第二章(5)
観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時
「自」の「在」を「観」る事を「冥想」という。
「在」は「自」の底にある。
底には扉がある。
扉は「全」と繋がっている。
「観自在」は「冥想」なのだ。
心経は「冥想」で解くモノなのだ。
「冥想」というと、難しく感じる人がいる。
それは大間違いだ。
誰でも扉があるし、誰でも出来る。
優しいゲンちゃんが書いたのだ。
頭デッカチの理屈屋が書いたのじゃない。
新たな能力を持て!と言ってるのじゃない。
感覚を磨け!と示しているわけじゃない。
息を吐いて、力を抜けばいいよ、といってるのだ。
力を持つのは一部の人。
だが、力を抜くのは誰でも出来る。
冥想は誰でも出来るようになっている。
(「冥想」とその一方法の「瞑想」を混同しないでね)
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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