水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
第二章(6)
観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時
「観自在」は自分を観直す事じゃない。
自分を深く見つめる事でもない。
「自」が「在る」事を認めるだけでいい。
「在」が底にあるからといって、底までいかなくていい。
深く潜らなくてもいいのだ。
「行深」を「深く行をする」と訳すから間違う。
深く行こうとすると「力」が入る。
「更に力をぬいてごらん」と訳すのだぜ。
「冥想」は力を抜くこと。
だから、誰でもできるのだ。
「観自在(菩薩)行深」は誰でも出来る。
観音様という超スーパーウルトラマンが行ったのではない。
「観音様とはアンタ(観自在)の事だよ」
「アンタ(観自在)は普通に出来るんだよ」
ゲンちゃん(玄奘)は本文の最初にそう教えてくれている。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第二章(5)
観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時
「自」の「在」を「観」る事を「冥想」という。
「在」は「自」の底にある。
底には扉がある。
扉は「全」と繋がっている。
「観自在」は「冥想」なのだ。
心経は「冥想」で解くモノなのだ。
「冥想」というと、難しく感じる人がいる。
それは大間違いだ。
誰でも扉があるし、誰でも出来る。
優しいゲンちゃんが書いたのだ。
頭デッカチの理屈屋が書いたのじゃない。
新たな能力を持て!と言ってるのじゃない。
感覚を磨け!と示しているわけじゃない。
息を吐いて、力を抜けばいいよ、といってるのだ。
力を持つのは一部の人。
だが、力を抜くのは誰でも出来る。
冥想は誰でも出来るようになっている。
(「冥想」とその一方法の「瞑想」を混同しないでね)
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第二章(4)
観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時
ゲンちゃん(玄奘)は優しい。
優しい人は隙が無い。
あるいは・・・隙だらけだ。
自然体といってもいい。
そんなゲンちゃんの心経だ。
本文の最初に「観自在」を持ってきたのも優しさだ。
何度も何度も心経(の意味)を繰り返す内容だ。
「観自在」だけでも心経を説明している。
「観自在」は心経の意味と方法でもある。
般若波羅蜜多(とっても楽になる)への方法。
でもゲンちゃんは優しいから、更に続けた。
心経は何度も何度も意味を教えてくれている。
題字を入れて276文字が意味の多重説明と方法だ。
「観自在」の三文字で心経を理解できる人もいる。
それは決して頭のいい人達の事ではない。
条件無しで、理解できる人はできるのだ。
強いて条件をあげれば・・・力の抜けた人。
だって、観、自、在、と優しく書いてあるんだもの。
それでも誰にでも理解できるように、更に言葉を重ねた。
いくらなんでも三文字じゃ格好がつかない。
あるいは、格好よすぎる。
ゲンちゃんはサービス精神も持っていた・・・。
つ、つい、蛇足を何本も付けていった。
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第二章(3)
観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時
「蓮華経」の一品(第二十五)にある観世音菩薩経。
尊称の「妙法」を付け、妙法蓮華経という。
更に尊称の「南無(オン・オームと同じ)」も重ねる。
南無妙法蓮華経となる。
どこかの宗教組織が好んで使うがワシは関係しない。
あらゆる組織は人の組織だ。
当然、欲が絡む。
某キリスト教も某ナントカ教も同じだぜ。
「経」に一番無理解なのは宗教組織かもしれないなぁ。
ま、まぁ、組織はともかく、経典はマトモだ。
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五。
通称「観音経」だ。
そこでは、観音様はスーパーマン(男じゃないけど)だ。
グレート、ウルトラ、ミラクルマンだ。
名を唱えれば、何処からでも駆けつける。
そして解決してくれる、と書かれている。
観自在が理解できれば、この意味が解る。
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第二章(2)
観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時
見えない世界を伝えるのは大変だ。
だから観世音を菩薩に例えるのはいい。
だけど意味が誤解になったのでは元を失う。
最初からつまずくなよなぁ。
ゲンちゃんは優しいから、心配りで観自在菩薩とした。
「自に在」る「観」の能力。
全てに在る「観」の存在。
観自在の言葉は意味があるのだ。
すると「観音」の意味が理解できる。
観自在は観音を活かす言葉だ。
仏教に限らず、優れた経典は例え話だ。
理解度によっては、そのまま受け取ってもいい。
だが、例えを解いていくと、更に面白いのだ。
優れたモノは優しくできている。
優しいモノは面白くできている。
経典がツマランと思うのは、伝え方が未熟だからだ。
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第二章(1)
観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時
いよいよ本文だ。
最初に出てくるのが観音様。
通称カンちゃん・・・。
女性のイメージが強いがオナゴじゃない。
といって、ニューハーフでもない。
カンちゃんは人間じゃない。
というか・・・姿が無いのだ。
その事をゲンちゃんは心経で示した。
通常は観世音菩薩という。
「観」は見えないモノを「観る」意味だ。
世(この世とあの世)の音(震動・波動)を観る。
あらゆるモノと動き、働きを観抜く存在。
略して観音様。
ところがゲンちゃんは観自在菩薩と書いた。
人間は進化して菩薩になる(らしい)。
だが菩薩と付いてるが、観世音菩薩は別なモノだ。
観世音をイメージしやすいように、菩薩に例えたのだ。
それが広まってしまった。
そこを混同しないように示した。
当時から混同し、混同を教える人達もいたのだろう。
未だに観音様という擬人化を本気で教える人達が多い。
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第一章(11)
摩訶般若波羅蜜多心経
題字のワシ的訳。
「超スゲェ楽になれる方法を簡単にまとめたぜ」
ゲンちゃん(玄奘)はそう言った。
ゲンちゃんはホンマモンの高僧だ。
この世とあの世の間まで行って持ってきた。
そんな高僧なら、ヒョウキンに決っている。
気負いがあるようじゃ行けないはずだ。
超優しいから、優しい解釈をしてくれた。
超高僧だから、易しい言葉で語ってくれた。
「誰でも使えるように簡単にしたんだ。
下手にいじるなよなぁ。
意味なんて解らなくても大丈夫なようにしてある。
唱えてれば、いいんだぜ。」
ゲンちゃんは題字で中身まで話したのだ。
心経は濃縮してある。
濃縮してあるが、難しくしたわけじゃない。
ゲンちゃん級の濃縮は優しい(易しい)のだ。
(濃縮だから)題字は大事。
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第一章(10)
摩訶般若波羅蜜多心経
「波羅蜜多」も音読み当て字。
彼岸の心境といっても判り難いよね。
行った事ないし・・・。
居たかもしれないけど、覚えてないし・・・。
「超楽な状態・境地」という意味でいいや。
彼岸と此岸という言葉がある。
此岸はこの世、彼岸はあの世。
というのは間違いだと思うぜ。
多くの葬式仏教の誤訳だ。
この世(肉体界)もあの世(霊界)も此岸だ。
そして、肉体界でも霊界でも彼岸がある。
彼岸と此岸は精神界の次元の違いだ。
物質界と無物質界の違いじゃない。
だから「心経」があるのだ。
生きている間で役立つモノなのだ。
(死んでも役立つようだけど・・・)
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第一章(9)
摩訶般若波羅蜜多心経
「般若」もサンスクリットの音読み当て字だ。
ワシには正確な音読みが出来ない
不正確な音読みも自慢じゃないが出来ない。
意味は「宇宙からの智恵」という感じかな。
宇宙でも神でも仏でもいいけど、人間の智恵じゃない。
人の智恵もある。
動物の智恵もある。
だが、宇宙とか自然とか神とかの智恵とは別次元だ。
生物の智恵は生きていく事から発生したものだ。
生物中心や自分中心だから、偏った智恵だ。
悪いわけじゃないが、規模が小さい智恵だ。
般若は全ての存在に共通し、調和を促す智恵だ。
この世とあの世を含めた共通智恵のようなものだ。
共通だから、誰の中にもある。
どんな存在の中にもある。
生物だけじゃなく、非生物や非物質にもある。
だから使うには「冥想」という方法なのだ。
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第一章(8)
摩訶般若波羅蜜多心経
最初の「摩訶」(まか)は当て字だ。
サンスクリット語の「マハー」をそのまま漢字にした。
意味は「偉大な・とってもエライ・超スゲェ~」だ。
マハトマ・ガンディーという偉人がいた。
戦争無しでインドをイギリスから自立させた、じっちゃんだ。
ワシの超尊敬十人衆の一人だ。
「マハ」は偉大な、という尊称。
「トマ」の父(父ちゃんではないぞ)も尊称。
「マハトマ」は尊称に尊称を重ねたのだ。
そのくらい、ガンディ師に人々が尊敬していたのだ。
通称、ガンじぃ(爺)・・・。
ヨガ風体操やヨガもどきをする人は多い。
だが本当のヨガ行をする人は、とっても少ない。
絶滅種のようだ。
だが昔のインドには結構いたようだ。
行者として生き、更に尊敬に値するヨガ行者もいた。
人々に多くの幸せを導いた行者だ。
自己満足の行者じゃないぞ。
ある境地の生き方まで高め、実績を残した行者。
尊称は「リシ」という。
リシの中でも更に偉大なリシもいた。
「マハ」を重ね「マハリシ」という。
モノは重ねりゃ、更にいいのだ。
重ねたトコロから「命」は生まれる。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)