ヒキガエルがいつでるのかを観察している。今年は暖かいせいかどうか全くわからないのだが、どうも昨年まで使った指標が当てはまらないようだ。とはいってもそれは2年間のデーターなので3年目に当てはまったとしても、今年にあっているかどうかはわからない。
予想より遅れているのにヤキモキしている。地温変化だとしてももう出てもおかしくない。だがまだ出ない。
カエルの代わりに泳ぎに行く。タイムが悪かった。
相変わらずこの自販機の自己主張はなんとも言い難い。ここにいるぞという感覚がある。何しろT字路の真ん前にあるから。
クラシックの指揮者や演奏家について、様々考えることがある。なぜこんなに演奏技法が発達しているのに指揮法もマネージメントも発達しているのに、フルトヴェングラーを超えていると誰もを屈服させる演奏は少ないかということだ。いやこれは本質的にはどうでもいい話だ。人それぞれの好みでいいのではないのか?それはそれでいい。だが神話というのだとすれば、それはどうもおかしい。
そのもどかしいものを考えているのだが、全然結果が出ない。だたわかっているのは近代と現代の橋渡しにいた指揮者だったということだ。
現在録音でまともに聞けるのは1940年以降、大体のところ1955年以降だろう。ライブ版だと1965年でも怪しい録音がある。だから過去の大演奏家の録音でも、ピアノとか室内楽だったらなんとかなるが、オーケストラになると再現しているとは言えない録音が多い。その上テープからの生起こしではないデジタルマスタリングも多い。そうなると当然音は痩せ細る。だがある意味忠実になる。
マクルーハンのいうクールメディアはテレビだった。情報量が少なくて乱雑な世界、だから人は集中してみるのだ、というのがあった。それと同じのがクラシックの昔の録音にもあると思う。音が悪いから集中して聞いていた、というのはあると思う。
それが手軽に聞けるようになったのがデジタルのいいところだ。だがこうやってクラシック廉売の嵐に付き合うと、本当のところはなんなのだろうかと思う。歴史的経緯や民族や様々なバックグランドがある上での何かがあるのであって、今現在でのグローバル化されたクラシックの世界とは違う何かがある。その何かを賛美しても再現できないというのは明快になっているのかもしれない。
その前に曲解釈が時代によって変わっているのが面白い。録音の問題もあるが新しいほど確実に美しくなっている。逆に古楽器演奏法のように汚くなるかもしれないというのも、研ぎ澄まされた形で残っている。
だがカエルはまだでてこない。
ジュウガツザクラは咲いたのに。
高松の方で家の軒先でスイセンが咲いていたのはビックリした。