なにもない一日だった。
喫茶「響」にいってしまう。そして2杯もコーヒーを飲んでしまう。ブラームスがどうもあわないと言うのでアファナシェフのブラームス後期ピアノ作品集1を持って行く。するとやはりピンと来ないようだ。「内省的ですねぇ。一人で夜に聞くにはいいかもしれませんねぇ。」
予想通りだった。この人は若い。川のカジカはうまいのだろうかと言う話から、骨酒にしたものを甘露煮にしたらどうなるんだろうとか、そんな事を考える好奇心があると言う事はブラームスのメランコリアは、遠い存在になるだろう。
とはいえその後マーラーをかけたと言う事は、まあそうゆう事だ。後期ロマン派のグッチャグチャは魂のあがきだからねえ。古典的秩序の中で苦しむブラームスは、そりゃ似合わない。
ハゼ釣りの話とか、他愛の無い話をしながら時間が過ぎた。
「イスラムの衝撃」がアマゾンから届いた。なぜか初版本だった。一般書店にある在庫を引っ掻き集めたものだろうか。
とはいえこの本はイスラムに気をつけている人以外はかなり読みにくい。ただ最新情報がいっぱいなのは解った。とはいえまだ読み切れていない。
「響」にいったのは、彼がイスラム圏で6年間いたからだ。彼のいたトラジャは独自の宗教を持っていたし、スラヴェシ島ではキリスト教もあったりする。バリ島はヒンズーで有名だが、なんちゃってイスラムがかなりいるのがのインドネシアだ。今ではイスラム原理主義者もいる。そういった所にいた人は、あの話には触れない。知っていて触れない人といるのはとても安心出来る。あの日に「響」にいったのもそう言った理由がある。
イスラムに対する偏見を聞きたくはないし、それに反論するのも嫌だからだ。同調もしたくないし、変人と見られるのに慣れていても、少し堪え難いものがある。
私がイスラムに興味を持ったのは、神戸の震災の時だった。NHKのライトマンのバイトをしていたので、たまたまだったのだ。そのときイスラムの葬式を取材する事になった。物がなくて正式な葬儀ではないのだがと言い訳しつつ、何か楽しそうなのだ。それはイスラムとして生を全うすると必ず天国にゆけるからだ。だからお祝いでもある。ただその葬儀ではスンニもシーアも共に並んで参列していたのが印象的だった。あの頃からイスラム過激派が問題になりつつある頃だった。それが対立を超えて参列している事に感動すら覚えた。
そしてだが、その時のディレクターは女性でかなり綺麗で若かった。その彼女にアフガニスタンの若いのが、イスラムの優位性をこんこんと語るのだ。つまりくどいているのだ。異教徒と結婚するためには彼女に改宗してもらわないと出来ない訳で、そのためにくどいているのは明白だった。
あの震災から2週間で、初対面をくどく男は何なんだと言うのがイスラムへの興味だった。いろいろ読んでいるうちにあいつら以外とスケベとか嫉妬深いとか、イロイロ見えてくる訳で、イスラム教の戒律が厳しかったとしても抜け道があったりそれはそれは人間らしい姿がある訳です。
まあ彼女だったら誰でもくどくだろうが、葬式が進行している最中に始める奴は凄い。
福島第一原発事故の時に、私は菅直人元首相を非難しなかった。理由はあれは正しかったからだ。ただ現場に行ったのは不味かった。ただベントのタイミングでいっていた訳ではない。そもそもベントが遅れに遅れていた問題とすり替えられている。
とはいえ現場に行かないと気が済まないと言うのは、首相の器ではなかったと言う事だ。
そして今回の内閣がどう対応したのかは国会で審議されるだろう。だがはっきりいって秘密保護法が制定されているので全貌は全く出ないだろう。ヨルダン政府とのやり取りはまったく出てこないだろう。
ただ政府を信用しているのではなく、今回の対応はこれ以上は出来なかったというのが、福島第一原発事故との共通点だ。起きた以上最悪になるのだ。暴走した原子炉と同じで、コントロールは彼らにあった。そして彼らは始めから日本人を殺すつもりでいたと思う。湯川氏を捉えたがインパクトが無さ過ぎる。そこで騙して入れたのだろう。
逆説的に身代金を払っていれば、日本政府は全部情報を出さざるを得なかっただろう。身代金を払えないのはこの点にもある。
ニューズウイークで、酒井啓子氏が記事を書いている。日本の報道体勢は情報出し過ぎだったのではないのか、と問題提起している。それは私も思っていた。彼らは自動翻訳等を使って情報をつかんでいたと思われるし、安倍首相の中東訪問にぶつけるくらいだからかなり情報は集めていたと思われる。筒抜けの近い状態では交渉もへったくれも無かったというのが実情だろう。そして彼女は言葉を続ける。
「だが、「イスラーム国」の被害に最も苦しんでいるのは、たまたまそこを訪れた外国人や攻撃を行っている周辺国の兵士よりもなにより、現地のイスラーム教徒自身なのだ。「イスラーム国」が制圧している地域の住民こそが、集団で人質にあっているようなものなのだ。
そのような立場にあるイスラーム教徒に対する共感が、メディアからは感じられない。9.11事件のときに、テロの被害にあった米国民に対して多くのイスラーム圏の人々が、「これでアメリカも日々テロや暴力の危険にさらされている私たちの悲しみをわかってくれるかもしれない」と感じた。だが、その結果行われたことは、イスラーム教全体がテロの源泉であるかのように行われた「テロとの戦い」だった。」
これはリアルな話なのだ。コバニ奪還でISISは連合軍の空爆で隠れる所も無くなったと語っている。なにが起きたか。ISISから解放されても家がなくなったのだ。その苦しみたるや。それだけではない。ムスリムがムスリムを攻撃している状態は、そもそもおかしい。それはコーランでも禁止されているはずなのだ。
ポゴ・ハラムのように少年兵を養成している所もある。それはISISでも多分そうなのだろう。ただ子供が自由意志で入っているかどうか、子供を人質に取られて悲しむ親の姿しか想像出来ない。
なぜイスラム世界の全ウラマーが集結しないのか。そしてなぜムスリム達を善導しようとしないのか。イスラムの硬直性が招いたのは間違いない。その中心たるワッハーブがメッカにいると言うだけで、これから続く悲劇を無視していていいのだろうか
確かに歴史的な問題はある。だが無視出来る問題ではなくなっているはずなのに、どうして誰も手を付けようとしないのだろうか。
そして私は、予定通りに二人が惨殺された事になぜ安心を覚えるのだろうか。捕まった時点で死だけが予想されていた。ただその死の概念が余りにもおかしなものだった。それは今までの死でもなく、古代の取引される死でもなく、コマーシャルであったり尊厳さのかけらも無いものだった。
そんな死が相対的に現れて来た。
一人の頭脳では不可能なくらいに理解出来ないこの世界で起きるこの事件は、規則性にある。その合理性、宗教ではない何かに突き動かされた合理性にある。この項は言葉を重ねられない。歯ぎしりしている。
彼は帰ってくる。そう信じよう。その時は今よりいい世界になっているはずだ。