水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
第十章(4)
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽
「正しい道を歩きなさい」
なんて無茶はブッちゃんは言わない。
正しさなんて判らないモノ達を抱きしめてくれる。
正しさなんてこだわらない。
その代り「道は自分で歩けるんだぜ」
と教えてくれている。
無明だっていいんだ。
心配するなよ。
たまにの「無明」だけじゃないぜ。
最後まで「無明」だとしても大丈夫だぁ。
闇の中にいたって、誰かが包んでくれるぜ。
菩薩だか如来だか神様だか知らねぇけどな、
条件無しで、愛おしんでくれるぜ。
正しいモノを贔屓にするわけ無ぇだろ。
バカなモノほど可愛いけどな。
無明の中にいるモノほど、ちょっとは贔屓するぜ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第十章(3)
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽
迷いや閉塞感の「無明」だ。
そんなのは、日常生活で普通に起こる。
闇の中で迷いながら、アチコチぶつかりながら生きている。
それも含めて、生活する、暮らす、という事だと思う。
それだけでは苦しい、淋しい、辛い。
苦しむ為に生きているわけじゃない。
「無明」を否定しても解決しない。
現実(生活)的ではないからだ。
無明から脱却しなさい、なんていうのは寝言だ。
そんな事を真顔でいう宗教家は詐欺師か(厚顔)無知だ。
「無明」を抱きしめる。
それをブッちゃん(仏陀)は「慈悲」と言ったのだ。
だから「無無明」は肯定の言葉だ。
「無明」に「こだわるなよ」と言った。
更に「無明」も愉しめるぜ、と言った。
バカ(無明)は可愛いと思える心。
それが仏教の真ん中にある「慈悲」だと思うぜ。
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第十章(2)
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽
「無明」とは、暗闇にいる状態。
迷いや閉塞状態。
「真智」が「明かり・光」とされる。
だが、人の状態で「真智」は無理だろうなぁ。
「真智」だと思い込む事はあるだろうが、
よく観れば、判断力が無いから「人」でいるのだ。
宗教組織は「真・智」を売り物にする。
誰も判断出来ないモノを売り物にする。
だから「真・智」だらけの、多数の宗教組織が存在する。
しかも・・・お互いに仲が悪い・・・。
詐欺かどうかは微妙だが、極めて近い、と、思うぜ。
「無明を無くせばいいのだ」
なんていうのは、無責任極まりない言葉だ。
「全てを愛しなさい」
こういうのも、無責任極まりない言葉だ。
そんな事が言われて出来るのなら「人間」やってないぜ。
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第十章(1)
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽
またまたメンドウな仏教用語の説明だ。
一応、これを説明しないとなぁ・・・。
第八章で「六根」と「六境」があった。
第九章では「六識」を加えて「十八界」だった。
今回は「十二因縁(縁起)」という決まり言葉だ。
「無明」から始まり「老死」までの十二の出来事。
それらは必ず順番に繋がっている。
だから「無明」と最後の「老死」まではセットだ。
原始仏教の根本的な観察力から生まれた用語だ。
この洞察力も冥想という方法があったからこそだ。
人の煩悩の縁起の順番でもある。
動物や妖怪にも、まぁ当てはまるだろう。
だけど「十二因縁」を知らなければ何の事やら分からん。
八っつぁん、熊さん、タヌキやキツネには分からん。
文字では仕方なく「十二因縁」を書いたけど、
ブッちゃんが話した言葉は違うだろうなぁ。
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第九章(12)
無眼界乃至無意識界
もう一つの訳。
「生きているってのはよ、
いろいろ見て、聞いて、味わって、感じて、思ってるんだ。
実際は、心がどう思うかで、見方や感じ方が違う。
つい、受身で生きているけどな、変える事が出来るんだぜ。
なにも苦しむ為に生きてるわけじゃねぇんだ。
楽になるには『コツ』ってのがあるんだ。
苦しみを無くすだけじゃねぇ。
更に愉しめるんだぜ。
見る、聞くなどは受身だけど、
思う、は自分で自由に出来るんだ。
その『コツ』が、こだわらない事だ。
こだわらなけりゃ、いろいろな出来事は面白れぇぜ。
生きている時間は限られているんだ。
いろいろな体験は貴重なんだ。
同じような出来事でも、一つ一つは違う。
少しづつでいいからよ、変えてみようじゃねぇか。
大丈夫だ。
心はイイカゲンだから、変える事が出来るんだぜ」
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第九章(11)
無眼界乃至無意識界
ワシ的訳。
「毎日の暮らしがあるだろ。
見たり、聞いたり、感じたりしているだろ。
嬉しかったり、辛かったりするだろ。
まぁ、辛い方が多く感じるかな。
苦しむ事が多いかなぁ。
嫌なモノは見るな、っていっても無理だよなぁ。
辛い事を感じるな、っていっても感じるよなぁ。
毎日、実際に苦しいもんなぁ。
だけどな、
見た事を引きずる事ぁ、無ぇんだよ。
辛い事を思い出して、苦しみ続けるのは余分だぜ。
つまりな、
見た事や聞いた事や感じた事は無くせねぇけど、
いつまでも、こだわる事は無くせるんだぜ。
苦しむ元ってのは、見た事や感じた事じゃねぇんだ。
いつまでも、こだわった事なんだぜ。
嫌な事があっても、苦しみは無くせるんだぜ。」
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第九章(10)
無眼界乃至無意識界
心経の文字だけ見ると難しそう。
直訳する前の解説も難しそう。
六根や六境や六識。
それらを合わせて十八界。
仏教用語の決まり事だけで難しそう。
だけど、中身は易しく優しい。
話し言葉まで難しかったら仏教の意味が無い。
ブッちゃん(仏陀)の意図した事。
誰にでも、どんなモノにでも救いとなる言葉だった。
だから、難しくしたら、その時点で失格・・・。
心経の大部分は話し言葉だ。
相手は例えれば・・・
落語の長屋横丁の八っつぁんや熊さんだ。
否定の否定は即ち大肯定、などという話はしないぜ。
大丈夫だぁ、何とかなるから。
いつも、そんな言葉が付いてくる。
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第九章(9)
無眼界乃至無意識界
「般若波羅蜜多心経」だ。
どの部分をとっても「般若」を顕している。
その「般若」は、誰にでも理解できるモノだ。
そして、誰でも活用できるモノだ。
そうでない理屈など「般若」の名に値しない。
眼界から意識界までの十八界。
「無」を付ける事で「般若」となる。
「こだわるなよ」という訳で「般若」となる。
「愉しめよ」という意味で「般若」となる。
経の文字は実に簡潔だ。
簡潔だからこそ、意味は広く深い。
相手によって、話し方が違う。
表現が違う。
違って、当たり前なのだぜ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第九章(8)
無眼界乃至無意識界
世界は一つ!
人類、皆家族!
ま、まぁ、観方によっては、そうもいえるなぁ。
観方を変えれば、一つも同じ世界は無い。
親子でも違う。
恋人同士でも違う。
夫婦が違うのは当たり前。
隣の家とは違う。
他の国とは違う。
ネコや鳥とは違う。
違う世界観のモノ達同士。
地球上では一緒に生きている。
生きていくには、智恵が必要。
とはいえ、特別高級な智恵ではない。
誰にでも当てはまり、応用できる智恵だ。
それを「般若」といった。
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第九章(7)
無眼界乃至無意識界
自分の世界(十八界)の基準で他を判断する。
すると、考えが違う。
行動も違う。
同じはずなのに、何故だ!と思ってしまう。
自分の世界観は確かだと思っている。
だから正しく直さなくては、と思ってしまう。
摩擦が起こる。
衝突が起こる。
争いが起こる。
ここに、苦しみの多くの原因がある。
愚かな争いで、残酷と不幸が生まれる。
自分の世界が不確かだと気づく。
すると、他のモノ達の世界も不確かだと知る。
不確か、と、不確か。
なんだ、同じアイマイな世界の住人かぁ。
ならば、いろいろが違っても当たり前だ。
そこに「思いやり」が生まれる。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)