メンゲルベルクといえばあの極端なルバートと、弦のポルタメント奏法のデロデロな演奏で有名だ。そして以前聞いたデジタルマスタリングのCDもそうだった。だからこの廉価版のボックスセットに極端な違和感を感じている。マトモな演奏にしか聞こえない。むしろ明晰な頭脳すら感じられる。ルバートも少し間を伴っているし、ポルタメントもむやみやたらと出てくるわけではなく間を作るためか、接続のためにあるように感じられる。話芸のように感じられる。必要に応じてポルタメントをかけるといったほうがいいだろう。まあとにかく音楽を流さない指揮者だ。溜めたというべきか止めたというべきか、だから必要だったのだろう。
なんでこうなるのだろう。以前聞いたムチャぶりは聞こえてこない。デジタルマスタリングを丁寧にやった結果なのだろうか。そして未発見のテープがあったのだろうか。
それはないようだ。いつも通りのレコード再生のプチプチや明らかに盤が潰れているところも聞こえる。要はマスタリング技術が20年間で格段に進歩したということなのだ。そしてそれ以前にあったSPのイメージやモノラルLPのイメージから離れて丁寧に処理したのだろう。しかし多くの場合徹底しすぎて音が薄っぺらになることもある。この版はその嫌いを少し感じる。それでは以前のイメージはどうだったかといえば中音域を重視していたように感じる。それはSPの音のイメージと同じだが別な考えもある。
わざと客席からのノイズを残したかったのではないのか。そうマタイ受難曲、あのドイツ軍侵攻の前日の録音だ。客席からはすすり泣きが聞こえる。たしか嗚咽に近いすすり泣きだった。この版でもそれは残っているが、昔聞いた時よりは印象は弱い。
以前のリマスターはすすり泣きを強調するようにリマスターしたのではないのか、そう疑問が起きている。
磁気テープによる録音は1935年に発明され、38年には実用化していたようだ。メンゲルベルクが録音を残している39年と40年はその時期に当たる。だが当時のテープは高価だったのでよほどのものでない限り次の録音に使われていただろう。なのでレコード原盤か生産用の方しか残っていないだろう。それらが使われるようになったのは多分90年代まで進まないとできなかったと思われる。原盤再生用のカードリッチが存在しなかったからだ。原盤再生用のカートリッジはCDでのリマスタリングが行われるようになって開発された。今では光学読み取りまであると思うがそれ以前はテープがなければSPから再生してマイクで拾うしかなかった。その際のノイズを消すために高音域を切ったのだろう。レコードの傷を消すためには低音も切らなければいけない。そうして中音域を厚くする音へ、さらに変わってしまったのだろう。そしてカッティング時の回転むらまでそのままだった可能性がある。
その時の音質が初期のCDに反映されたのだろう。
そう考えれば、何が正しい音なのかよくわからなくなる。ただこのデッカのボックスセットの音は正しさに近いように感じる。思えばあんなに弦が鳴り響くオーケストラというのはない。メンゲルベルクはどうも録音でかなり損をしているように感じられる。やはりマタイ受難曲の印象は大きすぎるだろう。
こうして過去の巨匠たちを聞いてゆくて、少し変な考えが起きる。彼らが今のオーケストラを振ったらどうなるのだろうか。多分なのだが自由自在すぎて困ってしまうのではないのだろうか。メンゲルベルクのあのルバートやポルタメントにも瞬間的に対応するのではないのか。
現実的に20世紀に入ってからクラシックの演奏者のレベルは常に右肩上がりだ。ピアニストに到っては昔っから天才が出てきたが、その天才レベルが気の狂ったレベルになっている。録音とライブがほとんど同じ演奏をするというのは当たり前、パフォーマンスも大切だしルックスも必要。ルックスもパフォーマンスも出来なければそういった人は神がかったオソロシイ演奏をするしかない。
そして確実に技術は上がっている。歌手のように天才が必要な部門は別にして、ピアノで18歳でラフマニノフのピアノコンチェルを弾きこなして全日本音楽コンクール1位という男も現れた。弦だろうが木管だろうが金管だろうが現実にレベルアップしている。それは日本だけではない。少し前の天才が軽く凌駕される時代になっている。
スポーツと同じで練習法のメソッドがどんどんできて、それを簡単に教える教授法も出来ている。そして大昔にはそういった教授法は特定個人しか持っていなくてそこに教わりに行かなければ絶対学べないものだった。それが国際的に人の交流が活発になるに従って広がってゆく。リストやパガニーニはヨーロッパを歩き回り演奏した。そこから技術を盗む人もいただろうし、独自で開発した人もいただろう。そういった流れがあって技術は向上してゆく。
少し変なところなのだが、フルトヴェングラーのワーグナーを聞いて、面白くないと思ってしまった。確かに音楽的にはいいのだが、現在バイロイトで振っているティーレマンの方が圧倒的に素晴らしい。キャストの問題ではなくドラマが美しいということなのだ。ドラマは楽譜に書いてある。そして音の積み上げが完璧だ。
これには時代の変遷もある。ワーグナーの場合「楽劇」と言っているように、音楽と劇(文学と言い換えてもいいか)、そして舞台(装置や演出も当然含む)が混ざり合った総合芸術でもある。ただ第一次世界大戦後までしばらく舞台は古色蒼然としたものだったようだ。ワーグナー歌手だったメルヒオールの写真なんて見ているとウヘ!とくるくらいに古臭い。演出もできることは限られていた。だから音楽が重要視されていたのだろう。
ところが大戦後、ありとあらゆる試みを舞台が仕掛けてくる。超過激で客席からブーイングが出るものもある。バイロイトのリングなんてこの20年、ブーイングのなかった年はないのではないのだろうか。
すると音楽でございと指揮者が言っている場合ではない。演出と協業しながらさらに高度の音楽に仕上げて行かなければいけない。演出ではブーイングになるのはわかっている。それならさらに音を磨くしかないのだ。
その意味ではコンサート指揮者のフルトヴェングラーは分が悪い。そしてなのだがあの膨大なスコアを完璧に解釈できるためにはフルトヴェングラーはワーグナーの時代と近かった。何人もの指揮者がスコアを解釈して、ようやくティーレマンになったのだろう。そうワーグナーのスコアは4時間分だが楽器とか合唱とかが入ってくるので、フツーのオペラの4倍の重さがあるという。指揮者が楽譜を暗譜するようになったのはフルトヴェングラーの頃からと言われているが、ワーグナーでは確認用のスコアを置くのが普通だ。暗譜したとしてもあの長さだ。間違える可能性はある。
この時間のかかり具合は、多分これがクラシックなのだろう。
個性的な演奏者がいなくなったとかなり前から言われている。だがそれは時代の要請だろう。
理由の一つとして現在の音楽家がデビューできる条件だ。まずコンクールで賞を取らなければいけない。そうなれば当然テクニックも十分で、曲の解釈も完璧にできる保証がつくわけだ。だがそうするとコンクール前提の演奏に慣れてしまっている可能性もある。とは言っても国際コンクールの決勝に出るほどになると、それはそれは個性的だ。
縁故で出てくるのは、それはそれは天才しかないというのは事実だ。ピアノのキーシンがいい例だろう。アンネ・ゾフィー・ムターをベルリンフィルのコンサートマスターにというのは、ドイツ人で女性の天才バイオリニストをという時代の要請があったと思う。お金の面でも。その前にソリストとして活躍していたのをオケのコンマスに抜擢しようとしたのは明らかに間違っていた。どんな天才でも、人間関係が作れなければ入れないものだ。
最近ではCDも売れない。そして各オーケストラも自治体の予算削減や地元経済の低迷で寄付金が少なくなっている。そういった状況ではこのコンクールで賞を取ったばかりの新進気鋭を持ってきて客寄せするほうがいい。そして若いのでギャラも安い。そしてフレッシュな演奏を聴かせてくれる。それではギャラの高い人たちは?円熟期になり演奏に深みを出したくとも機会がないからそうそう聞くことはできなくなる。そういったものもあると思う。
そしてオーケストラを支配する独裁者的な指揮者がいなくなった。伝説的なリヒャルト・シュトラウスやドラティやショルティみたいな話は聞かない。チェリビダッケの場合練習時間が長すぎるというのが実際の話だろう。今では楽団の技術レベルは十分に高く、音楽性も高い。そういった楽団を率いるとなると怒鳴り散らしていたのでは彼らが逃げてしまう。今では指揮者が調教するのではなく話し合うのが主流になりつつあるようだ。結果緻密なアンサンブルは出きるが指揮者のわがまま全開というものは少なくなるだろう。
さらに録音したものと違う演奏をしたらマズイ。再現性を求められるのだ。そういった意味でグールドやミケランジェリは再現性に忠実だったのだが、録音通りに弾けることというのはロマンティックな話ではない。ファナックのロボットにでも任せたほうがいいのではないのか、そういった議論にならないのがおかしい。そこまでも難しい話なのだ。それはソリストだけではなくオーケストラまでも求められつつある。
一番大きいのは後期ロマン派時代には、音楽は文学より下だという感覚があったと思う。絵画も文学も急速に進んでいった時代なのに大衆からは古いものを求められてしまう。それだったら音楽で文学を書いてしまおうという考えがあったと思う。しかも劇付随音楽ではなく、単独で聴かせる作品として模索していた。代表はシューマンのクライスレリアーナだろうか。自分でテキストを書いたワーグナーもそうだ。ドビュッシーは「言葉の尽きる時に音楽が始まる」と言い切った。そして後期ロマン派は言葉から音の力を発見する。その流れがあった。
その流れを知っている指揮者がフルトヴェングラーだったりメンゲルベルクなのだろう。
だが録音時代になると彼らの語り口は正しいのか?という疑問が起きる。三種類聴き比べたら細かいところで譜面が削られていたり付け加えられたりしているのが多かったのだ。そういった意味ではメンゲルベルクの休符は可愛いものだ。とはいえなにかやっている気がしてたまらない。そういった語り口の工夫をしすぎて、原稿に勝手に手を入れていた。
そこで楽譜に忠実に指定通りのテンポや音量を演奏するべきだ。スコアが何種類かある場合は演奏にそれを明示するとかのルールができた。だがやっぱり昔通りの演奏が好きな人もいるし、新しいムーブメントを進歩と捉える人も多かった。だが演奏者にとっては個性はあるのに、それはスコアに忠実ではないと言われる可能性が出てきた。そのためか抑制的な演奏が多くなったと思う。その抑制的な中での個性のせめぎ合いというのが音を磨くという方向になったのではないかと。
スコアに忠実でなおかつ個性を保証しますということで、指揮者はスコアを暗譜するようになった。そうでないと個性とスコア通りは両立しなくなるからだ。彼からあふれる音楽を聴くというのが前提になってゆく。さらに楽譜に忠実であるために古楽器を使った演奏が起きる。そう楽譜指定のテンポだと、モダン楽器では音が大きくなりすぎたり濁ったりする。こういった理屈は楽しい。実際彼らの研究と実践は今のオケに影響を与えていると思う。
この辺りから音楽と文学は明快に分かれてゆく。もちろん後期ロマン派を演奏する限りここから逃れることはできないが、音としての純粋な音楽へと変わってしまったのだ。特にエルネスト・アンセルメとピエール・ブーレーズから始まる譜読みの流儀は影響が大きいだろう。
誰だ、デ・サーバタの方がすごいと言う奴は。ミトロプーロスの感性もすごいですね。でも理論から読んだのは先の二人からです。
実はこの間で全く取り残されていた人たちがいたわけだ。実は日本の評論家だ。クラシックの評論家でドイツ文学者が多かったというのはある。だが彼らは、頭ではわかっているがどうも音楽と文学の分離というのをよくわかっていなかったのではないのかと思う。80年台後半から評論はかなり改善されたが、聴く人の意識にはまだかなり残っているように思える。
個性的な演奏者なら今でもいっぱいいるのだが、どうして大過去の名演ばかりを聞きたがるのか。自戒を込めて書きます。