水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
明るいモノなら沢山ある。
最高に明るいモノ。
それは、太陽だ。
明るすぎて直視できない。
太陽の光を浴びる。
何時間も、何十分も浴びなくていい。
一瞬でもいいのだ。
光を感じる事ができればいい。
心が暗くても出来るはず。
光を浴び、感じる事は出来るはず。
そんなことぐらいで・・・
そんなことぐらいで、差が出るのだ。
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
良寛禅師。
というより、山寺の和尚さんの言葉。
「明るい言葉で生きようぜ」
この意味は大きい。
理屈じゃなく、生きていく深い指導だ。
辛い、悲しい、苦しい事は多い。
日常茶飯事だ。
心はそのままだと、暗い方向に流される。
といって、心をコントロールするのは難しい。
日常は毎日だ。
だから、少しの癖で大きく変わる。
方向が違えば、大きく変わる。
大きな差となる。
その癖付けに、明るい言葉はとても有効だ。
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身体からの声。
聞こえればいい。
例え聞こえなくても方法がある。
身体は動かす事ができる。
心はどうでもいい。
心と裏腹の行動はできる。
行いが主となるのだ。
明るい行いにすればいい。
心は暗くてもいいのだ。
例えば、声。
声は言葉を出す。
心が暗くてもいい。
心に反して、明るい言葉は出せるのだ。
言葉は、状況を変える。
心も変える。
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心は名人だ。
勘違いをさせる天才だ。
だから、心で判断すると間違う。
思った事が事実だと判断する。
時には、真実だと判断する。
身体の声がある。
聞き取るのは難しくない。
心の声を聞かなければいい。
心を静めれば、自然に聞こえる。
身体からの声は間違いが少ない。
無い、わけじゃない。
だが、心よりも信用できる。
身体は偉大な存在から預かったモノだから。
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変える事が出来る。
それが「差」となる。
変わってしまう。
それも「差」となる。
流されて変わってしまうか。
自分でリードして変わるか。
時は常に流れている。
方向が違えば、大きな「差」となる。
心で変えるのは強い意志が必要だ。
例えばワシのような軟弱者には難しい。
だが、身体からなら、何とかなる。
言葉なら言える。
心は伴わなくていいのだ。
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心と肉体は影響し合っている。
だが主従はある。
肉体が主で、心は従だ。
精神世界を学ぶと、ここで間違う。
この世を仮の世界だとするからだ。
この世にいる時は、この世が主だ。
舞台の上で本名を名乗るのは、オッチョコチョイだ。
肉体から学ぶ為に、この世にいるのに。
肉体が師で、心はアホな弟子なんだぜ。
心が軟弱でも、肉体でリードできる。
肉体には言葉がある。
行いがある。
「思い」よりも行いが主となる。
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心は軟弱にして、アイマイだ。
勘違いも間違いも多い。
というか・・・
勘違いと間違いだらけだ。
とてもアテにならない。
人間は肉体がある。
肉体は正直だ。
嘘はつかない。
表面は心で左右できるが、奥は誤魔化せない。
心は嘘つきだが、肉体(生命)は正直なのだ。
嘘つきと正直。
どちらが主となる?
正直や素直に勝てるモノなど無いのだよ。
自然は嘘などつかないから。
ならば、肉体側からリードできる。
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心の特徴はまだある。
心は軟弱なのだ。
何度も同じ事を繰り返す。
すると、癖を作ってくれる。
意思を使わなければネガティヴに流される。
つまり、ネガティヴ側の癖がついているのだ。
だからポジティヴの癖もつけられる。
誰でも明るく生きられるのだ。
ネガティヴに流されてもいいのだ。
そういう癖がついているのだ。
何度もポジティヴに向かえばいい。
次第にポジティヴの割合が多くなる。
次第にポジティヴに変わりやすくなる。
あきらめることはない。
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心は悲しみに引きずられる。
苦しみにとらわれる。
ネガティヴな方へと流される。
そういう癖を持っている。
嫌なモノより好きなモノ。
意思の力で思う事は出来る。
だが、一時的なのだ。
フッ、と油断するとネガティヴになる。
ネガティブな星をズームしている。
それでもいいのだ。
一時的でもいい。
ここは、意思の力でポジティブに。
続かなくていいのだ。
無理しなくてもいい。
何度も何度も挑戦すればいい。
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望遠鏡を意識しなければ、見えるのは一つの星。
意識しなければ、それしか見えない。
見えるものだけが全てだと思い込む癖。
星は沢山、沢山あるのが事実なのに。
焦点を当てない意識の使い方もある。
仏教的には「無」とか「静」とかいうかもしれない。
この使い方は通常は難しいだろう。
訓練のようなものが必要だろう。
あるいは、向き不向きがあるだろう。
心は、何かに焦点を当ててしまう。
自動ズームアップだ。
それなら、その活かし方がある。
嫌なモノをズームアップすることはない。
好きなモノをズームアップすればいい。
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