水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
第十四章(6)
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
ゲンちゃん(玄奘)は高僧だ。
だからイタズラ坊主だ。
ここでもヒネクレた(優しい)ワナを仕掛けた。
この文節のとらえかたで涅槃が変わる。
それぞれが、どんな涅槃を想像し創造するか?
クスクス笑いながら心経を書いたのだろうなぁ。
ワナは、ほとんどが落ちるように仕掛ける。
そして・・・見事に、ほとんどが落ちた・・・。
でも、これを見破るには知識はいらない。
堅苦しい理屈もいらない。
素直にみれば、判るように書いてある。
「夢想の反対(転倒)などとは遠く離れた境地だぜ」
(つまり、夢想が沢山ある境地だぜ)
だが心経は大般若経という難しいお経のエッセンスだ。
だから、きっと難しい真理が濃く詰まっているに違いない。
そうだ、そうに違いない・・・
そう思った解説者達は、自分や他人の知識をフル稼動して訳す。
そして、見事にワナにはまる・・・。
この世の仕組みは、知識じゃ無ぇ、理屈じゃ無ぇといっているのに・・・。
例えれば、長屋の八っつあんや熊さんに説いているんだぜ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第十四章(5)
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
「顛倒夢想」の訳し方で意味が正反対になる。
「夢想のような転倒した心」というのが一般的。
ワシは独善でヒネクレているから、
「転倒した夢想」つまり「キマジメな心」と訳す。
「顛倒夢想」を素直に訳せばワシに近いと思うぞ。
涅槃にはどちらが溢れているか?
夢想の無いキマジメな心ばかり?
夢や空想や希望が沢山ある境地?
自由は夢と空想で溢れていると思うぜ。
そして、ブッちゃんは自由の素晴しさを説いている。
「空と無」で・・・。
それにしても夢想の転倒した心という表現はいいなぁ。
夢想の反対の心・・・。
「キマジメ」と直接いうより味がある。
優しさもある。
ワシのように「キマジメ」をからかうのは優しさが足りない。
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第十四章(4)
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
誰かが言ってたなぁ。
「生死即涅槃」ついでに「煩悩即菩提」
こっちのほうがワシの性に合っている。
愚かな衆生のワシには合っている。
そして、ブッちゃんはワシ等の為に説いてくれた。
生きていれば、そこは涅槃でもある。
気づくか、気づかないかの違いだ。
特別な修行も精進も必要ない。
魂は自然に柔らかくなる。
何度も生死を繰り返して。
それでも、苦しむのは嫌だろう。
それを観るのも、忍びない。
だからブッちゃんは経を説いた。
涅槃の悦びを少しでも味わえるようにと。
要は本人次第なのだ。
だから、万人に万物に経は活かせる。
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第十四章(3)
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
知ったかぶりで解説している人達がいる。
もちろんワシもその中の一人だ。
い、いや、ワシは知ったかぶりじゃない。
最初から独善迷説だといってる。
決して謙遜じゃないぞ。
誇張でも斜に構えたわけでもない。
経を読むのではない。
経を記した人(ゲンちゃん)を感じるのだ。
経を説いた人(ブッちゃん)に共鳴するのだ。
同じ人間だもの、できるさ。
ただし・・・正誤真偽は問わないぜ。
評価としては偉人だろう。
だが優しいオッサンには変わりない。
衆生やケモノや妖怪の苦しみを軽減したいのだ。
難しい屁理屈はいらない。
ならば、誰だって仏陀や玄奘に共鳴できる。
誰もが共鳴できる柔らかさが、偉人という意味なのだ。
一部の頭でっかちが理屈で解説する人達じゃないぜ。
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第十四章(2)
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
通常訳は間違いだろう。
無理もないのだ。
誰も涅槃に行った事がないのだ。
だから、そんなツマラン訳になる。
夢も希望も無い、涅槃になる。
涅槃は、そんな無味乾燥した境地じゃないだろ。
そんな所には行きたくなくなるから。
自分で行った事も無いのに、決め付ける。
涅槃には恐れも、迷いも、夢想もない。
「無」の意味を勘違いしているからだ。
「何も無い」のが「無」だと思っている。
だから涅槃が無味乾燥の境地になる。
「無い」と訳すと、経が観えなくなる。
心経は「空」と「無」の訳し方で姿を現す。
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第十四章(1)
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
一般訳は
「顛倒した夢想妄想から遠く離れ、涅槃の境地に辿り着く」
などという直訳が多いようだ。
そんな境地はツマランだろうなぁ。
少なくてもワシはツマラン。
夢想も妄想も無いような人とは付き合いたくない。
ロボトミー手術して理想郷を作ろうとした物語があった。
バカな感情が無く、マジメなロボットのような人々の国。
夢は見ない。
空想はしない。
ワシなら、そんな人とは付き合いたくない。
ブッちゃんもゲンちゃんも、そんな人とは違う。
夢想空想妄想大好き人間だろう。
イタズラ坊主だぜ。
夢想だらけだ。
明るい未来を夢想して経を説いているんだ。
キマジメな修行に明け暮れると、幸せにはなれない。
夢想や空想や妄想が適当にあってこそ、愉しい人生だぜ。
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第十三章(12)
心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖
「心や身体の不都合にとらわれるなよ。
といって、無視していいわけ無ぇだろ。
それぞれ可愛がれよな。
それが養生ってことだ。
養生を意識し行うと、楽になるぜ。
不都合が有っても治せばいいんだ。
すると、恐怖が必要以上にならない。
恐怖が有っても、大丈夫になるのさ。
まぁ、適当な大きさで恐怖を感じられる。
これは、結構大切なんだぜ。
恐れも知らないと、ロクなモノになれ無ぇ。
人間もケモノも妖怪も、適当に恐怖が必要さ。
必要以上は、いら無ぇけどな。
まぁ、般若ってのは、暮らすのが楽になるコツだ。」
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第十三章(11)
心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖
ワシ的訳。
「(前章からの続き・般若というのは)
心の悩みや迷い、心のダメージが有っても大丈夫だ。
その事に固定しなければ、勝手に変わる。
いろいろが有って当たり前だ。
だが、心は変化しやすいんだぜ。
一々思い出して、こだわらなけりゃ変わるぜ。
身体の病や怪我も有る。
必ずといっていいほど、降りかかる。
だが、それでも大丈夫だ。
回復したり、軽減したりするコツがある。
身体も常に変わっているのが事実だぜ。
しかも回復方向に変わっているんだぜ。
生きているってのは、必ず回復に向かっているんだ。
回復を邪魔しているのは、自分の固定概念なんだよ。
変化している事を認めろよなぁ。
不都合があるのを認める。
同じく、回復している事も認める。
要は、常の変化を認めるって事だ。
それが、こだわらない、イイカゲンって事だ。
それが、般若って事だ。」
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第十三章(10)
心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖
「恐れ」も見直してみよう。
生きる事は恐れが付随する。
生命は必ず尽きる。
何時、何処で、如何なる理由でかは判らない。
誰にも判らない。
だから「恐れ」は必ず付随する。
「恐れ」の表面には無智がある。
勘違いもある。
だが底には、この世の仕組みがある。
仕組みの奥深さを感じるのだ。
「恐れ」は「畏れ」になる。
恐れる事は、単純に不都合なモノじゃない。
ブッちゃんは、その事を含めて「有」を使った。
恐れを知らない生物は、必ず自滅する。
自滅だけじゃない。
他の生物の迷惑となるのだ。
この世は多種多様なモノと共存共生で成り立つ。
恐れを無くしては、この世にいる意味が無くなるのだ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
第十三章(9)
心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖
この世の出来事を全て肯定する。
その上で、歩き方のコツを教えてくれる。
それが説法ってことだろう。
理屈や机上論や正真論では、実際は役にたたない。
心の乱れ、病、恐れ、を有ると認めて先に進める。
それらは「無いのだ!」などと力説しても解決できない。
「実相界では幻だ」などと、この世で言っても意味が無い。
この世は、舞台上なんだぜ。
本名や本当の姿を明かすのは、マヌケだぜ。
~しなければならない、のではない。
~してはならない、のでもない。
何でもアリなのだ。
その上で、実生活として、歩き方を教えてくれているのだ。
心経は、正しさの理屈じゃないんだぜ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)