代の負債は、重すぎる。