水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
第十九章(5)
般若心経
般若(パーニャ)の意味のおさらいだ。
宇宙の智恵でも仏智でも神智でもいい。
だがここまで書いてきて(書かされてきて)ワシ的な訳がある。
それは「生命の智恵」が般若には相応しいと思う。
生命といっても肉体的な生命だけではない。
生きる事(生き方)。
存在している事。
個人に限れば意識や精神、魂まで含めた「生命」だ。
個を離れれば「地球全体の生命」でもある。
般若ってのは、個人的な心の智恵じゃない。
もっと全体的、全的、統合的な智恵なのだ。
小さな個人の心に限定しては、もったいない。
個人の心の経は、般若心経の一部でしかない。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第十九章(4)
般若心経
芸は自他を助ける。
そして他に楽しんでいただける。
そして自を愉しむ事ができる。
無芸では経にならない。
最後の「般若心経」の文字。
決して無芸ではない。
ゲンちゃんのような高僧は共通の癖がある。
自他を愉しくする。
それは、生きる事を愉しんでいるからだ。
たった四文字の最終文字。
ここに、自他を愉しくする仕掛けがある。
貴重な最後を飾る文字だ。
これを訳さずに、何とする。
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第十九章(3)
般若心経
呪は心経の最大の要だ。
心経は要だらけだが、呪が最大の効果になる。
実際に苦を縮小や消滅させるのが効果だ。
実際に生きるのが愉しくなるのが効果だ。
理屈の部分は無駄ではないが、効果は薄い。
空や無は屁に近い・・・。
屁も大切だし、苦を縮小させる。
音だけなら、結構笑える(楽しめる)。
だけど・・・立派な理屈は・・・臭い・・・。
理屈で終わらないのが般若心経の素晴しさだ。
行としての呪(真言)がある。
実際に唱えて効果がでるのだ。
その呪の後に四文字。
しかも「般若心経」では繰り返しの文字だ。
通常なら・・・芸が無い。
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第十九章(2)
般若心経
何故、最後に「般若心経」と入れたのか?
題字に「摩詞般若波羅蜜多心経」と丁寧に書いたのだ。
蛇足にしてはシンプルだ。
それに、心経に蛇足は付けない。
呪の後に、たった四文字。
こういう事をするから、般若心経は謎めいている。
「空」や「無」の意味など、これに比べれば可愛いものだ。
ほとんどの訳者も素通りする。
だが、大般若経のエッセンスだ。
素通りできないだろう。
無駄はしない。
仕掛けはする。
イタズラもする。
せっかく仕掛けたイタズラなら、
何とか引っかかってやらにゃ~。
知らん振りは失礼だろう。
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第十九章(1)
般若心経
最後に「般若心経」の文字がある。
通常なら、題名と同じ文字を最後に書く事は無い。
まして極限に文字を切り詰めて表した心経だ。
無駄な文字は無い。
心経は一つの単語にも多くの意味を込めてある。
深く広く多種な意味がある。
読み手の力量で多段階の意味に気づく。
そういう仕組みの心経だ。
最後の「般若心経」の文字も仕掛けがある。
書き手のゲンちゃん(玄奘)は高僧だ。
猿や豚や河童を連れて天竺まで行った僧だ。
天竺という亜空間まで行く事ができる僧だ。
きっと・・・ヒョウキンに違いない。
(高僧=ヒョウキンなのだ)
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第十八章(14)
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧婆訶
ワシ的訳。
「唱えれば、心が消えて、行く、行く。
唱えれば、魂鎮まり、来る、来る。
何かを超えて、何処かに行く。
何かを超えて、何処からか来る。
唱えれば、全てを超えて行く事が出来る。
唱えれば、全てを超えて、やって来る。
サトリは、その時叶うだろう。
全ては、その時に成就する。
般若の心経は、この呪に集約される。
何も心配はいらない。
何も苦労はいらない。
修行も精進も関係無しに
誰でも成就を成す事ができる」
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第十八章(13)
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧婆訶
ボォディ スヴァーハ
ボォディ(菩提)はサトリのこと。
ナイスボディは「サトリを活かす」・・・
ウソだっちゃ・・・。
スヴァーハは成就する(した)。
あるいは、到達する(した)。
あるいは、完了!
ボォディスヴァーハは「サトリ完了!」
つ、つまらん・・・
だから呪の訳はつまらないのだ。
呪は唱える事(行)で効果がある。
訳を考える(知)のは、蛇足にもならない。
まぁ、趣味の世界だ。
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第十八章(12)
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧婆訶
パーラサンガティー
何もかも、超えて行く(来る)。
全てを超えて行く(来る)。
時間も空間も意識も超えて行く(来る)。
何でもアリだ。
そして、何にもナシだ。
精進する、というレベルじゃない。
コツコツ努力する、という道じゃない。
ブッちゃんは努力しても到達しない、と気づいたのだ。
何もかも超えるには、別の要素がいる。
精進や修行では、無理なのだ。
精進や修行にこだわれば、尚更無理だ。
パーラサンガティーとは、そういう意味だ。
誰でも行けるけど、こだわったら無理だ。
誰にでも来るけど、下手に意識しては無理だ。
手放せば、何かがやって来る。
全て手放せば、全てを超えてしまう。
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第十八章(11)
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧婆訶
パーラガティー
「行く・来る」の先にある状態。
更に行く、更に来る。
超イク、超来る・・・。
次元を超えて、行く。
次元を超えて、来る。
何処まで行くのかなぁ・・・
何処から来るのかなぁ・・・
何かを超えて、何処かへ行く。
何かを超えて、何処からか来る。
それが、涅槃という状態。
あるいは、サトリという状態かもしれない。
涅槃もサトリもなったことが無いから、想像だが。
生死即涅槃、だが、何かを超えて自覚できるらしい。
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第十八章(10)
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧婆訶
ガティー ガティー
同じ単語を二度唱えている。
リズムや語呂がいいからではない。
完成された呪だ。
当然意味がある(呪に意味はない、ってば・・・)
「行く、行く」という意味がある。
「行く」と「来る」も深くは同じだ。
「来る、来る」「行く、来る」とも訳せる。
遥か遠く、涅槃まで行く。
涅槃が自分の内に来る。
どちらも同じ意味になる。
下ネタでも同じ言葉がある。
「イク(行く)」と「カミング(来る)」が同じだ。
とても高尚な話と下ネタはカブるのだ。
だから、下ネタを話さない立派な人は信用おけない。
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